トップ > 政治 > 時代に生きた新左翼・歴史群像〜山本義隆(1)
政治

時代に生きた新左翼・歴史群像〜山本義隆(1)

蔵田計成2007/06/25
ベトナム反戦闘争や学園闘争の高揚の中で、学生、院生、教師達は学問研究の内実や主体のあり方を厳しく自問し、他者に対しても、実践を媒介に同じ問いを提起した。
日本 大学 NA_テーマ2
山本義隆(やまもと よしたか、1941−)

 大阪生まれ。1960年代後半に活動した全共闘運動活動家、物理学者。

60年
 東京大学理科1類に入学。この年は60年安保闘争の年であった。教養学部駒場時代の山本の活動歴は、皆無に等しかった。たんに、全学連主流派系の自治会執行部が指揮するデモに、ワンダーフォーゲル部の仲間と共に参加する程度の「一般学生」に過ぎなかった。

62年
 大学管理法案反対闘争に参加、その後、反対闘争に対して下された不当処分の撤回を掲て、「安田講堂前座り込み闘争」を敢行した。

64年
 同理学部卒業後、同大学院博士課程に進み素粒子論専攻、京都大学基礎物理学研究所(湯川記念館)に国内留学、中退。

65年
 「ノンセクト・個人加盟組織」を原則にした理学部大学院生中心の「東大ベトナム反戦会議」結成に参加。

66年
 ベトナム反戦闘争や学園闘争の高揚の中で、学生、院生、教師達は学問研究の内実や主体のあり方を厳しく自問し、他者に対しても、実践を媒介に同じ問いを提起した。山本をはじめ若い物理学徒達はその先陣を切った。初舞台は日本物理学会臨時総会であった。

 日本物理学会主催、日本学術会議後援「第8回国際半導体会議」に際して、米国陸軍極東研究開発局の資金が持込まれたことに対する厳しい理事会批判を行った。その結果、総会は「日本物理学会は今後内外を問わず、一切の軍隊からの援助、その他一切の協力関係をもたない」(賛成1927、反対777、棄権639、無効57)を決議した。この決議は、日本物理学会が歴史に刻んだ不滅の功績というべきである。この決議は、その後1995年までの28年間にわたって日本物理学会総会のプログラム第1ページに掲げられた。山本はこの総会で、小出昭一郎(27−)、水戸巌(33−86)、槌田敦(33−)等とともに、中心的な役割を演じた。後に、山本は以下引用するような論文を雑誌に掲載して、この物理学会において演じた歴史的功績が、明確な論理的根拠と確信に裏打ちされていたことを跡付けている。

 「デモから帰ると平和な研究室があり、研究できるというのはたまらない欺瞞である。研究室と街頭の亀裂は両者を往復しても埋められない。では研究をやめるべきか。それは矛盾の止揚ではなく、矛盾からの逃避ではないか。徹底した批判的原理に基づいて自己の日常的存在を検証し、普遍的な認識に立ち返る努力をすること。そうして得られた認識に従って、社会に寄生し、労働者階級に敵対している自己を否定し、そこから社会的変革を実践する。」(「攻撃的知性の復権」『朝日ジャーナル』69年3月2日)。

68年
 東大安田講堂攻防戦のわずか半年前、学内のセクトやノンセクト活動家を中心にして東大闘争全学共闘会議が結成され、司会役を引き受けた山本が、そのまま「代表」に選出された。なお、この代表選出には裏話がある。

 当時、東大10学部はストライキに突入していた。その全学ストライキを背景にして、全学共闘会議は大学側に対して「大衆団交」を申し入れたのであるが、それに先立って、あらかじめ事前の対応策を必要とした。それは、大学当局をして「得体の知れない団体とは交渉できない」という口実を与えないで、予想される当局側の言い逃れを事前に封殺する必要があった。そのためには、共闘会議が当事者能力を持つ組織であるということを示すうえで「代表」という肩書きが必要であった。ただし、「代表」はたんに対外的な「顔」であり、それ以上の権限をもたないものとして、「議長」は置かなかった。このような組織上の配慮がなされた背後には、後にみるように「会議の構成員全員が代表であり、会議は一個人によって体現されるべきではない」という組織原則の確立が、表裏一体をなしていた。とは言うものの、山本が司会役を引き受けたのは、たんなる偶然という巡り合わせだけではなかった。

69年
 全国全共闘連合結成、議長に山本義隆、副議長に秋田明大(別項)を選出した。この全国全共闘連合の組織的特徴は、第1に、組織的・形式的には、全国の学園闘争を担った各大学全共闘の横断的な集約型組織形態であり、第2に、政治的・実体的には、広範なノンセクト・ラディカル(先進的無党派活動家)の台頭を背景として、これとの合流を果たし、組織化されたものであった。同時に、次なる闘争発展への方向性を目論んだ新左翼8党派を含む、統一戦線的な共闘組織=8派連合でもあった。

 このような統一戦線型陣形に対して、共産同赤軍派は「革命戦争」「前段階武装蜂起」「8派解体」等のスローガンを呼号しながら、全員「赤軍」を染め抜いたのぼり旗を武器替わりにして隊伍を組み、全共闘連合結成大会の会場となった日比谷野外音楽堂中央通路に、劇的な登場を果たした。だが、全共闘連合はこの結成大会をピークに解体の一途を辿った。東大=日大闘争を頂点にした全国全共闘運動の怒濤の快進撃に戦慄した政府自民党は、中教審答申=大学立法を軸にした「紛争校の廃校」という最強硬手段を背景にして闘争の全面的圧殺を試みたのである。

 後述するように、学園闘争は、資本のための労働力商品・再生産機構における帝国主義大学=ブルジョア教育秩序の根底的矛盾に対する、根元的批判を貫く闘争へと肉薄したが故に、学内収拾=個別改良による妥協を許さない闘争へと発展し、その非妥協的攻防戦は激烈をきわめたのであった。結局、全共闘運動はこの強権発動のまえに、70年代前期に至って激闘史の幕を閉じた。
時代に生きた新左翼・歴史群像〜山本義隆(1)
東大闘争の象徴 安田講堂。

Warning: session_start() [function.session-start]: Cannot send session cookie - headers already sent by (output started at /home/sites/heteml/users39/v/o/i/voicejapan/web/janjan/government/0706/0706257833/1.php:7) in /home/sites/heteml/users39/v/o/i/voicejapan/web/janjan/government/0706/0706257833/1.php on line 131

Warning: session_start() [function.session-start]: Cannot send session cache limiter - headers already sent (output started at /home/sites/heteml/users39/v/o/i/voicejapan/web/janjan/government/0706/0706257833/1.php:7) in /home/sites/heteml/users39/v/o/i/voicejapan/web/janjan/government/0706/0706257833/1.php on line 131

Warning: main(/home/www/pre/user/bbs/bbs.php) [function.main]: failed to open stream: No such file or directory in /home/sites/heteml/users39/v/o/i/voicejapan/web/janjan/government/0706/0706257833/1.php on line 134

Warning: main() [function.include]: Failed opening '/home/www/pre/user/bbs/bbs.php' for inclusion (include_path='.:/usr/local/php4/php') in /home/sites/heteml/users39/v/o/i/voicejapan/web/janjan/government/0706/0706257833/1.php on line 134
下のリストは、この記事をもとにJanJanのすべての記事の中から「連想検索」した結果10本を表示しています。
もっと見たい場合や、他のサイトでの検索結果もごらんになるには右のボタンをクリックしてください。