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メンバーの裁判

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2012年8月 8日 (水)

今原発を止めなければならない理由(1)

前回「家庭の電気料金の値段」について小生が書いたブログに対し杉山弘一さんがコメントを寄せられ、それに小生が議論するという形で、延々22回ものやり取りが続いた。いくつか小生と杉山さん以外の方のコメントが3本ほどあったが、それは野次馬的な発言であって中身の濃いものではなかった。しかし、中には杉山さんを不愉快にするものもあって、杉山さんからブログで公開して議論するのは止めたい、と小生宛のメールをいただいてしまった。小生は、杉山さんの誠実な議論のおかげで非常に知見を広げることができたので、今までのように公開でやりたい、と申し入れたのだが、残念ながら、色よいご返事はもらえなかった。そこで、改めて表題を立て、今原発を止めなければならない理由について、小生の意見を発表することにする。私が誤解しているのでなければ、杉山さんは今すぐ原発を止めることは技術的に無理なばかりか、原発発電を止めれば停電の危険が増大する、大飯を再稼働させつつ、凌ぐというのが現実的な(唯一の)選択である、というお考えのようである。民主党政府や経済界(ビジネス)の意見もそれに近い。しかし、私はそうした意見に真っ向から反対することを表明し、読者諸兄の御批判を乞うものである。

私が原発を今止めなければいけない、と考える第一の理由は、命を危険に晒す大バクチはもう止めなければならない、と考えるからだ。福島原発というバクチに負けたことを認め、どんなに困難であろうと、方向転換の道を探すべきである。福島原発の事故はいまだに収束されていない。いまだに放射能を拡散し続けている。汚染水も貯まる一方だ。原子炉の状態を目で見ることもできてない。それに、放射能被曝についても、疑惑は解消されていない。低線量被爆についてやたらに騒ぎ立てるのは、風評被害を煽り、被災地の人々をさらに苦しめるだけの心ない行為だという。確かにそうした一面はある。しかし、毎日新聞がドイツのインゲ・シュミッツ・フォイエルハーケ博士という放射線の健康被害の研究者にインタビューした記事(2012・8・6)によれば、「さまざまな研究で低線量被爆の健康影響が裏付けられてきた。ICRP(国際放射線防護委員会)のリスク評価は、特に、長期間受け続ける低線量被爆の影響を過小評価しており、がん以外の病気への意識も欠けている」と言っている。「日本では政治家や一部の専門家が「100ミリシーベルト以下の被曝はほとんど影響がない」などと説明してきました、と言うと、「これまでの医学的知見を全く無視した説明だ。(略)放射線は細胞の突然変異を促進させ、これ以下なら安全という線量(閾(しきい)値は存在しない」と明言している。これは日本の小出裕章氏が指摘しているのと同じ考え方である。小出氏は、「私たちのDNAは塩基で結合されて必要なすべての情報をかたちづくっているのですが、それらを相互に結びつけているエネルギーは、わずか数エレクトロンボルト(ev)にすぎません。このエレクトロンボルトという単位は、とてつもなく小さなエネルギーの単位です。私たちの遺伝情報は、測ることもできないような微小なエネルギーで精密に組み立てられているのです。
 では放射線はどの程度のエネルギーを持っているのでしょうか。たとえば私たちが病院でレントゲンをとったときに受けるエックス線は、約100キロevです。これは10万evという意味ですから、私たちの体の分子結合のエネルギーに比べると、何万倍も大きい。セシウム137のエネルギーは約661キロev、プルトニウム239に至ってはなんと5.1メガev、つまり510万evです。これらの放射性物質は人体をどのように傷つけるのでしょうか。
核種によって影響はずいぶん異なります。また、どのうらいの期間にわたって影響を与えるかも核種によって異なります。放射性物質の寿命は、一般に「半減期」つまり「放射線を出す能力が半分に減る時間」」で捉えます。ヨウ素131の半減期は8日です。原子炉から出る主な放射性核種のなかでは短い方と言えるでしょう。ヨウ素131が1000分の1に減るまでに約80日かかります。セシウム137の半減期は30年です。すなわち、これが1000分の1に減るまで約300年かかります。」と小出氏は『原発のウソ』(扶桑社新書)の中で書いている。

『原発のウソ』は沼田市立図書館にある図書の一冊だ。小出裕章氏について杉山さんは極めて否定的な評価に変わってしまったようですが、私が読むかぎりこの方ほど首尾一貫して原発の危険に警鐘を鳴らし続けてきた専門家はあまり見当たらない。話の中身も実質的でわかりやすい。沼田図書館にある原発批判の図書のうちで私に強い説得力を持っていたのは、菊地洋一氏の『原発をつくった私が、原発に反対する理由』という表題の本だ。菊地洋一氏は(元GEGI術者)とある通り、東海第二原発、福島第一原発六号機の建設の設計施工管理に携わった人物である。菊地氏が実際にやっていた仕事というのは、アメリカのGE社が作った原子炉を電力会社が選んだ敷地内に据え付け、必要なパイプ 類や循環ポンプをとりつけるすべての段取りを含む進行係(コオオーディネーション)である。氏は言う。「福島の事故発生以来、テレビ、新聞、雑誌など多くのメディアに「原子力の専門家」が登場し、格納容器のなかはこのようになっています」などと小学生の描いた漫画のような「原子炉建屋の内部」の図を示しながら、「圧力容器の厚さ」やら「格納容器の強度」やらを解説していました。しかし、彼らの誰一人、原子炉はもちろん、格納容器の中に入ったことなどありません。菊地氏はいわゆる「原子力の専門家」ではないが、原子力発電所がどうやってつくられているか、その細部については、おそらくはだれよりも自分の目で見て、それを知っている人である。全体を見る立場で仕事をしていたからだ。菊地氏の証言は「原子力の専門家」とは違った説得力がある。全部自分の目で見手足で確かめた具体的な事実に基づいているためだ。

それにもうひとつ重要な違いは、菊地氏はいわゆる原子力ムラのメンバーではないことです。国立大学の原子力工学科を出、大学から原子力関係の仕事にすんなり流れこんだエリートではない、ことが重要なのだ。菊地氏は岩手県釜石うまれ、日大短期大学建設学科建築を専攻した。在日米軍の施設を専門とする米国の設計事務所に入り英語で設計ができるようになる。菊地しは二十五歳のとき建築コンサルタントとして独立する。コンサルタントには、段取りや進行係のほかに、もうひとつ大事な任務がある。それは、設計事務所や設計部が作る設計図に基づいて工事用図面(施工図)というものを描く仕事だ。これは現場の施工知識がないと描けない。この部分も菊地氏の得意とする仕事だった。そうこうしているうちに誘われたのがGE。当時GEは、東海と福島、二つの原子力発電所のプロジェクトを動かしていた。当時菊地氏には原子力発電所について「危険なもの」という認識はなかった。放射線被爆などの知識もなかった。「原子力の平和利用の仕事ができるのは男冥利につきる」と尊敬する先輩に口説かれ、1973年菊地氏はゼネラル・エレクトリック・テクニカル・サービスカンパニー原子力事業部東京支社」に入社する。’73年というのは第四次中東戦争をきかけに第一次オイル・ショックが起きた年だ。オイルショックが原子力促進につながってゆく。

菊地氏は「企画工程管理スぺシヤリスト」という肩書の仕事につく。これは、原子力発電所の設計、施工の際に行われる作業のすべてを把握し、調整する役目だ。結果的に氏は「原子力発電所がどのように作られるか」について、誰よりも幅広く、かつ細かくその現場を知ることになる。特に直接関わった東海第二、福島第一については、どこにどんな弱点があるかなどをいやでも知って行く。
 原子力発電所というのは、「1基4年がかり、5000億円」というような恐るべき規模の建築物である。現場の作業は何十もの作業が並行して行われ、それぞれがAが終わらなければBの作業は始められない、Bが終了する2日前にCを始めなければいけない。Cが始まったら同時にDとEも始まる・・・日本の鉄道のダイヤグラムは非常に複雑で、過密ダイヤのなか、よく衝突も追突もせずに数分おきに電車が走り続けている、と感心しますが、あれよりももっと複雑なのが、原子力発電所建設の工程表です。こうした大段取りは大型の土木工事などにも時に現れますが、ものをいうのは「経験」と「勘」である。それに度胸も要る。私は土木工事を数多く見てきましたが、優れた技術者は雄大なスケールでものを見る目と小さな部分も見落とさない目と二つの視力を兼ね備えていることに感心させられることが多かった。私が「原発反対」に至る菊地氏の主張に強い共感を覚えるのは、氏が体験として原発を「作ってはいけない」と語っているからだ。福島原発をM9の巨大地震が襲った時、原子炉建屋内にいた作業員は、恐ろしい音を聞いたと言われている。原発内にある配管という配管が信じられないほど揺れ、お互いに激しくぶつかり合う音だった。そのとき大量の配管の亀裂が起き、破損部分から水が漏れだしていたはずだ。東電は圧力容器の本体は持ち堪えている、と言い続けてきたが、津波が来ないうちから冷却機能は失われていたと見るべきだ、と菊地氏はいう。
 菊地氏は、湯を沸かしその蒸気でタービンを回して発電する、という原理は簡単明瞭だが、実際の原子炉は恐ろしく配管のこみいった精密機械だと言っている。福島第一原発の1号機から5号機の格納容器は、マーク1と呼ばれるもので、完成直後からGE内部で、安全性に問題があると指摘されていた「いわくつき」の機械だった、と菊地氏は書いている。当時菊地さんたちには知らされていなかったが、GEのなかでかなり激しい対立があった。後継機のマーク2、マーク3のテスト中に、マーク1の格納容器にの安全性に大きな疑問が出てきたのだ。何らかの事故が起きて冷却機能が失われた場合、マーク1の格納容器は損傷を被る可能性が高いことがわかったのである。ひとりの設計技師は、すでに稼働していた世界中に二十数基あるマーク1をすべて止めるべきだ、と主張した。しかし、GEは、全基の運転を休止することで欠陥炉扱いされることを恐れました。点検や補強でお茶をにごそうとしたため、設計技師だったデール・ブライデンボーさんほか二名がGEを辞めている。ブライデンボーさんは、今回の事故について日本の新聞の取材に応え、「在職中にもっと声をあげて改良を訴えていたら、これほどの壊滅にはいたらなかったかもしれない。草創期の原発マンとして悔いが残る」と語っています。菊地氏はそのときGEにいたのですが、アメリカで3人の技師が辞めたとは聞いていたが、その理由についていっさい情報はなかった。日本にいたアメリカ人技師たちも深くは知らなかったようだ。
マーク1の「弱点」は一言でいえば、内側からの圧力に対する弱さだ。格納容器が小さすぎて、水素などが大量発生すれば容器そのものがもたない、のである。菊地氏が建設に携わった福島原発6号機は、マーク2と呼ばれるタイプで、簡単にいえば、格納容器を大きくし、下部の円筒型サプレッションチェンバー(圧力抑制室)も一体化し大きくしたタイプの、より安全性の高い原子炉である。
今回事故を起こした福島第一の1号機から4号機はいずれもマーク1です。GEのシニアエンジニア3人が70年代にすでに警告を発していたにもかかわらず、その訴えは実らなかった。菊地氏は断言する。「私はマーク1に限らず、すべての原発で「絶対安全」などということはありえないと考えています。

菊地氏はさらにGEが3人の技師たちが批判した欠点のある原子炉を「止めて点検」すらしようとしなかったことも原発というものを考えるうえで重要な問題を含んでいる、と指摘している。企業利益優先の思想が働いたということだ。菊地氏は、「結局、原子炉の設計さえも、企業の利益、電力会社の都合、政府のメンツ次第なのだということです」と原発問題の核心をついている。「電力会社のパンフレットには、安全性の真摯な検討や、住民の切なる意見などが「なにより大切です」と書いてありますが、実際にはちっとも考慮などされていない。
電力会社や政府の行動が不可解を通り越して無責任の極みであることを示す事実がほかにも見つかります。たとえば、浜岡原発。菊地氏が関わった福島第一原発6号機はマーク1の後継機のマーク2で、完成が79年です。
浜岡原発が運転開始したのは、87年ですから、それらはマーク2だろうと思うのが当然です。ところが、なんと、浜岡原発の3号機も4号機もマーク2でもなければそのあとのマーク3でもありません。なんと、マーク1なのです!マーク2やマーク3はマーク1の欠点を意識して作られた「より安全」な機械です。電力会社や政府が安全第一を心掛けているというのが本当なら、マーク1を採用した理由は何なのでしょう?電力会社にはこの問いに答える義務があるはずです。私は新自由主義的資本主義の限界が見えた気がします。なによりもカネなのです。神の手などないことがこの電力会社の選択で明らかです。人の命よりカネなのです。(電力会社が正直に答えるなら、「マーク1の方が格段に安かった」とでも言うはずです)

菊地氏は、原発の原理はやかんでお湯を沸かすのと同じ至極シンプルなものだが、実際の原子炉は恐ろしく複雑な構造になっていると言っています。原子炉の圧力容器からはじつにさまざまの配管が出ています。80キロワット級の原子炉でも450本以上です。原発内部にはあまりにも多くの重い配管が複雑に配置され、しかも非常に不安定な支持構造しか持っていません。同時に、本来想定して計算に組み込むべき要素「地震波と鉄骨の共振」などが考慮されていないうえに、「人間のミス」がいくらでも起こりうる余地があるのです。

今原発を止めなければなtらない理由」は菊地洋一氏の著書に触発されて、私自身が考えていることを書いたものです。菊地氏は夢のエネルギー源である核分裂物質が発電機を動かすための装置である原子炉が実際には技術的には未熟であり、配管構造に致命的な弱点を抱えた機械であることを、原子力発電所の建設に携わった経験から説いています。(峯崎淳)

 

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今原発を止めなければならない理由(1)を参照しているブログ:

コメント

杉山さんが、ブログで公開して議論するのは止めたい、と峯崎さんに宛てた理由は、杉山さんを不愉快にするコメントがあったからではなく、峯崎さんに「種々の判断が自己本位で、抑制が効かず、短絡的であることが多い」点を見たからだと思います。「新しい書き手」を巡るやりとりの中で、峯崎さんが私に対して見せた正体が、まさにそこでした。

<杉山さんの誠実な議論のおかげで非常に知見を広げることができたので、今までのように公開でやりたい、と申し入れたのだが、残念ながら、色よいご返事はもらえなかった。>

峯崎さん個人にとってのメリットより、峯崎さんが書くものが公開で周囲に及ぼすデメリットの方が遥かに大きいから、という杉山さんの判断でしょう。あるいは「種々の判断が自己本位で、抑制が効かず、短絡的であることが多い」人物相手に、議論はできない、か?

 峯崎さん程の方が、ECCRのインゲ・シュミッツ・フォイエルハーケ、小出裕章氏、菊池洋一氏といったお歴々のデタラメを見抜けないとは、残念です。

<私が原発を今止めなければいけない、と考える第一の理由は、命を危険に晒す大バクチはもう止めなければならない、と考えるからだ。福島原発というバクチに負けたことを認め、どんなに困難であろうと、方向転換の道を探すべきである。> について

 何度言っても解って頂けないようですが、私は、方向転換を否定しているものでは全くありません。デタラメな言説に惑わされることなく、まじめに方向転換を探そうといっているのだけです。

 原子力問題の本丸は、大飯の再稼働ではありません。核燃料サイクルです。大飯の再稼働や将来の一時点での原発依存度に目が行っている間に、再処理施設が粛々と稼働しようとしています。原発依存度にどんな目標を掲げようと、再処理を続ける限り、原発をやめる事は出来ません。プルトニウムという新たな核燃料が出来てしまうからです。

 原子力委員会が提示した、核燃料サイクルに関する選択肢の検討結果を見てください。
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/iinkai/teirei/siryo2012/siryo22/siryo1-1.pdf

 小委員会の政策1は全量再処理です。これが本命という位置づけなんでしょう。みんなの注目を浴びているエネルギー環境に関する選択肢では、シナリオ3に対応しています。
 そもそも、将来の原発依存度なんてものは結果であって、いまの選択肢ではありません。今できる選択は核燃料サイクルをどうするかです。しかし、再処理とFBR(高速増殖炉)をやめる案は政策の3番目で、経済的だけど政策変更に伴う課題が多いと言うことです。
 結局、政府も国民もその覚悟がないから、結果的に、全量再処理、FBRの既存路線をそのまま続けるしかないということになってしまっています。

 原発依存度の議論はガス抜きでしかありません。
 また驚くことに、政策1には、次の再処理工場、FBR(高速増殖炉)だけでなくFR(高速炉)の開発まで入っています。超半減期の核種を高速中性子でぶちこわすというオメガ計画です。FBR実証炉すらまったく実現性が無くなっているというのに、何を考えているのかと思います。(小出氏のように最終処分の危険性ばかり訴えていると、こういうことまで考えざるを得なくなってきます。)
 技術の実現可能性は関係なく、そういうことにしておかないと、政策変更の諸課題が一気に現実化してしまうと言うことだと思います。 
 結局、平成17年の政策大綱からなにも変わっていません。34頁
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/tyoki/taikou/kettei/siryo1.pdf

 私は、①再処理を止めて全量直接処分にする、②原発の新増設はしない(出来っこない)③既存原発40年の運転期間延長を認めない。
 この3点を基本にすべきと考えています。いずれも、将来の見通しではなく、今できる選択です。そのうえで、政策変更に伴う課題に、向き合うべきだと思っています。電力需要に関しては、運転終了した原発を最新鋭の火力発電でリプレースしていくしかないでしょう。しかし、再処理を止める決断をすれば、六カ所に貯蔵してある使用済み燃料をどこに持って行くかという問題が現実になります。すぐにでも、中間貯蔵施設を造らなければ行けないでしょう。さらに、長期的には、最終処分場も確保する必要があります。
 そんなことをすれば、おそらく、各地でがれきの広域処分どころではない猛烈な反対運動が起きるでしょう。そんな反対運動に有効なのがECCRのトンデモ理論です。中間貯蔵施設や最終処分場の建設が争点になり、「建設しない派」が勝でしょう。政府も国民も先延ばしが楽なんです。

 脱原発とは、まさに、国民一人一人が、リスクとどう向き合うかという問題だと思います。この困難から逃げていては、何を言っても、脱原発は出来ません。出来ないようにしているのが誰か、よく考えてみてください。
 そんな困難から逃げるのは簡単です。核燃料サイクルに言及せず、原発反対を唱えていればいいのです。大飯の再稼働も、中間貯蔵施設も最終処分場も放射能が怖いといって、反対していればいいのです。批判だけしていればいいのです。

 峯崎さんは、毎日新聞のおかしな記事に目が行ってしまったようですが、毎日の価値あるスクープは、核燃料サイクルの秘密会議問題です。
http://mainichi.jp/feature/news/20120807ddm012010051000c.html

 原子力委員会のあたふたぶりはこんなところで感じることが出来ます。
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/kettei/seimei/120525.pdf

 大飯の再稼働といういまだけの問題に目がくらんでは、大切な事を見失います。将来的に、エネルギーをどうしていくか、そのために今できる選択は何か、それこそが重要です。

 峯崎さんには、これまで、いろいろな形で繰り返し説明してきたつもりですが、これほどまでに理解して頂けていないとは残念です。
 説明能力の不足を実感します。

 ECCRのインゲ・シュミッツ・フォイエルハーケ、小出裕章氏、菊池洋一の何がデタラメかも説明しなければならないと思っていますが、その前提として、これまで紹介したまともな本を読んで頂けないでしょうか。
 いくらなんでも、ここに行っちゃうとはむなしいです。あまりにもがっくり来て、今のところ気力も出そうもないです。

杉山弘一様
丁寧なコメントをありがとうございます。杉山さんの懇切な引用サイトを詳細に読む時間がありませんでしたが、今夜か明朝に全部目を通すことを誓って、とりあえずお礼を申し上げておきます。私は、いろいろな批判、茶々、揶揄などを受ける中で、貴兄の反論はそうした手合いの発言とは中身が全く異なるものだと感じてきました。元はと言えば私の原発認識は貴兄からお借りした原発の入門書に端を発したものです。よく理解できたとは到底いえないものの、
その後の思考過程がかなり違ってしまったことに私自身驚いているというのが本音です。小出裕章氏の議論の評価についても、貴兄がいつの間にか絶賛から全否定に変わったことが信じられない思いです。今朝の毎日に「もんじゅ復旧が完了」という記事が載っています。これから運転を再開するともしないとも書いてありませんでしたが、原発推進派がじりじりと失地回復に向けて陰謀を進めている様子は窺がえます。
原発ムラは依然として生きながらえています。彼らは至るところに生息していて、人の命も文化も歴史もすべて黙殺して原発再興、燃料サイクルの実現に向かって邁進しているかのごとくです。私はムラの住人の息の音がすっかり止めてしまうまでは片時も油断ができない、と思います。といっても私は殺し屋ではないので、自分の手で彼らを処分することなどできないので、同僚の市民各位に訴え続けて行くしか方法
がありません。民族の滅亡を呼び込まないためにみんなと連帯するしかありません。私の主張にこんなふうに誠実なコメントをいただけるとは期待していませんでした。本当に心からお礼を申し上げます。最近あるアメリカ人の友人に頼まれて中島敦の短編を英語にする仕事に忙殺されていました。なんとかかたがついたので、原発の勉強に取りかかります。
ありがとうございました。(峯崎淳)

峯崎さん

<小出裕章氏の議論の評価についても、貴兄がいつの間にか絶賛から全否定に変わったことが信じられない思いです。>

 確認もせずにいいかげんなことは言わないでください。

 どうして絶賛、全否定の両極端しかないのでしょうか。絶対安全か危険かの価値判断に通じるものを感じます。小出氏に付いても良いことは良い、悪いことは悪いと判断すればいいと思います。
 たしかに、私は昨年4月11日、小出氏のビデオを紹介しました。
http://numata-city.kazelog.jp/numata/2011/04/post-030e.html
 なぜ冷却が必要か、臨界とは何かといった基礎的な知識の理解に適切だと思ったからです。
 しかし、その後、小出氏は放射線被曝の専門家でもないのに、リスクを煽る発言を繰り返すようになりました。(同僚の今中哲二さんがマスコミにはあまり出ないで、福島入りし除染支援を続けるのとは対照的です。今中さんによるECCR批判を読んで頂きたいと思います。)その点は、何度も批判しています。たとえば以下です。
http://numata-city.kazelog.jp/numata/2011/06/post-2b2c.html
全く読まれていなかったのでしょう。
 そして、その後、いくつも出版された小出氏の書籍はどれも内容が薄っぺらで間違いも多くとても勧められたものではありません。こんな薄っぺらなものの連続出版こそ、売れればいいの資本主義社会のひずみでしょう。

 私が、いつの間にか変わったのではありません。原発の構造や基本原理を説明しているところまでは大きな問題はありません。(確かに今となっては問題点もあると思います)しかし、小出氏のいう放射線被曝リスクについては、当初から全く評価していません。全くダメです。

 私は、福島事故前(チェルノブイリ事故後)から原発は止めた方が良いとずっと考えてきました。峯崎さんには何度もそう訴えてきました。福島の事故後もその考えは変わっていません。
 昨年の事故が起きる前、峯崎さんは原発推進を訴えておられました。私が事故リスクや廃棄物処理の問題点を指摘し、原発は止めた方が良いというと、それなら宇宙に造ればいいと言い張ったのは峯崎さんでした。そんなことをするくらいだったら、太陽は巨大な核融合炉なのだからそのエネルギーを有効利用した方が効率的だと何度も説明しました。お忘れになったのでしょうか。
 つい最近では、高柳議員に対してこんな事も言われています。
http://numata-city.kazelog.jp/numata/2012/06/post-8951.html#comment-52354529
 
 その都度、主張が変わっているのは峯崎さんです。原発安全神話に騙され、踊らされ、こんどは、危険神話に騙され、踊らされています。もう、無茶苦茶です。
 その結果、自然エネルギー利権や詐欺師の片棒を担ぎ、被災地の復興を妨げ、脱原発への道を困難にしているとしかいいようがありません。

(片品腰折れ一句その2))
五輪に寄せて
金造の頭にたかる銀蠅は行きどころなく銅(肥)に着糞(ちゃっぷん)


(きたなき虫なり、きたなき虫なり)

1 峯崎さんの↑のコメントを見て如何にまじめに考えていないかが良くわかりました。
 峯崎さんの人物評価というのは敵か味方の二つしかないのでしょうか。そのような考えでは、絶対安全か危険の二者択一でしかリスクを評価できないと思います。

2 <私が原発を今止めなければいけない、と考える第一の理由は、命を危険に晒す大バクチはもう止めなければならない、と考えるからだ。>

 全く理由になっていません。なぜならば、停電は多くの命を危険にさらすことだからです。停電によって失われる命と原発事故によって失われる命の価値は同じです。それを無視するのは、関西の停電だから知らんコッチャないと言うことでしかありません。勝手すぎます。

3 <福島原発というバクチに負けたことを認め、>

 現時点では、関西電力には電力を安定供給するだけの設備容量が不足しているという事実を認めるべきです。
 そして、老朽火力発電所の再稼働がどんなことなのか事実を見つめるべきです。
 この点は、以下が(中部電力の広報ビデオですが)わかりやすいと思います。
http://www.chuden.co.jp/corporate/publicity/pamphlet/movie/mov_taketoyo/taketoyo/index.html
 
4 <ICRP(国際放射線防護委員会)のリスク評価は、特に、長期間受け続ける低線量被爆の影響を過小評価しており、>
 
 思考停止に陥った方の騙されるパターンに見事にはまっています。毎日新聞の権威に目が霞んでご自分の頭で考える事が出来ていないとしか言いようがありません。
 そもそものフォイエルハーケ博士の主張は、広島長崎での被曝者について、黒い雨による被曝量の評価が小さすぎるというものです。つまり、実際の被曝量はもっと多かったと言うことです。近年、自然放射線についても従来言われていたものより、被曝量が多いことが解ってきました。そういった事実に照らしても、同博士の問題提起は耳を傾けるべきでしょう。しかし、よく考えてみてください。いままで少しの被曝で影響が出ていたと考えていたが、それは間違いでもっと影響が出る被曝量はもっと大きかったと言うことです。それが意味するところは、ICRPのリスク係数が安全側であったと言うことです。同博士の問題提起の結論は、ICRPはリスクを過大評価しているという結論になってしまうのです。(これは安心材料ですから良かったことです。)
 さらに、福島原発事故で問題となっているのは、γ線を出すセシウムです。こちらのほうは、同博士が評価漏れと言っているα線源と違って検出が容易です。被曝量を過小評価するということは考えにくいのです(初期の被曝量は別の考察が必要ですが)。
 
5 <放射線は細胞の突然変異を促進させ、これ以下なら安全という線量(閾(しきい)値は存在しない>

 第1に、「なにをいまさら」と思います。繰り返し言ってますが、ICRPは、閾値が存在するかどうか解らないから、存在しないと仮定して被爆対策を考えようとしています。
 お勧めしたICRP111を全く読んでいないで、ICRP批判をしていると言うことが良くわかりました。
 第2に、閾値がないと仮定されているのは、何も放射線だけではありません。他の発がん性物質についても同じような考えでリスク評価がされています。この点も私が紹介した畝山さんの書籍を読んでいれば解ることです。

6 <「私たちのDNAは塩基で結合されて必要なすべての情報をかたちづくっているのですが、それらを相互に結びつけているエネルギーは、わずか数エレクトロンボルト(ev)にすぎません。このエレクトロンボルトという単位は、とてつもなく小さなエネルギーの単位です。私たちの遺伝情報は、測ることもできないような微小なエネルギーで精密に組み立てられているのです。>

 エレクトロンボルトという単位に初めて接して驚いているだけとしか思えません。
 DNAを傷つける仕組みなどについては、以下の資料の60頁あたりを読んでください。
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/radbookbasic/rbb20120807.pdf

7 <私が読むかぎりこの方ほど首尾一貫して原発の危険に警鐘を鳴らし続けてきた専門家はあまり見当たらない。>について

 他の文献を何も読んでいないとしか言いようがありません。そもそも、小出氏のいうような危険があるなら、彼はどうして熊取の実験炉の運転に関わっているのでしょうかね。原発を止めるための研究のために原発を動かすのは危険じゃないと言うことでしょうか。そんな主観的要因でリスクが変わるはずありません。言ってることと行動が全然一貫してません。

8 <沼田図書館にある原発批判の図書のうちで私に強い説得力を持っていたのは、菊地洋一氏の『原発をつくった私が、原発に反対する理由』という表題の本だ。>

 第1に、原発批判ではない図書は読んでいないということが解ります。推進派、中立派の意見も聞く必要があります。この点だけとっても峯崎さんがまともな判断をする下地がないことがわかります。
 第2に、沼田図書館にある原発批判の図書をすべて読んだかのようなコメントですが、それは嘘でしょう。たまたま、図書館で目に付いたセンセーショナルな2冊だけ読んだに過ぎないでしょう。こういった嘘の積み重ねが、まともな原発批判を妨げているのだろうと思います。
 付け加えますが、私は、ご紹介の小出氏の本も、菊池市の本も出版直後に購入し読んでいます。

9 <氏が体験として原発を「作ってはいけない」と語っているからだ。>

 「作ってはいけない」は、「運転を止めなければならない」の論拠にはなりません。峯崎さんの主張はこの点の論理の飛躍に基づいています。

10 <当時菊地氏には原子力発電所について「危険なもの」という認識はなかった。放射線被爆などの知識もなかった。>

 こうやって騙された事のある方は、事実がわかったときの反動が大きいと思います。

11 <原子力発電所というのは、「1基4年がかり、5000億円」というような恐るべき規模の建築物である。>

 これは建造だけの事言っているのでしょうが、4年で驚くなんて知らなすぎます。火力発電所だって似たようなものですし、水力や地熱はもっとかかります。「もんじゅ」なんて設計だけで20年もやってました。

12 <そのとき大量の配管の亀裂が起き、破損部分から水が漏れだしていたはずだ。>

 調べないということはこういうことなんでしょう。
 軽水炉の安全対策は、配管破断によるLOCA(冷却材喪失事故)がすべてと言っても過言ではありません(でした)。配管破断についてはすべて想定しているのです。
 問題はLOCAにばかりに目が行って、電源喪失など他の事故対策がおろそかになっていたことです。また、地震にばかりに目がいって、津波対策に目が行っていなかったことです。反対派も含めて、安全対策が一面的であり、総合的な安全対策が出来ていなかったということなんです。
 
13 <湯を沸かしその蒸気でタービンを回して発電する、という原理は簡単明瞭だが、実際の原子炉は恐ろしく配管のこみいった精密機械だと言っている。>について

 これは、直接何回もお話ししたと思います。私から聞いたことはどこかに行ってしまったのでしょうか。

14 <マーク1の「弱点」は一言でいえば、内側からの圧力に対する弱さだ。格納容器が小さすぎて、水素などが大量発生すれば容器そのものがもたない、のである。>
 
 大飯の格納容器の大きさを全くご存じないようです。PWRとBWRでは構造的な問題もあって格納容器の大きさが全く違います。PWRの方が数倍の容積があります。したがって、マーク1の格納容器の小ささは、大飯原発を止める理由にはなりません。
 
15<すべての原発で「絶対安全」などということはありえないと考えています。>

 当たり前過ぎることです。こういう言葉に反応してしまうということは、峯崎さんが、絶対安全を求め、絶対安全だと信じていた事の裏返しだと思います。
 私は、終始一貫して、絶対安全を求めることも、絶対安全だと信じることも否定してきました。一方、「どれくらい安全ならば十分安全か」という問題は、私がずっと考えてきたことで、いまだに答えの出ない問題です。

16 <私は新自由主義的資本主義の限界が見えた気がします。なによりもカネなのです。神の手などないことがこの電力会社の選択で明らかです。人の命よりカネなのです。>

 私も新自由主義には批判的な立場ですが、この問題を新自由主義批判の論拠とするには論理の飛躍があります。新自由主義の立場からは、「事故リスクの評価が正しく出来ていなかっただけ」という反論が来そうです。
 大飯の再稼働に反対している人達の多くは電力自由化、発送電分離も訴えているようですが、峯崎さんは、その点はどのようにお考えなのでしょうか?やはり新自由主義的立場に立って、電力自由化でしょうか。

17 <同時に、本来想定して計算に組み込むべき要素「地震波と鉄骨の共振」などが考慮されていない>

構造設計をしている人が聞いたら怒ります。

18 <原子炉が実際には技術的には未熟であり、配管構造に致命的な弱点を抱えた機械であることを、原子力発電所の建設に携わった経験から説いています。>

 配管構造が弱点であることは確かです。だからこそ、軽水炉の安全対策は配管破断に傾注していました。しかし、福島第1の事故でわかったことは、原発はそれ以上に停電に弱いと言うことです。どんなに配管構造を強化しても、停電になればどうにもならないということです。それがわかったにもかかわらず、停電のリスクを過小評価して、「停電してもかまわないから大飯原発を止めろ」、これがどんなに矛盾していることか冷静に考えてみてください。
 例えば、電力供給率が90%を超えているときに、地震が来ることを想像してみてください。停止中の原発でも使用済み燃料の冷却は電気に頼っています。そこに想定外の「何か」があっても、広域停電下では、信号も鉄道も動かないのです。部分停電の起きた福島第1ではバッテリーなど必要な部品の調達に手間取りました。停電下ではもっと難しいでしょう。避難するにも困難がつきまといます。
 地震など考えなくても、いま大飯を止めれば、関西では計画停電をするかどうかぎりぎりの状況です。大型の火力発電所が1台ダウンすれば、連日の計画停電を強いられるでしょう。自分が関西に住んでいることを考えればこれは容易に受け入れられることではありません。熱中症によって亡くなった方のニュースが連日のようにあります。ちょっとした想像力があれば1時間の停電でも市民生活に大きな影響があることは容易にわかります。企業活動にはもっと大きな影響が出ます。倒産する中小企業もあるでしょう。余力のある企業は、関西から出て行くでしょう海外かもしれません(すでに始まっていますが)。雇用の場は失われます。結局弱者にしわ寄せが行きます。そういった人達の犠牲は何も考えなくて良いのでしょうか。政府が何とかしろと言えば解決するのでしょうか。するはずありません。また、そうやって政府を批判しておけば免責されるのでしょうか。そんな論理は身勝手すぎます。
 こうい一見もっともらしいけどよく考えると身勝手な論理が幅をきかせている事こそが問題だと思っています。脱原発とはそこにメスを入れることだと考えています。

 峯崎さん、もういい加減にしませんか。いくら、モノ書きは恥をさらしてなんぼ、とはいえ、痛々しいだけです。品はないし、言葉は汚いし、寒雷がかの翁に恥ずかしくないですか。唯一相手をしてくれていた杉山さんにも匙を投げられて、無茶苦茶ついでに、憎っくき木暮相手にこんなことで気が晴れますか。「放屁虫」のときは腹も立ったけれど、ここまで来ると、怒りどころか気の毒で、哀れにさえ感じます。男も同情されるようになったらお終いですね。

 一方向の視点しか持たない峯崎さんは、その時々で宗旨を変えて、昨日の原発推進派が、今日は原発止めろ、ですか。貫くものがないんですね。放射能に怯えるあまり、原発を諸悪の根源にして、一方で単純に、自然エネルギーこそが善の象徴になっているのでしょう。太陽光発電に関わろうとする「新しい書き手」はさしずめ月光仮面で、正義の味方にあれこれ言う木暮はけしからん、というわけでしょう。「投稿者のなかには会社を経営するなど極めて多忙な方もおられます」として、月光仮面には気配りをしていますが、常軌を逸した頓珍漢なやりとりで杉山さんを煩わせて、どれほどの時間を浪費させているか、それを察するデリカシーはないのですね。

 峯崎さん、あなたが私を登坂雷太氏と間違えた理由は未だに私には解りません。解るのは、あなたの人を見る目、洞察もいい加減で怪しいということです。そして「知性だ、知性だ」と言っていたあなたの知性はその程度ということでしょう。月光仮面は太陽光発電事業をやろうという正義の味方ではなく、要するに地方の工務店が太陽光発電設備の設置工事もやろうとしているだけです。紹介者の顔をつぶさないように、という意識すらない。「放屁虫」に呆れて、「ここにも市民の目」の名前で「市民の目!沼田」の当初の主旨に戻るように促すコメントがありましたが、あなたはその意図も理解できず、ぽろっと本音を漏らしました。田舎者を蔑む思いを指摘されると、いきなり言い訳に終始して、言うにこと欠いて「利根沼田の田舎は私にとっては心と体の懐かしいホームです」とは、いかにも言葉が軽い。「足弱ではありますがついて参ります」と同類のゴマスリでしょう。そして、人を見る目もいい加減なあなたは「ここにも市民の目」が私、木暮であることも見抜けなかった。しかも、杉山さんに愛想を尽かされたあなたは臆面もなく、「同僚の市民各位に訴え続けて行くしか方法がありません」と言う。前市長を「はまぐり」と揶揄し、現市長を「カメ」とからかい、◯◯だ◯◯◯だと罵倒していた沼田の人たちに、です。峯崎さん、あなたには誠意も節操もないんですね。「みんなと連帯するしかありません」と言いますが、地域の人たちとのつき合いもしないあなたが、沼田の人たちを「田舎者」と蔑む本音をひたすら隠して、とりあえず道路愛護から始めますか。

 ひと回りも年長の峯崎さんに、おこがましいのを承知で言いますが、あなたに今日ある現実は、あなたが昨日まで生きてきたことの結果です。すべて他の誰かのせいにしたいようですが、あなたの尻はあなたが拭くしかありません。その覚悟ができないなら、どうぞ、気が済むまで放射能に怯えてください。あなたはすでに人生の90パーセントを生きてきたのですから、あと10パーセント我慢すればいいんです。死ねば誰でも静かになります。そして、人の死亡率は100パーセントです。世の中、完璧にできています。

え?「ここにも市民の目」って木暮さんだったんですか?

じゃあ、ここに書き込まれてる
http://numata-city.kazelog.jp/numata/2012/05/post-f29e.html

「私のような利根沼田の地元の人間~」

ってのはウソですよね
木暮さんは、ウソをついて自作自演の書き込みをする人だったんですか?

技術的なことで誤解を招きやすい点なので補足しておきます。

<核種によって影響はずいぶん異なります。また、どのうらいの期間にわたって影響を与えるかも核種によって異なります。放射性物質の寿命は、一般に「半減期」つまり「放射線を出す能力が半分に減る時間」」で捉えます。ヨウ素131の半減期は8日です。原子炉から出る主な放射性核種のなかでは短い方と言えるでしょう。ヨウ素131が1000分の1に減るまでに約80日かかります。>について

 半減期が長いということは、放射線を出す能力が低いと言うことです。半減期が無限大にまで長くなった物質とは、安定した物質つまり放射性ではない物質です。半減期は長い方が安全なのです。また半減期が短い物質は放射能は強いですがすぐになくなります。
 やっかいなのは半減期が中程度のものです。いまセシウムが問題となっているのはそんな事情です。

<セシウム137の半減期は30年です。すなわち、これが1000分の1に減るまで約300年かかります。>について

 いま問題になっているのは、セシウム137だけではありません。134もあります。ベクレル数でいうと、環境に放出された134と137は同じ程度です。では、外部被曝の原因となるγ線は、双方から同じ程度でているのでしょうか。
 違います。これもおおざっぱですが、1崩壊あたり134からは2本、137からは1本のγ線がでます。エネルギーは3本とも同程度です。したがって、同じベクレル数の134と137があった場合、線量率への寄与は134が3分の2で、137は3分の1なのです。
 そして、134の半減期は約2年です。30年経過すると、134はほぼゼロになりますから、線量率は6分の1になります。2分の1ではありません。約4年で空間線量率は当初の半分以下になります。
 これは外部被曝についてですが、内部被曝については、生物学的半減期が大人でも数ヶ月ですから、物理的半減期はあまり問題になりません。
 こういう事実を隠して説明する小出氏は信用できません。
 私が推薦した反原発の野口邦和さんはずっとこのことを訴えて除染の支援をしています。また、島田市の震災がれき受け入れの支援もしています。
http://aiba.tv/mika/archives/005283.php
 田崎晴明さんも同じです。
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/housha/details/Cs137vs134.html
 同じ反原発の立場でも研究もしない助教とは誠実さが全く違います。

事故から1年以上経過して、本物の学者が誰かということが定着してきたように思います。本物の学者のおそらく最新の情報です。見る価値高いです。

早野龍五氏講演 「福島の内部被ばくと外部被ばく - データを見て考えよう -」
http://www.ustream.tv/recorded/24577111

野尻美保子氏講演「放射線測定と私たちの健康」
http://www.ustream.tv/recorded/24578121

てるさん、片品の木暮です。
 話がおかしな方向へ行き、ついには「腰折れ一句」などという事態になったので、冷静になって当初のところに戻りましょうよ、という思いで、このブログのタイトルのすぐ下にある「市民の目!沼田とは」の全文をそのまま書きました。ただ、私の実名では峯崎氏には伝わらないと思い、「ここにも市民の目」という名前にしました。
 その思いが峯崎氏に伝われば、そこでことは済んでいたのでしょうが、残念ながら峯崎氏には伝わらず、私に向けての罵詈雑言でした。私には私の価値観に基づいた尺度がありますから、峯崎氏が私に対してそれほどまでの憎悪、あるいは嫌悪を持つことになった理由が実は解らないのですが、憎悪、嫌悪の程度と、ぽろりと本音まで漏れてしまうほど感情的になっていることは解りました。
 ここで放っておけば、ことは収まったのかもしれませんが、人格否定にまでつながるような言い方をされ、そこまで峯崎氏の勝手な言い分で言われる筋合いはない、と思い、「ここにも市民の目」という名前でふたつ目のコメントを書いた、という次第です。実名で書いていたら、火に油を注ぐような状態になっていたと思います。そうでなくても、ふた月たっての「腰折れ一句その2」ですから。
 ウソをついて自作自演の書き込みをする人だったんですか?と言われれば、その通りです。あくまで実名で、が本意ですが。

反原発には正義があふれているということだと思います。

あふれる「正義」に混乱するエネルギー政策-大阪府市から市民まで「正義の中身」を聞きたい 
経済ジャーナリスト 石井 孝明氏
http://agora-web.jp/archives/1455415.html

抜粋

放射能問題によって、すべてがリセットされて、一から人生をやり直すことができるのではないかという思い~(中略)~役割を得たとも思いました。思うような人生を歩むことができない事を、社会のシステムの責任にしていました。「原発」問題は社会に反撃を行うチャンス。原発というこれほど分かりやすい「悪」はありません。「反原発」を唱えることで、特別な使命を持った選民意識を持てましたし、自己愛が満たされました。

http://www.gepr.org/ja/contents/20120507-03/

脱原発の主戦場はここです。

 使用済み核燃料の処理を民間任せにはできない

 鈴木達治郎・原子力委員会委員長代理(核燃料サイクル検討小委員会座長)に聞く

http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20120801/235189/?P=1

 鈴木氏はもともと再処理消極派で、再処理は止めようと言い出しています。反対派からも、公平な議事進行との評価があります。
 批判すべき点は批判して、応援すべき点は応援し、まずは、再処理からの撤退を決めることがなによりも重要だと思います。

 これが解っているジャーナリストは、斗ヶ沢秀俊氏(毎日新聞)と
江川紹子氏。
 http://togetter.com/li/309310

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