家庭の電力の値段
原発を動かし続けるか、動かすのを止めるかで、電力のコスト(原価が)変わるため、料金に差が生じる、という。太陽光や風力などで作った電気はすべて電力会社に買わせる制度(再生可能エネルギー固定価格買い取り制度)が七月から始まったので、電力会社は買い取りにかかったコストを電気料金に上乗せする。このため、原発の比率が下がり再生エネが増えるほど値上げ幅は大きくなる。この試算結果が公表され、再生エネの比率をどのくらいにするか国民に問題提起された。
電力の中身を原発ゼロにした場合と、15%、20%から25%ぐらいにした場合とを比べて、家庭が支払う電気料金が、どう変わるか、具体的数値で比較している。
ちょっと待ってくれ。将来、原発は、なくす、(廃棄する)のではなかったのか?福島の事故で、原発依存を将来ゼロにする、と誓ったのではなかったのか?どうやって脱原発を実現するか、研究しているのではなかったか?
舌の根も乾かぬうちに、続けるのが当然のこことになり、15%とか25%とかの比較が行われている。熱しやすく冷めやすい、と言われる日本人の性格を見事に示す背信的政策転換がいつの間にか当然のことのように起きている。福島の事故の始末どころか原因究明も済んでいないのに、「背に腹は変えられれぬ」という理由で大飯原発の再稼働が開始された。野田首相は「私の責任で」、と大見えを切ったが、福島の事故すら解明できない野田首相に原発事故のどんな責任が取れるというのか?野田は事故が起きたら、起きた時のこと、「軽はずみだったと謝れば済む」とたかをくくっているに違いない。原発事故の責任など取れるはずがない。東電も監督官庁も現に誰も何の責任も取っていない。いまだに16万人もの人々が住む家や故郷の土地も失い、仮住まいに追い込まれ、子供の将来まで奪われそうだと、被災者たちは心配している。原発事故の恐ろしさは一時の被害では済まないことだ。自分だけで済まず、子孫にまで影響が及ぶことだ。
政府の提示した試算の「原価」には、故郷の値段など入っていない。原発の恐ろしさは本当のコストが無限大に広がってしまうことだ。子供の将来や失われた自然環境の値段のように普通の経済学では計りようのないコストを組み入れたらこんな試算は無意味となる。そこまで算入せずとも、使用済み燃料棒の処理保管の直接コストすら計算できていない。これは確実にカネがかかること、税金ないし電力料金で負担するしかないことも分かっているのに、数値が今計算できないからという理由で、除外して計算し、家庭の電気料金が高いの、低いのと言ってみても、実は無意味である。われわれは経済学の無力を自覚しなければならない。かつて土木事業を無駄扱いされた時期があった。しかし、去年から今年にかけて豪雨による土砂災害が多発するとさすがに「コンクリートより人を」という無内容なスローガンを高唱する声は低くなった。インフラの整備にはカネがかかることがわかった、というより、インフラには値段が付けようがないことがわかってきたのである。土砂災害が起きると、家や土地が流失し、人命もなくなる。直接失われた財産のコストは計算できるが、一村全部流されたり、広大な農地や居住地が永久に失われたりしたもののコストは経済学で算出できない。原発のコストも計算ができない。三次元のロスが、四次元(時間軸)で拡大、継続する。子供の将来など計算しようがない。自然環境につける値札はない。
原発はそういう危険を孕んだ選択であることをわれわれは福島で現に体験した。だからこそ、脱原発の声が上ったのではなかったのか?最近盛り上がってきた脱原発の民衆運動は、野田首相や経済官僚などが見えなくなった原発の値段を直感している、と思われる。野田や官僚は、どうすれば脱原発の理想が実現できるか、を考えださなければならない。それが、民主主義国の公僕たる君たちの責務である。民主とは官僚支配を排し、政治指導を実現すると公約した。君たちは今こそ民衆の意思に従う政治指導を実行すべきである。
峯崎淳
峯崎さん、私はこう考えています。
1「原発の比率が下がり再生エネが増えるほど値上げ幅は大きくなる。この試算結果が公表され、再生エネの比率をどのくらいにするか国民に問題提起された。」について
原発の代替えを風力や太陽光でまかなうことは出来ません。電気代の問題ではなくて、技術的・原理的に出来ません。風力や太陽光は自然条件任せなので、ベースロード発電にはなり得ないからです。太陽光で出来るのはピークカットによって火力発電の稼働率を下げることです。風力ではそれすらも困難なのが実情です。原発の代替になりえる再生可能エネルギーは水力や地熱です。このような特性を意識せずに、再生可能エネルギーをひとくくりにして議論することは方向を間違うと思います。
2 「舌の根も乾かぬうちに、続けるのが当然のこことになり、15%とか25%とかの比較が行われている。熱しやすく冷めやすい、と言われる日本人の性格を見事に示す背信的政策転換がいつの間にか当然のことのように起きている。」
約40年前、オイルショックでエネルギーの確保に翻弄し、原発が推進されました。3年前、鳩山由紀夫は、二酸化炭素を25%削減するために原発を増やしていくと国際公約までしました。その鳩山は昨年、原発は地下に造れば安全だと言い出しました。そして、今は、官邸前の反原発デモに参加し、大飯再稼働反対です。
熱しやすく冷めやすいのは、鳩山に代表される反原発のかけ声の方だと思います。
3 「政府の提示した試算の「原価」には、故郷の値段など入っていない。原発の恐ろしさは本当のコストが無限大に広がってしまうことだ。」について
その点は火力や水力、再生可能エネルギーも同じです。
原発の代わりとして戦力になるのは、当面火力です。現実に各電力会社は火力発電所の増強をしています。老朽石油火力まで動かしています。
しかし、火力にも問題があります。第1に、燃料を輸入しなければならないと言うことです。第2に、環境問題です。二酸化炭素による温暖化ももちろんですが、原油の流出による海洋汚染も無視できません。
http://www.mlit.go.jp/kaiji/seasafe/safety11_.html
火力の次に戦力になるのは水力です。幸いなことに我が国には豊富な水資源があります。しかし、水力にも問題があります。
第1に安全性です。3.11地震で、ダムが決壊し死者まで出したことはあまり知られていません。ダムは原発以上に地震に弱いのです。
第2に、環境問題です。
昔のことですが、こういった要素を可能な限りすべて入れて、原発の発電単価と比較をする仕事をしたことがあります。その結果は、数値上は原発の方が安いのです。したがって、この観点でいくら原発を責め立てても、脱原発にはつながらないと思います。
原発の問題は、コスト論だけではなく、安全とは何かとか社会的認容と何かという観点から考えるべきではないかと思っていますが、その答えはまだわかりません。
4 「野田や官僚は、どうすれば脱原発の理想が実現できるか、を考えださなければならない。それが、民主主義国の公僕たる君たちの責務である。」について
民主主義とは、国民一人一人が主権者であることです。それは、国民一人一人が考える責任も負うことだと思います。
総理大臣やその部下である官僚に、考える責務を投げつけるのは、およそ民主主義とはかけ離れていないでしょうか?
むしろ、こういうお任せ主義が官僚支配をはぐくんできたのだろうとさえ思います。
投稿: 杉山弘一 | 2012年7月24日 (火) 06:32
率直なコメントをいただき心からありがたく思っています。いくつか疑問点がありますので、お尋ねしたいと存じます。火力でも環境破壊が起きるとおっしゃいますが、放射能による汚染と同列に見るのはいかがでしょう。大量生産大量消費の工業化路線をひた走りに走り続けてきた挙句が今度の3・11の大災害だったと言えるでしょう。技術革新を積み上げて、高度競争社会に成功者となったことは誇っていい業績でしょうが、原発事故という重荷を未来に向かって背負いこんだ事実は素直に認めなければなりません。福島や沼田の被災地の子供たちは、野山を自由に駆け回り木の実などを採取して食べることはできません。小生が子供の頃、郷里の子供たちは、秋になると山に入り、サルナシの実など自由に食べていました。先ごろ名古屋で行われた意見聴取会で、東京の大学生はこう語って拍手を浴びたことが毎日新聞に報告されている。「なぜ経済成長が前提になるのでしょう。人口が減り、生産人口はさらに早く減るのに国内のモノやサービスを増やす必要があるのでしょうか。欲しいときに欲しいものがどこでも手に入る大量消費、大量生産の社会は本当に心豊かな社会と言えるでしょうか・・・」
杉山さんの原発稼働を必然とするお考えの背後には現在の高度工業化社会を維持しなければいけない、という強い信念のようなものがあるようにうかがわれます。3・11の災害が問いかけた疑問のひとつは、はたして成長を必然と見る経済システムや技術の競争が本当に必要(人間にとって)かどうか、というものでした。原発依存を見直すことでした。今巷に巻き起こっている反原発のデモには、わけもわからず付和雷同している軽薄な人々も少なからずいるだろうことは察しがつきます。しかし、底流には現代文明についての疑問が芽生えているように思います。
投稿: 峯崎淳 | 2012年7月24日 (火) 19:05
1 「杉山さんの原発稼働を必然とするお考えの背後には現在の高度工業化社会を維持しなければいけない、という強い信念のようなものがあるようにうかがわれます。」について
全く違います。火力であれ水力であれ、風力や太陽光、その他の自然エネルギーであれ、リスクや誰かの犠牲なしにエネルギーを使うことは出来ないということです。程度の差こそあれ、その点は全く同じです。原発以外の発電方式にリスクがまったくないかのような議論は感情的すぎます。
また、原発がほぼ停止した今、火力で代替えしている現実を無視することは出来ないと言うことです。
そしてもう一方で、現代文明はブログを使うことも含めて、電気をはじめとするエネルギーにによって支えられていると言うことです。それを変えて行くには、時間がかかると言うことです。そして、それもまた、何か(誰かと言うべきかも)を犠牲にすることなしには出来ないと言うことです。
このような事実認識が議論の出発点だと思っています。
2 「3・11の災害が問いかけた疑問のひとつは、はたして成長を必然と見る経済システムや技術の競争が本当に必要(人間にとって)かどうか、というものでした。」について
原発=経済・技術、経済成長とする見方は違っていると思います。たしかに、現代文明は電気をはじめとするエネルギーに支えられています。しかし、その大部分は、いまだに化石燃料によるものです。日本の1次エネルギーに占める原子力の割合は、1割程度でしかありません。
http://www.enecho.meti.go.jp/topics/hakusho/2011energyhtml/2-1-1.html
現代文明はいまだにその大部分を化石燃料に支えられているのです。だからこそ、世界的には地球温暖化が問題になっているのだと思います。そして化石燃料には枯渇化の問題もあり資源の乏しい日本には輸入の問題もあります。
大飯の再稼働が問題とされていますが、関西電力は原子力の依存度が飛び抜けて高いという特殊事情がありました。そのため、火力で補うことが難しい状態です。タービンの手配が遅れたと言うこともありました。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0100Y_R00C12A5000000/?df=2
しかし、これは一時的なものです。建設中の姫路の最新式コンバインド火力が2,3年で動き出しますから。
http://www1.kepco.co.jp/energy/fpac/community/plant/10.html
こういう特殊事情だけを見て、経済成長が原子力に依存していると見るのは間違いです。原子力を使わないことはそれなりの時間はかかりますが可能です。1割しか依存していないのですから。
でも、化石燃料への依存をなくすことは不可能でしょう。しかし、それを考えないまま、エネルギーに支えられた現代文明を見直そうなどという議論は、単なる脱原発イデオロギーでしかない自分勝手な屁理屈だと思います。
エネルギーを使うものは皆加害者であるという視点を忘れていると思います。
また、技術的にも原発が最先端というのは間違っていると思います。いま、火力の高度化はすざましいものがあります。最新火力の熱効率は原発の2倍にもなろうとしています。
もう一点、インド、中国、またアフリカ諸国のエネルギー問題を考える視点も重要だと思います。これらの国々がこれから、エネルギーを大量消費するようになってきます。それを止める権利など先進国にありません。
繰り返しますが、経済成長は圧倒的に化石燃料に依存しています。その化石燃料の問題抜きに経済成長云々の話をするのはお門違いです。さらに、再生可能エネルギーの買い取り制度などは、経済成長に役立つとして進められているのです。
3 「福島や沼田の被災地の子供たちは、野山を自由に駆け回り木の実などを採取して食べることはできません。」
このように根拠のない事実で不安を煽ることは判断を誤ると思います。そもそも、今の子供たちは、原発事故の前から、野山で木の実などを採取して食べることなどほとんどしていません。
以下のサイトのその2、郡山の屋内施設「ペップキッズこおりやま」の話が興味深かったです。
http://fukkou-arena.jp/academic/?p=404/
投稿: 杉山弘一 | 2012年7月25日 (水) 08:23
NHKや国外のメディアが原資料を改竄して自分の主観に都合のいいように放送内容を変えているという広瀬久美子氏の追求は小生のように現場に出かける能力がなくメディアが伝えた情報に頼っている者には慄然とする報告でした。いくら考えても考えの材料が歪められ、虚をつかまされているとしたら、大衆は浮かばれません。NHKの場合誤報という言い訳は通用しません。事実の歪曲、偽造です。こんな番組を見させられ、視聴料金まで取られては、まさに踏んだり蹴ったりです。小生はめったにテレビ番組を見ませんから、それはそれでひとつの選択であったと思っています。杉山さんに改めてお尋ねします。昔、原発のコストを環境などを含めて計算した結果、原発が安かった、とお書きになっていますが、環境破壊、歴史的居住環境のコストなどどうやって数値化したのですか?
本来損害は確かにあるのですが、子供が野山を自由に駆け回って遊ぶコストなど同数値化したのですか?里山のコストなど数値化できないものを無理やりこじつけるのは、技術者のおごりではないでしょうか?技術者は技術の限界を弁えることがいまほど必要な時代はなかったように思います。優れた科学者や技術者には神という科学にはなじまないものを持ち出し、最後はすべて神の計らいだという人がいますね、それには深い理由があると思いませんか?人智の限りをつくしてもどうにもならない世界が原発や放射能の世界ではありませんか?小生は、技術者を含め人間が謙虚になることが今求められているのだと思われてなりません。手段としての技術の追求は怠ってはなりませんが、技術が目的にはなりえないことを肝に銘じることが大事だと思うのですが・・・。
投稿: 峯崎淳 | 2012年7月25日 (水) 11:38
1 「NHKや国外のメディアが原資料を改竄して」について
私が見てほしかったのは、その1のNHKではなく、その2の郡山の屋内施設「ペップキッズこおりやま」の方です。
2 「環境破壊、歴史的居住環境のコストなどどうやって数値化したのですか?」について
それなりに計算したとしか言いようがありません。保険料を算出する手法です。それが正しいとか、それですべての要素が網羅されていると言うつもりは全くありません。
ただし、コスト論に拘泥していては脱原発はできないと思っています。脱原発にはコストに算定できないものを考慮する必要があると思っています。
第1に、算定が難しいコストは原発だけではありません。例えば、当時、火力は地球温暖化のコストが考慮されていませんでした。また、燃料のコストを長期に渡って考慮することは不可能です。これまでの技術の蓄積に要したコストも算定できません。火力の導入期にはボイラーの破壊事故が続き、その規制のための基準が原子力の基準の基になっています。
水力にも考慮しきれないコストがあります。例えば黒四ダムの建設では、100人以上の方が亡くなっています。これはある程度考慮できますが、ダムによる河川系の環境破壊やダム決壊リスクのコスト換算は結構やっかいです。
また、太陽光や風力は不安定なので、電力系統につなぐためには、蓄電池や制御技術が必要になりますが、今のところ考量されていません。風力の低周波問題や送電網も算定は難しいです。
言い出すと、どの発電方式もコストの正確な算定はそれなりに困難です。原発だけの問題ではありません。それでも、大まかな傾向は解ります。その結果言えることは、やはり原子力は安い(そう見えてしまう)のです。圧倒的にエネルギー密度が高く、安定して出力が得られるからです。
可能な範囲で計算するとコストが安い。安定している。それこそが、経済成長優先の社会の中で原発が導入されてきた理由です。
第2に、コストには時間軸を入れる必要があると言うことです。つまり、原子力のコストはすでに支出済みの部分が多いのです。原発は建設費の占める割合が多いので、運転を止めても、火力のようにコストは下がりません。事故のコストは確かに下がりますが、それは運転に伴う事故コストだけです。使用済み燃料プールの事故リスクは運転を止めてもほとんど変わりません。
今ある原発を運転するコストは圧倒的に安いです。だからこそ、電力会社は原発を運転したがっているのです。だからこそ、再生可能エネルギーを高値で買い取るのです。
それを無視して、コスト論をふっかければ返り討ちにあうだけだと思います。
3 「人智の限りをつくしてもどうにもならない世界が原発や放射能の世界ではありませんか?」について
たしかに、今の峯崎さんがそうであるように、社会的には原子力だけが特別だと思われています。
しかし、人知の限りを尽くしてもどうにもならない世界は原発や放射能に限ったことではありません。少なくとも、軽水炉は実用化された(どうにかなった)技術です。どうにも難しい問題は、社会や経済との関係の部分です。しかし、それは、他のエネルギーも同じです。
また、放射能については、医療分野の利用などを考えれば、もう切っても切れないものです。まちがいなく、どうにかなっています。原発はともかく、今後人類は、放射能とのつきあいなしで生存していくことは出来ないでしょう。
投稿: 杉山弘一 | 2012年7月26日 (木) 06:01
いつも丁寧にお答えいただいて深く感謝しています。幼稚な(ミジュクナ)疑問に答えるのは時にイライラするものですが、杉山さんの誠実な態度には感動さえ覚えます。素朴な疑問はまだまだあります。いい加減にせい、と読者の皆様にも叱られるのを覚悟の上でここに掲げさせていただきます。
(1)最近沼田から反原発デモに参加された方のなかにこういう方がいらっしゃいました。アパートに一人住まいしている年金生活者の女性です。往復の交通費(バス賃)などすべて自分持ちで、仲間たちと一緒に、ただデモに参加するためだけに東京に行ってきたそうです。ひごろいかにつましい生活をしているか承知している私たちには彼女の動機が分かりませんでした。私どもも原発は止めなければならぬ、と日頃から考えていますが、東京のデモに行こうとは考えたことも行ったこともありません。
一向に衰える気配のない反原発デモ。組織や動員とは無関係に集まる人々。これにはなにか訳が(深い)ありそうです。私が思いだすのは。船火事のケースです。大きな貨物船が船火事を起こして沈没すると、火事の直前に、何の前触れもないのに、ネズミの群れが船から脱走する事実が目撃されています。ネズミがなぜまだ起来てもいない火事を予知するのか、わかっていません。今日本中で起きている脱原発のデモに行く人たちの中に、はっきりした理由を合理的に説明できる方はそうたくさんはいないだろうと見ています。大半は、付和雷同でしょう。しかし、付和雷同する人たちの心の奥深くに漠然とした恐怖があるのではないでしょうか?私はその恐怖こそ本物だと感じます。ネズミが感じる「なにか差し迫った危険」と同じものです。船火事は起きる、と私たちは察するべきではないでしょうか?
(2)全くの私事ですが、茨城県の鹿島灘沿いのの海岸地帯に薩摩芋の名産地があります。砂丘地帯なので天下一品の芋です。毎年送ってもらっていた芋が去年からぱたりと来なくなりました。理由はわかりません。仄聞しているのは3・11の事故で放射能が降った後、サツマイモがセシウムをよく吸収すること、です。
このような被害は東電が補償金を払えば済むものではない、と私は思います。
(3)杉山さんは、近頃の子供は野山では遊ばない、からあまり影響はない、ようにおっしゃっています。これは、暴言でしょう。子供は本来野山を飛び回って遊ぶ本能をもっています。小生と同年の沼田のある友人は子供の頃子持ち山にキノコ狩りに行ったり、利根川でウナギを取ったりした思い出をいくども聞かせてくれます。子供から野山を奪った罪は、非常に重いと考えるべきです。「ベップキッズこおりやま」読みました。70平米の遊び場!なんという貧しい代用品でしょう。野山を奪っておいて、こんなものをあてがわれる子供たちは実に気の毒です。これを読んで東電に対する怒りと政府に対する憤慨が改めて起きてきました。「野山をかえせ!」野山が失われるような危険行為は何をおいてもまず止めるべきだ、と思います。福島では、外遊びを禁じられ、ついにゲーム依存症になった子供の痛ましい例が新聞に報告されていました。
(4)電気会社の配電線の先には、病院など人の命に直接かかわるものから、パチンコ屋、家電製品販売店、自動販売機などあらゆる電力消費先がつながっています。電力が逼迫した場合
供給先を絞ったり優先順位をつけることができればいいのですが、そうした選択行為は自由競争を阻害するとして資本主義の根幹を脅かすものとして損害賠償の対象になる惧れがあります。電力の価格に差をつけるのは、技術的に可能ならば考えられますが、そんな面倒なことより大量に作って無差別に消費してもらうことの方を電力会社は選ぶでしょう。原発を必要とする考えの背後には、そうした資本主義的生産と消費の思想が前提されているように感じます。杉山さんはどうお考えですか?再生可能(自然)エネルギーでは日本の電力は賄いきれない、と断定する判断の裏には電力会社と似た強いものが勝つのを是とする思想があるのではないでしょうか?
投稿: 峯崎淳 | 2012年7月26日 (木) 09:23
(1)原発に依存しないエネルギー政策を造ることと、今大飯原発を止めることには、まったく関連性がありません。それどころか、仮に大飯が停止して、電力不足で広域停電が起これば、世論は全く逆になってしまうでしょう。脱原発にとって逆効果です。
今大飯原発を止めろなどという恐ろしいことは、電力供給の仕組みを考えないからこそ言えることです。
東京までデモに行く自由を否定するつもりはありませんが、エネルギー問題をまじめに考えれば、わざわざ電気を余分に使って、デモに参加するなどという選択肢は取り得ないと思います。
証明をLEDに変えたり、エネファームや太陽光パネルを設置した方がずっと効果的でしょう。
なお、漠然とした恐怖のほとんどはデタラメな報道によって受け付けられたものです。批判的に考えることができないことが原因です。
原発が安全であると騙され、その反動でまた騙されています。
(2)理由がわからないものをあれこれ言っても仕方ないと思います。そういう態度が風評被害を生み、生産者を必要以上に苦しめています。まずは調べることが重要です。茨城県のサツマイモが問題ないことは同県のサイトで調べればすぐわかります。
http://www.maff.go.jp/j/kanbo/joho/saigai/s_chosa/08/sonota.html
なお、風評被害も含めて東電は賠償すべきですし、それで解決と言うことではありません。だからといって、事実を確認せずに風評被害をどんどん広めても良いと言うことにはならないと思います。
(3)「杉山さんは、近頃の子供は野山では遊ばない、からあまり影響はない、ようにおっしゃっています。」
そんなことは言ってません。近頃の子供は野山では遊ばなっているとしたらそれは原発事故が原因ではないということです。
なお、沼田の子どもが原発事故の影響で野山で遊べないという事実はまったくありません。福島県のほとんどの場所でも同じです。
「これを読んで東電に対する怒りと政府に対する憤慨が改めて起きてきました。」
よく読んでください。子供たちから野山を奪っているのは、被曝リスクを煽っている連中です。低線量被曝を過度に恐れて、子供たちを外で遊ばせないことが問題なのです。
なお、運動不足で子供たちに健康被害が出たら、それも東電による損害賠償の対象にすべきでしょう。だからといって、外で遊ばせることが出来るのにそれを妨げるデマを言っても良いということにはならないと思います。
(4)「電力が逼迫した場合供給先を絞ったり優先順位をつけることができればいいのですが」
計画停電ではそうなっています。
「電力の価格に差をつけるのは、技術的に可能ならば考えられますが、」
すでに電力価格には差がついています。
「そんな面倒なことより大量に作って無差別に消費してもらうことの方を電力会社は選ぶでしょう。」
少なくとも、電力不足の今は、電力会社は節電を要請しています。
投稿: 杉山弘一 | 2012年7月26日 (木) 13:16
羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹くという言葉があります。大飯原発の再稼働に反対する人々は、膾を吹いている可能性があります。しかし、大飯ははたして膾でしょうか?大飯の地層深くにあると言われる古い活断層は動き出す危険はない、とする根拠はあるのでしょうか? 止めといた方が安心というのはデマなのでしょうか?私は、専門家たちが安全と言うから安全だという議論が、福島以降、成り立たなくなったことを感じています。原発は将来廃炉にすべきで、その目標に向かって努力するのが正しい選択だと思っています。手順が難しいことも想像がつきます。使用済み燃料の保管の方法すら決まっていません。原発を廃炉にするということは、いまある使用済み燃料を」冷却しつつ長年月保管する覚悟が必要です。電力が要ります。一方で一般の需要を満たしつつ、他方で 燃料棒処理もやっていく。膨大な需要に原発によらずに応えていくには莫大なカネがかかるでしょう。再生可能エネルギーも最大限可能性を追及しなけれ場なりません。そこまで追い詰められれば、再生エネルギーの利用技術が開発される、という楽観論があります。
このまま原発をすべて廃炉にするとすれば、新しくて古い時代が来ますーー「欲しがりません、勝つまでは」の耐乏節電時代です。あの大東亜戦争を彷彿とする生活。それが原発という禁断の木の実に手を出したことの報いなのです。(推進派と呼ばれる人々の間にまだ燃料リサイクル説が生き延びているようです。これは破滅への確実な一方通行路線です。未練は断念すべきです。)月には巨大建築物の残骸が立っている、といわれます。かつて進んだテクノロジーを持った生物が存在し、月に工場群のようなものを建てたらしい、と言われています。火星にも過去の文明の遺物の残骸らしきものがあると言われています。私はそうした遺物が地球外の惑星にあるとすれば、地球上での原発研究の方向や研究所の立地場所に示唆するところが大きいと考えます。今は妄想にすぎませんが・・・
峯崎淳
投稿: 峯崎淳 | 2012年7月26日 (木) 17:47
1 安全か危険かの二分論、言い換えればゼロリスク信仰からどうしても離れていただけないようです。私は、そういうゼロリスク信仰が原発事故の一因であり、事故後の風評被害の原因だと思っています。
2 「大飯の地層深くにあると言われる古い活断層は動き出す危険はない、とする根拠はあるのでしょうか? 」について
そのような危険がないなどとは思ったこともありません。
3「止めといた方が安心というのはデマなのでしょうか?」について
運転しない方がリスクは減ると何度も言っているつもりです。ただし、運転しないからと言って安全ではありません。
4「私は、専門家たちが安全と言うから安全だという議論が、福島以降、成り立たなくなったことを感じています。」について
専門家が誰を指すかが解りませんが、私は事故前も事故後も原発が安全だとは思ったことはありません。
5 安全だから稼働させる、危険だから稼働しない、という2分論に陥ると、稼働させると聞くと「安全だと言っている」と思い込んでしまいがちです。ゼロリスク信仰はリスクを増加させます。
大飯原発は稼働させなくても危険ですが稼働させればより危険になります。しかし、稼働させずに電力不足に陥ればもっと危険です。それは、現実に差し迫った危険です。原発事故の危険を承知でも稼働せざるを得ない状況だと言っているのです。リスクゼロなどあり得ません。どちらがよりましかという選択です。
いま、大飯原発を止めることは、自動車事故が心配だからと、大けがをした人を救急車で運ぶことをやめるようなものです。手術が成功すれば治る病気だけど、手術の成功率が100%では無いと聞いて、危険だから手術を受けないというようなものです。
6 「このまま原発をすべて廃炉にするとすれば」について
このままでは廃炉は出来ません。したくても出来ないのです。廃炉にするには、中間貯蔵施設を受け入れる社会的合意、技術力、さらに経済力も必要です。
以前も紹介しましたが、アルメニアは経済力がなく、よって技術力もなく危険な原発を止めることも出来ません。
http://synodos.livedoor.biz/archives/1759243.html
こういう現実を見れば、経済よりも安全などというのは戯言であることがおわかり頂けると思います。
7 「耐乏節電時代です。あの大東亜戦争を彷彿とする生活。それが原発という禁断の木の実に手を出したことの報いなのです。」について
原発さえなくなれば、どんなにリスクが増えても言い、たとえ死んでも良いと言っているに等しいと思います。こういうことを言っている限り脱原発は不可能です。社会的合意が得られるはずがありません。
8 エネルギー問題を妄想で語って欲しくありません。妄想を語られるのであれば、これ以上お付き合いしかねます。
投稿: 杉山弘一 | 2012年7月26日 (木) 22:39
1 「原発には反対だけど何をして良いか解らない」と思われるのあれば。
沼田市が小水力発電の候補地を探しています。
http://www.city.numata.gunma.jp/news/hatuden.html
電気を使って、無理難題を押しつけるデモに参加するより有意義な脱原発への参加だと思います。
2 広域停電の危険がどうしても想像できないのであれば、以下をご覧ください。
http://www.gepr.org/ja/contents/20120702-02/
投稿: 杉山弘一 | 2012年7月27日 (金) 08:20
杉山さん、あなたに懇切丁寧に答えていただいたおかげで、問題の性質がおぼろげながら見えてきたような気がします。確かに、私は原発は、火力発電などとは、本質的に異質なものだと思っています。核分裂のエネルギーは無間地獄に落ちる行為だといまだに思っています。核分裂に冷静足りえないのは、広島長崎の被爆体験が心に焼き付いてトラウマになっているせいでもあるでしょう。脱原発のデモに参加している高齢者のなかには私に似た動機の方も多いでしょう。そういう感情的な反発(核アレルギー)がそのまま原発の廃棄に結びつくものではない、という見方は正しいのだろうと思います。廃棄を実現するには、科学的に綿密な手順を組み立てることが必要です。
それにしても、いわゆる原発推進派はなんという無責任な人たちなのでしょう。彼らは使用済み燃料の始末をどうするか、何の見通しもなく原発の稼働に走ってしまいました。使用済み燃料の堆積がどんどん進んでも、立ち止まって考えることをせず、「なんとかなるさ」で問題解決を先送りしてきました。この無責任のメンタリティーこそ原発推進の一大特徴です。地震や津波の危険を過小評価し、テロ攻撃のリスクなどほとんど無視している彼らの態度は、彼らの無責任、無自覚メンタリティーの延長です。小生は今の原発推進勢力には原発を扱う資格がない、と信じています。先の戦争で、シナ事変にずるずると突っ込んでいった陸軍の上層部とまったく同じです。参謀本部にも石原莞爾のように事変拡大に反対した明察の人がいましたが、凡庸な秀才軍人に追い出されてしまいました。
日本軍は連戦連勝の赫赫たる戦果を挙げて泥沼に自らはまって行きました。私は今の原発行政を見ていると、破竹の勢いだった日本陸軍を思い起こさずにはいられません。戦争は止めるのが難しいのです。原発もいかにして止めるか、が最大の課題だと思うのです。
投稿: 峯崎淳 | 2012年7月27日 (金) 20:48
1 「それにしても、いわゆる原発推進派はなんという無責任な人たちなのでしょう。」について
批判はもっともですが、こういう実情も考えていただきたいと思います。
原発を造っている会社は、火力発電も、風力発電も造っています。経営者は同じです。原発を運転している電力会社も、火力も水力も再生可能エネルギーも運転しています。経営者は同じです。
また、火力を利用するときに二酸化炭素の問題を考えていた人はいません。燃料の枯渇のことも考えた人はいないでしょう。水力もダムの水系への環境影響はあまり考えずに造られました。また、大津波のことを考えずに造られた海岸近くの都市もたくさんあります。
何も原発をやっている「人」だけが特殊な人ではないと思います。そのように決めつけていては、問題の本質が解らないと思います。
社会が技術の限界を理解し、高望みや丸投げをやめ、また技術者も社会との関わりをもつことが大切だと思います。
2 「彼らは使用済み燃料の始末をどうするか、何の見通しもなく原発の稼働に走ってしまいました。」について
そもそも、日本は、高速増殖炉を中心とした核燃料サイクルを目指して原子力に取り組んできました。その時点では不十分ながら見通しはありました。
最大の問題は核燃料サイクルがうまくいかなくなった後の対応だと思います。
3 使用済み燃料の堆積がどんどん進んでも、立ち止まって考えることをせず、「なんとかなるさ」で問題解決を先送りしてきました。
立ち止まるチャンスは、2004年の再処理工場試験の時でした。東電社長や当時の事務次官まで再処理をやめさせようとしましたが、やめさせることは出来ませんでした。小泉内閣のときです。
そもそも、国策は国産の高速増殖炉+核燃料サイクル、電力は軽水炉を技術導入すればいいというのが主流の考えでした。ねじれていたままどんどんとおかしくなっていったのですが、核燃料サイクル抜きに原発問題を語ることは出来ないと思います。
2004年に経産省の官僚がばらまいたとされる怪文書「19兆円の請求書」が問題を端的に突いています。探したところ、以下で見ることが出来ます。
http://ameblo.jp/chihointokyo/entry-10964182625.html#main
怪文書という形は残念ですが、これを応援できなかったマスコミや社会にも大問題があると思います。小泉改革で浮かれていたときでしたら。(経産大臣は中川昭一)
4 「小生は今の原発推進勢力には原発を扱う資格がない、と信じています。」について
批判はもっともですが、では誰が廃炉までの作業を担うのかを考えて見てください。
原発の設計、製造、運転には細かなノウハウが沢山あります。今原発を担っている人達を資格がないと追い出してしまえば、技術の継承は出来ません。間違いなくトラブル続出でしょう。
5 問題は大飯原発再稼働ではなく、核燃料サイクルだと思います。
東電会長が六ケ所村など訪問して核燃再利用「重要性変わらない」と言ったこっちの方が大問題だと思います。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012072701001668.html
投稿: 杉山弘一 | 2012年7月27日 (金) 23:06
おまけにものすごい偏った官僚擁護をします。
「19兆円の請求書」書いたようなまともな感覚を持った優秀な官僚がたくさんいます。何とか変えようと努力をしても、最後は上司の職務命令に背くことは出来ません。
その訳のわからないことを命令する上司とは国民が選んだ政治家です。
官僚にしてみればまともな政策を実現しようとしても、国民が選んだアホな政治家がそれをさせないということになります。
結局のところ、主権者である国民次第なのだと思います。
投稿: 杉山弘一 | 2012年7月27日 (金) 23:17
峯崎さんと杉山さんのやりとりを面白可笑しく読んでいます。まるで駄々っ子のような峯崎さんと、苛々しながらも優しく諭す杉山さん。トンチンカンな八つぁんと横丁の人の好いご隠居のようです。
峯崎さんが放射能に対する恐怖心にかられている様子は容易にうかがえますが、中途半端に聞きかじった知識を元にした思い込みや、一方向からの視点しか持たないことへの自覚もないままの決めつけで、今、最も微妙な原発や放射能という問題について、誰にもオープンなネット上で、あれこれ感情的な発言をするのは、どうなのでしょうか。小さいお子さんを抱えて神経質になっている若いお父さん、お母さんの恐怖心を煽るだけではないのか、いらぬ風評流布の発生源になりはしないか、と心配もしています。
<核分裂に冷静足りえないのは、広島長崎の被爆体験が心に焼き付いてトラウマになっているせいでもあるでしょう。>
ついに27日、峯崎さんから「トラウマ発言」までが出てきました。峯崎さん、現在は75歳だそうですから、被爆体験は8歳のとき。出身は北海道と聞いたことがおりますが、私の記憶違い? まっ、それは置いといて、なにか可笑しくないですか? 昨日26日のコメントには下の一文があります。
<私は、専門家たちが安全と言うから安全だという議論が、福島以降、成り立たなくなったことを感じています。>
この文章、どこからどう読んでも、原子力ムラの安全神話を受け入れた側、要するに安全神話に単純に騙された側の認識でしょう。そもそも、「安全」を口にすることは「危険」である証拠なのですから、専門家たちが安全と言うから安全だという議論は、3・11には関係なく、それ以前も以降も、成り立つはずがないのです。しかも、8歳のときの、広島長崎の被爆体験が心に焼き付いてトラウマになっている、と言う峯崎さんが、なぜ、単純に安全神話に騙されたのか。これは、可笑しい。
その峯崎さん、4月17日の「沼田とエネルギー問題」
http://numata-city.kazelog.jp/numata/2012/04/post-8ea6.html
の中では、「日本人の電力の使い方がでたらめで自販機やパチンコ屋が煌々と電気を付けている、と非難したのは東京都の石原知事だが、生命に関わる重大なことに使っていない電力は無駄遣いである、と決めつけるのはわれわれが自由主義経済の資本主義社会であるのを忘れている。」と石原都知事を非難しています。しかも、「競争原理に基づくこの国ではパチンコは依存症が問題になるほど多くの遊戯人口を持つ産業である。電気を煌々と付けて派手に客集めをしなければ店はつぶれてしまう。裸電球が一つ点っているだけの暗い店に入る人はいない。電力とは需要見込みが100とすれば150位の供給余力を持たないと心配な業種らしい。大停電を起こしたらそのマイナスは取り返しがつかないほど大きい。」と続けて、自由主義経済の資本主義社会を容認しています。
ところが、舌の根も乾かぬ今月7月24日のコメントでは、先ごろ名古屋で行われた意見聴取会についての毎日新聞の記事を紹介し、「なぜ経済成長が前提になるのでしょう。人口が減り、生産人口はさらに早く減るのに国内のモノやサービスを増やす必要があるのでしょうか。欲しいときに欲しいものがどこでも手に入る大量消費、大量生産の社会は本当に心豊かな社会と言えるでしょうか・・・」と言って拍手を浴びた、という東京の大学生の意見に賛意を表し、26日のコメントでは、「このまま原発をすべて廃炉にするとすれば、新しくて古い時代が来ますーー「欲しがりません、勝つまでは」の耐乏節電時代です。あの大東亜戦争を彷彿とする生活。それが原発という禁断の木の実に手を出したことの報いなのです。」と反省の姿勢も殊勝に耐乏生活の呼びかけとは、自由主義経済の資本主義社会容認からの宗旨変えなのでしょうか、それとも、放射能の恐怖にかられるあまり、知性派?が「矛盾」にも気がつかない、ということなのでしょうか。
さらに加えて、同じコメントの最後、「月には巨大建築物の残骸が立っている、といわれます。かつて進んだテクノロジーを持った生物が存在し、月に工場群のようなものを建てたらしい、と言われています。火星にも過去の文明の遺物の残骸らしきものがあると言われています。私はそうした遺物が地球外の惑星にあるとすれば、地球上での原発研究の方向や研究所の立地場所に示唆するところが大きいと考えます。今は妄想にすぎませんが・・・」に至っては・・・、ギャグ? エチケットと並んで言論の自由を下支えするという峯崎さん一流のユーモア? 「市民の目!沼田」の、これが知性?
投稿: 木暮溢世 | 2012年7月28日 (土) 07:19
官邸前デモをどうしても受け入れることができないのは、福島の住民が立ち上げた勉強会であるエートス活動をも妨害しようとしていることです。
http://tanakaryusaku.jp/2012/07/0004793
エートスについては以下をご覧ください。
http://ethos-fukushima.blogspot.jp/
http://togetter.com/li/344748
この福島のエートスを陰謀だと妨害した筆頭格が、いわき市の佐藤和良議員です。
http://gogokazuyoshi.com/?m=20120718
そう、昨年11月に沼田に来て講演をした方です。たしか、利根沼田は人の住めるところではないと言ったとか・・・
こんなマヌケを呼んだのは誰か、想像できるでしょうからここでは伏せておきます。
佐藤市議には抗議が殺到して、安藤さんからのメールを掲載してはいますが、全く反省の様子がうかがえません。
http://gogokazuyoshi.com/?p=1387
この辺も読んで頂くと、どれだけバカげているかおわかり頂けると思います。
http://togetter.com/li/346098
投稿: 杉山弘一 | 2012年7月28日 (土) 10:11
杉山さんの「安全か危険か}という単純な問いは現実的とは言えない、という指摘は、原発問題を考える際に小生の陥っていた陥穽を見事につくものでした。小生は、すべての問題を、「嘘かほんとか」とか「正しいか間違っているか」という風な二律背反の手法で割り切るほど単細胞ではないつもりでした。しかし、核エネルギーの問題になると、浮足立ってしまっていたことは否めません。これが経済システムのことであれば、小生の持論は「新自由主義批判」で首尾一貫しています。金融資本主義をこのまま放置すれば、世界は早晩破滅する、という考えはこの10年以上揺らぎません。では、それに代わる選択はなにか?最近やっと東の空にわずかに明かりらしきものが見えてきました。かつては社会主義(や共産主義)がそれに代わるものかと考えましたが、結論は、市民的自由を否定し前衛支配を正当化する社会主義は独裁政治になるほかなく、地獄への道だと思います。
北朝鮮や中国がこの路線をつっぱしっている典型です。市民的自由を確立しつつ、(自由な社会であり続けながら、戦争のない世界は可能でしょうか?可能性はあると思います。少なくともそれを目指して努力してみる価値はあります。
それに向かう最初の一歩は、原発問題が絶好の機会だと思います。なぜか?原発問題ほど全員一致に導くのが困難なものはないからです。これで、原発全廃にこぎつけられれば、システムの問題は解決する、と思います。もしも全員一致に到達できなければ、おそらく人類に未来はないでしょう。原発を止める理由は、核エネルギーの事故を未然に防ぐためです。原発を続けていれば、必ず事故が起こります。資本主義的自由主義は、人類の発展におおきな貢献をしました。しかし、その賞味期限は終わろうとしています。これ以上維持しても、特権階級の致冨に結果するだけです。戦争をもたらすだけです。今われわれは岐路に立っている、と私は考えます。結局アダム・スミスは間違っていました。資本的取り引きは、人間経済の本質ではなかったのです。神の手など初めからなかったのです。峯崎淳
投稿: 峯崎淳 | 2012年7月29日 (日) 20:02
全員一致をめざすことほど危険なものはないと思っています。それは、原発事故のリスクの比ではないでしょう。
また、原発全廃にこぎつけられれば経済システムの問題が解決するなどということは妄想だと思います。原因と結果をはき違えていると思います。
経済・社会・政治システムに問題があったからこそ、原発という厄介者を地方に押しつけてきた現実が生まれたのだろうと思います。
投稿: 杉山弘一 | 2012年7月30日 (月) 09:17
全員一致という言葉には不吉な響きがあります。かつて日本人は、「一億火の玉」となって敵に当たることが日本人の全員一致の信念でた。実際には、必ずしも事実はではなかったのですが、全体主義国家だったかつての日本は建前としての「一億火の玉」に誰も異を唱えることができなかったのです。またかつて一世を風靡したイザヤ・ベンダサンの本には、ユダヤ人は票決で全員一致になるとそれは無効投票とし、反対者が現れるまで何回でも票決をやり直す、という話が書いてありました。それが全滅を回避するためのユダヤ人の知恵だと著者は言っていました。全員一致(コンセンサス)というものは、知識人にあまり歓迎されません。しかし、私が言う全員一致とは、初めは少数のグループの人々が、共同体を作り、万事を全員一致の原則を貫き通して共同体を運営していった場合のことを言っています。アメリカの精神科科医、スコット・ペックの著書に書かれているある宗教共同体の話です。この共同体は、リーダーがいません。全員が完全に平等です。そして共同体の運営に関わるすべての事柄をコンセンサス(全員一致)で決めて行きます。初め五人ほどの集まりだったのが、やがてどんどん人数が増え、仕舞には全国的な共同体にまで発展して行きました。初めにこの共同体思想を考えだした男は精神的リーダーであり続けましたが、決して団体の長にはなりませんでした。かれは九十歳の長寿を全うし、最後まで共同体の単なる一員として死んでいきました。
私が反原発で全員一致、と申し上げたのは、こうした共同体を前提とした議論です。まず反原発を掲げた同志による共同体を作り、すべてについて全員の一致を見るまで議論することを前提に運動を展開するのです。私はこうした共同体こそ資本主義的自由主義の限界を突破するものだと思っています。これは全体主義ではありません。個人の絶対的自由を核心に据えた共同体の思想です。私は学生時代から今日まで半世紀に渡って資本主義の本質について考えてきました。最近、やっと結論らしきものが見えてきたような気がします。我々が踏み越えるべき障壁は意識の障壁です。私もあなたも資本主義的独尊思想にがんじがらめになっています。私のように資本主義的成功者とは無関係と思っている人間でもそのメンタリティーは強く時代の風潮に染まっているのです。端的な例が、エネルギーや自然資源の無尽臓という欺瞞。経済成長信仰という欺瞞に騙されてきたことです。今地球環境の破壊が問題となり、エコロジーの維持保全が強く叫ばれています。神の手が働かないことが明らかです。欲望の肥大が進歩よりも災いをもたらしています。17世紀以来人間が行ってきた資本主義の賭けは失敗に終わり、文明は断末魔のありさまです。崩壊の時が迫っています。我々は金融資本主義まで突き進んでしまった泥舟から一刻も早く降りる算段をしなければなりません。それが真の共同体の建設です。原発廃炉運動こそその最初の好機だと私は信じています。これを逃す手はありません。 峯崎淳
投稿: 峯崎淳 | 2012年7月30日 (月) 22:12
<まず反原発を掲げた同志による共同体を作り、すべてについて全員の一致を見るまで議論することを前提に運動を展開するのです。>
私はそのような宗教共同体には参加しません。
<エネルギーや自然資源の無尽臓という欺瞞。>
私は、エネルギーや自然資源が無尽蔵などとは思ったことはありません。
そもそも、資源は無尽蔵ではないというのは原発推進のために使われてきたフレーズです。
<今地球環境の破壊が問題となり、エコロジーの維持保全が強く叫ばれています。>
だからこそ、原発以外のリスクにも目を向ける必要があります。
また、地球温暖化という環境問題は原発推進のために利用されました。
<原発廃炉運動こそその最初の好機だと私は信じています。>
論理的なつながりが理解できません。
そもそも、いくらかけ声をかけても廃炉は出来ません。廃炉を実現するには、技術とお金が必要です。それだけではなく、廃炉に必要なリスクを社会が受け入れなければなりません。それぞれの地域社会が使用済み燃料などの核廃棄物のリスクをどう受け入れるかという問題です。この社会的認容がもっとも難しいと思います。
そこに触れない廃炉運動など自分勝手なリスクの押し付け合いにすぎません。それどころか、自分だけリスクゼロを求めれば、使用済み燃料の処分が困難になるでしょう。その結果、廃炉はますます難しくなります。また、廃炉作業に関わる人にも目を向けて欲しいと思います。
抽象論ではなく、脱原発、廃炉には何が必要か。どんな手順が必要か。それにともない発生するリスクは何か、誰が負うリスクか、それをどうやって低減化するか、そのために国がやること、自治体がやること、地域社会がやること、個人がやることは何かを考え、一つずつ実践していくしかないと思います。
投稿: 杉山弘一 | 2012年7月31日 (火) 13:47
原発つくってたヤツが言っても説得力ないわな。
投稿: katou | 2012年7月31日 (火) 15:18
よく読んだら。
原発やってきた人が、資源は無尽蔵ではないとか地球温暖化というのが原発推進のために利用されてきたと言ってるんだよ。
投稿: ゆきずりの沼田市民 | 2012年8月 1日 (水) 08:10
杉山さん、まず貴兄のおかげで小生の議論の不足ないし欠陥が非常によく自覚できたことに心からお礼を申し上げたいと思います。私自身があやふやだったところが、議論のおかげで明確になったものがたくさんあります。それは貴殿でなければ指摘できないことばかりでした。
さて、議論を振り返ってみて、私は少し急ぎすぎたようです。特に資本主義を乗り越えるべきものとして共同体の概念を持ち出したのはあまりにも唐突過ぎたようです。しかも共同体の例として、ある宗教的共同体を持ち出したのはもっと拙劣でした。私は決して何らかの特定宗教の信者ではないし、信仰者でもありません。そういう超越的な存在に対しては常に懐疑論者のスタンスを取り続けてきた男です。友人には真の信仰者と思う方が何人かいますが。精神分析学者のユングという人は、私の尊敬する科学者で信仰者です。彼は神の存在を信じていますか?と新聞記者に聞かれ、「信じとらんよ、そんなもの。わしは一人おるのを知っておるだけじゃ」と答えたと言われています。神などというものは、そんな逆説で応えるしかないものなんだろうな、という感じだけは私にもわかります。とにかく、宗教の共同体をまず挙げたのは私の大失敗でした。杉山さんならずとも反発する方は多いでしょう。共同体は別に宗教的である必要はありません。農業をテーマにしても、医療をテーマにしても共同体は作れます。作る気持ちになりさえすれば作れます。知的障害者の共同体で成功しているところも世界各地にあります。英国に始まった資本主義思想は、強い個人主義の主張とともに米国に伝わり発達しました。新自由主義のバックボーンをなす個人主義は米国人にとっては国是のようなものです。米国の海岸には私有の土地がありお城のような大邸宅が立ち並んでいます。真夜中でも煌煌と電気をつけて不夜城のような大邸宅を見て、私は地元に住む友人にあれは何だと聞いたことがあります。大勢の使用人が毎日銀器を磨いていつ来るかわからない主人を待っているのだと教えてくれました。友人が言うには年によっては全く来ない年もあるというのです。ヨットと自家用ジェットで世界中を遊び歩いている金持ちがこういう大邸宅をいくつも持っているのだということでした。二十年以上昔の話ですから、今では様子が変わっているかもしれません。しかし、勘として、変わっていないだろうと思っています。アメリカでは最近の不景気で、人口の1%がアメリカの99%を所有している、この格差を是正しろ、という要求が起き、ウウォール街がデモで包囲され公園が占拠される事態が発生しました。
資本主義の致命的な欠点は極端な格差社会を作ることです。格差が資本主義の繁栄の根幹です。沼田のような田舎町でも格差は年を追って広がっています。星野巳喜雄市政が、一切積極的な処置をしないからです。格差社会は神の手ではコントロールできません。人が意図して対策を講じるしかないのです。沼田の経済が凋落の一途をたどっているのは格差社会に挑戦するという大事な使命を市政担当者が忘れているためです。近隣町村と比較しても沼田市民の平均収入は落ちる一方です。
話が沼田のアホ市長に行ってしまいました。それにしても、星野巳喜雄はひどい、ひどすぎます。一日でも早く止めさせるべきです。
共同体の話でした。私は反原発ということは、人々の同意が最も得られやすい話題だと思っています。誰が見ても原発事故ほど悲惨なものはありません。現に、福島の原発もどんな事故がどんな原因と機序で起きたのかいまだに不明なのです。大地震との関係すらわかっていません。津波が壊したのか、どうかさえまだわからないのです。大飯に地震が起きたら同じことが起きない保証などないのです。野田というアホ首相は沼田の星野に劣らぬ無責任男だと私は思っています。また原発事故が起きたら、野田さん、あんたはどう責任をとるんですか。
なんとかして、原発に依存せずこの危機を乗り切る方策を徹底追及すべきだったのに、あんたはしなかった。
杉山さん、共同体の話は稿を改めてお話させていただきたいと思います。今は、脱原発の運動に神経を集中しようとおもいます。
峯崎淳
投稿: 峯崎淳 | 2012年8月 1日 (水) 13:30