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メンバーの裁判

« トム・ホーンの2 | メイン | 除染計画と勘違い委員長の弊害 »

2012年5月31日 (木)

なぜ事故は起きたか

 小生は昨年の末に 『動く大地の鉄道トンネル』という小著を上梓しました。これは、鍋立山トンネル(ほくほく線)と丹那トンネルという新旧二つのトンネルについての本です。この二つの工事は日本のトンネル掘削史上に残る難工事として有名です。難しさの原因は水とガスと全く違いますがトンネル技術者が艱難辛苦、塗炭の苦しみを味わって掘ったところは共通しています。丹那トンネルは旧東海道線が国府津から沼津へ抜ける箱根越えの難所をトンネルでつないでしまうためのもので1918年(大正に着工、竣工は16年後の1934年(昭和9年)です。鍋立山の場合はもっと紆余曲折に富んでいて、国鉄の財政不振工事中断などがあり完成まで22年もかかりました。私は河村瑞賢という江戸時代の土木家の小説を書いたことが縁で土木の世界に作家として関わることとなり、今日に至っています。つるはし一本握ったこともない男ですが、土木という仕事に魅せられ、土木技術者と人間に魅せられ、いつの間にか土木の勝手連になっていました。それが鉄道技術者の団体である日本鉄道施設協会というところの目にとまり、同協会が毎年出している著作賞というものをいただくことになりました。私の理解するトンネルが大勢の技術者の方々に認められたようで私は大きな勇気をいただきました。
 そこで、というのも妙ですが、最近起きた南魚沼市のトンネル事故に関して私が受けている印象を述べさせていただきたいと思います。
 南魚沼のトンネル事故の地山は鍋立山トンネル(距離的に近い)と同じガス噴出地山のようです。鍋立山でも中区の斜坑を掘っていたときに突然ガス爆発が起きました。中区を請け負っていたのは西松建設で工事責任者は水本節生さんという大ベテランでした。水本氏は工事前に工区の上やその周辺を歩き、工区の特徴を一つでも掴もうとしました。現場を担当する技術者は、トンネル予定地の真上を自分の足で歩いてみるものです。予定地の真上と言っても、トンネルを掘るのは100メートル以上も深い地下ですから、あまり実用的な意味は期待できません。しかし、たまたま露出している岩頭などに思いがけない地層の特徴が出ていたりすることがあります。少しでも地中の情報が欲しい工事担当者は、無駄とわかっていても予定地の上を歩いてみずにはいられないものです。水本氏にはひとつ気になることがありました。近く農家に行ってみると、飲料用の井戸と合わせてメタンガスを採取する井戸を持っている家があることでした。聞いてみると、このあたりはメタンガスが豊富に出るので煮炊きに燃料費はほとんどいらないという答えが返って来ました。水本氏の頭に坑内にメタンガスが充満する光景が浮かびました。充満したガスが引火爆発する最悪の場面を想像し。対策として通気の万全を期することを頭のなかにメモしました。
 中工区の工事は儀明というところで、トンネルの掘削地点まで斜坑を掘ることから始まりました。斜坑とはななめに掘る坑道のことで、資材や機材の搬入などさまざまな目的に使われます。深さ77メートルの地点まで堀た時点で発破をかけたとき水本氏の心配現実のものとなりました発破前の調査で、メタンガスの濃度が0.25%あることがわかっていました。しかしこれは許容範囲内の数値であったため、そのまま発破することにしました。ドカンというダイナマイトの爆発音が響きました。音と同時に、斜坑トンネル全体に火が走りました。爆燃という現象です。
さいわい発破をかけたとき坑内に人がいなかったのでけが人は出ませんでした。鎮火の後坑内に入ってみると足元に火がちろちろ燃えていました。溜まっていた石油に引火していたのです。石油は無論山から出た自然の石油です。
 鍋立山は長年に亘る難工事でありながら人身事故はひとつもありませんでした。トンネル工事はどんなに細心の注意を払っいても起こりうる危険生があります。数値が許容範囲以内であっても油断はできません。それを事故ゼロにするかしないかの差は目にみえない備えと判断のさです。私は「関門トンネルからトンネルに関わって来た」水本氏のようなベテラン技術者を粗末にするような傾向が人々にあることが気にかかります。人を粗末に扱い使い捨てにして平気な雰囲気が企業社会に感じられるからです。青函トンネルを掘った時、国鉄は高専卒の技術者を大量採用し、その若者たちを一人前の技術者に育てあげました。鍋立山トンネルを遂に掘り抜いたのはそうした技術者たちの仲間がいたからです。私は新規採用したら根気よく育てるのを当り前だった時代を単に懐かしむのではなく、コイズミ改革以来われわれが失ったものはなにか、考えてみる時期が来たと思う。(南魚沼の事故の原因はまだ未解明ですが、4人の死者が意味するものは考える必要の緊急性ではないでしょうか?)峯崎淳

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コメント

 トンネル事故の原因究明は今後の調査に期待するしかありませんが、福島原発事故の原因(遠因というべきか)のひとつに、技術軽視の風潮があったことは間違いないと思います。
 東電ではコストカッターと呼ばれる人が社長になり、技術畑の役員は昔にくらべて大幅に減っていました。(停止中の)原発事故の再発を防ぎ、脱原発を安全に進めるためにはこの風潮こそ変えなければならないと思います。
 しかし、世論はまったく逆です。東電にリストラばかり求めています。本当にそれで良いのでしょうか。もちろん無駄な点は沢山あります。優遇されすぎている点もたくさんあります。そのような無駄を省くのは当然です。でも、安全対策にこれまで以上のお金をかけるべきでしょう。それには、原子力を担うベテラン技術者を大切にし、あたらな技術者を育てていく必要があります。誰かが廃炉までを実行しなければなりません。
 斑目委員長も批判のやり玉です。もちろん批判されるべき点は沢山あります。管直人という政治家とのコミュニケーションがうまくとれませんでした。しかし、世論が批判するだけで良いのでしょうか。斑目さんの持つ知見は替えがたいものがあります。それを有効利用する手立てを考えなくて良いのでしょうか。
 甲状腺の権威である山下俊一医師もそうです。本当に御用学者でしょうか。海外でどれだけの評価を受けているのか、それはなぜか考えもせずにマスコミに乗せられて批判している人がほとんどです。本当にそれで良いのでしょうか。
 こういった替えがたい知見を持つ有能な科学者、技術者を見下しおろそかにする風潮が蔓延していると思います。
 私がエセ科学の類で科学的問題に批判のための批判をする市民運動やマスコミ、エセ学者に対して強く反発するのはこういう想いからです。

<私は「関門トンネルからトンネルに関わって来た」水本氏のようなベテラン技術者を粗末にするような傾向が人々にあることが気にかかります。人を粗末に扱い使い捨てにして平気な雰囲気が企業社会に感じられるからです。>

 峯崎さん、自分のことは棚に上げて、ですか? この言葉をそのままあなたに返したいところです。市民活動のスローガンである“Think Globally, Act Locally.”、“Think Eternally, Act Immediately.”に習えば、コイズミ改革の功罪や労働災害を語る前に、一個人として言うべきこと、やるべきことがあるんじゃないですか?

腰折れ一句
嫌われて片品を出る放屁虫(へひりむし)
悪臭辿ればナカノジョウなり
(迷惑なこと、迷惑なこと)
峯崎淳

沼田市政の現状を憂う市民グループである。
 2007年秋、沼田市政の現状があまりにお粗末なことに危機感を持った数人の市民が集まり、自由な意見発表の場をつくろうという話になった。誰でも自由に 思ったこと、考えていることを発表し、それにお互いに意見を述べ合うことが大切と意見が一致し、このブログが発足した。
 だから、このブログはメンバーそれぞれが沼田市政に関して自由に自分の意見を発表している。実名で発表するかも匿名にするかも各自に任せられている。
このような趣旨に賛同して、意見発表をする意思のある方はゲスト投稿者として歓迎するので是非連絡を頂きたい。一人一人が勇気を持って声をあげることで、このよどんだ沼田の空気を変えようではないか。

関連して、ひと言。コメント欄を利用していろいろ質問される方がいます。私も杉山さんによく質問します。質問の対応は投稿者の自由に任せるべきだというのが私の意見です。本ブログの管理者である杉山さんは違う考えかもしれません。投稿者には、質問に答えたくないと感じたら、答えない自由を認めるべきです。投稿者のなかには会社を経営するなど極めて多忙な方もおられます。また、質問者の中には不勉強で自ら調べることをせず、乱発する手合いもいます。無視すると居丈高になり、終いには、相手の人格攻撃にまで及ぶ場合さえあります。これは田舎者の野暮と嫌われても仕方ないでしょう。相手が答えないのは答えたくないからです。それを察するデリカシーがなく一方的な上から目線で、非難するのは不粋(ぶいき)であり都会では最も嫌われる態度です。そういう方は自分の方に非がありはしないか、とおのれを顧みる余裕がありません。周囲の人から嫌われていることに気づきません。上からの一方目線で「おまえら田舎者」と周囲を睥睨、見下しているあなたこそ田舎者なのです。
3・11以後匿名でいることはできなくなったと宣言して三国通信を復刊された河合純男氏に、「何をいまさら。実名で書くのは当然だ」と決めつけたのも、田舎者の増上慢です。ひとには事情があります。都合もあります。そおういうものへの配慮は一切なしに、「俺の質問に答えないのはけしからん」と人格攻撃するのはあまりにも野暮です。美意識がなさすぎます。峯崎淳

歌で返すとはすげーねぇ。

でも、「お前の父ちゃん出〜べそ・やっぱりお前も出ーべそ」のレベルじゃどうなんだっぺ?

木暮溢世にゃーたまげたけど、あんな人は片品にはいねぇや!

嫌われているんも確かだけどさー、いやだと言ってるてぇも、そのめぐりのてぇも、野郎のゆってることはまちげーねぇ、村にああいうんが一人ぐれぇは居たっていいっぺ、つってる人もいるんだいね。

ここを読んで、知らなかったことを知ったって言う議員もいるし、何を書かれるかわかんねぇから、おちおちしてられねぇっていう議員もいて、議会の活性化に貢献してるっていう議員もいるんさねー。

沼田の知り合いのてぇらに言わせれば、あんたらも沼田じゃずいぶん嫌われているんじゃねぇんけぇ?

野郎が片品を出ていくらしいって噂は聞いたけど、喜ばれないところに居るよりも、こっちへこーやぃってゆってくいるてぇらがいるとこで住んだほうが面白ぇっぺぇから、にしらより考げぇているちゅーことだっぺ?

人前で話したり書いたりすることに慣れていませんので、ここのやり方に倣って、ひと言失礼いたします。

峯崎さんは「質問の対応は投稿者の自由に任せるべきだというのが私の意見です。本ブログの管理者である杉山さんは違う考えかもしれません。」と言われますが、100人いれば100人、みんな「私の意見」は違うと思います。そして、みんな「私の意見」が正しいと思っている理由があると思います。
峯崎さんが書かれたものを読むと、峯崎さんが「私の意見」が正しいと思っていらっしゃる理由を峯崎さんの言葉で述べているだけのように感じます。私のような利根沼田の地元の人間はなかなかこういう場に慣れていませんから、勉強不足、訓練不足と言われればそれまでですが、自分の考えをうまくまとめて話したり書いたりすることが苦手です。

また、「投稿者には、質問に答えたくないと感じたら、答えない自由を認めるべきです。」と言われますが、「・・すべき」という条件があるのでしたら「自由な意見発表の場」を撤回されて、投稿やコメントを書くにあたっての規約を作られてはいかがでしょうか。その規約に従って意見を述べあうことにすれば、端から見ていても不愉快に感じる罵りあいにはならないと思います。一読者として面白く読ませていただいていただけに、とても残念に思います。

「また、「これは田舎者の野暮と嫌われても仕方ないでしょう。と言われますが、もうひとつ気になる点ですが、峯崎さんが書かれている中に「田舎者」という言葉が幾度も出てきます。それは峯崎さんの意識の中に田舎者を蔑む思いが無意識にでもあるからだと感じます。それこそ上から目線だと思います。確かに都会から移って来られた方々から見れば、利根沼田の地元の人間は野暮で不粋でしょうが、自覚はしていても人から言われれば快くはありません。でしたら「移住して来た市民の目!沼田」とされてはいかがでしょうかと思います。

一本取られました。確かに私は田舎者が嫌いです。住んでいる場所でいうのではありません。それが嫌なら利根沼田に長年居を定めるわけがありません。私の言う田舎者とは粗野で無神経で了見が狭い人のことです。エチケットを知らない趣味の低い人(新明解国語辞典)のことです。田舎に住んでいる人がみんなそうだというわけではありません。民主主義社会は、言論で物事を決めて行く社会です。自由に言論を戦わすことが基本中の基本です。私は言論の自由を下支えするのはエチケットだと思っています。それにユーモアです。目を三角にし、眦(まなじり)を決して怒鳴り合う議論が創造的であったためしは少ないと思います。答えを強要するのはエチケットに反し趣味の低い態度だと思います。それで田舎者と言ったのですが、今後気を付けます。TPPに反対する理由は、TPPなどにうっかり乗ると日本の大切な田舎が破壊されてしまうと思うからです。利根沼田の田舎は私にとっては心と体の懐かしいホームです。(峯崎淳)

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