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2012年5月25日 (金)

狐につままれた。

 「登坂雷太」という人に間違われた。それも「登坂さんですか?」とか「登坂さんでしょ?」ではなく、私が木暮溢世であることを知った上で、その人は、私が「登坂雷太」というハンドルネームで書いたと決めつけた。しかも、書かれた内容がその人の意に染まなかったらしく、24日に投稿した"黙殺に義はあるか"風に言えば、あまりに見当はずれ、志が低劣、という。このブログの管理をしている杉山氏に確かめてくれるように言って、私はもちろん否定したが、何の根拠もなしに、事実を確かめもせず、ただ想像だけでいきなり決めつけられたことに、狐につままれたようで釈然としない。
 早速、グーグルで「登坂雷太」をブログ内検索してみると、下の5件に行き当たった。
1.    福島原発で起こっていることを理解するために2
 http://numata-city.kazelog.jp/numata/2011/04/post-bd63.html
2.何が人道的か。
 http://numata-city.kazelog.jp/numata/2011/04/post-ce63.html
3.東電役員は個人責任を取れ。
 http://numata-city.kazelog.jp/numata/2011/04/post-3ce9.html
4.福島原発事故の影響を考える
 http://numata-city.kazelog.jp/numata/2011/06/post-0317.html
5.永井羊一氏夫人いくのさんのご逝去
 http://numata-city.kazelog.jp/numata/2012/01/post-1acb.html
 1から4にはそれぞれ1件ずつ、5には2件の「登坂雷太」名でのコメントがある。読んでみて、私など到底足元にも及ばないその豊富な知識に、登坂雷太という人、ジャーナリストとお見受けした。それが何故、私に違いないととられたか、書かれた内容のどこが意に染まなかったのか、まったく不明だが、私が「登坂雷太」というハンドルネームで書いた、と決めつけたその人からは何の反応もない。これが、ある識者が私に言った『黙殺』なのか、まあ、知らない振りを通す、はあり得ないのだから、自らのあまりの見当はずれに、都合が悪くなっての「だんまり」という対応なのか、ある識者に聞いてみたいものだが。

 登坂雷太さん、この記事にお目がとまりましたら、コメントを寄せてくださいませんか。状況が掴みにくいとは思いますが、貴兄が「バカじゃないつもり」でいた私に間違われたのですから、貴兄の名誉がかかっています。ぜひ、ご一報をよろしくお願いいたします。(木暮溢世)

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狐につままれた。を参照しているブログ:

コメント

 「黙殺に義はあるか。」では“ある識者”と、この「狐につままれた。」では“その人”と、人物が特定されないように気をつかって書いたつもりなのだが、いまだに私が「登坂雷太」というハンドルネームで書いたと決めてかかっているのか、都合が悪くなってダンマリを決めているのか、一向に反応はない。
 では、何が意に染まなかったのか、「永井羊一氏夫人いくのさんのご逝去」に寄せられた登坂雷太氏のコメント(1月8日23:36)を読めば、だいたいの想像はつく。特にコメントのこの部分。

<老人が長期間同じ病院で入院され隣室の妻の面倒を見るという生活を行うことは、沼田市の国保財政に相当の負担を強いたものであり、その点、沼田の阿呆呼ばわりしている日頃の言動とは違和感があります。私は、これは特殊なケースであり誰れもが終末期はそうありたいのですが、知り合いか、特殊な立場でなければできない状況を美談のように語る姿勢が浅はかでは無いかと思うのです。
 むしろ医療機関での医療の是非を、国保財政の適正な使いかたを問うべきものでしょう。それとも信頼している人は別ですか。>

 登坂氏は峯崎氏の心情的記事に、その内容が特殊なケースであり、特殊な立場だったことを想像した上で、医療保険制度の面からの疑問を投げかけた。この至極当たり前の疑問に峯崎氏は答えないままでいる。理由は「批判や質問の中にはあまりに見当はずれ、あるいは志が低劣で、答えるに値しないと考えるものもある。そのときには『黙殺』するという対応の仕方もあるうる」というものだ。何かおかしくないか。
 「市民の目!沼田」に書くということは、あらゆる角度からの異論反論は覚悟のはずである。それを「見当はずれ」と断ずるのは、要するに峯崎氏の見当に合わない、というだけのことで、それは峯崎氏の価値判断でしかない。こんな奴に議論を呼びかける資格があるか、ということである。
 加えて、彼は記事の中で、永井さんを永井先生と呼び、羊一氏と呼び、永井羊一さんと呼び、記事の最後には「ぜひ私のような弱輩をお導きください。足弱ではありますがついて参ります。」と殊勝なことを書いている。永井さんを人生の先輩として敬愛しているのは分かるが、それが本物なら態度や行動に表れるものであって、言葉で表したら、要するに単なる「ゴマスリ」だろう。こんなゴマスリ野郎に他人の志についてとやかく言う資格があるか、ということでもある。
 しかし、私にとって釈然としないのはその先、なぜ登坂雷太氏に間違われたか、ということである。当の誤解の主がだんまりを決め込んでいるのだから、知る由もないが、歳の頃から言っても、最近書いている内容や誤字脱字の多さを見ても、そろそろ○○が始まったかと思えば、それはそれで「お気の毒に!」と言うしかないのだが。

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