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メンバーの裁判

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2011年5月 7日 (土)

メディアは誰のためにあるか。

 5月2日(月)、東京新聞に『よろしくたのまい』と題する特集記事が載った。この記事を読む限り、実際に3月14日に新聞発表された直後から、村の内外を問わず幾多の受け入れ応援メッセージが寄せられたように、ほとんどの読者、特に村外の読者は、全国に先がけた片品村による南相馬市からの人たち1000人の受け入れを、千明金造村長の"英断"と捉えるだろう。 

 ただ、受け入れから1ヶ月半たった今、なぜ、この記事なのか。村内でこの受け入れそのこと自体に反対する声は聞こえてこないが、村のやり方への批判は渦巻いている。そこで、記事をたどりながら「今も対応に揺れている県北部の過疎の村」に東京新聞の記者が追った村内の動きの"実際"を、一住民である私の視点で追ってみよう。

 「尾瀬国立公園を挟んで片品村と交流の深い福島県の住民を助けたい」?。大震災の深刻な被害状況が明らかになるにつれ、千明金造村長(63)の胸の内では「避難住民を村内に受け入れよう」との思いが刻一刻と強まった。

 東日本大震災が発生した3月11日は、奇しくも片品村議会3月定例会最終日だった。議会終了後の控室のテレビで、議員たちは地震によって発生した大津波がもたらす未曾有の惨状を見た後、村長や副村長、教育長をはじめとした村執行機関の課長たちとともに、午後6時から梅田屋で宴会を開いていた(片品村を二元代表するKYたち)。参加していた戸丸広安のブログによれば、村幹部との懇親会だそうだ。
 大震災の深刻な被害状況が明らかになるにつれての千明金造村長の胸の内がいかばかりのものだったか、は知らない。ただ確かなのは「避難住民を村内に受け入れてはどうか」といち早く考えた人は他にいたことだ(片品は、伊達にどん詰まりじゃない?)。この人の思いを取り入れたことを否定はしないが、千明金造は「ある作為」のためにこの人の思いつきを拝借した、ということだろう。

 三月十三日午後九時半。東京電力から千明村長に連絡が入った。「村内には水力発電所があるので、計画停電はしない」との内容だった。「よし。電気器具で暖房が確保できる。これならやれるぞ」。千明村長は「何人をいつまで、どういう予算を組んで受け入れようか」と十四日の早朝まで自宅で一晩考え続けた。
 村内の旅館や民宿などの宿泊施設の収容スペースは約一万人分。「その一割の千人なら春や夏の観光シーズンと重なっても大丈夫だ」。まず人数から決定した。

 一晩考え続けた諸々の要素の中に、実際に受け入れる「宿泊施設の意向」は欠片もない。収容力1万人の宿泊施設に千人なら、観光シーズンと重なっても大丈夫だろう、という想像力の中に、なぜ、先ずは各宿の意向を聞いてみよう、という思考力が働かなかったのか。それをすっ飛ばしてでも受け入れ決定を急ぐ必要が何処にあったのか。あるいは単純に、元々内にないものは出てこない、というだけのことか。

 次は予算。村は数年前から財政難に陥り、村長の報酬を減らし、行財政改革を進め、虎の子の十一億円の財政調整基金を積み立てていた。「基金の一割の取り崩しなら村民も理解してくれると思った」。こうして一億円の予算が算出された。

 周辺自治体に共通した財政難に対して、村長は率先して自らの報酬を削減したわけではない。先の村長選で、対立候補が村三役の報酬2割削減をマニフェストに掲げたことに対抗し、村長の選対スタッフが証紙を貼った正式チラシに報酬削減を謳ってしまい、それを知らなかった村長は、昨年6月の定例議会の一般質問で、笠原耕作議員から「村長選で公約した特別職給与削減をいつ実行するのか」と追求され、議員報酬削減を交換条件に渋々認めた経緯がある(議会だより)。自らの最終学歴や幼い頃の躾までを持ち出してのこのときの答弁は、傍聴席から見ていても決して理路整然としたものではなく、むしろ喧嘩腰のような見苦しさがあった。このときの笠原議員とのやりとりの詳細は16ページから22ページにある。
 また18ページ3行目にある村長の言葉「私は思うに、人の先に立たせていただく人間は、人を正す(糾すの間違いか)前に、まず自らを正す必要があると考えます」に照らして、記事の次の文章を読むと、人は何を言うかではなく、何をするか、であるという点で苦笑せざるを得ない。つまり「虎の子の十一億の財政調整基金を積み立てていた」とあり、これを読む限りは、村長が苦しい財政状況の中にあって、こつこつと積み立てた印象があるが、元々6億5000万だったところに、土地開発基金から4億5000万を移したに過ぎない。要するに、総額は変わっていないのである。先の村長選では、これを4年間の実績の10項目のひとつに上げている千明金造村長であるが、尾瀬国立公園の誕生さえ自分の実績としてはばからない村長であるから(失われた4年間)、まじめで頑固で曲がったことは大嫌いだったご父君の厳しい躾の元に育てられた効果も、村長自らが気がつかないうちに色褪せてしまった、というわけか。そもそも、「人を騙してはいけないという心と、曲がったことには絶対屈しない強い精神と、何より正しく生きる心を身につけているつもり」と臆面もなく言ってのけるあたりに、千明金造の人としての底の浅さが透けて見える。

 一億円で千人を受け入れるには、一泊食事付きで一日当たり一人二千五百円の予算で旅館や民宿に協力してもらい、その費用を村が負担、交通費など雑費を合算すると、滞在期間は一カ月と割り出された。観光客の少ない時期でもあり、宿泊施設側の抵抗も少ないだろう。

 前述のような経緯のある財政調整基金であるが、一割の取り崩しなら村民も理解してくれる、と思って算出された1億の予算である。実際、村民の間から受け入れそのこと自体に反対する声は聞こえてはこない。ただ、一日3食付きでひとり当たり一日2500円の予算は、宿泊業とは無縁の私から見ても実費程度であり、予期しなかったこととはいえ、震災直後からのガソリンや灯油の不足は受け入れた宿には、調達のために余計な精神的、時間的な負担が大きかったに違いない。しかも、朝食が済めば観光に出かける通常の客と違い、一日中外出もしない南相馬からの人たちもいて、毎日3食を用意する宿の人たちには、ちょっと横になって休憩をとることもできない、という現実の声も聞かれる。こうした状況にあって、旅館や民宿に協力してもらう、と言うなら、なぜ事前に宿の人たちの意向を尋ねなかったのか、私には理解できない。宿の人たちからの要請を受けて、ようやく村が説明会を開いたのは、受け入れから10日たった3月28日だった。
 観光客の少ない時期、とはどういう認識からくるのか、これも私にはまったく理解できない。あの大震災が起きた3月11日はスキーシーズンの真只中であり、その終了まではほぼひと月を残していた。大震災発生によって、多くのスキー場はやむなく休業、今シーズンの営業打ち切りに追い込まれ、宿には予約のキャンセルが続出したのであり、受け入れからひと月半たった時点での取材に「観光客の少ない時期」とは、村長の思考回路も福島原発の崩壊した建屋内部と似たような状態、というわけか。

 十四日朝、村役場の村長応接室で開かれた緊急の幹部会議。「この方針で避難住民を受け入れたい」。千明村長の決断に各課長は「分かりました」とうなずいた。

 重ねて言うが、14日朝の緊急の幹部会議に引き続いて、なぜ、受け入れる宿泊施設の人たちに集まってもらっての、村の方針説明と協力を求める緊急の会議を開くことに意識が向かなかったのか。なぜ、上毛新聞の記者を呼んでの1000人受け入れぶち上げだったのか。村長の頭の中にある「ある作為」の前には、民主主義の時代にあっても、「お上」の命は絶対であり、民(たみ)が主(あるじ)という理解はないのか。

 片品村の本年度当初予算は三十二億三千九百万円。千明村長は「村にとって一億円はとても大きな額。でも、何としても、お隣の福島県民の役に立ちたかった」と、受け入れの思いを語った。

 「何としても、お隣の福島県民の役に立ちたかった」と言うなら、なぜ、南相馬の人たちの思いも聞かずに、宿から宿へ"たらい回し"にするのか。なぜ、受け入れている宿の人たちの思いも聞かずに、南相馬の人たちをまるで荷物か何かを扱うように、あっちへやり、こっちへやるのか。それとも、医療や介護の本質は、そのサービスを受ける人たちが主役であるように、今般の南相馬からの人たち受け入れでは、南相馬の人たちが主役である、という、人として根源的な本質さえ理解する頭脳が千明金造にはない、ということか(やらない善よりやる偽善)。ようやく南相馬の人たちのたらい回しに終止符が打たれたのは、受け入れから実に1ヶ月と1週間が過ぎた4月25日であった。

 そして十八日深夜、村が用意した二十三台の大型バスに分乗し、村人口(約五千二百人)の20%近い避難住民が村に到着した。

 南相馬の人たちを迎えにゆくために村は大型バス23台を用意しながら、14日朝に開かれた緊急幹部会議で、村長の決断に「分かりました」とうなずいた各課長が、たかだか23人の役場職員を半分ほどしか用意できなかったらしい。職員が同乗しなかったバスに乗り合わせた南相馬の人たちは、これから向かう先の片品村がどういうところかを尋ねる相手もないままの7時間の長旅で、どれほど不安な気持ちを抱えていたことだろう。ここにも、受け入れということの本質への村の無理解が見てとれる。

 東京新聞の記事では触れていないが、受け入れに対する義援金受け付けについても様々な声がある。基金の一割の取り崩しなら村民も理解してくれると思った、として算出された一億円の予算にしても、いずれは国や県から来るのだから、専決処分で算出した一億にどれほどの意味があるのか、という声や、国や県から支援が来ても、受け入れている宿へはひとり一日2500円のままか、という声、村が困っているわけではないのだから、集めた義援金は東北へ送る方がいいのではないか、という声に混じって、中には義援金で村は受け入れ太りするんじゃないか、という皮肉混じりの声さえある。外へ出て仕事で成功した花咲出身の人が岩手と宮城、福島の3県にそれぞれ100万ずつ寄付するつもりで持って来た300万円を、村長が受け入れ義援金として受け取ったらしいが、これを義援金詐欺じゃないか、という声まである。外で成功しながら、思考回路から"片品の枠"がはずれず、故郷に錦を飾りたい思いもあったのだろうが、十一億の財政調整基金を積み立てた村長の、政治家としての"金造り"のしたたかさがそれを上回った、ということだろう。
 やらない善よりやる偽善にも書いたことだが、かつて村民相手にはやったこともない企業説明会を開いたり、農業をやりたい外からの若い世代の住まい探しには対応しなかった村が、ようやく空家探しを始めたり、と南相馬からの人たちを受け入れたことをきっかけに始めたことには、どうなのよ?という声はあるものの、評価できる点はある。受け入れをきっかけに集まったボランティアグループが南相馬の人たちの病院への送迎もやっているらしいが、村のお年寄りに対応している話は聞こえてはこない。
 きっかけは何であれ、せっかく始めた事業は続けてこそ意味がある。そのために新たに算出する一億の予算であれば、義援金を受け付けなくとも、村民は理解するだろう。南相馬の人たちが家に帰って日常を取り戻すことができる日がきて、村が元の片品村に戻ってしまうのであれば、今回の全国に先がけての受け入れの裏にあった「ある作為」も、所詮は村長の功名心だったのか、で終わってしまう。今回の東京新聞の特集記事も、所詮はチョウチンか、で終わってしまう。(木暮溢世)

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コメント

 3月18日午後10時過ぎに南相馬の1000人の人たちが片品に到着した翌朝8時半、村長は防災無線を通じて2度も繰り返し南相馬の人たちへの挨拶文http://www.vill.katashina.gunma.jp/mayor/backnumber/201103/201103.html
を読み上げた。その中で「私自身も佐藤福島県知事とは、大変親しくさせていただいております」と自慢げに言っている。金造が親しくしているというその佐藤雄平という男、こんな奴らしい。
http://abukuma.us/takuki/11/093.htm
 こんなのと親しいことが誇らしいか。まあ、知事という肩書だろうけれど。
 このブログを書いている鐸木氏が立ち話で聞いた青年の話、彼が選んだこととはいえ、切ない。

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