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2011年3月24日 (木)

大錦の話をしよう

 昭和十一年二月二十六日、東京で大事件が発生した。日本の歴史を大きく変える事件だった。2・26事件である。近衛連隊の若手皇道派将校が兵隊を率いて首相や閣僚、陸軍教育総監などを襲撃、殺傷した。

 初め陸軍は乱暴を働いた軍人たちをどう扱っていいものか混乱した。「君たちの気持ちはよくわかる」と言った現役の大将がいた。憂国の志士と見る空気があったことは確かである。後に天皇に一喝され反乱軍として鎮圧される。

 大錦は大相撲で横綱を張った力士で、当時すでに引退し築地で旅館をやっていた。この宿屋にその日泊まっていたのが、満洲の土建屋の榊谷仙次郎という男だった。仙次郎は、日露戦争の頃一介の土工頭にすぎなかったが、その後苦学して土木技術を学び、榊谷組を創立、松岡洋右満鉄総裁から「満洲の土建の王様」という称号を奉られた大物である。広島出身の仙次郎は望月圭介という代議士と懇意にしており、日本に来ると望月邸を尋ねるのが習いだった。二月二十六日、仙次郎は満洲に帰る挨拶に望月邸に行こうと思い、宿を出た。その頃望月圭介は逓信大臣をやっていた。しかし、着剣した兵隊に阻止されどうしても望月邸のある界隈に入れない。ようやく裏口から屋敷に入ると、なかは大騒ぎだった。警視庁から反乱軍がいつ襲撃するかわからないのですぐ逃げるようにと電話がかかって来る。だが、望月は「わしはここで死ぬ」と言い張って頑として動かない。代議士が数名居合わせていたがいずれも気が動顚していて狭い邸内をうろうろするばかりであった。このあり様を見て取った仙次郎は奥座敷にどっかりと腰を据え、何事もなかったかのように望月の歓談の相手になった。そうこうするうちに、宮中から召集がかかった望月が皇居に向かう。仙次郎は望月が帰ってきたら連絡をくれと言い置いて宿に帰った。翌日仙次郎は宿の主人の大錦を呼んで、肝の据わった男が必要なので一緒に行ってくれるるかと尋ねた。大錦は「ようがす。わしで役に立つなら喜んで参ります」とだけ行って仙次郎の車に乗った。

 仙次郎は大錦を連れて望月邸に行く。大錦の役目はいつ襲撃されるかわからない望月邸の座敷にただ座っていることだった。これは本当に肝が据わっていなければできないことである。どんな事態になっても平常心を保って居られるだけの肝の下りた体を昔の力士は四股を踏む修業でつくりあげていたのである。まして大錦は横綱まで張った相撲だった。泰然自若、普段と全く同じに振舞った。その点、榊谷仙次郎も普段と同じで、望月圭介大臣とゆったりと歓談していた。「こんなときにあわてるようでは友達の甲斐がない」と笑いながら。

 幸い、反乱軍は望月邸には現れなかった。大錦は、もし現れれば自分も殺されることを覚悟していたが、これっぽっちもそんな様子を見せなかった。

 今こそわれわれも大錦を見習うべきである。あわて浮き足だつのは下の下である。われわれも四股を踏もうではないか。原発事故が無事おさまるかどうかはまだわからない。せめて風評被害だけでも防ごうではないか。(峯崎淳)

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