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メンバーの裁判

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2011年1月24日 (月)

パロディ版「天声人語」片品編。

 22日(土)の朝日新聞「天声人語」が片品の選挙に重なって、面白く読んだ。四月の村議選に向けてきな臭い噂が飛び交い始めた今、どう重なったか、パロッてみよう。

 大分前のことになるが、ある農家の人に、片品の「地縁血縁の選挙のおかしさ」を話すと、「木暮さんだって、従兄弟が出れば、応援するだろ」と言われた。たしかに、隣町ではあるが、かつて従兄弟が沼田市で四期ほど市議をしていた。ただし、従兄弟と思想信条について議論をしたことはないが、仮に私が思想信条の違いを優先させたところで、血縁の情にヒビが入るとは考えていなかったし、従兄弟の知性、心情に対しても同様の信頼は置いていた。要するに、私にとって地縁血縁優先の片品の選挙を語ることは「それは政治学というより文化人類学の領域ではないのか」ということになる。

 そんな私が片品の一住民として、「千明金造の力の源は何か」と考えても、答えが見つからないのが困る。思想的、知性的牽引力があるわけではない。演説が上手との評判だが、書かれたものを棒読みする以外の演説は聞いたことがないし、そもそも演説の良否は弁舌の流れより語られる内容なのだから、そこに知性の欠片も感じたことのない私は、演説が上手、には疑問を感じるしかない。その根拠の一例は村の公式ホームページに書かれた「私の信念・政治理念」にある。「村民にきれいごとだけでなく『事実』を伝え」とあるが、「きれいごと」とは「体裁をつくろうこと、物事の実態はそのままで、表面だけをとりつくろうこと」なのだから、「きれいごと」の意味ばかりでなく、そのものが必要ないことさえ理解できず、これまでの金造村政を見れば、そこに書かれたすべてがただ耳障りのいい「きれいごと」でしかないことさえ彼は認識できないのだ。たまに会見してもレベルの高からぬ話__。『週刊朝日』に登場した片品村村長「千明金造氏」では、全国誌でアホをさらした、と何処かの何方かに呆れられている。それでいて片品村の政治のリーダーなのが、私には何とも不思議である。

 たしかに、納得できる答えは難しいだろう。彼を支持する村民にとっても、追認するだけの村議たちにとっても、千明金造の輪郭は政治学のレベルではなぞりにくいだろう。臆面もなく"日本の政治家"を名乗る戸丸広安でさえ根拠を示せず、単なるアジテーションで終わっているのだから、他の追認派は太鼓を持って、よいしょするだけだろう。昨年は、村長選でスタッフが約束してしまったことを渋々認め、村長の報酬を削減する条件に、周辺の自治体と比較して、議員定数と議員報酬を削減しろ、とあれこれ駄々をこねた。四月に迫った村議選に向けて多数派工作画策の気配を知ると、またぞろのうんざり感が募る。

 「筋や道義? そんなものはクソ食らえ!」に書いた問題に関しては「司法の場にゆだねる」と言うが、一地方自治体の政治リーダーの場合、そう単純ではあるまい。権力をゆだねた住民に、公正を進んで行使する道義的責任を常に負う。それさえ知らぬでは済まないだろうに、と思う。私との問題と底流する手法を公共工事を巡っても使ってるやにも聞く。

 のどに刺さったトゲというより、停滞した村でガス欠を起こして動かぬポンコツ車だろう。「観光街道」も「農業通り」も渋滞し、クラクションの音ばかり大きい。タイヤもパンクして動かぬなら、取り除くしかない。

 昔、元首相の吉田茂が「反対党は嫌いだが、反対党が強くないと内輪がおさまらない」と言っていたそうだ。言にならう器量もないリーダーに対して、今議会では、事前に「議員必携」を読み、一般質問での事前通告制の弊害を避けるために一問一答式を採用させ、それを活かすべく質問内容を検討し合い、議会のあるべき機能を果たそうとする議員たちがいる。無投票だったのだから、と議員報酬の削減を自ら提案し、肺炎球菌ワクチンや子宮頚がんワクチンの接種を提案し実現させた。複数期務める議員たちは、今議会がこれまでになく面白い、と言う。

 そうした議員たち、元首相の言を理解する頭脳もなく多数派工作だけを狙う議員、自分の損得を優先させて利権の甘い汁を吸うために手を挙げようとする輩を十把ひとからげにして、普段は村政に関心も示さず、議会を傍聴もせず、議会だよりを読んでいるのかさえ疑わしい村民が、議員を伍長や組長、区長の延長にある役のように集落で事前に決める。手を挙げる側も血縁の数に頼る。それが片品の選挙なのだから、やはり「それは政治学というより文化人類学の領域ではないのか」と言わざるをえない。

 とは言え、日本国民であり、年齢満二十年以上の者で引き続き三ヶ月以上片品村内に住所を持つ者には選挙権があり、選挙権を持つ年齢満二十五年以上の者には被選挙権があるのだから、選挙権を持つ二十五歳以上の誰もが手を挙げることは自由である。思想信条もそれぞれの自由であるから、動機は何であれ、四月の選挙で村民の信任を受けた者には、せっかく一歩前進した議会の流れを逆行させることのない、政治学の領域の熟議が聞きたいものだが。(木暮溢世)

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