初の取材と第2回理事会

 先週、このブログ経由で取材の依頼があり、今日、理事全員が揃って取材に臨んだ。

 取材に来られたのは、湖北の一部を除いた滋賀県全域に約14万部配付されているという、草津市を本拠とする月刊のフリーマガジンの編集者とカメラマンの二人で、来月号で、餡に関する特集を組むとのことである。

 現理事長が口を滑らせて以来、構想10年あまり、ようやく、定款作成、設立総会、預金口座開設、会員50名達成と、一応、協会らしくはなったものの、これと言って誇れるような活動はしていないのであり、取材者も当惑したようである。

 とはいえ、協会の目的は、もともと、社会正義の実現でも、国家財政の建て直しでもないし、いわんや、こしあん派の撲滅でもないのであるから、何をしたところで、他に誇れるようなことはない。ただ、ひたすら、粒あんを楽しむのが協会の存在理由なのであるから、どのように楽しんでいるのかを理解してもらえれば、それでよいのである。

 理事それぞれが粒あんの魅力や今後の活動への抱負を語ったが、あっという間に1時間余りが経って、取材が終了した。どんな記事になるか楽しみである。

 取材後、第2回理事会が開催された。詳しい議事録は、追って、事務局長が作成してくれるものと思われるが、私の微かな記憶によると、協会のロゴが決定し、会員には漏れなく協会のバッジを交付するよう検討することとなった。

「老い」を楽しむ

本日、我らが日本粒あん協会会長の講演が、京都弁護士会で行われた。
(紹介頁は、こちら)

「法律援助を広げる市民のつどい」という集まりが、例年、京都弁護士会で行われているのだが、その「つどい」で会長が講演をしたのである。以下は、管理人が入手した、弁護士会の会務ニュース(社内報のようなもの)に掲載予定の原稿の一部である。

15:00 講演
 元京都新聞論説委員でエッセイストの熊谷栄三郎氏の講演「『老い』を楽しむ。自然の中で、社会の中で」が行われた。
 病気、認知症、死などの深刻な問題を、いかに受け止め、「楽しみ」、逆に、それをいかにして生きていく糧にするか、という観点から、様々な人の話や、ご自身の体験談などが紹介された。その中で、二回も生前葬をした知人の話や、死を前にして一度も経験したことのない世界を知るのだから楽しみだと話したという鶴見和子氏の話などが印象的だった。
 また、同氏が、まさに、「老い」を楽しんでいることは、同氏が立ち上げた、「平安京こだわり蕎麦塾」「日本粒あん協会」「日本まずいもんを食べる会」などの活動の紹介から十分にうかがえた。
熊谷氏の講演は、予定の4時を過ぎても延々と行われたが、最後まで会場内は笑いが絶えず、時間を感じさせることはなかった。
  

「あん入りあん無し饅頭」?

 事務局長からメールが来た。

 先日、事務局長が、理事長から、聞いた話である。辞書・大言海によると、昔は、パンのことを「あん無し饅頭」と言っていたそうで、そうすると、あんパンは、「あん入りあん無し饅頭」になるのだ、と言うことである。

 普通なら、これで納得するところである。ところが、たとえ理事長の話であっても、裏付けを欠かさないのが我らが事務局長である。府立図書館まで赴いて、実際、大言海で調べたところ、以下のとおり記載されていたとのことである。
 

 「パン」    : アンナシマンヂュウ。
 「アンパン」 : パンヲ、無餡饅頭ト云フ。パンノ中ニ、あづき餡ヲ包ミタルモノ。


 さすが、理事長!と、理事長の博識ぶりに感嘆したのであるが、事務局長は、さらに進んで、「あん」「粒あん」についても、大言海、広辞苑、日本国語大辞典と、図書館内の文献を渉猟したとのことである。その結果、文献により、微妙な違いがあることが発見されたという。

 そこで、事務局長からも提案されたのだが、協会内に調査委員会を設けてはどうであろうか。会員の中で調査委員になりたいという人は、当管理人までメールを頂きたい。次回の理事会に諮って、正式に調査委員会を発足させることとしたい。

「粒あん」の定義

 先日、名古屋支部長から、甘納豆が送られてきた。

 ただ、この甘納豆、私の期待していたのとは違い、先日のブログ消えゆく「甘納豆」でも書いた「詰め合わせ」と、「ぬれ甘納豆」だった。
 
 ちょっと期待はずれの「ぬれ甘納豆」だったのであるが、口に含んで一咬み、二咬みするうちに、小豆が潰れて、「粒あん」状態になる。そう考えると、ただの「粒あん」よりも、優れていると言わなければならない。とはいえ、純正の甘納豆に塗された(◆注)グラニュー糖のジャリジャリ感は得られない。

 話は変わるが、昨日見ていたテレビで、ビスケットとクッキーの違いは何かという話をしていた。感覚的には、クッキーの方が多少高級感があり、また、しっとり感があるのだが、実際、業界団体である「全国ビスケット協会」では、「手づくり風」の外観を有し、「糖分、脂肪分の合計が重量百分比で40%以上」であることが、クッキーの条件とされているそうだ(協会の規約)。

 そこで、「粒あん」、「こしあん」についても、業界団体かどこかで、基準を設けているのか、ネットで探してみたのだが、今のところ、見あたらない。読者の方で、基準を見つけた方がいれば、ぜひ、連絡してほしい。

 と、書いたものの、本来、このような定義をすることこそ、日本粒あん協会の役割のような気もする。次回理事会の検討課題である。

◆注 塗された
 文脈から、「まぶされた」と読むことはできるだろうが、このブログを書くまで、「塗」に「まぶ」という読みがあるとは知らなかった。

今さらながら、「粒あん」の魅力

 事務局長から「金曜のマドンナ」と命名された女性会員との会話である。

 「粒あん」と「こしあん」の決定的な違いは「食感」の違いにある、というのが私の持論である。「こしあん」は、全体に均一の歯ごたえだが、「粒あん」は、餡を噛みしめる僅か0.1秒の間に、小豆の皮の部分、皮の中の粒の部分、皮から出て押しつぶされた部分と、微妙に何段階にも食感が変化する。これこそ、「粒あん」の最大の魅力である。

「食感」の違いは、他の食材でも、大きな意味を持っている。例えば、「うどん」。うまい「うどん」と、まずい「うどん」の決定的な違いも、やはり、食感の違いである。「こし」のあるなしの違いである。粒あん協会員でも、「うどん」は、「こし」のあるものを好む、というのも何となく変な話ではあるが、とにかく、「うどん」は、「こし」が命である。

 鶏肉も、食感である。「鶏舎」に押し込められ、肉として「培養」された「ブロイラー」と、自分の運命を知ることもなく天真爛漫に地べたを走り回って餌をついばんで育った地鶏との違いも、やはり「食感」である。顎が疲れるほどの地鶏を食べたときの満足感は、この上ないものである。
 
 米も、そうである。我々が普通に食べる御飯は、いわば「粒ごはん」である。「粒ごはん」も、粒々の「ごはん」を噛みしめるときに、ごはん粒そのものを噛む瞬間と、ごはん粒とごはん粒の間を歯がすり抜ける瞬間とが、一瞬のうちに交錯し、その間の微妙な食感の変化が魅力なのである。これが、「こしごはん」だとしたら、何とつまらないことだろう。もっとも、「こしごはん」というものを、どうやって作るのか、イメージできないが、米粉を水でといて炊飯器にでもかけるのだろうか。いずれにせよ、「こしごはん」なぞ、真っ平である。

 さて、ここまで持論を展開したところで、彼女から、「こしあん」派の立場にたった見解が示された。もっとも、彼女は、「こしあん」支部所属の特別会員(◆注)というわけではなく、文字通りの「粒あん」派の一般会員なのであるが、「粒あん」原理主義者ではなく、「こしあん」にも寛容な心の持ち主であって、「こしあん」派も、食感に無頓着というわけではないのだろう、という理解を示したものである。

 その見解というのは、「こしあん」だけを食べるのなら、均一の食感で面白くもなんともないが、それを、最中の皮や、あんパンの皮で包んだり、逆に、「あん」で餅を包んだりすることによって、皮や餅と「あん」との間で食感が変化する瞬間があるから、食感の変化を楽しめないわけではない、というものである。

 確かに、この見解には、一理ある。そうは言っても、「こしあん」の場合、皮→こしあん→皮、あるいは、こしあん→餅→こしあん、と、一口で、高々2回の食感の変化である。そこへ行くと、「粒あん」の一口の間に生じる変化は、数回から十数回と比較にならないほどの目まぐるしい変化である。この変化を楽しめるだけの、味覚というか顎感覚というか、その感覚を持ち合わせていなければ、「粒あん」の魅力は理解できないのであろう。


◆注 「こしあん」支部所属の特別会員

定款に、以下の記載がある。

第6条(会員)
本会の会員は、一般会員及び特別会員の2種とする。
(1) 一般会員 粒あん、こしあんを比較し、粒あんを好む者。
(2) 特別会員 こしあんを好む者で、代表理事の指名した者。但し、6か月を限度として、本会こしあん支部に所属し、その間、代表理事の直接の指導・教化を受ける。



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Author:粒あん協会HP管理人
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