先日(3月19日・土曜)の朝日の「天声人語」で、19世紀のアメリカの女性詩人エミリー・ディキンソン(◆注)の詩が紹介されていた。
失意の胸へは
だれも踏み入ってはならない
自身が悩み苦しんだという
よほどの特権を持たずしては――
(中島完(たもつ)訳)
筆者は、この詩を胸に深く畳みながらも、新聞記者として、報道を続けてきたという。
管理人の知人の一人が、もしも、自分が震災の被災者で、避難所でマイクを向けられることがあったら、「ほっといてくれ。」と言って、追い返してやると言っていた。テレビでは、報道されないが、そのようなシーンも無数にあったことだろう。筆者は、そのような経験をしながらも、記者として報道を続けてきたのだろう。最後に、記者は、こう結ぶ。「そうした報道の数々が、支え合う決意に寄与していると信じたい」
単純化すれば、報道が個々の被災者を一層、傷つけることがあっても、報道によって、全体として被災者の利益になるのなら、正当化される、ということであろう。そうはいいつつも、新聞記者としては、自らの行為によって被災者を傷つけることがあることを十分に認識し、それを最小限にするべく、努力してきたというのであろう。それが、「この詩を胸に深く畳みながら」という表現になったのだろう。
そこで、昨年、日本でも話題になった、サンデル教授の「ハーバード白熱教室」での説例を思い出した。
最初の説例は、こうだ。列車が猛スピードで疾走しており、その先には、5人の保線作業員が列車に気付くことなく作業をしていたとする。このままだと、確実に5人とも死亡する。ところが、その手前に待避線への切り換えポイントがある。そして、待避線では、1人の作業員が作業をしている。あなたは、ポイント切り換えのレバーの側に立っており、そのレバーを引けば、ポイントは切り替わり、列車は待避線に入り、1人の作業員は、列車にひかれてしまう。さあ、どうするか、というものだ。
多くの人は、レバーを引いて、5人の命を救うために、1人の命を犠牲にする、という選択をする。
そこで、サンデルは、次の説例を持ち出す。列車の進行している先で5人の作業員が作業をしているところまでは最初の説例と同じだが、今度は、あなたは、線路を跨ぐ橋の上にいる。そして、ふと見ると、太った男が橋から身を乗り出すようにしている。この男を突き落とせば、列車を止めることができるが、男は確実に死んでしまう。さあ、あなたは、男を突き落とすか。
これに対しては、多くの人は、突き落とさない、という選択をする。5人の命と1人の命が天秤にかけられている状況は何ら変わりはないのに、この説例だと、この男の命を尊重するのだ。先の例だとレバーを引くだけだが、今回の例では、自ら突き落とす、という形で、「殺す」ことに自らの手を汚すからできない、という回答もあった。
この回答に対しては、サンデルは、待ってましたとばかりに、こう質問する。
太った男は、橋の上に立っているのだが、ちょうど、男の立っている場所は、開閉式の扉がついていて、レバーを引けば、その扉が開いて、男は、そこから線路に落ちていくものとしよう、さあ、今度は、あなたは、レバーを引くのか、と。
5人の命を救うために1人の命を犠牲にする、という功利的な考え方。一般論としては、受け入れられても、自らが、1人の命を犠牲にする行為に、どのように関わるかによって、ことは、それほど単純ではない。
みなさんなら、どうしますか。
◆注 エミリー・ディキンソン
記事では、「エミリー・ディキンソン」だが、日本にある学会の表記では「エミリィ・ディキンスン」である。ちなみに、グーグルで検索してみると、「エミリー・ディキンソン」は、287万件、「エミリィ・ディキンスン」は、1070件と、圧倒的に前者である。とはいえ、後者は、専門的に研究をしている学会の表記なのだから、原語の発音には近いのだろう。
この話で思い出したのだが、「レーガン」である。俳優からカリフォルニア州知事になり、アメリカ大統領になったのだが、共和党の予備選に立候補したころは、「リーガン」と呼ばれていた。それが、いつの頃からか、「レーガン」という呼び名を聞いたり、目にしたりするようになり、大統領就任の頃には、どの新聞、どのテレビ局でも「レーガン」となっていたように思う。