嘘と言えば嘘だけど・・・

 先日、寺町丸太町で信号待ちをしているときに、幼稚園児を乗せた自転車を引いたお母さんに、「中華料理屋さんで、マダム・エ・ジェイって、ご存じですか?」と尋ねられた。

 「マダム・何とか」という中華料理屋があるのは知っていたものの、「マダム・エ・ジェイ」という名前ではないような気がしたのだが、「まあ、いいだろう」と思って、私の知っている「マダム・何とか」の場所を教えた。はたして、その店は、「マダム・紅蘭」という名前だった。

 結局、「エ・ジェイ」ではなく、「紅蘭」を教えたのだから、表面的には、「うそ」を教えたことになる。が、実質的には、質問者の意図に沿った答えだったと思っている。おそらく、質問者も、うろ覚えで、「マダム・エ・ジェイ」と言ったに違いななく、要するに、中華料理屋の「マダム何とか」を探していたのだろうから、間違いなく、期待に合致した答えだったと言えるだろう。

 ちなみに「マダム・エ・ジェイ」というのは、洛北高校交差点にある(あった?)ケーキ屋さんだ。私に尋ねた人は、このケーキ屋さんの名前と中華料理屋の名前を混同していたに違いない。

 もし、尋ねられたのが、中華料理店でなくフランス料理店だったら、「マダム・エ・ジェイ」は、どこかという質問に対して、「マダム○○」という曖昧な記憶だけで、私が答えていたかというと、決して、そうではないはずだ。

 「中華料理店」には、「マダム○○」という名前は、あまり似つかわしくなく、中華料理の「マダム○○」というだけで、他に、そんな店はないだろうと思われる。だから、自分の知っている「マダム何とか」の場所を教えるのが正しい答え方というものだ。これに対し、「フランス料理店」なら、「マダム○○」という店は、いくらでもありそうに思えるため、自分の記憶にはない「マダム・エ・ジェイ」の場所を聞かれた場合、「わかりません」と言うのが正しい答えだろう。

ありがたい「雨漏り」

 日曜の晩のNHK教育テレビで、「美の壺」という番組の再放送をやっている。

 今日は、徳利と「雨漏り」の話だった。

 「雨漏り」というのは、徳利の表面の「しみ」のことである。徳利を何度も使っていると、陶器の中に含まれている小さな気泡を伝って、酒が徳利の表面に沁み出てきて、半透明の釉薬を通して、しみとなって見えるのだ。

 15世紀頃に朝鮮半島で作られた徳利が我が国に伝わって来たのだが、かの地では、「雨漏り」のある徳利は、価値のないものとしてうち捨てられたという。ところが、我が国では、「雨漏り」のある徳利が、味わい深いものとして珍重されたというのだ。

 番組では、「雨漏り」の味わいについて、骨董店の店主と評論家が対談をしていたのだが、落ち葉一つなく掃き清められた庭よりも、落ち葉のある庭の方が味わい深く落ち着いた感じになるのと同じだと言っていた。確かにそうである。

 京都市中心部を東西に走る御池通は、毎年11月から12月にかけて、落ち葉が堆積して、日々、秋の深まりと、冬が、もうそこまで来ていることを知らせてくれる。私の大好きな季節なのだが、市の清掃局の仕事か何か知らないが、ときおり、せっかく積もった落ち葉が一掃されてしまうのだ。そうすると、何とも味わいのない、ただの大通りになってしまうのである。

「良質のタンパク質」と「偉大なる首領様」

 鰆(サワラ)には、良質のタンパク質が多く含まれ・・・

 今日、食事をした店で受けとったチラシの一節である。
 
 良質の「デンプン質」、良質の「糖分」、良質の「塩分」というのがあっていいはずなのだが、「良質の」という修飾語は、まるで、「タンパク質」の枕詞のように、一体として使われている。

 なぜ、タンパク質にだけ「良質の」という言葉が使われているのだろう。私は、もう、かれこれ、40年位前から不思議に思っているのだが、誰にも尋ねたことはないし、未だに、理由がわからない。

 Yahoo!知恵袋(◆注)にでも質問をしてみたら、即座に答えが返ってくるかも知れないが、せっかくの疑問だ、そう易々と解決されたのでは、もったいない。自分で考えてみることにしよう。

 子どもころ、CMに出てきた「タンパク質が足りないよ」というフレーズが耳について離れなかったことがある。当時は、食生活の「欧米化」というものが、疑う余地のない良いことのように喧伝され、穀類、野菜中心の従来の日本の伝統的な食生活を、肉や牛乳など豊富にタンパク質を含む食生活に切り替えて行くことが、豊かさの象徴のように考えられた時代だった。

 このように、他の栄養素よりも一段と高い地位を与えられていた「タンパク質」が、さらに「良質な」という修飾語を伴うようになったのは、考えてみれば、「首領様」ということばが「偉大なる」という修飾語とセットで使われているのと同様な思考に基づくものであり、「タンパク質」の価値を信じて疑わない人々にとっては、ごく自然なことなのかも知れない。「タンパク質」は「良質」に決まっているし、「首領様」は、「偉大」に決まっているのである。

 「良質の」ほどではないが、枕詞化している言葉に、「敬虔な」という言葉がある。「敬虔なクリスチャン」というのは、よく聞く言葉であるが、「敬虔なオウム真理教徒」という表現には、お目にかかったことはない。「敬虔な仏教徒」、「敬虔なイスラム教徒」という言葉も稀に見ないではないが、やはり、「敬虔な」と来れば、「クリスチャン」がしっくりする。

 この感覚は、理屈ではない。我々日本人の思考が、キリスト教を中心とする欧米の世界観に、どっぷり浸っているということだろう。何の疑問も持たずに「偉大なる首領様」と叫んでいる人々を笑っていられるほどには、我々も自立していないということである。

◆注 Yahoo!知恵袋

 インターネット上の質問サイト。誰でも無料で登録すれば、質問をすることができ、質問をした閲覧者が、回答してくれるという便利なサイト。常識的に考えて、そう簡単に、見ず知らずの人が、すぐに回答をしてくれるのか、と思われそうだが、昨年の、「京大入試事件」で、その価値が広く知れ渡った。わずか、2時間程度の試験時間中に的確な回答が返ってくることが期待されたからこそ、試験中に試験問題を投稿する受験生が現れたのだ。
 なお、この件は、昨年3月8日の京大入試問題の質問サイトへの投稿でも触れている。


豚色のランドセル

 ここ数年、夏休みの頃から、ランドセルのCMを目にする機会が多くなった。「♪♪ててん、てん、てん、てんしのはね♪♪」といった歌詞が耳に焼き付いている人も多いことだろう。

 入学は4月なのに、なぜ、こんなに早い時期からCMを流すのだろう、と思われるかもしれないが、孫のためにランドセルを買って、お盆に孫に会った際にプレゼントする祖父母が増えており、こういった購入層をターゲットにCMが7月頃から流されているそうだ。

 祖父母からのランドセルのプレゼントに関しては、私には苦い想い出がある。

 小学校の入学式まであと一月という頃のことだ。もちろん、もう、ランドセルは用意されており、私は、その黒いランドセルを背負って小学校に通う日を楽しみに待っていた。そんなある日、祖母から、プレゼントが届いた。開けてみると、なんと、ランドセルではないか。

 二つのランドセルを交互に持っていくわけにも行かず、どちらかを選択せざるを得ない。祖母からのランドセルは、黒ではなく茶色だった。なぜか、当時の私には、黒は牛、茶色は豚というイメージがあった。また、家から5分くらいの所に、豚小屋があって、いつも周囲に、豚の餌の残飯の悪臭を放っていたこともあり、私には、豚のイメージは最悪だった。
 
 だから、茶色のランドセルなど、絶対に使いたくなかった。だが、母も困惑した末に、せっかく、おばあちゃんが買ってくれたのだからと、私を説得し、黒いランドセルは返品することになった。返品と言っても、一度は売れた商品である。ランドセルを買ったデパートで、他の商品に取り替えることとなり、結局、黒いランドセルが卓上電気スタンドに変わった。

 小学校に入学すると、男子のランドセルは、ほとんど、黒だった。どうして僕だけが、こんな豚色のランドセルを持って行かなきゃいけないんだと、おばあちゃんが余計なことをしたから、という気持が浮かんでくるのだが、その都度、母親に言われたことも思い出し、おばあちゃんも僕のためを思って買ってくれたんだから恨んじゃいけないんだ、と、幼心に葛藤した。

 いくら自分が好意でしたことであっても、相手にとっては、ありがた迷惑以外の何ものでもないものがあるということを、6歳の私は身をもって実感したのだった。「三つ子の魂百まで」と言うが、大人になってからも、「好意の押し売り」をされる度に、このときのことを思い出す。他方、逆に、人に対しては、決して、そんな嫌な思いはさせてはならないと気をつけているつもりだ。気をつけすぎて、冷淡な人間だと思われることもあるかも知れないが、それもしかたがないと思っている。

「物騒な世の中になりましたね」?

  先日乗ったタクシーの運転手さんとの会話である。

 「運転手さん、景気どうですか?」

 「元日、二日は人出もありましたけど、その後は、さっぱりですわ。景気も悪いし、物騒な殺人事件も増えてるし、この先、どうなるんでしょうね」

 「殺人事件増えてませんよ」

 「ほんとですか。テレビ見てたら毎日のように凶悪な殺人事件の話ばっかりちゃいますか」

 「いや、増えてないどころか、ずっと減ってるはずですよ。ちょっと待って下さい」

 ここで、スマホに、「殺人 統計」と囁き、グーグルで検索する。検索の3番目に出てきたウィキペディアの「殺人」の記事を開く。すると、そこには、こう書かれている。

 日本の殺人認知件数は毎年減少傾向にあり、1958年(昭和33年)には2,683件だったが、2009年には戦後最低の1,097件を記録した。そして、2010年はさらに1,067件に減少し、戦後最低件数を更新した。


 「昭和33年は、2600件、今は、1000件くらいで、半分以下ですよ」

 「ほんまですか。テレビ見てたら、ずっと増えてるように思ってたんですけど」

 「まあ、昭和33年なら、ワイドショーもなかったし、でも、今は、件数は少なくても、やたら、テレビで取り上げてるから、そんな感じがするんでしょうね。」

 メディア・リテラシー(テレビ・新聞などのマスメディアの流す情報を、評価・識別する能力)の必要性が謳われて久しいが、巷には、上記のような誤解が満ち溢れている。かく言う私だって、たまたま、殺人事件の統計を数年前に見たことがあったから、上記の会話になっただけであり、そうでなかったら、運転手さんの言葉に、「そうですよね。物騒になりましたね」と相槌を打っていたに違いない。

 最後に、私が、しばしば頼りにしているウィキペディアの「メディア・リテラシー」の記事の一節を引用しておこう。

 当然ではあるが、Wikipediaの情報さえも、虚偽や誤情報は多数存在するので、Wikipedia上の情報を鵜呑みにするのも良くはない。


 この一節だけは、鵜呑みにしてもいいだろう。
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