散りてのちおもかげに立つ牡丹かな
片品に引っ越して、もうすぐ丸7年。その間、一関先生の身内と思われたことは2度や3度ではない。息子か、と問われたことも何度かあったし、先生に子供がいなかったことを知る人の幾人かからは甥だと思われていた。
一関文子。東京出身。群馬女子師範学校で私の母と同級生だった。その縁で、先生が住む家の一段下の土地に、小屋と呼ぶ方がふさわしい小さな家ができたのが昭和48年秋、丸沼高原スキー場がオープンした年だった。
ひとりでふらっと遊びに来ると、先生はよく夕食に呼んでくれ、その都度、無遠慮な私は好意に甘え、夜中までお茶を飲みながら話し込んだ。授業で子供たちの顔を輝かすことが無上の喜びだと言う先生は、子供たちとの日常のことはもちろん、それとは裏腹な顔を持つ村について、満面の笑顔で、ときに全身を怒りで震わせて語ってくれた。
先生が片品に来たのは昭和28年4月。師範学校を出て、3年勤めて退職。東京での結婚生活が夫の横暴で破綻し、女ひとり自立するために17年の空白を経て、39歳2ヶ月、自ら僻地を希望して花咲分校で教職に復帰する。
赴任早々、度の強い眼鏡をかけた近視には煎り卵に見えた子供の弁当が、実は粟を炊いたものとわかったとき、村の暮らしの厳しさを知った。初めての山村の暮らしに体調を崩し、ようやく2学期を終え、東京に戻ると血清肝炎で絶対安静の診断。ひと月以上休んで辞表を懐に戻ると、見つけた子供たちが部落の入口まで駆け寄り「先生、どこへも行くな」「どこへもやんねえ」と、腰まで埋まる雪の中でしがみついて泣いた。このとき、「一生、花咲の子供たちと生きよう」と心に誓った。
大人の力関係がその子供たちの様子に反映していることにも複雑な思いを抱いた。何かしら集まりがあれば、呑めない酒と淫らな雰囲気に困惑し、肩書のある人ほどひどいことに閉口した。名うての女たらしに夜這いに遭いそうになったこともある。
毎月、給料日には鎌田の本校で職員会議が開かれ、宇條田峠を歩いて越える8キロは辛く、いい顔をしない主任に構わず、武尊口からバスに乗ることにしたが、その武尊口までも徒歩で5キロあり、本校の都合しか考慮されない時間の割り振りに、家に帰り着くのが夜中になったこともあった。
レントゲン車が本校へ来るときも、授業を休んで子供たちを引き連れ、弁当を持って宇條田峠を歩いて越えなければならず、遠いからという配慮もなく、順番を待たされた。レントゲン車を回してくれるように交渉するが、役場は保健所の顔色をうかがうばかり。執拗に食下がると、保健所はあっさり了解した。苦い水を飲まされているはずなのに、その水をより弱い所に飲ませて、痛みを感じない役場の体質に呆れた。養護教諭の配置にしても、診療所のある鎌田の本校にはいるのに、医師から遠い分校にはいない。恵まれた地域が、一層恵まれてゆく仕組みの不条理を思った。
昭和30年、地域の念願が叶って花咲分校が片品南小学校として独立。その意気込みに加え、新たに赴任してきた若い熱意に溢れた教員に刺激を受けた。17年の空白の負い目を笑い飛ばされ、肩から力が抜けた。同志のような若い彼に薦められ、初めての教育研究集会に出ることになる。僻地を「人間一人ひとりの感情や思想や生命が大切にされないことが多く累積し、支配と従属の関係で強く縛られながら生活していることが顕著な地域」と位置付け、「僻地教育などという特別な教育はない」としたことがきっかけとなり、県では僻地教育という分科会を廃した。
引き続き、県代表として金沢での全国教研に出ることになる。子供たちのことはあまり語られず、教師の立場については、生活の苦しさ、勤務条件の実態など、至極尤もな要望が続出することに次第に苛立ち、「それでは教師の立場は改善されるでしょうが、そこにいる子供たちはどうなるのですか」と精いっぱいの発言をした。
33年、突然、勤務評定問題が持ち上がった。それまで公選制だった都道府県教育委員会、地方教育委員会を任命制とし、学校長が一般教職員の勤務評定を、地方教育長が学校長の勤務評定をする。都道府県教育長および地方教育長は評定の修正権を持つ。要するに「教師の質を高め、教育効果を上げるため」と謳いながら、有力者や上の者の言うことに黙って頭を下げる、そんな人間を作ろうとする官僚政治である。教育行政といいながら、子供や教育のことなど考えてはいない。まさに、教育に政治が土足で踏み込んだのである。全国の校長会をはじめ、地教委、PTA、学者など、圧倒的な反対意見で占められた。どんな精密な機械でも、紙の上に人間は書けない。にもかかわらず、国は地方公務員法第40条第1項〈任命権者は、職員の執務について定期的に勤務成績の評定を行い、その評定の結果に応じた措置を講じなければならない。〉を教育に持ち込んだ。
村は、村長が発起人で会長となり、村内全域の各種役員を召集、「教育を守る会」を発足させ、全戸の入会署名集めを指示した。役場当局と教育長が役員会を開き、まず「勤評に賛成」を決議する。その上で、村長、村議、会の一部幹部が中心になり「勤評についての話し合い」を八つの行政区で地区集会を開く。そこで「勤評に反対の人は手を上げてください」とやる。普段から声を上げない村民が手を上げるはずはない、と読んだ上でのやり方である。「我々村民は、全員一致で勤評に賛成である。反対する教師はけしからん。混乱の責任はお前たち教師にある」というわけだ。やむにやまれぬ思いで8日間の座り込みをした。モノを言えず、それでも子供たちを通して先生たちを見ていた村民から、そっと餅や赤飯が届いた。
国の狙い通り、全国的に大勢の教職員組合からの脱退者を出し、学校を地域から引き離して、教育現場をばらばらにして波が過ぎた後、立て続けに60年安保の波が押し寄せた。今度は校長がからんで、勤務時間外に安保の学習に行くことすらさせまいとする動きがあった。村は例によって、各区、各部落の役員を集めて策を練り、国会議事堂を連日30万人が取りまいているときに、バスに乗り込ませない、ひっぱたいてでも引きずり下ろす、薄だめ(下肥を薄めたもの)をぶっかける、消防団をかり出して、校庭で放水体勢をとる、と何とも長閑なものだった。
国民のひとりとして無視することのできない大きな問題で、さすがに処分者を出そうという校長などいない中、利根沼田でただ一校、法を破ってもいないのに、南小から数名の処分が出た。さすがに校長は気まずかったのだろう、職員会議と称して、食飲会議を設けた。欠席した先生の元に届けられた折りを玄関の外のコンクリートの上に叩きつけて踏みつぶし、蹴散らした。
組合はふたりの訴訟を起こし、先生は公の場で洗いざらい述べられる喜びにわくわくして、証人を引き受けた。県教委側の証人は上司である校長。弁護士と打ち合わせ、いよいよ翌日は証人尋問。開廷すると、県の組合も弁護士も知らないうちに、ひとりが訴訟を取り下げていた。失礼で卑怯、男らしくもない。相手側に不利な材料ばかりで絶対勝てる裁判を、ひとりでは、という理由で、もうひとりも取り下げてしまい、証人を引き受けた先生はわざわざ県教委に睨まれに行ったようなものだった。教育委員会にも村議会にも睨まれ、36年4月、転出希望も出さなかったのに、アカ教師というレッテルを貼られて、片品小学校へ転出になった。片小では歓迎されたが、また1年生50人の担当になった。アカ教師がどんな者か知ってもらおうと、「無理しなくていい」と言う学校側を振りきり、新入生を迎えた2週間後、授業公開をした。30数名の親たちが「学校へ来ると、子供たちは違う」と驚いた。この時期の1年生を引きつけるのは容易ではない。全身汗びっしょりだったが、一本とった。片小に3年勤めた後、東小川分校に赴任する。
44年度から、県の体育指定校になる。2年間で、初年度は中間発表、次年度にまとめの印刷物を出して本発表になる。県からの予算は印刷物で消える。指定校へ回すため、村内各校の予算を絞りに絞り、PTAが大なり小なりの手助けをする。学校教育の中で必要なものなら整えるのが当然なのだが、指定校を受けると施設充実に繋がる。それを欲しいがために無理が行われた。中味をどうするか、計画は、前指定校はどうやったか、会議会議に明け暮れて疲れ果て、本来専念したい学級にしわ寄せが来る。マイナス面も大きいが、それは表に出して欲しくない、出させまいという圧力がかかって来る。あちこちを犠牲にしながら、いつの間にか発表が目的になって、結局は子供たちを振り回してしまうことになる。結果的には子供たちに某か役立つとはいえ、学校が常に子供の側に立って考えていれば、官僚が机の上で考えることなどに振り回されることもないはずなのに。
片品へ来て17年目の昭和45年、東小川分校まで数分のとろこに小さな家が完成。先生を慕う教え子たちとその親たちは、先生が片品に骨を埋める決心をしてくれた、と喜ぶ。夢のような山小屋。サークルの格好のたまり場ともなり、一軒家の独り暮らしも賑やかである。
47年3月、退職勧奨の予兆。一級教諭が59歳、二級教諭が58歳が相場のようだ。定年がないのだから、行政側はあの手この手、強いと見ればやんわり、弱いと見れば嵩にかかってくる。通勤できないところへとばす不当転任もある。先生は58歳で一級。来年への伏線か。新年度に入ってからも、頭にこびりついて離れない。定年がないことを権利として闘う。嫌がらせの強制転任をかけて来たら、受けて立つ。そう決心したら、もやもやが吹っ切れた。
第二次冬季休暇が明けた2月、校長から呼び出しの電話。教頭と分会人事委員が同席して、型通りの退職勧奨があった。気力体力もまだまだ責任が持てる、働かなければ生活ができない、定年制がない以上、自らの進退は自身で決めたい、退職するつもりはない、嫌がらせの転任があれば、捨石になる、と勧奨を退ける。職場全員と片品に散らばる組合員がほぼ全域にチラシを配り署名活動を展開、子供の足どりから先生を見ていた人たちから集めた1225の署名を小中学校の代表3名、南小地区(花咲)と片小地区の人たちによる陳情団が携え、前橋の県教育委員会と沼田の教育事務所に届けた。先生の処遇は保留のまま新年度を迎え、お礼と仕事への決意を書いたチラシを全戸に配って、闘いはようやく終った。
教師には定年はなく、異動は地教委の内申がなければできないことが広く知られ、限られた年数の中で全力投球する教師でさえ地域の人たちの目には腰かけとしか映らず、じっくり腰を据える教師を求めていることが明らかになった。本当の有力者は、金でも地位でもなく、働く者の心からの団結と連帯であること、教師が父母や地域を説得する道は、毎日毎年向き合う子供を通してしかないこと、教師という仕事は、その人間性や生きざまを特に問われるものであることを改めて心に刻んだ。
翌49年、再び退職勧奨があったが、前年同様断り、また保留のまま一年生を担任した。
50年3月、内示を翌日に控えた日、教育事務所の次長、利根沼田教育長連絡協議会の会長と副会長、村教育長の4人を校長が案内して来た。再びの退職勧奨。退職金や年金まで計算してある。延々2時間半、1対4の闘いは何の言質も取られず終り、残った校長にだけ伝えた。「私、来年辞めます」。
こうして、先生は教職最後の年を迎えた。大勢の人たちに支えられ闘って3年、本校から東小川分校に移って12年、片品へ来てから23年目、その間、643人の片品の子供たちとふれ合ってきた。
51年3月、教育長が校長と一緒にやって来た。「有資格者が近くにいてくれるのは、とてもありがたいことです。何かのときには、通える範囲で力を貸していただきたい」。ぬけぬけと、よく言ったものだ。いつでも派遣できるように、県費ででも常時職員を用意しておく責任が行政にある。「お手伝いすることが、結局は行政の怠慢を許してしまいます。私は、そのようなことに手を貸したくないんです」。「でも、片品の子供のために何とか」。「それは、広く行政の立場で考えることです」。片品の子供のため? あなたはこの数年、片品の子供のために何をした、と言うのか。
昭和56年、先生は一冊の本「子どもに教わる-わたしの片品村」を記して、東京に戻った。それから10年ほどして、私は母から、先生が亡くなったことを知らされた。
散りてのちおもかげに立つ牡丹かな 蕪村
平成15年5月末、私は片品に引っ越してきた。この溢れる緑、豊かな自然を裏切るようなことを役場の所業に見るにつけ、何度、先生と話したいと思ったか知れない。23年におよぶ片品での教師生活の中で、先生を慕う人たちの中に残した思い出以外に、先生は何を残したのだろう、とときどき思う。あの華奢な体に貫かれた気骨こそ片品に遺すべき遺産だと思うのだが、それを受け継いだと感じられる人には、残念だが、まだ出会っていない。
(木暮溢世)
良心と役場(官僚・権力)は永遠の矛盾である。この矛盾を解消するには権力を持つ側の人間がよほど謙虚でなくてはならないが、そんなことは奇跡を期待するようなもので、木に登って魚を求めるに等しい。千明金造が特別傲慢不遜な人物であるのは、千明が権力を持っているからだ。権力の座から降りれば金造も結局ただの人になるだろう。
この一関文子先生の時代は、今の千明金造の時代より数十年前の時代である。だから金造は一関先生を取り巻いていた教育長や校長の行動には何の関係もない。なのに、当時の何と今日に似ていることか。つまり勤務評定と安保はもはや問題ではなくなってしまったが、良心のある教師をその良心故に迫害する、という構図は少しも変わっていないし、子どもが不在である特徴も相変わらずそのままである。教師の方が萎縮してしまい、声を挙げるものが減ってしまったため、権力が幅を利かせ、一見平和そうに見えるだけにすぎない。
投稿: 峯崎淳 | 2010年5月18日 (火) 07:12