沼田はなぜ変われないのか(その4)
『沼田町史』という本がある。沼田が市になる前に町の時代があり、町であった時代の終わりごろ(昭和二十七年)に作られ出版された。発行者は利根郡沼田町、研究執筆者は石田文四郎である。石田文四郎は日本国民思想史の研究者で当時すでに学者として一家をなしていた。この石田がなぜ専門外の沼田の歴史を書くことになったのか。それには今の人にはなかなか理解できない事情が絡んでいた。戦争中石田は沼田町柳町の松井郡治方に疎開していた。そろそろ東京へ帰って仕事に専念しようかと考えていた矢先に町史編纂を頼まれたのである。石田は書いている。「沼田にいれば、沼田の厄介にならぬわけには行かぬのであるから、その芳情に応えるため、ひとつやってみようかと、一応お引き受けすることにした」。石田は、「疎開者につきものの、にわか百姓の真似をやっていた」日誌を調べてみると、三月の末から十一月まで時間数にして約六百時間、日数にして約六十日、農作業に費やしていることがわかったので、この百姓仕事を止め、さらに十二月から三月の農閑期に四百時間を都合すれば、一年に千時間、二年で二千時間、日数で割れば、一日約三時間弱の時間が得られる計算である。二年間二千時間で千五百枚ぐらいのものを書くことは、彼の著作経験から考えて難しいものではないと思った。ところが始めてみてすぐにそれは実に甘い考えであったことに気づく。沼田にはたくさんの資料があり、編集委員がそれを集めることを引き受けるという条件であったから軽く考えていたが、沼田根元記、沼田記、沼田伝記など多数ある資料はその大部分は単なる伝説にすぎない。真の沼田史を書くには、自分で各旧家などの古文書などを調査研究し、それによって新たに史料を求め、組み立てなければならかった。そればかりか、古来沼田は全利根と一体であったから、利根の政治、文化、歴史の中心であった。つまり、沼田史をつくることは利根史をつくることでなければならなかった。
当初一日三時間、二年で仕上げるはずの仕事が、他のすべての仕事を放棄してこれに専念すること千百七十六日すなわち丸三年と二ヶ月余、かかってようやく脱稿した。昭和二十七年六月だった。
この『沼田町史』は数ある地方史のなかでは傑作とされている。石田自身が言っているように、沼田の歴史が「国史の一部としての沼田」となっているからである。
石田文四郎という大家をして『沼田町史』にこれほどのエネルギーを注ぎ、犠牲を払わせたものは何だったのか? それは、元町長細田浅松を初めとする編纂委員の純情とひたむきな情熱だった。その委員のなかには、町議で文化部長だった金子安平がいた。金子は戦争中徴兵され戦地から帰ってきたばかりだったが、「文化国家建設への一事業」としてこの町史の編纂に労を惜しまなかった。
金子安平の人柄についてエピソードがある。やはり東京から沼田に疎開していた小学生にSという子がいた。小学生ながら体格がよく運動能力が抜群だったSを金子安平監督はサードに抜擢したばかりか、チームのキャプテンにした。そのチームには安平自身の息子も入っていた。戦後間もない沼田には余所者と言って外来者を差別する風習はなかった。沼田は懐の広い町だった。Sはその後東京に帰って大学を卒業し、サラリーマンになり、定年まで勤めあげる。定年を迎えたSは老後をあの懐の深い、沼田の町で過ごそうと沼田に移ってきた。しかし、沼田市はかつての沼田町とは似ても似つかぬ町に変わっていた。
沼田は高度成長を経て今日に到る過程の中で大事なものを失った。別の言葉で言えば、沼田は堕落した。拝金主義が横行し、人を出し抜いて自分だけ得することが賢いことだという風潮が蔓延している。恥知らず、という言葉は死語になった。市長が誰よりも恥知らずなのだから、市議や市役所の幹部連中が恥知らずのエゴイストになるのは当然と言えば当然である。小泉改革以後とりわけその傾向が強まった。今沼田は、星野の悪政により、夕張化に向っているが、誰も立ち上がろうとしない。市長選挙が終れば値上げのラッシュが待っている。市民へのサービスはますます低下する。
私は『沼田町史』をときどき引っ張り出して読む。そしてこの五十年ほどの間に消えてしまった沼田とそこに生きた本物の人間たちを懐かしむのである。(峯崎淳)
市長が誰よりも恥知らず、、、って、具体的にはどういうことですか。さしつかえなければ
投稿: 一市民 | 2010年4月17日 (土) 16:24
星野巳喜男はひとつの葬式に五回からすくなくとも三回顔を出す、と言います。お通夜、告別式はもちろん初七日まで行くそうです。葬式という私ごとを利用して選挙運動をやっているわけです。初めは公用車を使うのを避けていたとも聞いていますが、今もそうかは知りません。市長としてすべき仕事をせず、公用車を使えないような私事に行き、選挙運動にセイを出すのは恥ずかしいことです。これを恥じと思わぬ神経は恥知らずと言わずなんというのでしょう?
投稿: 峯崎淳 | 2010年4月17日 (土) 16:55
利根村の盛りのついた野良犬が片品の飼い犬に子を産ませたそうです。もう随分前のことですが、飼い犬は飼い主に「あの子はあんたの子じゃない、○○○の子だよ」と言って別れた、って言うのを埼玉に住む元飼い主が言った、というのを聞いたことがあります。
野良犬も飼い犬もどっちもどっちですけど、犬畜生並みの恥知らずってことですね。
投稿: 一市民 | 2010年4月17日 (土) 21:31
新上毛カルタ:沼田・片品篇
「桃栗三年柿八年、ちちくりあてにげ三十年」
投稿: 地獄耳 | 2010年4月18日 (日) 03:03
The bitch was not a councillor yet nor the s.o.b. was a mayor then.
投稿: Eavesdropper | 2010年4月18日 (日) 19:43
4/18日19:43 投稿の異国語をどなたか和訳して下さい。
投稿: 田吾作 | 2010年4月19日 (月) 20:29
異国語は英語です。意味を試訳すると
「あばずれはまだ議員(市議ないし町、村議)ではなくろくでなしは当時市長ではなかった」壁の耳、となります。
注釈すれば、bitchは牝犬という意味ですが、普通、あばずれ女を指して使われます。councillor地方議会の議員、村議、町議、市議などを言います。s.o.b.はSOBと大文字で書くこともあり、son of a bitch の略で一般に「あばずれの息子」すなわちろくでなしを意味します。s.o.b.と省略形にしているのは、この言葉があまりにも下品で人前でしゃべることが許されなかった昔の習慣から来ています。ののしり言葉として喧嘩などで使われます。eavesdropperは盗み聞きする人という意味。
投稿: 英語教師 | 2010年4月20日 (火) 06:07
また星野市長になってしまいました。この町の救世主として手を挙げる人物は現れないのでしょうか…。
選挙前のパホォーマンス、沼田公園の公衆トイレ建設。今回については、新宿区長との対談。本当にウンザリです。
上の町の開発はどうなるのでしょうか。
住民は家も建てられず先の見通しもつかず、市からの回答もないまま不安で一杯な人達もおられます。
除雪の予算も組めないのに市議の補欠選挙ってどういう事なのでしょうか…。
『ここに暮らしたって何もないから外に出なさい』
明るいビジョンの見えない町にここにいなさいと、親として言えません。
投稿: 市民 | 2010年4月20日 (火) 10:07
新聞はネットで読んでいる。朝日の全体と毎読は群馬版、そして東京と上毛。「星野氏、無投票で3選」を月曜朝の新聞で知った。読売は万歳する写真の中に大沢知事や山本一太の破顔一笑もあって、毎日は藤岡市長選の付け足しのように、東京は山積する課題に3期目を迎える市長の問われる力量をチクリと、上毛に載った写真には笑えたが、各紙各様の書き方にそれぞれの紙風が感じられて面白い。ん? O.M.G.! 朝日には載っていない。17日には、無投票の可能性を書いていたけれど、結果は取り上げる価値なし、ってことか。それとも、The bitch was not a councilor yet nor・・・・ってこと? まさかね(笑)。
「責任の重大さを感じている・・・」と挨拶したそうだから、葬式に現を抜かしていないでもらいたい。気になったのは、東京の記事の中の「名誉ある無投票で3期目を迎えられ・・・」という個所。名誉ある無投票? おいおい!
大きな勘違いの市長と、それでも支持する多くの人たちと、ただ座っているだけの多数派の市議たち。沼田は変われるはずないやね。
投稿: 木暮溢世 | 2010年4月20日 (火) 11:08
終戦後間もない頃沼田湖問題という騒ぎが起きたことがある。利根川を綾戸辺りで堰きとめ巨大な人造湖を作って発電すれば、相当な電力が得られる、と言った人がいた。電力の鬼松永安左衛門である。沼田の住民は驚いた。戸鹿野から屋形原までお百姓が反対デモに出て行進した。
松永安左衛門は時にとんでもない事を言い出す。しかし、茶人にして実業家だった松永の言葉には忘れがたいものもある。そのひとつが、近衛文麿について語った秘話だ。近衛文麿は戦前首相になった男だ、近衛がマスコミなどにもてはやされ鳴り物入りで政界に登場したとき、松永は「浮かれ革新」と酷評した。人々は始まったばかりのシナ事変を収拾してくれるものと近衛に期待した。ところが、首相になった後にわかったのは、近衛が政治家にもっとも肝要な決断力を欠いていることだった。優柔不断、いざというときに踏ん張りが利かない。このため日本はずるずると陸軍に引っ張られ泥沼の戦争にはまり込んで行った。松永はこのことを見越していたと思う。
松永は近衛が見かけはいいが、決断力がないことを知っていた。それは、かつて近衛の友人として欧州旅行に同行したことがあり、貴公子近衛が女に持てているのを知っていた。そのうちの一人と別れる話しをしなければならないときが来た。近衛は卑怯にも仮病をつかって逃げようとした。このとき松永は若き近衛を厳しく叱責している。男はそういう別れるときこそきちんとけじめをつけなくちゃならない、言いにくいことをいわなくちゃならない。お前は男として落第だ。
晩年は大茶人になった松永だが、若い頃はめちゃくちゃに女遊びをした。女とできるより、別れ方が難しいとはその経験から学んだ教訓だった。女との別れ方に、男のすべてが現れるからである。
近衛は甘やかされた軽薄才子だった。性格が弱く男の風上に置けぬ男だった。結局、日本を破滅に引きずり込んだのは近衛である。
松永はそのことを予見していたのである。
悪事千里という言葉もある。うまくやったつもりでも、見る人が見れば丸見えなのだ。
投稿: 峯崎淳 | 2010年4月21日 (水) 22:44
悪事千里。言い得て妙、ですね。bitchとs.o.b. 。類は友を呼ぶ。これもなかなか、です。同じ穴の狢、って言葉もあります。
「星野、無投票で3選」が月曜の朝日新聞に載っていなかった、とコメントに書きましたが、21日の群馬版に星野巳喜雄の「横顔」が載っていました。
http://mytown.asahi.com/gunma/news.php?k_id=10000001004210001
家族は妻、中学生の長男と3人暮らし、だそうです。
また、「頓挫した再開発事業 沼田市の課題」との記事も載っていました。
http://mytown.asahi.com/gunma/news.php?k_id=10000001004210002
記事の最後に、星野のコメント「事業をやめたときに補助金の(国に)返還が発生すると考えられ、現時点では事業を進めるしかない。時代背景と地元の実態をいろんな角度から研究し柔軟に対応する。市財政は健全化に向けて努力しており、改善している」とあります。悲愴感さえ漂いますが、2期8年の星野市政の結果が沼田の今日の現実である、と認識しているのか、疑わざるをえません。
投稿: 木暮溢世 | 2010年4月22日 (木) 08:00
糸井河原の利根農民連の直売所に行ったとき、そこで働いている元市議の奥さんから聞いた話です。奥さんは星野巳喜男に縁談を世話したとき、乗り気だった巳喜男がいざとなるとぐずぐずと態度をはっきりさせなかったので「女を馬鹿にすんじゃねえ」と思いっきり頬を引っぱたいたそうです。
今になって考えると決断できなかったことには理由があったのだろうと思います。
このような女傑にこそ市長になってもらいたいです。
投稿: 農婦 | 2010年4月24日 (土) 09:50