なぜ沼田は変われないか(その3)
先日知的障害の子を持つ女性と話す機会があった。女性の息子さんが通っている市の福祉作業所の定員は三十五人に増え、現在入所者は二十九人で待機者はいない。担当窓口に行き、見学してから体験入所し、医師の診断書と療育手帳があれば、入所できるという。
私にも重度の知的障害を持つ長女がいる。沼田に越してきた十年前、障害者を受け入れてくれるところは定員二人の地域ホームと定員六人のディサービスと定員十人の作業所だった。座敷牢に入れられている障害者もいるとの噂があったが、市の福祉担当者はそれをありうることと認めていた。
地域ホームもディサービスも作業所もすでに定員一杯だった。まず重度の障害者を受け入れているディサービスを見学に行った。 初日は一緒に作業をしたりして一時間で帰った。翌日も行くと当時の障害福祉課主任は「見学は一回で一時間だけです。何度も来るなんて非常識です」と居丈高に言った。驚いて帰宅すると夫が即座に電話をかけた。「娘には行くところがない。お前に見学を拒否する権利があるのか。お前が言ったことをすぐ文書にして出しなさい。差別として問題にする」。
驚いた主任は電話を係長に回し係長は課長に回した。夫と私は「娘を受け入れられない理由を文書にして出しなさい」と電話でも言い、出かけて面と向かっても言った。係長と課長は「文書は出せない」と逃げ回るだけだった。しかし、主任の態度はそれ以来一変し、長女の問題に丁寧に対応してくれるようになった。根は親切で優しい女性だった。彼女の計らいでディサービスに一週間体験通所することになった。ディサービスは車で通園者の送迎をしている。娘も乗せてもらえないかと頼んだら「保険に入っていないから駄目だ」という。「保険に入りますから乗せてください」と言うとそれでも駄目だと言う。夫が「今言ったことを文書にして出しなさい」と係長と課長に何度も通告したがまたもや逃げ回るだけだった。体験通所が終ったので、「誰かが休んだら、その日だけでも通わせてください」と頼むとそれも駄目だと言う。主任はディサービスの体験通所が終ると作業所に十日間体験通所させてくれた。それを終えたらもう長女には行くところがない。主任は施設に短期入所することができる、と教えてくれた。
考えた末、昭和村にある「たけのこ学園」に短期入所させることにした。「たけのこ学園」は「寝室はベッドで二人部屋」というような設備の整った施設ではなかったが、経営者一族が心豊かな人たちで職員もその薫陶を受けている。入所者たちが伸び伸びと暮らしている様子を見て長女をお願いすることにした。二年後くらいに正式に入所でき、現在は落ち着いて暮らしている。帰省の度に社会的に成長しているのを感じる。
たけのこ学園に入所するまで沼田の「手をつなぐ親の会」に入っていた。この会は会長が強い権力を持ち、会長に従う人たちの意見しか通らなかった。最初に会長に会ったとき「会議等の日程は後で知らせる」と言われ、待っていたが、梨のつぶてだった。偶然出会った「親の会」の会員に自分から連絡しなければならないと言われ、慌てて連絡を取った。会議はすでに済んでいた。他にも連絡が届かないことがあった。会議で意見を言えばことごとく否定された。
「送迎できない障害者の親もいるのだから、作業所でも送迎してはどうか」と言うと「そんな必要はない」と一蹴された。
後日別の会議で会長が 「障害者は交通弱者だから送迎が必要だ」と言うのを聞いた。長女を普通学級に通わせた経験があり、統合教育に関する著書もある私は仲間を通して大阪の障害者に対するさまざまな取り組みを知ることができた。大阪は福祉の先進地である。大阪の障害者福祉の取り組みを話し、そういう取り組みを学んだらどうか、と話すと「よその県のことは言うな」と一蹴された。
「長女は行くところがない。同じ市民なのに十分なサービスを受けられる人と全くサービスを受けられない人がいるのはおかしい。市はどんな障害者も受け入れるべきだ」と発言すると「行くところがないのはあなたのお子さんだけではない。他にもたくさんいる。私たちは行政と仲良くやって行きたい。喧嘩する人とはやりたくない。こんな議論は時間の無駄だ」と強い調子で言われた。会長やこういう発言をする取巻きの子どもは市の十分なサービスを受けている。会長とその取巻きは自分の子どもの福祉にしか関心がない。受益者が増えれば自分の子の取り分が減ると思い込んでいる。
彼女たちは「希望の星」と呼ばれた女性市議の票田でもあった。それに疲れて「手をつなぐ親の会」を止めた人を何人か知っている。その人たちは陰で不満を言うことはあっても真向から立ち向かうことはない。この構造が続く限り沼田は変われない。たけのこ学園への入所を機に私は「手をつなぐ親の会」をやめた。以前住んでいた地域では障害者は平等にサービスを受けられた。地域の「手をつなぐ親の会」の人たちとは真向からぶつかることも多かったが、長女も私も排除されることはなかった。多忙を理由に会議に出なければ出席を要求された。必ずしも私の主張が受け入れられたわけではなかったが、私の新しい感覚と視点は必要とされた。(山崎のぶ)
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