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メンバーの裁判

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2010年2月 9日 (火)

朝青龍と島国根性

 朝青龍が引退した。自分から進んで辞めた形だが、本人が納得していたとは思わない。
この横綱には以前から品格がない、と批判する人がいた。とりわけその急先鋒と見られていたのは脚本家の内館牧子という女性だった。元横綱審議委員である。

 相撲を取ったこともない女が大相撲に口出しするのは、如何なものか、と思っていたら、案の定それが裏目に出た。横綱の品格論議である。相撲道などという昔は聞いたこともなかった、変な新興宗教のようなものがはやりだした。ターゲットは朝青龍であった。

 朝青龍は荒っぽい力士である。闘志が余って、勝負が終った後に、相手に駄目押しの一突きをしたりする。土俵の外でもやんちゃな振る舞いが多々あった。

 しかし、たくさんいる日本人の力士たちは、誰も朝青龍に勝てなかった。対等に闘えるのは、これもモンゴルから来た白鵬ただ独りである。

 朝青龍は酒によって一般人を殴り鼻の骨を折る重傷を負わせた。朝青龍がなぜ暴れたか真相は謎である。

 待ってました、とばかりに、これに飛びついたのは、品格論議が好きなマスコミとその周辺、及び横審の外部理事だった。この馬鹿者どもが騒ぎ立て、遂に朝青龍の力士生命を断ってしまった。

 これで最も傷ついたのは、外国人が持つ日本人のイメージである。モンゴル人でなくても、日本人は卑怯者だ、と断定するだろう。相撲でどうしても勝てないチャンピオンを、謀略で葬ったと受け取るだろう。

 石原都知事の談話は、日本人の思いあがり以外のなにものでもなかった。「日本の文化を尊敬しない横綱など、どんなに強くても要らない」と言ったのだから。

 日本人の品格論者に尋ねたい。「高砂親方にはなにか処分があったのか?」
 高砂は朝青龍を育て、朝青龍が部屋にいることで有形無形の利益を得た。高砂は、しかし、力士の守るべきマナーを教育することに失敗した。これは、親方として処罰されるべき無能、怠慢、無責任の結果である。高砂はクビにすべきだった。

 高砂を処分すれば、日本人のイメージが改善するわけではないが、何もかも外国人の所為にして逃げる卑怯者のレッテルは少しぼやける。

 相撲協会が選ぶべきだったのは、どんな苦労も覚悟で全国の小中学校に土俵を復活させ、強い力士を育て、土俵の上で朝青龍を倒す日を願うことであった。

 かつて日本は満洲国という国を創ったことがあった。五族協和の王道楽土を実現するといううたい文句だったが、実際には日本人以外を劣等民族とし、徹底的に差別した。朝青龍の事件は日本人の独善が少しも変わっていないことを証明した。日本人は傲慢である。

 自分自身の姿を外国人の目で見るとどう見えるか、想像できない人は独善に陥りやすい。
相撲協会やその取り巻きの相撲ファンは、相撲が日本の固有の文化であり、そこには相撲道なる宗教に似た価値体系があり、横綱は強さと品格を要求され、何が品格かは、日本人が日本人の文化価値観で決定する。外国人力士もこれに遵わなければならない。日本の大相撲の力士なのだから。
 この論理のいかがわしさに気づかぬ(これを当然と思う)人は、国際感覚に問題がある。

 朝青龍が断罪されねばならなかったのは、力士という土俵上で戦うことを職業としている人間が、土俵の外で普通の人に暴行を働いたことによってである。それは人類共通の文明に反する蛮行であった。これなら、誰も異議のはさみようがない。

 閉ざされた狭い社会に生きている人は、広い社会の観点を失いがちである。沼田の人々は綾戸からこちらだけの井戸の蛙になりがちである。特に為政者は自戒する必要がある。(峯崎淳)

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コメント

昭和生まれの私は子供の頃盛んに相撲を取って遊んだ。しかし、相撲道などという言葉は聞いたことがなかった。大相撲は日本の国技であるという話しも聞かなかった。相撲は取るものとみんなが思っていた。それ以上の説明は要らなかった。
国技だの相撲道などと言い出したのは、大相撲に外国出身の力士が現れ、勝ちだしてからだ。日本人を追い越して横綱になる者が顕れ、一層かまびす敷く言われだした。そこへ品格が加わり、相撲を取ったこともない女がしゃしゃり出てきた。相撲界にもこれに迎合するお調子者が出る。
相撲の精神は万国共通の「フェア・プレイ」で何が不足か? 相撲協会は「フェア・プレイ」の精神だけをに徹底すればいい。それにはまず協会自身が実践することだ。

 日本人は「道」が好きなんですね。何にでも「道」をつけたがる。柔道、剣道、弓道、相撲にまで「道」がつく。そもそも「道」とは精神性で、運動能力、技を競うスポーツでも、和製のそれには必ず精神性が求められる。「根性」「気合い」という言葉が跋扈する。私はこの「根性」という言葉が大嫌いで、耳にするだけで虫酸が走ります。デリカシーの欠片も感じられず、言葉として認めたくないほどです(笑)。「頑張る」という言葉も同じ理由で嫌いです。そんな感覚ですから、カロリーメイトの広告に「精神力でゴールはきれない。」というキャッチフレーズを見たときには、我が意を得たりの気分になりました。
 いつの頃からでしょうか、国際試合に出かける代表選手が「楽しんできます」と笑顔で言うのを聞くようになって、日本人も変わってきたなあ、と思うと同時に、頼もしく思うようになりました。だって、スポーツの場面で悲愴感など見たくもない。
 間もなくバンクーバー冬季オリンピックが始まります。日本選手には、日頃の練習の成果を思う存分発揮してほしい。その先は、もう「気合い」入れて、「根性」出して、「頑張って」ほしいですね!? ??

バンクーバーと言えば、スノーボードの國保選手が、服装がだらしないとやり玉にあげられています。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/sports/snowboard/?1265940831
 この時期に、競技以外のことで責められるとは、お偉いさんによほど嫌われているのでしょうね。しかし、自由奔放なところが魅力のスノーボードですからね。
 國保選手は団長の橋本聖子にも注意されたそうですが、参議院議員でありながら、国会開催中に選手団長としてバンクーバーに行ったきりの橋本聖子の方が大きな「勘違い」をしていますよね。

 スノーボードの国母選手の件について、私もほとんど賛成のこんな意見もあります。
http://www.kikko.cocolog-nifty.com/kikko/
 ちなみに、今度のスノーボードチームの監督は、戸倉の萩原文和氏です。戸倉には、同チームの国内強化コーチもいます。ただ、こうした折角の人材が「片品村」では活かされない。千明金造は片品は人材に恵まれている、とよく口にします。どういう人材のことを言っているのか知りませんが、次元の違う人材の活かし方は、わからないのでしょう。
 片品の少年サッカーの交流相手の横浜ドイツ学園に手紙を書きたいらしいのですが、人材豊富と言いながら、英語の手紙を書ける人間が役場にはもちろん、千明金造のまわりには誰ひとりいないらしい。
 もうちょっと素直になれば、見えないものも見えてくると思うのにね。村長の沽券に関わるとでも思っているのでしょうか。

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