Run to Daylight.
「片品は変わらない。それは歴史が証明している」。
都会から片品に移住して、新しい生き方を見つけ、初めて経験する都会とはまったく違う村長選に真剣に向き合おうとしている若者に、ただ年長というだけで上から目線で大層なことを言って、その熱い思いに水を差す。こんな奴の存在が、片品村がずっと変われないままきた元凶なのだ。
片品はいまのままでいい、変わらないでいい、変わらない方がいい、と言う人は、村の現状を嘆かず批判せず、声も上げず愚痴りもせず、ただ黙々と食って寝て、起きて働いていればいい。誰がやっても変わらないと言うなら、たかが1票なのだから、それを行使することさえ無駄だろう。そんな人は家で寝ていてくれればいい、と森喜朗のようなことを言うつもりはないが…。
いまの疲弊した村の現状に満足している人がいるとは考えられないから、ほとんどの村民は、多かれ少なかれ、何かしらの変化を望んでいるんじゃないかとは思う。だが、果たして片品村は変われるのか。
従来からの村民がやる限り、誰がやっても大きな変化は望めないだろう、というのが、ここに移住して6年半が経過した私の正直な感想だ。私がやれば、とおこがましく言うつもりはないが、片品の枠でモノを考えることをせず、従来からの片品の既成概念にはない考え、感覚を持った人物がやれば、あるいは、少しずつではあっても目に見える変化を期待できるとは思う。知識と知恵を備え、正義感に燃え、あちこちの自治体で出現している30代の首長のような人物が手を挙げれば、私はもろ手を挙げて応援したいと思う。
そうは思うが、1週間後に迫った現実に戻ろう。千明金造については、もううんざりしているから、申し訳ないが、このブログのカテゴリー「片品村」を読んで、彼の実態を知っていただきたい。村長選に向けて配られたチラシの類いには通り一遍のきれいごとが書かれているが、言行一致がないことはこの4年の“歴史が証明している”のだから、もうどうでもいい。
萩原一志に私が初めて会ったのは、2年前の8月末である。議会だより113号(平成19年8月20日発行)で尾瀬オゾンシアターの予算・決算についての一般質問に「なぜ、もっと突っ込まないか」と事務所に押しかけたとき、1件について3回の質問しかできないことを、彼は悔しそうに話した。その後も、どこかで出会えば、立ち話をする程度の付き合いでこれまできたが、今年6月の議会で、彼が教育長の嘘の答弁を追求する姿を傍聴席から見た。(須藤澄夫に退職金を返還させよ。)一問一答方式に変わった一般質問の制限時間40分が足りない勢いで追求する彼の背中に、正義感を見た。
とは言っても、萩原一志は首長としては未知数である。所詮は村の人間だから、と移住して来た人間からの逆差別はやめよう。彼の陣営が作ったポスターやチラシは、プロのデザイナーの私の目から見れば、「おいおい(笑)!」と言いたくなるようなものである。マニフェストと称するものも稚拙ではある。しかし、稚拙な中にも、誰にもわかりやすい言葉で考えを伝えたい、という思いは垣間見える。これまでの地縁血縁に頼った選挙に新しい形を取り入れようという気持ちは伝わる。こんなわずかなことから何事も始まるのだから、ここに片品村が変わることを期待してみようかと思う。萩原一志の正義感が本物かどうか、これからも監視は続けよう。
アメリカのプロフットボールリーグNFL、マイアミドルフィンズにラリーゾンカというランニングバックがいた。60年代後半から70年代にかけての名選手である。華麗にダウンフィールドを駆け抜けるOJシンプソンと比べると、中央突破で3ヤードのゲインを狙う無骨で泥臭い選手だった。OJが王、長嶋とすれば、さしずめラリーは野村克也に例えられようか。そのラリーゾンカの著書に「Run to Daylight」がある。直訳すれば、日射しに向かって走れ、であるが、相手ディフェンスのスクリメージラインにできた隙間を突いて、中央突破で3ヤードのゲインを狙うプレイスタイルが、そのまま本のタイトルになっている。
明日からの村長選と、その先に出る結果がどうあれ、厳しい日々に向かう萩原一志に、この言葉「Run to Daylight」を贈ろう。堂々と、中央突破を狙ってくれ。
最後に、先日、花咲のあるペンションのご主人が、この夏に亡くなったと聞いた。東京から移住し20数年、お嬢さんたちもここからお嫁に出したと聞いていた。彼と何度か話したが、ここの溢れるほどの自然を気に入りながら、それに似合わない村を嘆いておられた。片品が変わることを望んでいらした彼にいい知らせが届けられるようにと、切に願う。合掌。(木暮溢世)
環境汚染物質を畑に埋めて、「自分の土地だ。他人に迷惑はかけてない」と開き直るような男は尾瀬の玄関口の番人にふさわしくない。歯の浮くような美辞麗句を並べるだけでは、環境は守れない。軽薄な馬鹿騒ぎで村興しはできない。守ることと、興すことが一体となる村政がやれる人を選ぶべきだ。余所者は祈るような気持ちで、村長戦を見守っている。
投稿: 峯崎淳 | 2009年10月20日 (火) 21:54
不透明・不公平・不公正な現村長とその取り巻きには憤りを通り越してあきれるしかないです。今日ほど片品の将来に不安を覚えたことはないくらいです。一有権者として、そして時折帰省する若年層の一人として、権力を私欲に使う者をこれ以上野放しにするつもりはありません。また、いつか帰ってくるかもしれない片品村をいつでも誇れる村であってほしいと心の底から思います。たかが一票、されど一票です。権力が村民のために行使されるようになる結果を祈りたいです。
ところで小暮さんは村の外からいらしたということで、そういう方がずかずかと言ってくれるのはとてもありがたいです。やはり家族や友人関係から「村」では難しいところが多々あります。これからも事実を軸にした情報を村議会・村民にぶつけてほしいと思います。
投稿: H | 2009年10月25日 (日) 01:11
Hさん、コメントをありがとうございました。
片品の人たちが昨日まで生きてきた結果が、今日の現実です。あなたと同じように考えている人が1949人いることはわかりました。しかも、若い人が多かったことを心強く思います。99のたかが一票で届かなかったのは残念ですが、これが今日の現実です。明日からの一日一日を、一人ひとりがどう生きるか、それを4年後の現実につなげましょう。
投稿: 木暮溢世 | 2009年10月26日 (月) 14:45