利根沼田と美術の祭典
中之条ビエンナーレを見てきた。現代美術は、既成概念に反抗するところがあるから、見る側も既成の美意識を脇に置いて鑑賞する必要がある。そこに表現されるものも多様で、これが美術か、と驚くようなものがある。それでも中之条の市街地に散らばった展示場を巡り歩くのは楽しい。
町長の話では、二回目の今回は前回の三倍の観客が来ている、ということだ。前回は一万人ぐらいだろうと見ていたのが、実際には三倍を超える四万人が来た。今回は単純計算でも十万以上が来るだろうと見ている。
沼田は観光都市と名乗っている。片品村には尾瀬という国立公園があり、観光客やスキー客ボーダー客の訪ずれを願う観光村でもある。しかし、沼田や片品で中之条のようなイベントをやれるかと問われると答えは悲観的なものにならざるをえない。
中之条に出来ることがどうして沼田に出来ないのか。一番大きな理由は、行政にある。行政の指導者の質が低すぎるのだ。市長の星野巳喜男は、すべてにおいて志というものがない。あるのは、野心である。市民の幸福などそっちのけで、自分の票固めをする。ムダな振興局長を温存し、必要もない支援センターをつくる。すべて来年の市長選挙に向けての票固めが狙いだ。
美術展は純粋アートの無垢さ、穢れのない純真さで人の心を洗ってくれる。それが魅力で各地から大勢の人々がやってくる。片品や沼田に欠けているのは、町興しの欲望ではない。カネ勘定が先に立ち、何ごとも補助金目当てでなければやれない卑しさがこのようなイベントを不可能にしているのである。(峯崎淳)
先週ビエンナーレに行って来ました。住民の参加なしには絶対にできないイベントです。どうやって、住民の合意と協力を得たのか、その過程にとても興味を持ちました。
また、出展者からいろいろと話を聞いてきました。昨年、沼田でも類似のイベントを試行したそうです。しかし、お役所から「事故が起こったら誰が責任を取るのか」などクレームが多く、関係者は皆、嫌気がさしてしまったそうです。「もう二度と沼田ではやりたくない」というのが、若手の芸術家の感想だそうです。
既成の概念では理解が難しい人達も含めて歓迎しようと言う気持ちがないのです。なによりもお役人の自己保身が優先されてしまうのです。お役人をコントロールしなければならない政治家があまりにも無能、無気力だからです。
投稿: 杉山弘一 | 2009年9月19日 (土) 07:18
既成の概念では理解が難しい人達の中のひとり、木暮です(笑)。今日、中之条ビエンナーレの残り、四万温泉の8ケ所と沢渡温泉の2ケ所を見てきました。2年前の第1回の11ケ所に続いて、今回は3回通っての鑑賞で、ようやく29ケ所+町長室完全制覇してきました。
前回と比べて、今回特に好感を持ったのは、展示即売狙いの作家(年長者が多い)の参加が減ったことでしょうか。アートを生業にしている人たちの販売を一概に批判はしませんが、前回の58名からそうした人たちがなくなり、110人の作家が参加したということは、若い作家が増え、打算のない、創作意欲に溢れた人たちがほとんどになった、という点で、こころ洗われるような清々しい気分が残りました。2年後の3回目以降がますます楽しみになりました。私も、商業ベースを離れては考えられないデザイナーという立場を忘れて、次回はひとりの作家として参加したいと思っています。
中之条にできることがどうして沼田や片品でできないのか。普遍的な人智に門戸を開くか閉じるかの違いだと思います。つまり、度量が違う。行政上の線引きをどこでするかの違いだと思います。つまり、知能が違う。人としてのことの軽重の認識が違う。つまり、知性が違う。
利根沼田は文化不毛の地だそうですが、それは、この地の人たちが今日の夕飯のことしか考えていないからです。ときどきでいい、一人ひとりが文化の担い手であることを思い出すだけで確実に変わる。今日の夕飯には直結しないけれど、確実に変わる。(えっ、変わりたくない? 変わるのが怖い? 変わる必要がない? だったら、いつまでも貧乏臭いままいりゃあいいんじゃない?)
なお、中之条ビエンナーレ、23日までやっています。ぜひ、行ってみてください。お薦めします。
投稿: 木暮溢世 | 2009年9月20日 (日) 06:15