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メンバーの裁判

« 性懲りのない奴らに | メイン | 20年度決算会議・・・おか目八目 »

2009年9月15日 (火)

須藤澄夫に退職金を返還させよ。

 なんて無礼な奴なんだ、というのが、05年度から3年間片品村教育長を務め、任期1年を残して埼玉に住む家族の元に帰っていった男との初対面での第一印象だった。なにしろ、須藤澄夫というこの男、初対面でいきなり牧水と山頭火をかましてきたのだ。
 03年5月末に、私が東京から片品に引っ越して間もない頃、隣の下小川の集落の川のほとりの小さな家の玄関先に「少年哲学堂」という札が立てかけられているのを目にしていた。東京あたりから来たややこしい学問畑の人だろうという程度の想像以上の興味もなく、スーパーへの行き帰りにもやり過ごしていた。
 1年がたって、あるりんご農家の人と知り合い、いろいろ話す中で、彼が「少年哲学堂」の世話人をやっていることを知り、そのHPを紹介された。内容豊富なHPで、主宰するのは文学系の人というのがわかった。ただ、そこに書かれた「子供たちにとって悲しいことは、目指すべき大人がいないことである」という一文で、傲慢な人物と知った。その人物へよりも、その傲慢さの元に何があるかに興味を持った。
 そんなことがあったある週末、世話人から「少年哲学堂」に寄ってみるように言われた。下小川の農家の次男坊以下として生まれた男は、勉強するしかないと自ら決めて、高校を卒業後、どこかの大学に進んだらしいと聞き、HPの豊富な内容からも、その傲慢さの元を想像することができた。私などは、親から雨あられの「勉強しろ」攻撃を受け、仕方なく机に向かった方だったから、自ら進んで二宮金次郎になろうとしたことには感心するしかないが、幾つかの職を巡った後、飯能の助役を務めることになったこの男にとっては、「俺はやったぞ」という思いはあったのだろう。
 初対面は、片品語録に書いたように、30分後に出直せという無礼極まりないものだった。世話人の顔を立てた私に、この男はいきなり牧水と山頭火をかましてきた。文章の人が、所詮は上岡龍太郎の芸風か(笑)、それとも私を計っているのか。傲慢とは裏腹に、この男の自信のなさを知った。
 その後、越本にある民宿でこの男の脚本での朗読劇があり、挨拶に立ったこの男の言葉の選び方を知って、妙な納得をした。きれいな言葉、難しい言葉が並ぶのだが、その多くが一般の人が日常ではほとんど使うことのないもので、こうしてこの男は、自らの知識人、文化人をアピールしているのだ。しかも、片品の村民性を熟知した上での計算なのだ。HPで見たいくつかの言葉を思い出し、私にはひとつのシミュレーションが浮かんだ。
 「いちばん美しい芸術は、額に汗して土を耕すことである」。一向に楽にならない暮らしに疲れた農家の人には、おそらく天の声のような響きだったろう。村を何とかしてくれる、暮らしを何とかしてくれるヒーローに見えたかもしれない。額の汗を拭いながら、農夫は初恋に胸をときめかせる少女のように目を輝かせた。彼は、タイミングを見計らって「実は、片品には…」と始め、幸田露伴、若山牧水をとうとうと語り、好きな山頭火を讃える。「すげー、いろんなことを知ってる。やっぱりヒーローだ」。農夫はたちまち恋に落ちる。それでも悩みは尽きない農夫に、彼はそっと語りかける。「昔、山形の米沢に、上杉鷹山という人がいてね、彼は…」。「すっげー、行くべー、みんなで米沢へ行くべー」と、押っ取り刀で駆けつける。こうして物見遊山で盛り上がり、片品にひとつのカルト集団ができあがる。
 しかし、カルト集団の常として、彼は決してこれが宗教だとは言わない。信者の目印は「草木うるわし」と書かれた小さな木の短冊。10軒ほどの上級幹部の家の前には、胸の高さの「片品草木塔」。ここは片品だから、緑豊かな片品だから、あくまで「草木うるわし」。口が裂けても、決して「御本尊」とは言わない。
 教団ができあがると、当然ルールが必要になる。それは、教祖としての地位を守るため、教団内の秩序を守るため。しかし、あくまでこれは宗教ではないから「愛しなさい。赦しなさい」とは言わない。知識豊かな彼は、しっかりとルールを用意している。「身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」。道徳的教育論者の彼は、あくまで両親は尊敬するもの、両親に感謝しなさいを旨とする。それでも子育てに悩む人には、一緒に悩むふりをする。「子供たちにとって悲しいことは、目指すべき大人がいないことである」。一緒に反省するふりをする。「為せば成る。為さねば成らぬ…です」。「私こそが、目指すべき大人です」なんてことは、おくびにも出さない。
 いま、片品のあちこちに10本の「片品草木塔」が立ち、幾軒もの家に「草木うるわし」の短冊がある。宗教とは、観念的自己陶酔の状態を言うのだから、信じる者は幸せである。
 この男、亡くなった前村長に請われて、04年に役場職員の意識改革をテーマに2度のセミナーを開いた。鷹山の話をしたかどうかは知らないが、現状を見る限り、セミナーの成果は見られない。意識改革は専門外なのだから、依頼した方もされた方も、どちらもどちらというわけだ。
 ただし、この男の計算通り、05年4月に片品村教育長、須藤澄夫が誕生した。初めて教育のプロが教育長になると拍手喝采に迎えられての就任だった。中国や韓国で物議を醸した「新しい歴史教科書を作る会」の会長を務めた西尾幹二も、電車内での痴漢行為で実刑判決を受けた植草一秀も教育のプロといえばプロなのだから、肩書だけでの評価には浅はかさを感じ、むしろそのことが、私の中で彼への警戒感を強めた。みんな、まんまと騙されている。
教育長としての須藤澄夫については、あちこちでいろいろな噂を聞いたが、どれもが私の印象と共通し、彼の傲慢を指摘していた。住民参加の呼びかけに応えて参加した第3次総合計画策定の会議の席での、黒いものを白と言い張る彼の態度は、私の中での彼への評価を決定づけた。
 前村長の急死に殉じることなく教育長に留まったまま、後継の千明金造が村長になると、須藤澄夫の傲慢はますます度を増していった感がある。村内のある企業の経営陣との食事会の席で、彼は中学時代の同級生だった千明金造を軽んじる発言をし、村長の立場を慮った先方を困らせたとも聞いた。
 長期滞在、半定住を謳った尾瀬オゾンシアターの企画が発表されたとき、私は、公式事業としての企画に感じた数々の疑問以外に、彼の脚本家としての野心を感じた。ある議員から、当時、本拠地をなくしていた劇団昂の資材を村の文化センターの倉庫に無償で預かっていることを聞き、しかも、その演出家をオゾンシアターで使うという。それまで素人芝居でしか使われなかった脚本を、いずれはプロの劇団に演じてもらいたいと彼が考えるのは、文章とデザインとジャンルの違いはあれ、私には同じクリエーターとしては容易に想像できることであり、それまで感じていた彼の計算高さを見れば、そのために劇団昂に貸しを作っていると見えた。
 しかも、議会だより113号(平成19年8月20日発行)に載ったように、定住促進事業として開催されたオゾンシアターの予算と決算についての不透明を追求した萩原一志議員の質問に、須藤澄夫は事業の目的を忘れたかのようなとぼけた答弁をしている。
こうしたいきさつがあったにもかかわらず、07年、村は尾瀬国立公園誕生記念事業のひとつとして、第1回目の総括もされないままの尾瀬オゾンシアターの2回目を実施した。この2回の尾瀬オゾンシアターの裏にあった数々のおかしな事実に関しては、「決して非を認めない片品村」に書いたから、読んでいただきたい。
 片品村に教育長として初めて教育のプロが来ると拍手で歓迎した連中も、結局、奴のやりたかったことは演劇かと背を向けた。課長職を最後に定年退職した元職員によると、須藤澄夫は役場の人事にまで口を出すようになり、これにはさすがの役場内にも少なからぬ反発があったという。教育長に対する事務委任規則(昭和43年4月1日教育委員会規則第1号)第1条に違反した越権行為なのだから、当然だ。
 実は、須藤澄夫は片品村教育長に就任した直後の05年5月20日、埼玉県入間郡に、特定非営利活動法人地域文化プロデュースを設立、理事長に就任している。HPのどこかに、埼玉の仲間向けに「いまは片品で別荘暮らしをしている」と書いたものを読んだが、つまり、須藤澄夫は軸足を家族が住む埼玉に置いたまま、腰かけで片品の教育長をしていたというわけだ。人口5300の小さな村で、子供の数も少ないとはいえ、いじめもあるし、不登校の子供もいると聞く。真剣に村の教育のことを考えたら、演劇をやって遊んでいる暇もないはずだし、まして腰かけでできるような仕事ではないはずだ。そもそも、教育とは、地道な取り組みの積み重ねなのだ。
 07年3月31日、須藤澄夫は任期1年を残して退任した、と聞いた。私の計算によれば、須藤澄夫が腰かけでやった教育長の3年間で手にした金額は、諸手当を除いた年俸773万が3年分で2320万に、退職金361万を加えた2681万である。加えて、須藤澄夫がおねだりした趣味である演劇、2回の尾瀬オゾンシアターに県と村は230万の小遣いまで与えていたのだ。
しかも、ひとりの文学者の表現媒体と思っていた「少年哲学堂」のHPは、なぜか退任と同時に閉鎖された。須藤澄夫の計算高さを前提に勘ぐれば、川のほとりに借りた小さな家とHP他の諸経費、2年間で推定合計150万は、3年間で3000万近い報酬を手にする先行投資としては、充分元が取れると踏んだのではないか。
 ちなみに、どれほど須藤澄夫がその知識をひけらかすことに腐心していたかを示す一例として、06年10月から上毛新聞社第15期オピニオン委員として書いた7本のコラムを紹介しよう。
 役所に映る寂寥私の代表的日本人教育草木塔と草木灯金精峠の群像自然と芸術片品モナリ座

 高校を卒業するまでの須藤澄夫は、四方を山に囲まれ外の世界が見えない片品で、他の村人と同じように生活していたが、勉強すると言って出て行った外の世界で、豊富な知識だけでなく、ずる賢い知恵までを身につけて村に帰ってきた。とりあえずの腰かけを隠して、最後のご奉公を村へのご恩返しという耳障りのいい言葉に、みんな、まんまと騙されたのだ。
 学ばない村は、県庁で居場所をなくした飯塚欣彦を後任の教育長に呼び、県とのパイプという妄想を信じて新たな4年の継続まで決めた。県ではイベンターと呼ばれていた飯塚は、当初片品で演劇をやりたい意向を持っていたそうだが、さすがに須藤澄夫が演劇に現を抜かしていたことが村人の顰蹙を買ったことを知ったのだろう。尾瀬文学賞を画策して、早くも馬脚を現わした。議会だより121号(平成21年8月20日発行)に詳細が出ているが、飯塚は萩原一志議員の一般質問に嘘の答弁をし、納得しない同議員の緊急質問で、その嘘がばれたのである。
 人を見る目もない千明金造は、その資質も見極められないまま、須藤澄夫に続いて、こんなろくでもない人物を教育長に任命する失態を演じている。先の議会で隠蔽工作を計った産業廃棄物不法投棄の問題といい、千明金造には、村長の資格はない。村のこれからの4年間を、絶対に任せるわけにはいかない。
話を須藤澄夫に戻そう。奴は、教育長を退任した後、第15期オピニオン委員を名乗って、上毛新聞社論説室に電話をしたそうだ。受けた論説委員は要領を得ない話に困惑したまま電話を切ったという。奴が何を言いたかったのかは知らない。
 また、須藤澄夫が教育長を退任して埼玉へ帰って1年以上たった先月、聞き捨てにはできないおもしろい話を耳にした。退任した直後の08年5月21日、奴はある市民オンブズマンを訪れ、相談をしたという。真綿で包んだような言い方だったというから、上毛新聞社への電話と関わりがあるのかはわからないが、いかにも奴らしい。要するに、奴は片品村を告発したいと言ったそうだ。しかも、自分は表に立ちたくないから、オンブズマンとして村を告発してくれないかと言ったそうだ。これが、何を、意味するか。
 つまり、奴は解任されたのだ。奴のしてきた所業を見れば、解任は当然だが、解任された須藤澄夫に退職金が支払われた裏には、同級生だった千明金造の温情があったことは容易に想像できる。しかし、温情は個人のものとして理由はあるにせよ、解任をした人物に支払った退職金には正当性はない。返還させるのが妥当と考えるが、どうする?千明金造。公開で答えてくれないか。
(木暮溢世)

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須藤澄夫に退職金を返還させよ。を参照しているブログ:

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耳障りのいいことを言う詐欺師にはたやすく騙される癖に、耳に痛い本当のことを言えば、よそ者が何を言うか、と威丈高になる。利根沼田の原住民のつける薬がない風土病である。片品の村民の大多数は須藤某が自分の故郷の甘ちゃんぞろいに付け込みまんまと大金を稼いで消えたのが、巧妙に仕組んだ合法的詐欺だったことに今なお気がついていないのではないか。こういう須藤のようなすれっからしに手もなくしてやられるのは、やられる側が知性に欠けるからだ。「少年哲学堂」で三千万円!須藤が詐欺した金額は大したことはないが、未だに木暮溢世氏以外に犯行に気づ以た人がいないという点で、被害者の選択が上出来だった。こんな詐欺師にしてやられないように、片品の人は木暮氏に教えを乞うて
知性を身につける訓練をすることだ。でなければ、いくらでも現れる詐欺師にカモにされるままだ。

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