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2009年9月 9日 (水)

知性と沼田

 沼田の市長や市会議員の言動から明らかなのは、彼らには知性が不足していることである。市長などは驚くべき恥知らずな人物だと思われる。見え透いたパーフォーマンスが好きらしく、自転車で出勤したり、大学院に通うのに名札をぶら下げて電車に乗ったりする。朝七時から市民に会って自由な対話を標榜していたこともあった。目安箱を設けて市民の意見を聞こうとしていたこともある。だが、いずれも長続きしなかった。続くはずがない、本気じゃないんだから。考え抜いて決心したものじゃなく、どこかで誰かがやったことの猿真似だったのだから。
 こんなみえみえのスタンドプレーで市民を騙せると思うのは、知性がないからだ。そして、引っかかったわれわれも知性に欠陥がある。

 知性は教育とある程度の相関関係がある。脳の働きだからである。脳には論理脳と情緒脳がるが、どちらが欠けても知性的とは言えない。そしてこの二つの脳が働くには、知識が必要だ。知識には、広さと深さがある。教育と知性がある程度の相関があるのは、知識と教育がある程度相関関係があるからだ。例を示そう。元素という言葉は、小学生でも知っている。では、元素に番号があることはどうだろう? 多分周期律表の知識がなければ、元素番号はわからない。まして、物質の究極は対象性である、というような仮説は相当高度な知識がなければ理解できないだろう。

 では、学歴と知性との関係はどうだろう? 学歴のない人は知性に欠けるとされるが、それは学歴がなければ、教育もない場合が多いからである。しかし、学歴は必ずしも知識の量と比例しない。東大の工学部建築学科の教授安藤忠夫は高卒である。世界的な植物分類学者牧野富太郎博士は小学校しか出ていなかった。これらの人が知性がないと言う人はいない。知識の量は、学校で教わるものもあるが、主として自分で勉強して獲得するものが大きい。

 一流大学を出た人でも、毎日ゴルフをやってお笑い番組を見て酒飲んで寝るという生活をすれば、たちまち馬鹿になってしまう。あたりを見回せば思い当たる人がいるだろう。脳は使わなければ錆びつく。すぐぼろぼろになる。

 さて、沼田の知性、である。読むものはむずかしい本である必要はない。毎日の新聞でいい。ただし、丹念に考えながら読むのである。この、考えながら、というところが大切である。漫然と読み流していたのでは、読むことにはならない。考えることは脳を使うことであり、脳は使えば使うほど鍛えられてよくなる。

 利根沼田の人に不足しているのは知性である。だから、政治がよくならない。浅はかで軽い市長や市会議員がでかい顔をするのは、選挙民が愚かで真実を見抜く目がない、とタカを括っているからだ。自民党が大敗したのも国民の知性を甘く見たからだ。民主党が政権を取れば必ずよくなるとは限らない。しくじるかもしれない。でも、あのまま自公の無責任ちゃらんぽらん政治が続けばきっと日本が崩壊するという心配があった。野党に四年間下駄をあずけてみよう。その間に自民党が生まれ替わり、まともな政党に育っていれば、そして、そのとき民主党がつまずいていたら、とって替わればいい。国民の70パーセント近くが、自民の再生を希望している理由もそこにある。

 利根沼田の人々はもっと利巧にならなければならない。利巧になるには知性を磨くしかない。まず論理脳を鍛える。なにが真実かを自分の脳で考え見極める努力をする。利巧ぶっていても本当は頭が悪く、真面目そうに装っているが、本当は不誠実、偉そうに振る舞っているが、実は決断力がないのは誰か見抜くのだ。

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コメント

 知性がない一番手は有識者と呼ばれる審議会の常連委員です。
 先日、市民活動支援センター設立準備会に、会議を公開して一般市民の傍聴を認め、傍聴者に発言の機会を与えるように求めたところ、いずれも拒否されました。拒否するのは勝手ですが、その理由を聞いて愕然としました。
 会議の公開など他の審議会でもやっていない。議事録を公表しているのだから、それを最後まで読めば必要ないというのです。傍聴者に発言を認める事に至っては、「傍聴者が発言するなど聞いたことがない。」というのである。
 市民参加・市民協働の推進のために審議会の公開が必要であることは、もやは一般常識の部類です。自治基本条例の制定に際して必ず議論される項目であり、会議の公開条例まで作っている自治体(川崎市)まであるのです。また、傍聴者に発言の機会を与えることも、会議運営の常識であって、アメリカの地方議会では制度化されているし、制度のない我が国でも多くの審議会で運営上の工夫として実行されていることです。聞いたことがない。それは無知だからに過ぎないのです。
 こういう事は常識と思っていましたが、いくつもの審議会の委員を歴任しながら知らない。いや知らないのはまだいい。知らないのに調べようとすらしない。図書館にある一般向けの書籍を読めばすぐ解ること、ネットで検索すればすぐ解ることです。それすらしないで、自分らが抱いている沼田の常識(それは世間の非常識)だけで軽々に間違った判断をしてしまう。その狭い了見、これこそがまさに知性がないということだと思います。
 おそらく、有識者の先生方は、とんでもない意見を提出してくる輩がいるものだ思っているのでしょう。しかし、沼田の外に目を向ければ、誰がとんでもないのかすぐ解ります。それを知ってしまうのが怖いのでしょう。それを知る勇気もないのでしょう。
 このような有識者と呼ばれる方たちの知性のなさが、市民参加を阻害しているのです。

 学習して得た知識を、生きる知恵に変えることを教養というそうだ。その知識は教科書からとばかりは限らない。実体験から得た知識で語る人の言葉には、独特の説得力が感じられる。それは、実体験がストレートにその人の生きる知恵になっているからだろう。
 知識をひけらかす輩は疑ってかかることだ。そもそも生きる知恵に変わっていれば、自ずと頭を垂れることを無為のうちに知っている。それが教養というものだ。
 「人はパンのみによって生くるにあらず」とはキリスト教の教えだが、呑んで食って寝るだけが生きることではない。読み、書き、考えること。そうすることで教養が身につく。損得だけでモノを考えては、見えるものも見えてはこない。つまり、それが生きるということだ。
 裏を見せ 表を見せて 散るもみじ
 良寛和尚の最後の句は、人の死にゆく様を通して、生きる様の大切さを謳っている。表だけの人生も情けないけれど、裏だけの人生も寂しいぞ。そもそも、紙切れ一枚にしても、表があって裏があるわけだから、紙切れほどの人生といえど、せめて表も裏も大切に生きたいものだと思う。

木暮溢世さん、知性の見本のようなコメントをありがとうございました。片品村の現村長千明金造は、工場の廃液を川に流したことがあるそうですが、自分がカネ儲けをするためなら、こっそり環境を汚染しても構わない、と思ったのでしょう。ばれてもうまくごまかすのが男の甲斐性だ、と考えたのでしょう。千明金造には知性が乏しい。今度、怪文書が出て議会で追求されると、多数派の数で押し切り、逃れたつもりだった。しかし、議事録からの抹消を図り、それがばれて、その卑劣さを自ら喧伝することになった。
このような人物は、知性がないばかりか、リーダーに必要な道徳的勇気がない。片品の村人よ、普段の付き合いがどんなによくても、千明金造を村長にするのは間違いだ。ここはせぜい知性を働かせ、少しでもリーダーの資格のある人を選ぶべきだ。そして選んだ村長を十分監視する。それが知性なのだ。

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