自民党の再生はあるか?
「解党的出直し」の声が生き残った党員の間から上がっている。一方で、「賞味期限切れ」政党としての使命は終った、という声もある。これは自民党という現象を裏と表から見たもので、ある意味で両者とも正しい。今日までの自民党的なものに国民はノーを突きつけた。小選挙区という複数当選がない一人勝ちのシステムでは、結果は偏る。増幅効果があるからだ。
自民党が負けたのは、今回が初めてではない。先の参院戦でも都議会選挙でも大敗北を喫していた。しかし、小泉純一郎の目晦まし選挙で国民を一種のペテンにかけて勝ち取った三百議席が惜しくて、そのときに行うべき「解党的改革」をしなかった。これは奢りと見てもいいが、かつて俊敏だったライオンも年を取れば、目もみえなくなり、耳も聞こえなくなり、子ネズミにもおちょくられるありさまとなる。当然するべき選挙をずるずる先送りしているうちに足腰の立たぬ状態で決闘を迎えてしまったのだ。小選挙区は自分に、比例には公明党、と書いてくれ、などと公然と口にすることを恥ずかしいとも思わなくなったとき、自民党は終っていたのである。
自民党は死んだ。再び立ち上がれば、それはゾンビーである。化け物である。
冷戦時代、資本主義陣営を選び、社会主義を取らなかったのは、自民党の功績である。あのとき社会主義を選んでいたら、日本は北朝鮮に似た国になっていただろう。しかも、自民党は社会党や共産党とあくまで対峙しながら、施策の上でその分配の平等という主張をある程度取り入れ、米国のような極端な格差社会にはしなかった。問題はあっても、工業化し、都会化する所得倍増政策が成功した。
しかし、小泉純一郎がアメリカから取り入れた新自由主義がひどかった。新自由主義は格差を肯定し、強いものに有利な競争社会をつくる。グローバリゼーションと新自由主義が車の両輪となって今日の格差社会に突っ走ってしまった。日本人の価値観は中庸ということを尊ぶ。極端を嫌う。格差社会は日本人に馴染まない。自民党が小泉を救世主のように担ぎだしたときから、その崩壊は始まっていた。
自民党は死んだが、自民党員はまだ生きている。彼らが政治への志を持ち続けるなら、これからの日本が必要とするものはなにか、徹底的に考えることだ。それは選挙の総括などという小手先の問題ではない。旧社会党員を多数抱えている民主党には、社会主義の幻がちらつく。万人の平等を掲げる社会主義の理想は決して魅力のないものではない。それは、資本主義の欠陥を補う意味で、一定の役割を果たしてきたことも事実である。しかし、統治のシステムとしては重大な欠陥がある。それはいわゆる社会主義国を見ればすぐ納得できる。
われわれが目指す社会は、血で血を洗う競争社会でもないし、官僚機構がすべてを取り仕切る一党独裁の社会でもない。成熟した市民社会、これである。人々が基本的に自由で、好きなところに住み、好きな職業を選び、機会の平等公平が担保されている社会である。特権階級などのない、開かれた社会である。自民党の残党が出直すとすれば、市民社会の成熟を看板に掲げるのがいい。そうでなければ、ゾンビー政党として次第に消えて行くだろう。(峯崎淳)
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