中之条ビエンナーレを見に行こう!
22日から始まった第2回中之条ビエンナーレを見に行ってきた。07年に11の会場に58人の作家が集まって始まった同展が、わずか2年後には29会場、110人の作家の参加で開かれている。規模で見る限り、その広がりは驚異的である。初回開催に町が1万人と予想していた集客数が、3週間の開催で4万8千だったことを見ると、広報活動が功を奏したことはもちろん、行政や町民が町をあげて盛り上げようという空気があったことがよくわかるし、参加した作家の熱意と、それを受け止める中之条にそうした下地があっての今回の規模の拡大と言えよう。
来月23日までの会期中、毎週水曜日午後には町長室をギャラリーとして開放し、公務にしばられない時間は入内島道隆町長自らがギャラリー長を務めるということで、彼との久しぶりの再開も楽しみだった。
町の中心地区を振り出しに、3分の1ほどの会場を駆け足で見て回ったが、それぞれの会場でボランティアで受け付けや案内をしている地元のおじさんおばさんとの長閑なおしゃべりも楽しかったし、ガイドブックを片手に見て回っている人たちの姿をそこここで見かけることも、地方の町の美術展ならではの光景である。いずれは作家としての参加を考えている私にとって、とりわけ興味深かったのは、いくつかの会場で作家と出会い、話をしたことだった。志を同じくするクリエーターの言葉には、その端々から刺激をもらえる。
そもそも、中之条ビエンナーレのきっかけは99年の夏に遡るというが、その経緯は、総合ディレクターの山重徹夫氏の挨拶にくわしい。
実は、片品移住を考え始めたときから、同じような構想を視野に入れていた。東京での40年近いデザイナー生活で作ってきたアートの世界での人脈や、15年ほど関わった音楽業界の仕事を通してできたミュージシャンや音楽事務所の人脈に声をかけて、紅葉のきれいなひと月、村全体をひとつのギャラリー、ライブハウスに見立てて開催する。タイトルは「アートヴィレッジ片品」。ロゴタイプまで用意していた。
このことについて、引っ越してからの簡単な顛末を上毛新聞のオピニオンに書いた。
要するに、村おこしや発信を趣味としながら、ノーアイデアだった連中が張っていた蜘蛛の巣に、何も知らなかった私が引っかかったということなのだが、早い内に村のおかしな点が見えたことは収穫だった。「住民票はどこ?」と尋ねた星野千里は、私が外から移住して間もないことを理由に頭に立ちたがり、これで私はこの女の知能程度と性格の一端を知った。同居していた男は、20年前から同じことを考えていたと言い、後に、県とも仲良しの越本の民宿の女将の亭主がやはり同じことを言ったと聞いたが、大の大人が何人も揃って20年前から同じことを考えながら、何ひとつ実現しなかったということは、揃いも揃って無能ということなのだから、負けず嫌いもほどほどにしないと、自ら恥をさらすことになる。
そもそも、私はこの構想が私のオリジナルとは言っていない。あちこちの市町村で「オラが町の美術展」が流行のようになっていることも知っている。そんな流行りのひとつで終わりにしないために、先につなげるために、この村に下地があることは欠かせない条件である。そこを知りたくて、蜘蛛の巣グループとは離れ、構想の具体例として、オフコースのメンバーだった3人のライブをやり、その年の秋には岡田修氏を呼んで越本の古いお寺の本堂を借りて津軽三味線のライブをやった。何人かの人たちがチケット売りで協力をしてくれ、中には開場時間になっても呼びかけに回ってくれる人もいて、頭が下がった。しかし、村おこしや発信を趣味とする蜘蛛の巣グループからは反応もなく、連中が言う村おこし、発信は、連中のサロンだけのものということがわかった。
他にもいろいろあった要素を私の尺度に照らしても、片品では、村をあげてのイベントをするのは無理だと知った。アーティストもいない、モノ造りをする人もいない、みんなで盛り上げようという空気もない村に、私の構想を実現する下地がないことを知り、何もしないと決めた。
私が構想の企画書に書いた「村全体をひとつのギャラリーに見立て…」を「美術館に見立て…」と一語だけ替えて、20年前から同じことを考えていた蜘蛛の巣グループがやったプロジェクト十二社中も、県からの3年間で400万(推定)の補助金が尽きたところで終わったし、山田洋次監督を招いて毎年開催を豪語して始まったはずの映画祭も、結局は2年に1回の尾瀬和楽舎の営利事業を2回やって終わったことは、彼等には補助金なしでは何もできないことがわかったし、この村に下地がないと見た私の見立てが間違っていなかったことの証明になった。
中之条町は、廃校になった旧伊参小学校を拠点に撮られた小栗康平監督『眠る男』を96年の映画の1本では終わらせなかった。伊参スタジオとして、数々の映画の撮影拠点に提供し、01年には第1回伊参スタジオ映画祭を開催、03年からは若手映像作家に作品製作を働きかけ、映像化を前提に中編、短編のシナリオを公募、やはり伊参スタジオを拠点に撮られた山崎まさよし初主演の映画『月とキャベツ』(96年)の篠原哲雄監督の協力を得てシナリオ大賞を設置、受賞作品を映像化し、翌年の映画祭で上映する形に発展させ、今年秋には第9回を迎える。いま開催中のビエンナーレからも、この映画祭からも、世界に打って出る才能が現れることに期待以上のものを感じている。
そもそも、私と中之条の町長との出会いは、2年前の彼からの1本の電話に遡る。国道17号の向こう側というだけの、詳しい位置すら知らなかった町の町長の名前も知らなかった私に、「お願いに出向くのが筋ですが」と前置きした上で、受けるかどうかは現場を見てから決めてくれと言った。訪ねる日を彼のスケジュールに任せると、「ではその日、お待ちしています」と、あくまで丁重だった。しかし、忙しい人を朝から晩まで待たせるわけにはいかない。都合のよい時刻を尋ねると、彼は「お待ちしています」と重ねた。この時点で、どんな仕事であれ、私にできることであれば、受けることを決めた。
町長と副町長、経済産業課課長と同課商工観光チームの係長に迎えられ、ひと通りの挨拶を交わした後、四万温泉に案内された。四万温泉が中之条にあることも、実はこのときに初めて知った。温泉協会では理事長をはじめ7、8人が揃って迎えてくれ、この計画によせる中之条の人たちの思いを知った。数台のクルマに便乗して、何ケ所かではクルマから降りて説明を受けながら、中心地区を歩きながら、温泉街をひと回りした。時代が脇を通り過ぎたようなレトロな雰囲気が残るのは、無駄な再開発を避けたためだろうが、私にはしっとり落ち着いた、とてもいい印象が残った。
四万温泉入口とバイパス途中の駐車場に総合案内板の、奥の日向見地区と手前の山口、温泉口地区に地区案内板のデザインをするというのが仕事の依頼だった。これだけ礼を尽くした対応をされて、私には断る理由はまったくなかった。ギャラを尋ねられ、「お任せします」と答えた。
このときの初対面を、町長は自身のHPの中「日々の活動のブログ」の町政レポート、カテゴリーから2007年8月、「中之条ビエン(美園)ナーレ」、「生き方」でふれている。
四万温泉協会が主体のこの仕事は、県と町が予算で絡み、上信越国立公園にかかることで環境省も絡んだ仕事だったが、私にとっては色使いの制限の限界を探りながらのプレゼンテーションを何度か重ね、その都度、町長からの状況報告を兼ねたメールで応援を受けながら、昨年3月に完成した。
国道17号をはさんだ西と東で、どうしてこれほどの違いがあるのかが不思議である。吾妻と利根沼田では人種が違うのかとさえ思う。もちろん、一部の人たちを見ただけで全体を判断することはできないが、中之条町のHPや町長のHPを見ても、住民に目が向いていることがわかる。伊参スタジオ映画祭や中之条ビエンナーレだけを見ても、外の人たちに意味のないバリヤを張っていないことがわかる。嬬恋の「キャベチュー」を企画提案し、村をあげて活性化につなげようと実行しているグループは、15年以上前から週末農業に通っている東京のクリエーターたちであり、中のひとりは、私の広告代理店時代に机を並べた同僚のデザイナーである。
利根沼田の人たちは何を考えているんだろうと思う。21世紀も最初の10年が過ぎようとしているのに、いつまで昭和の、しかも戦前の時代に生きているんだろうと思う。どこの世界に、わざわざ気に入らない土地に引っ越そうという人間がいると思うのか。利根沼田に移住してきた人たちは、みんなこの地域の自然が気に入って引っ越してきたのだ。
ひとつ例をあげよう。片品村では、前任の教育長が任期途中で辞めていったその残り1年の後任として県職員だった男を呼んだ。小寺がこけて、県庁に居場所がなくなったこの男の今年度からの新たな4年の留任を決めた理由は、県に太いパイプがあることだそうだ。
では、利根沼田に、外から移住してきた人たちの太いパイプを考えた人間がひとりでもいるか。首都圏、特に東京で40年最前線で活躍してきた人たちに、どれだけの英知と実力と人脈が貯えられているかに、一瞬でも思いを馳せた人間がひとりでもいるか。この人たちの築き上げてきたパイプの太さに、わずかにでも想像を巡らせた人間がひとりでもいるか。
利根沼田には、私が知るだけでも、私が専門外とする分野の深い知識を備え、惜し気もなく教えてくれる人たちは大勢いるし、中には日本だけでなく、海外にまで太いパイプを持った人がいる。この地域に住みながら、インターネットを利用して仕事のベースを東京に置いたまま、全国区での仕事をしている人も知っている。利根沼田の人間は、こういう人たちをすべて「他所者」と一把ひと絡げにする。そのことが何を意味するか、一度でも考えたことがある人間がひとりでもいるか。その狭い了簡が、利根沼田の無知では理解できない英知、実力、人脈を活かしきれないでいることにつながっている。そのことに、誰かひとりでも気がついている人間がいるか。
観光と農業の片品と言いながら、そのどちらにも無知、無能、無策の行政が、自らの怠慢は棚に上げ、納税は国民の義務だからと言って、村税徴収嘱託員まで使って税金を取り立てる。こんなバカな話があるか。ヤクザのみかじめ料とどこが違うというのか。行政に尻尾を振る奴らばかりを重用して甘い汁を吸わせている行政に、誰ひとり声をあげないとは、どういうことだ。
この4年、村長が何か「あの村長でよかった」と思うことをしたか。村長が代われば、村が良くなると信じられることがあるか。それがあるという人は、その候補に一票を入れればいい。それがない人は、両方の候補に、それぞれの哲学、理念、ビジョンを聞いてみよう。現村長が言う「知名度を上げたい」なんてことは、単なる他人任せの条件であって、哲学でも理念でもビジョンでもない。村の10年後、30年後、50年後を思い描く村を語らせ、そこに近づくために何をするかを問うてみよう。地縁血縁で選んできた結果がいまの村であることを知るべきだ。それはふだんの暮らしで大切にするもので、21世紀を生きている自覚のある人は、そんなものを選ぶ基準にしてはいけない。先祖返りを望まないと言うなら、その意思表示をすればいい。棄権はやめよう。選択肢はふたつにひとつではないのだから、もうひとつの選択肢に1票を投じればいい。第三極が登場しないときのその選択肢とは、「白票」ということだ。つまり、どちらも信任しないという選択。これが実現したら、少なくともみんなが考えるきっかけにはなる。片品村には変われる可能性が残っているということだ。
話を中之条ビエンナーレに戻そう。9月23日までやっているから、ぜひ見に行くことをお薦めする。芸術は、理解しようなどと難しく考える必要はない。ただ感じればいい。目を見張るような見事な作品もあるし、天真爛漫、豪放磊落な作品もある。まだまだ未熟な若い作家の作品にも、それをカバーする熱があるから、それを感じ取って欲しい。都合がつくなら、水曜日に行くことをお薦めする。町長室もギャラリーとして開放され、午後2時から4時まで、公務がない限り、町長がギャラリー長として迎えてくれるから、できたら話してみるといい。片品でも沼田でも、特に公職にある人たちすべてにお薦めする。片品の村長とは違う、おそらく沼田市長ともまったく違うことが判るはずだ。中之条でも財政は厳しいはずだが、その逼迫した中でも、何とかしようという熱は感じられるはずだ。ただし、町長の品格は、悲愴感も下衆な貧乏臭さもまったく感じさせない。まだ46歳の若さなのだが、昨年1月の町長選に出たときのスローガンが「中之条のまちづくりが群馬のスタンダードに」なのだから、彼等とは信念が違う。
まちづくりを専門に研究している人によると、地域の活性化に欠かせない3つの要素として「ばかもの、わかもの、よそもの」があるそうだ。つまり、身を投げ打ってでも地域を何とかしようという熱意に溢れた「ばかもの」、その熱意を受けて手足になって働こうとする「わかもの」、その地域の既成概念にとらわれない感覚を持った「よそもの」である。片品の蜘蛛の巣グループもお気に入りの信州・小布施を例にあげれば、大村酒造のばかもの社長と、彼を取りまくわかもの、そして"青い目のセーラ"セーラカミングスが揃っている。さしずめ中之条ビエンナーレについていえば、町のことを誰よりも考えていると自認する町長が「ばかもの」で、若い作家たちを他所者として排除せず、会場スペースを提供し、作品作りを裏で支え、ボランティアとして会場の受け付け、案内を買って出ている町の人たちと110人の作家たちが「わかもの」、実行委員会6人が「よそもの」ということだろう。
片品を振り返ってみてどうなのか、を考えることはもうよそう。「わかもの」と「よそもの」はなんとかなりそうだが、肝心の「ばかもの」が哲学も理念もビジョンもなく、村おこし、発信を趣味としている連中が「ばかもの」を気取りたいのだろうが、狭い了簡の本当のバカばかりなのだから、片品の活性化は、当分の間は、夢のまた夢でしかない。
それよりも、3分の2ほど残した会場のまだ見ていない作品ををいつ見に行くか、天気予報を見ながら楽しみにしよう。なにしろ、何年か先には私も作家として参加するつもりなのだから、作品群を見ながら、若い作家と話しながら、いまのうちからエネルギーを貯め込んでおこう。(木暮溢世)
利根沼田の原住民は鏡に自分の姿を映して愉しむ。補助金をせしめて悦に入っている自分を見る。利巧者は得をする、見ろ、顔まで福々しいではないか。よそ者が何をほざこうと、現ナマを握った方が勝ちだ。この満足!この幸せ!原住民のままで何が悪い?無理して文明人になる必要はない。都会を食い詰めてきた流れ者なんかにとやかく言われる筋合いはない!(と、開きなおってみたものの、内心の動揺はどうしたことだろう?俺は本当にうまくやったのだろうか? もしかしたら飛んだ失敗をやらかしたのではないか?)自我の無限後退から近代は始まるのである・・・
投稿: 峯崎淳 | 2009年9月 3日 (木) 03:17