GB21を守る沼田の経済理論
アメリカ流の経済理論では、会社は株主のものというのが神聖にして犯すべからざる原理原則となっている。ところが、この原則は、市場原理主義と同様、至って恣意的な「原則」であり、欠陥の多いものであることが明らかになっている。たとえば、GMの「国有化」である。市場原理からすれば、GMは倒産して整理され、清算されるべき会社だった。しかし、オバマ大統領は政府のカネで新GMをつくり、清算を回避した。なぜか。それはGMが「社会の公器」だったからだ。会社は株主の持ち物ではないことをアメリカ人も認めざるを得なかったから、私企業であるGMにオバマ政府は公金を出し、国民もしぶしぶながら認めたのである。
株式会社には「社会の公器」たる側面がある。GB21も実は沼田の公器である。(星野市長は三井生命から寄付の申し入れがあったとき、GB21が沼田の公器としてどのような役割を市民生活に果たしており、将来公器としてどのような可能性を持っているか、綿密周到に研究する義務があった。しかし、星野も部下もこのような視点から時間をかけて検討したようすはない。こんな怠慢で無能な市長を持ったことはGB21のみならず沼田市民にとって不幸なことである。)公器である、ということは、アダム・スミスの言うように経営者が「利己心」を発揮すれば神の見えざる手が働いて万事めでたしめでたし、となるという説が成り立たないかもしれないことになる。アダム・スミスの資本主義哲学を疑うことにわれわれの経済理論は出発点を置くべきなのだ。
株式会社は、株主、経営者、従業員、顧客があって初めて成り立つ。GB21だってそうだ。GB21が株主の私物ではない! 小泉純一郎、竹中平蔵の「改革」は、日本人が抱いていた会社は公器という気持ちを、旧弊な時代遅れとして弊履の如く切捨て、米国流の株主絶対の誤謬を導入した。その弊害は、派遣切りの悲惨を見れば明らかである。
営利を目的とする株式会社が公器というのは、耳慣れないかもしれない。しかし、われわれは高い公共性を持つことを会社の理想的形とつい最近まで信じていた。それは間違いではなかった。米国の会社は、エンロン、ワールドコムなど大会社が、経営者の詐欺的行為によって崩壊している。米国流が絶対ではない。
「社会の公器」であることがあきらかな振興局長のポストでさえ、市長の選挙対策という私利私欲のために使われているのが沼田の実態。株式会社が株主のものという原則ですら望むべきもありません。
投稿: 杉山弘一 | 2009年6月 9日 (火) 07:28