市民協働の心構え
裁判員制度が始まった。 問題点の多い制度であり導入には反対であるが、司法への市民参加を進めたという点においては意義があるだろう。
なにしろ、一般市民が抽選でいきなり裁判員に任命されるのである。そして任命されれば、裁判官とともに審理をするのである。しかも、審理の対象は殺人などの重大な刑事事件である。つまり、誰もが死刑判決に関与させられ、人の命を奪うという重大な判断をしなければならなくなるのだ。責任は重大だ。うまく機能すれば、これこそ、究極の市民参加・市民協働であり、民が主になる民主主義の具現化だろう。
では、行政への市民参加・市民協働でこれと類似したものはあるか。
それは、委員会・審議会制度であろう。いまやどの自治体もたくさんの委員会・審議会があり、重要な政策はこれらの委員会・審議会に諮って決定されている。一般市民が委員に任命されれば、行政の重要な政策決定に関与し、自治体の命運に関わる重大な判断をしなければならなくなるのだ。強制参加か任意参加かの違いはあるが裁判員制度に類似した市民参加・市民協働制度であると言えよう。
さて、我が沼田市である。
沼田市でも、さまざまな審議会・委員会があり、いずれも有識者委員もしくは公募委員によって構成されている。裁判員のように抽選で任命されるのではないから、参加意欲の強い市民によって構成されているはずだ。市の命運を左右する重大な判断に関与しているという心構えがあるはずだ。少なくとも、人の命に関わる判断をする裁判員の心構えと同等以上の心構えがあるはずだ。
はたしてそうなっているか。
実例を見てみよう。市のホームページの新着情報に沼田市市民協働推進会議を開催しましたとある。テーマも市民協働だから最適なのでこの委員会を見てみよう。(なお、委員の一人も沼田の直前りじちょ日記というご自身のブログで委員会の様子を報告しているので参考にされたい。)
議事録の気になる部分を抜粋してみる。
・ 委嘱された時点で、報告書とか、市長に対して答申をしろとかはない。どうあるべきかを議論してきた形になっていると思うから、何も言わないというのも方法かもしれない。
・ 常識として、なんらかのごあいさつはしなければならない。・ 報告書を出すということは、公文書で残っていくことになるから、非常に注意して書かないと難しい。
・ 7月が来て2年間になるわけだが、その取り組んできたことの所感そのものをというのも方法。それはどんな方法でもいいと思う。
・ 口頭なり文書なりで、一応終わりましたと簡単な文書を提出して終わるというような考え方で良いか。市長と懇談するというのはどうか。
・ 最後に応接室に行って、渡せばいいのではないか。
・ 例えば、夜の7時からこういう会議の場で座談会をして報告書を渡す。我々は委任されて今までやってきたけれど、市長の考え方がわからない中で進めてきたので、当然ずれがあるのか、合意点があるのか、それをこの会議でできたらいいと思う。
無報酬で2年間、21回にもわたり議論を続けてきた委員の皆さんには敬意を表する。しかし、こういう議事を拝見する限り、市の命運を左右する重大な政策に関与しているという心構えを感じることが出来ない。こういう議論をする方は、裁判員に任命されても辞任の理由を探すのだろう。きっと、そうだ。残念だがそう思わざるを得ない。
せっかく、5万人を超える市民の中から選ばれて、2年も議論を続けてきたのである。たとえ、無報酬であっても運営には多額の公費が使われているのである。少なくとも、人の命に関わる判断をする裁判員と同等の心構えをもって、取り組んでいただきたい。
そうすれば、所掌事項である(1) 協働によるまちづくりの環境整備及び(2)協働を促進するための施策に関する提言をまとめ、市長に答申することなどたやすいはずだ。
もし、出来ないというなら辞任すべきだろう、裁判員と違って辞任が許されるのだから。そのかわり、市民参加・市民協働推進などとは二度と口にして欲しくない。
沼田市民は自分の意見を述べることを怖れる。上下意識が無闇に強いから、上の人がどう考えるかがやたら気になる。上の人の意見がわかっていれば、それが安心して自分の意見となる。発言することは迎合することである。このような雰囲気が充満しているなかでは、独創的な考えなど聞かれるはずもない。民主主義の基本はみなが自由に意見を言い、みなが人の意見に耳を傾けることである。迎合は恥ずかしいことだということを小学校の教室で教えるべきだ。叛骨を大事にする習慣がないところには、独創は育たない。独創が出ないところでは、進歩はない。沼田は永遠のマンネリのなかに沈む。
財政破綻すればそうは言ってられなくなる。その日はそれほど遠くはない。
投稿: 峯崎淳 | 2009年5月26日 (火) 00:20