市民活動支援センターに3名の新規職員募集
すでに21年度予算は決定したが、21年度予算案をみて(3) の続きを書くことにする。
目玉となる新規事業の2番目、今年十月開設予定の市民活動支援センター管理運営事業(約五百万円)についての検証だ。
これまで、500万円を何に使うのかと疑問を抱いていたが、今月配布された「市議会だより13号」を見て解った。予算審査特別委員会の議事録(7頁最上段)にこうある。
職員募集を行いながら、10月を目途に3名の嘱託員を募る予定です。場所は、保健福祉センターの2階会議室を予定しています。
500万円は新規採用する3名の職員の人件費ということだ。今年度は半年分だから来年度からは約1000万円の大盤振る舞いだ。しかし、財政難の沼田市のどこににそんな余裕があるのだろうか。
第1に、これは、市が、昨年度、公表した「財政健全化計画」と矛盾している。 同計画にはこうある。
合併による行革の目標としては、合併後10年間で70人以上の人員を削減し、行財政の効率化及びスケールメリットを生かした行政サービスの維持・向上をめざすものである。
財政運営課題
平成18年度職員数については普通会計で対前年度比7名減であるが、さらなる合理化が必要である。
職員削減を目玉とした財政再建計画の実施中に、目玉事業と称して新規職員を募集するとは、詐欺に等しい行為であろう。こんなことをやっているから、いつまでたっても経常収支比率が1を超え最悪の状態から脱却できないのだ。
仮に、市民活動支援センターに職員が必要だとしても他の部署の職員を配置することで対応すべきだ。
第2に、昨年12月に新聞発表したことと矛盾している。
2月19日のブログにも書いたことであるが、市長は昨年12月に「臨時職員、嘱託職員を削減する」(昨年12月22日上毛新聞)と表明しているのである。12月といえば予算編成作業のまっただ中だ。つまり、3名の嘱託職員の募集計画を立てていた時期に、嘱託職員を削減すると新聞に発表していたと言うことだ。これもまた、詐欺に等しい行為であろう。
第3に、同センター設置検討委員会の答申とも矛盾している。同報告書は次のような記載から始まる
人口減少、少子高齢化、高度情報化などにより社会環境が大きく変化し、市民ニーズは多様・複雑化してきたことに加え、国を始めとする地方自治体も厳しい財政状況となっています。このため、行政だけではすべての地域課題や新たな課題に対応していくことは困難な状況にある中で、地域にふさわしい解決策を市民と行政の知恵と力を結集して、共に見出していかなければなりません。
一言で言えば、「財政難だから、市民協働が必要になった」ということだ(私はそう思わないが)。
そうだとすると、財政難で市職員だけでは地域の課題を解決できないから、一般市民の協力(タダ働き)が必要だ。だから、3名の職員を新規募集するということだ。この点からも、詐欺に等しい行為と言わざるを得ない。
さて、3名の職員はどんな人物を採用するのだろうか。
一般市民にはできない市民活動だから(矛盾した概念だが)、行政職員を充てるということである。新規職員(少なくともセンター長)は行政実務の経験者ということになるだろう。そうすると、この1、2年に退職した幹部職員の顔が目に浮かぶ。人選経過を注目しなくてはならない。
「財政難だから、市民協働が必要になった」?その発想は、無能の自覚がない行政が、お上と勘違いして住民を下々と見ているからこそでしょ。そもそも市民協働や住民参加は「世の中が複雑になって、市場が提供できないサービスが増えたから、みんなで手を携えてやりましょう」が本来の趣旨だと思いますよ。まず行政がお上意識を捨てないとね。今日の朝日新聞「天声人語」にもありました。「民主主義は文字どおり、民が主(あるじ)となる政治である」。
片品村でも最近は「協働」をよく耳目にします。でも、役場は理解していない。何を言ってもかけ声ばかり、形ばかり。ここでも役場がお上です。始末が悪いのは、村民が自らを下々と認めている。理由を聞いたら「役場は金をくれるから」。お前ら、乞食か。
民主主義は、空から降ってもこないし、地から涌いてもこない。まして救世主など、観念的自己陶酔に陥った奴らの妄想でしかないのです。
口を開けば交付税、補助助成、ふるさと納税を欲しがり、哲学も理念もビジョンも持たない首長には即刻引き取ってもらいたい。多数決=民主主義と思っている議会も当てにはなりません。行政を監視し、公正を期して少しでも風通しを良くするために、おかしいことにはおかしいと声をあげる、それが民が主となるために必要不可欠な住民参加であり、市民協働です。
投稿: 木暮溢世 | 2009年5月14日 (木) 19:06
利根沼田の最大の弱点は民度の低さにある。民度とはなにか? 手元の和英辞典で引くと、リビング・スタンダードとある。生活水準と同じ? そうではないだろう。民度とは、集団の文明の度合いだろう。高級車を乗り回していても、空き缶を窓から捨てて平気な人たちを民度が高いとは思わない。公園の公衆便所が恐ろしく汚ないのも、民度の低さである。市民協働のテーマは民度を高めることにしてみたらどうか? 生ゴミを詰めたレジ袋を道路に捨てて走り去る車を減らすにはどうすればいいか? 観光都市沼田を標榜するなら、山のライトアップを680万円もかけてやることより、使える公衆トイレを増やすことをやるべきではないか? 少なくとも、ライトアップかトイレか、優先順位を議論することから始めてはどうか?それをするのに、職員を三人も雇う必要はないのではないか?
投稿: 峯崎淳 | 2009年5月14日 (木) 20:56
数学で各理論体系の出発点として、証明を要しないで真実であると万人が客観的に仮定している考え方が「公理」である。
行政施策の形成段階に市民の意思を反映する機会を保障し、その過程と結果を市民に徹底的に情報公開することは行政機関の絶対的義務であるとする考え方は住民自治面での先進的自治体では、市民協働を論ずる際の「公理」として考えられている。
さて、沼田市ではどうか?
沼田衆はこの「公理」を認知できる思考力に、情報リテラシーに、乏しい。市民協働と市民活動の概念規定すら出来ない。
西田前市長時代、いや星野市長の1期目に、この「公理」に基づく市民協働の声を挙げ、それを一歩でも実践していれば、今日の財政難状態も多少なりとも変わっているはずだ。
投稿: 白井基勝 | 2009年5月16日 (土) 20:07
沼田市市民協働推進基本方針
http://www.city.numata.gunma.jp/introduction/pdf/kihon-houshin.pdf
にはこうあります。
「厳しい財政状況や多様化・複雑化する市民ニーズ、事務の効率化などの課題に、的確に対応していくためには、市民の意見を聞き、無駄のない行政サービスを提供していくことが必要です。」
事業の計画段階から市民の意見を取り入れる仕組みを作り、無駄が生じないようにすること、つまり、パブリックコメント、パブリックインボルムメントの仕組みづくり、これこそが基本方針の言う市民協働です。
投稿: 杉山弘一 | 2009年5月16日 (土) 20:53
沼田市市民協働推進基本方針を読みました。要するに、県なり国なりに補助助成をおねだりするための書類でしょ。書かれていることすべてが建前としかとれません。だって、沼田市の現状は、あれを書いたのと同じ行政がやってきての結果でしょ。それを看過してきたのは住民でしょ。つまり、意識するしないにかかわらず、沼田市のみんなが望んだ結果として、いまの沼田市の現状があるのです。しかも、変えなくてはと言っていながら、変わりたいとは心の底から望んではいない。
「俺はこんな現状を望んじゃこなかった」という人がいたら、その人に尋ねます。「じゃあ、あなた、そんなの嫌だ、おかしいと声をあげてきましたか」。
仮に、沼田市の人口の1パーセントの人が声をあげてきていれば、現状は変わっていたはずです。
片品の人間が沼田のことに口出しするな? まあまあ、同じ問題をかかえた片品のみんなに同じことを言いたいわけですから。尾瀬の郷と称する第三次総合計画の中の、尾瀬を浅間に、とうもろこしをキャベツに置き換えれば、嬬恋村にも通用するあの計画、形ばかりの住民参加はあったものの、自主自立といいながら、所詮は埼玉のコンサルが作ったものです。尾瀬国立公園誕生記念事業にみんなの税金が200万以上使われながら、その内の一部をひと握りの奴らだけが補助金として甘い汁を吸っている。なのに誰も声をあげない。つまり、片品の現状も片品のみんなが望んだ結果です。変えなくちゃあと言いながら、変わることは望んじゃいない。
真剣に現状を変えたいなら、住民参加、市民協働を実現したいのなら、行政の人員総入れ替えは無理にしても、少なくとも首長以下幹部連中は辞表を胸に住民に情報を洗いざらい公開し、猿でもできるポーズだけじゃない心からの反省をし、住民と同じ目線に下りてきて住民の声に耳をかたむけることから始まると思います。
ついでに言えば、第2回市民検討委員会(平成18・10・26)で「市民協働を進めていくために」という講議をし、会のアドバイザーにもなっている高崎経済大学の先生、専門は生涯学習でしょ。なぜ市民協働?
尾瀬国立公園誕生記念事業のひとつ、尾瀬ブランド認定にも不可解な人事がありました。本籍は東京、住民票が高崎で、事務所を月夜野に置き、名刺の肩書きにはデザイン、コーディネート、コンサルタントとあるワケのわからない男が代表に任命された。村長と仲良しの村議(♀)と同居する人物ということで、こちらはズブズブが見え見えなんだけど。
それにしても、沼田市と片品村、よく似ています。何なんでしょう。東京からやってきた私などには、よくわかりません。国が違う? それとも生きている時代が違うのでしょうか。
投稿: 木暮溢世 | 2009年5月17日 (日) 07:29