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2009年4月29日 (水)

国際交流と沼田

 ロシアが沼田に興味を持っているらしい。年末ロシア大使館で開かれたパーティーに沼田のリンゴと酒が贈られたのがよほど気に入ったようだ。国際親善などというものは相互的なもので、こちらが行為を示せば向こうも関心を持つ。接触を重ねていくうちに、意志が通じはじめ、やがて理解が生まれる。お互いに積極性が大事である。ロシアはいろいろな提案をしているようだが、それを受ける沼田は及び腰だ。「ロシアなんてどんな国だべ。ソ連とは違うそうだが、同じロシア人だべ。おっかねえよ」口に出さなくても、市長以下お歴々は消極的である。
 沼田は田舎者の集まっている町である。教育レベルも決して高くない。未知の国と付き合うのに怯えるのはよくわかる。この町にも国際交流協会があるが、レベルはかなり低い。異文化との交流を本当に体験している人物がやっているわけではないからだ。功なり名とげた名士が趣味と実益を兼ねて名誉職についている。国際交流について見識があるわけではないから、海外へ観光旅行をすることが国際交流だと勘違いしている。
ロシアから持ち込まれた話の一つに沼田で国際会議を開く、というのがある。これが、たとえば米沢の町に持ち込まれたのであったら、町の反応はまったく違っているだろう。町興しのチャンスと見、元気の出る人が相当にいるはずだ。米沢は直江兼続でブームだそうだ。同じ田舎町ながら、国際会議ぐらい引き受けるかもしれない。米沢には、上杉鷹山もいる。国際都市になりうる素地がある。

 振り返って沼田はどうか。悲しいかな、沼田には兼続、鷹山のような名君はいない。逆に沼田三万石を改易された暗君真田伊賀守が最後の大名で、後は代官支配だった。米沢とは違う。名君の記憶は真田信之で絶えている。(沼田の政治家がろくでなしぞろいなのは、範とする名君がいないからだ、という人がいるが、そのことは後日論じたい。)沼田には、国際会議を組織する力がない。運営するにも人材がいない。どんなに美味しい話でも、能力がない。なにより不足しているのは、未知のものに挑戦する冒険心である。今能力がなくても、地道に努力すれば、道が開けるかもしれない。チャレンジしないのでは、何も始まらない。

 あなたは山田寅治郎という名を聞いたことがあるだろう。沼田藩士中村莞爾の三男に生まれ、山田宗寿の養子となり、横浜で教育を受けた。この山田寅治郎こそ日本とトルコの関係を揺るぎないものにするのに最も功績のあった人物である。
 明治二十三年トルコの軍艦エルドクロウル号(6000トン)が和歌山県樫野崎沖で沈没、乗っていた使節オスマン・パシャ以下乗組員五百八十七名が全員溺死するという悲痛な海難事故が起きた。これに対する義捐金を募集したとき、山田寅治郎は東奔西走、大いに働いた。時の外務大臣青木周蔵は、義捐金をトルコに持参する役目を寅治郎に託した。明治二十五年一月、寅治郎は義捐金を携えてトルコに渡り、皇帝アブドル・ハミッド二世に献上した。皇帝は極東から来た特使を歓迎厚遇した。それから山田はトルコに十八年間に渡って滞在した。その間、バルカン諸国、エジプト、ペルシア(今のイラン)、ロシアなど各国を歴訪、日本と東欧との貿易開拓に尽力し、とりわけ日本とトルコとの親善を図り、日本ートルコ貿易協会理事長、国際通商会会長を務め、数多くの会社の重役を兼ねた。著書に『土耳古(トルコ)観』など。

 沼田からこのような人も出ているのである。トルコの対日感情が特に優れていることは多く知られている。日露戦争で、ロシアを破ったから、クリミヤ戦争でロシアに悲惨を嘗めさせられたトルコが日本びいきになった、と言われる。それもあろう。しかし、そのはるか前に、山田寅治郎の活躍があったことは、われわれ沼田人としてぜひ覚えておかなくてはならない。沼田に国際交流のお手本があったのである。
 

 

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コメント

海外旅行をすることが国際交流だと思っている輩、国内旅行をすることが議員の調査研究だと思っている輩。同類ですね。
国際交流協会が国際交流を阻害し、議会活性化委員会が議会の活性化を阻害する。これも又同類。

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