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2008年12月14日 (日)

資本主義は残酷である

新自由主義を標榜し市場の動きに政府は干渉すべきではないとしてきた米国政府が周章狼狽して(あわてて)いる。経営不振におちいった企業が倒産するのは、新自由主義の当然の浄化作用のはずで干渉するのはご法度とすべきはずだが、AIGは特別扱いで救済された。AIGのような巨大保険会社の倒産はあまりに影響が大きすぎるとして、ここはイデオロギーには目をつぶることにした。もっとも、新自由主義のいかがわしさは、レーガン大統領のときからすでに証拠があがっていた。市場の働きに一切を任せると言っても、それには、「ときの権力者に都合のよいかぎりにおいてのみ」という暗黙の条件が付いていた。市場は強いものに有利で、強いものはしばしばときの権力者であるから、何のことはない、強いものの意向に沿って物事を決めていくというのが新自由主義なのだ。危機が進行し、何が強いものかどうかの線引きが難しくなっている。ベア・スターンズとリーマン・ブラザーズは、強いものから外され倒産した。同じ投資銀行のモーガン・スタンレーは助かった。線引きの規準は曖昧である。今問題になっているのは、自動車メーカーのGMである。オバマ新大統領は、就任まで二ヶ月あるが、GM救済を主張し、現職のブッシュは難色を示している。自動車産業が崩壊すれば、失業者数は三百万人を超えるとも言われ、米国の大問題になるのは免れない。しかし、冷徹な市場原理からすれば、ガソリンが高騰し温暖化の環境問題が高まるなかで、燃費の悪い車しかつくれないGMなどの米国自動車メーカーがトヨタやホンダなど技術力に勝るメーカーに遅れをとるのは当然である。長い目で見れば、劣等な者は優秀なものにとって代わられるのが全体の利益になる。優勝劣敗の市場原理は未来のために尊重されねばならない、はずである。
逆に言えば、劣悪な企業を保護することは、世の中のためにならない。効率の悪い経営も改善しないし、粗悪な製品は粗悪なまま残る。かつての共産圏のソ連の製造メーカーがそうだった。市場原理が働かないと進歩が止る。進歩のためには酷薄な市場が有効なのだ。

さて、沼田の場合である。グリーン・ベル21が問題の会社である。市場の見方からこのビルを眺めれば、相当に劣悪な会社と言わざるをえない。慢性的に赤字で、テナントは減っていくばかり、経営が好転する兆しは皆無である。ジリ貧状態のこのビルをさらに救いがたいものにしているのは、補助金をもらうことが習い性となってしまい自力で立つ意欲も気力も感じられないことである。市場原理に任せておけば、たちまち倒産、お化け屋敷になってしまうだろう。ここがお化け屋敷になることが沼田にとっていいはずがない。しかし、だからといって補助金垂れ流しで市がいつまでもここを維持していくことは、市自身の破滅を招きかねない。市の財政はますます厳しくなり、星野の失政が続けば、このまま夕張化する気配すらある。市が補助金で助けてきたため、責任ある経営が育たなかった側面も否定できない。でたらめ経営でもケツは市がなんとかしてくれる、というモラル・ハザードが起きたのではあるまいが、問題を自らの責任において解決しなければならないという意気込みはまるで感じられない。固定資産税などどうなっているのか。

では、どうすればいいか。第一に必要なのことは、権利者が事業の失敗を認めすべての権利を放棄することである。ビルは、沼田市の市有林の立ち木などと同じ自然物の資格で、公共の財産とする。立ち木であるから、枝を払ったり、下草を刈ったりする最低必要な手入れをして枯らさぬようにする維持管理の責任は行政にある。そのうえで、この公共物の利用方法を考え、市民に提案、賛同を得て利用を開始するのである。行政には、利用の仕方を徹底研究し提案する責任がある。市民がお化け屋敷化の立ち枯れ路線を選択するケースも考えられる。それがいやなら、行政当局は魅力あ利なおかつ責任の取れる計画を提案しなければならない。

では、グリーン・ベル21に発展の芽はないのか。いままでのやり方では、望みはない。このことだけは、はっきりしている。物売りの大面積店舗をつくっても、沼田の購買力が届かない。これまでの経験で、物売り路線は見込みが薄い。しかしながら、ビルのスペースでやれることは、物売りだけではない。それに、人々の必要としているものは商品だけではない。医療やスポーツ、娯楽、などのほかに、知識の提供といったサービスの需要がある。広い意味での教育なども将来性のある産業である。たとえば、定年退職して年金生活を始めた人は、それまで出来なかったさまざまなことをやってみる。釣に凝る人もあれば、海外旅行に夢中になる人もいる。たとえば、学問の至福を味わってから墓に入りたい、と考えている人は意外に多い。大学へ行った経験を持っている人はむろん、遂に大学の門をくぐらずに働いてきた人も、本物の学問に触れる機会が与えられればとても喜ぶだろう。沼田には高等教育を行う学校がない。掘り起こせば需要はたくさん転がっている。無知無学のまま死んで行くのを残念に思う人もいるはずである。実は世の中に勉強すことほど愉しいものはないのである。物売りの貧しい発想では到底起死回生のアイデアは湧いてこない。グリーン・ベル21が持っている潜在的可能性を探るには知性が必要である。ただし、今の権利者たちは知性がある人々ではない。己の慾ボケに起因する事業の失敗を認め、すべてを諦めるまでには、どん底にまで落ちてすべてを失う必要があるらしい。現状を正しく認識し、謙虚になって心から反省するのは、知性がなくてはできないからである。親の因果か、身から出た錆か、まことに気の毒である。

今朝の朝刊を見ると、アメリカ議会は自動車産業の救済法案を廃案にした。まだブッシュの考え一つで救済資金が出る可能性はあるものの、議会の選択は倒産が止むを得ないなら倒産して出直せ、であった。資本主義は残酷である。

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