沼田町と沼田市
昭和二十七年に『沼田町史』という本が刊行された。発行元は沼田町役場、執筆したのは石田文四郎という学者である。本文だけで九百六十ページもある大冊であるが、この本の最大の特徴は町史には稀な、格調の高さと情熱のほとばしりである。わざわざ旧仮名遣いを用いたのも本格的な歴史を語るには,便利本意につくられた新仮名遣いより長く記念すべき町史にふさわしいと著者が考えたからである。昭和二十七年に町史という公的な刊行を旧仮名遣いで行うということは非常に勇気の要る決断であったにちがいない。そこに当時の町の当局者たちが著者の石田文四郎に寄せた絶大な信頼を窺うkとができる。石田文四郎は、戦時中に一時沼田に疎開した人であった。町史編纂の依頼があったとき、綜合日本国民思想史の研究を専門とする石田は地方史はお門違いであるからという理由でよほど断ろうとした。しかし、沼田町役場助役木島広武、町議金子安平、同長谷川清吉、同若松倉太郎ら四氏の強い懇請により、一応考えてみることにし、後にあらためて編纂委員一同と会見して正式に受諾した。石田は、一日三時間ぐらいをこれに費やせば、本来の思想史の研究をしながらでも、二年程度で書けるとものと思っていた。ところが、そんなことでは絶対にできる仕事ではないことがすぐわかった。沼田に関係ある山城址でさえ二十数城あり、利根の旧家の史料を調査することも容易な業ではない。石田の主義は「研究は足でする」『実際に見ないものは書かない」だから、手軽にはいかない。といって、「一旦引き請けたからには、いかなる犠牲を払っても沼田の信義に応えねばならない」ということで、自分の仕事もその他一切を捨てて全力を挙げて打ち込むことになってしまった。この間、沼田町の生方誠編纂委員長(前町長)や細谷浅松現町長を初め、各編纂委員や出版委員の人々が熱心に支援、激励してくれた。石田は書いている。「何事も独力では事を為しうるものではない」と。当時の沼田町の指導者たちは、本当に一生懸命石田に協力した。細谷浅松は『町史』の序文でこの町史刊行にかけた人々の熱意と情熱を簡潔だが明快に委細をつくしている。
これを読む限り、当時の町民の指導者たちは、現在のリーダーよりはるかに知的であり、はるかに高潔で純粋であったと思わざるをえない。今沼田市の状況は惨たるもので、権限を持った者はそれを私して私腹を肥やし、沼田はいつ破産してもふしぎではない苦境にある。それに対して責任のある前市長や現市長は、互いに責任をなすりあい、少しも反省の色が見られない。沼田は永い歴史を持つ。ついこないだの沼田町の時代にさえ、人格の優れたリーダーがいた。その頃の沼田出身者には、たとえば、星野直樹のようなみごとな官僚だっていた。今の堕落はどうしたことか。われわれは沼田がどこでどう間違ったために、ハマグリやカメのような悪質な底棲動物に牛耳られてしまったのか、このあたりで『町史』でも読んで考えてみてはどうか。今現在を正しく認識しなければ、再生の道は見えて来ない。
因みに、『沼田町史』は古書店で手に入れるのが非常に難しい。私は群馬に来て15年以上になるが、古書店の棚や売りたてでこの本が出たのを一度も見たことがない。ハマグリが市長だった時代に『沼田市史』が出たが、書物としての格調は『町史』にくらぶべくもない。新たな研究による新史料なども入っていると思われるが、それだけでは読書人を満足させることはできない。偏見で見ているわけではないが、豪華な市史のハマグリの序文の無味乾燥と、細田浅松の序の滋味の対比はそのまま教養、いや人物、の対比に思えてならない。
「春眠暁を覚えず」ではいけませんね。
沼田万華鏡しか読んでいませんので沼田町史も読み勉強致します。
沼田には素晴らしい先人が居たのですね。
投稿: 鵜の目鷹の目 | 2008年4月 2日 (水) 22:00