人殺さねば食を得ず
河口恵海という在家の僧がいた。大変な勉強家で、漢訳の仏典はすべて読破、サンスクリットにも及んだが、釈迦の説法に近いと言われるチベット仏教の経典をぜひとも読みたくなった。恵海は、当時厳重に鎖国していたチベットに密入国し念願の経典を勉強して帰ってきた。そしてチベット旅行記を発表した。チベットに入り込んでも、外国人だと分かると殺された時代である。だれもが恵海のほら話だと受け取った。恵海はヒマラヤの裾野でチベット族の村で言葉を習い、チベット人仏教僧に化けて潜入した。偶然道連れになった一団は強盗殺人をしながら寺を回っていく巡礼者だった。「人殺さねば食を得ず、寺巡らねば罪消えず、人殺しつつ、寺巡りつつ」と唱えながら寺から寺へと経巡り歩くのである。時々彼らは同行している恵海を殺す相談をする。恵海はありがたい仏の慈悲の話を聞かせると、彼らは涙を流してその日は殺すのを止める。そんなことを繰り返しながらいつかラサに着いた。恵海は寺に入って念願の経典を研究する。後に英国の探検隊がチベット入りを果たし、恵海の記述の正確さを高く評価、日本人もチベット旅行が事実であったことを知った。当時のシナは清の時代だった。清はチベットを属領のように言っていたが、実際にはチベットは独立国で清の支配は及んでいない。チベットは、元の時代に元世界帝国に所属したことはあるが、元は蒙古族の王朝であり、漢族の王朝が建てた明の時代には独立国であった。今日中国共産党政府はチベットは中国の固有領土であるかのように言っているが、それは歴史の事実に反する。
胡錦濤という男が出世したのは、チベット地区共産党委員会の書記だったときに、チベット族の大反乱を弾圧した実績による。一説に十万人のチベット人を虐殺したとされている。1988年のこの内乱のとき、胡錦濤は自らの所在を晦まし、反乱を鎮圧すべかどうか、機動隊が指導を仰ぐことが出来ない状態を作り出した。機動体の隊長は困り果てたが、弾圧の方針を打ち出し、鎮圧に成功した。胡錦濤が所在を晦ました理由は、万が一鎮圧が失敗した場合、俺はなにも相談を受けていなかった、と言い逃れが出来るようにするためで、秩序が回復されればその手柄は黙っていても党の書記である自分のものになることを見越していたのである。官僚にはいやらしい手合いが多いが、胡錦濤はその代表だろう。人殺さねば職を得ず、なのだ。
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