四苦八苦
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四苦八苦は仏教の言葉です。 人は生まれてから死ぬまで、四苦八苦しながら生きていくというものです。四苦とは、生きているというだけで必然的に味わう、生苦(しょうく)⇒生まれる苦しみ。老苦(ろうく)⇒老いる苦しみ。病苦(びょうく)⇒病気になる苦しみ。死苦(しく)⇒死ぬ苦しみを指します。八苦(はっく)とは、愛別離苦(あいべつりく)⇒愛する者との別れる苦しみ、怨憎会苦(おんぞうえく)⇒いやなものにつきあわなければいけない苦しみ、求不得苦(ぐふとっく)⇒ほしいものが手に入らない苦しみ、五陰盛苦(ごおんじょうく)⇒心身バラバラでさかんである苦しみをいいます。 人は生まれてきたからには、四苦八苦しながら生きて生きて生き抜いていかなければならないものだと思うのです。どんなに辛い苦しいことでもありのままに受け止めていく勇気、乗り越えていく勇気が必要だと思います。 時にはなかなか受け入れられないことがあるかもしれないけれど、本来そういう力を持ち合わせていると思います。その力を引き出すことができるか、辛い時や苦しい時に逃げないでどう受け止めるか、でどんな大人になるか決まるような気がします。 どうせなら素敵に歳をとりたいと思いませんか?
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第1子の憂鬱
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大好きな人の愛情を独り占めできないというのは、愛別離苦(あいべつりく)⇒愛する者との別れる苦しみ の一部かもしれません。死別という決定的なものでなくとも、愛する人を失う喪失感というのは、自分の中の一部をもぎ取られるような痛みと、ぽっかりと穴があいたようなむなしさのようなものを感じます。 子供のころそんな気持ちをしらずしらずのうちに味わうのが第1子。 それまで両親はじめ、祖母や祖父などの愛情を一身に受けて育っていたはずが、第2子誕生に伴い、自分に向けられていた愛情が弟や妹に奪われてしまうのです。そのうえ、「お兄ちゃんなんだから」「お姉ちゃんなんだから」という理由で様々なことを我慢しなければならない場面も出てきます。(好きでお姉ちゃんに生まれてきたわけじゃない!)と理不尽さを感じながら、それでも諦めることや、思いやること、自分の思うままにならないこと…などを自然と学ぶことができるのだと思います。いろんな気持ちと戦いながら小さな胸で一生懸命受け入れる「お兄ちゃん」や「お姉ちゃん」が愛しく感じられる今日この頃です。 もっとも、最近特に増えてきた一人っ子にはあてはまらないんだろうなぁ…。
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永久欠番
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ちゆきは中学校の同級生で、クラスの中ではちょっと浮いた存在でした。 いわゆるお調子者といった感じで、クラブの先輩には「生意気」と言われる反面、かわいがられてもいました。 クラスの中で浮いてしまったのは、度々嘘をついて誤魔化すようなことがあったからです。最初はちゆきの嘘に振り回されていたクラスの仲間たちも、そのうち相手にしなくなり、やがてちょっと孤立した感じになってしまいました。 ちゆきが私にとって特別な存在になったのは、本を通じてでした。今となっては何がきっかけだったか思い出せませんが、読書が好きだった彼女からいろんな本を借りて読んだり、私が好きなマンガを貸したり…というのが日課のようになっていました。今でもあの時ちゆきに借りて読んだ本から受けた影響は大きく、多分私の人生になくてはならない位置を占めていることと思います。 ある日ちゆきが本の感想を話しながら、「私は家が嫌い。家族が嫌い。はやく家を出て一人でなんでもやっていきたい。」としぼり出すように言ったことを今も忘れることができません。 誰より孤独を愛していながら、誰よりも孤独を憎んでいたのがちゆきでした。 そんなちゆきが亡くなってはやいもので数年がたとうとしています。 お調子者でしっかり者のちゆきらしく、大阪の地で家族にも誰にも告げず、病気と闘いながら、一部の本当に気を許した人たちに見守られながら静かに亡くなっていきました。 私にとっても卒業して以来、一度も会わずに迎えた別れでした。 ちゆきの卒業文集には、「もし、私が社会人になって 今の友達とぐうぜん町であったりなんかしたら、かた たたきあって、それから なつかしいね なんて 言いながら カンビール片手に 2人して “校歌”なんて歌いながら 町中のガラスというガラスをわってしまう なんていうことがあるのかもしれない そんなうたみたいなことがあったらいなぁと思う」と書かれていて、読んだ時、ちゆきらしいな、と思いながら、いっしょにビール片手に飲むその日のことを想像したものでしたが、ついにその日はやってきませんでした。 ちゆき。 今ごろどうしていますか? 私は今もたくさんの言葉たちと挌闘しています。 「相変わらず下手だねぇ」って笑われそうだけど、まだあがいてるよ。 いつかちゃんと本になるようなことがあったら…笑っちゃうよね。 もし、仮にそんなことがあったら、陰の功労者はちゆきです。 そんなこと言われてもちゆきは嬉しくないだろうけど、その時はいっしょに祝杯をあげてください。 じゃあね。
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泥海の中から
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農業は生命を育む仕事だと思っていらっしゃる方がいるとしたら、それは大きな間違いです。 殺生沙汰は日常茶飯事で、毎日どれくらいの生命を奪っているかわかりません。 消毒で虫を殺し、草を枯らし、もぐらやねずみ、からすやむくどりを駆除し、邪魔であればヘビも殺します。小さい頃は、母にアスパラについた青虫やしゃくとり虫をはさみで切って歩かされたこともあります。 夏の暑い日雑草を抜くと、青臭い鼻をつくようなにおいが嫌でも「自分たちは生きてるんだ」と主張してきます。草いきれってこんな感じかな?と言葉の意味もわからないまま、罪悪感にさいなまれながら、一心不乱に草取りをしなければなりませんでした。 人間ってなんてエゴイスティックなんだろう…と気づかされた一瞬です。 自然界の弱肉強食のバランスからあまりにもはみ出した「犠牲」を思うと、本当に虚しさや腹立たしさのようなものを強く、強く感じます。それは自分自身への無力感からかもしれません。 私たちは計り知れないほどの多くの犠牲の上に生活しています。 毎日どれだけの牛や豚が殺されているか。 毎日どれだけのラットやモルモットが死んでいるか。 黒部第四発電所の工事で亡くなった方々。炭鉱の事故で亡くなった方々。 ライカ犬のクドリャフカ。 広島、長崎、南京、アウシュビッツ。 イラクの子供たちをはじめ、数々の戦禍をこおむられた方々。 みんなの犠牲の上に今の私があります。 みんなの犠牲の上に今の私たちの生活が成り立っています。 私は本当にいろいろな人たちや、物たちや、生命やその働きに生かされていると感じます。 それだけの価値のある人間かわからないけれど、 まだまだ悩んだり悔やんだりすることは多いけど、 いつか無意味な犠牲が無くなるように、 祈りつづけながら 命をつないでいきたいと思っています。
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かなしみ笑い
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miss m.
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「笑っているけどみんな本当に幸せで 笑いながら街の中歩いているんだろうかね 忘れてしまいたい望みをかくすために バカ騒ぎするのはあたしだけなんだろうかね」 中島みゆきさんは「タクシー・ドライバー」の中でこう歌ってます。 以前、「悩みがない人がうらやましい。」っていう落書きを見たことがあります。でも、悩んでない人なんていないと思います。みんな大なり小なりの悩みを持っているんじゃないでしょうか。 世の中には自分の力ではどうにもならないことがいくらでもあります。望んで望んで、願って願って、いくら努力してもどうにもならないこと――それがとうてい無理であるとわかっていても望まずにはいられないこと、そんなことが山のようにあります。そんなときは――無理を通すことができない時は――諦めるしかないんです。そしてそれを忘れるために、人は笑うんじゃないでしょうか。 どうしようもないことを笑いとばす。忘れてしまいたいことを笑いとばす。見えない明日。かなわない望み。とり返すことのできない過去。二度と戻らないあの日。昨日。を。そして人は――心の中でそっと泣いているのかもしれません。 なにも知らなかった日はもう戻らないのです。 望めば何でも手に入った時期はもう二度とはやってきません。私たちは既に善と悪、正と邪を正しく見きわめ、現実をみつめなければならない歳になってしまったのです。 そして――今日も笑い続けます。無意識のうちに辛いことを忘れようと。 悩んでいるのはあなただけじゃないんですから。
「だから笑い続けるだけよ 愛の傷がいえるまで 喜びも悲しみも 忘れ去るまで」
中島みゆき「かなしみ笑い」 「竜胆」第34号より転載 1987
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