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若山牧水延岡顕彰会 会長塩月眞
◆おもへばながき七とせや…と喜志子、牧水七周忌に詠む−白州、茂吉らは偲ぶ会
牧水は沼津を永住の地と決めて住居を新築、その上、一世一代の仕事として『詩歌時代』を創刊した。そして早世した。地元銀行に約6千円の負債が残った。返済義務のすべてが喜志子の肩にのしかかった。
牧水の葬儀の後、信州の親戚が『この後どうするんね』と訊(き)いた。喜志子は長火鉢の猫板を指で拭きながら『仕方がないわ。やっぱり此の家を売るより他はないわ』と答えた。当時中学3年生だった旅人はこのときの情景を永く忘れ得なかった。
▽ ▽
喜志子がこの手紙を出した頃が返済期限ぎりぎりの時期だった。それが翌9年には一挙に解決した。牧水時代からの創作社友で神道系宗派大本教の聖師出口王仁三郎の口利きで長崎の信者が全額を立て替えてくれた。その上、喜志子が代償として土地建物の提供を申し出たところ出口は、自分も社友だから「創作」を今のまま続けてもらえればそれだけでいい、と事も無げに言った。
この話に終始熱心に折衝に当たった関西の実業家で同じく社友の平田春一がその間の事情を『その金は、出口氏が喜志子さんの家屋敷まで手放して負債の返済に当てようと決心された誠実な人柄に対する贈物としたわけだ』と、43年の「創作」12月号「若山喜志子追悼号」に『喜志子先生追悼記』の中で打ち明けている。
平田は岡山出身で明治27年生、大正7年に創作社入社。「雲」など歌集6冊を出している。昭和48年没。
また大本教は翌10年に当局の弾圧を受けて解散するが、それはそれ喜志子の肩の重荷はこれで降りた。
■『喜志子の手紙』(4)
〈日付〉
昭和9年3月26日
〈宛先〉
東臼杵郡東郷村坪谷石原
陶山勲・きぬ子様
この手紙は、9年4月10日に牧水七周忌法要を沼津の乗運寺で催すに当たって「遠方なので御参列は御無理と思うが、若山家の面目もあるので電報を打って頂きたい」という内容である。末尾に歌一首を添えている。
かへり見ておもへばながき七とせやさあれ昨日の如くも見ゆる
陶山家から参列したか否か定かではないが、河野、今西とも話し合って打電したことは間違いない。
▽ ▽
七周忌法要当日は創作社全国大会も併せて開催している。このため9月17日の命日から引き寄せて催したものである。
9月には、東京で15日に北原白秋、斉藤茂吉など当代の歌壇諸大家発起による若山牧水七周忌記念短歌祭、17日には「牧水を偲ぶ会」が料亭で催されている。
白秋は牧水と早稲田大学英文科の同期で終生の親友だった。茂吉はアララギ擁護の立場から創作の牧水に対立した時期もあった。しかし、短歌祭では閉会のあいさつで『牧水を研究し、そうして吾々の活動の一つの指針としようという事は、私のみならず誰もが考える事だと思うのであります』と最大級の賛辞を述べている。
また大正4年に喜志子の療養のため三浦半島の北下浦に牧水一家が転地した折には自分の揮毫(きごう)の色紙などを知人に買ってもらって代金をカンパしている。茂吉の牧水への友情と人柄を物語るエピソードである。
この年は11月4日に長野県小諸市の懐古園に2番目の牧水歌碑の除幕式があって喜志子が出席した。次の歌が刻まれている。
かたはらに秋くさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな。
これまで書かなかったが、喜志子はいつの手紙にも河野、今西の両家によろしくと伝言を頼んでいる。今回も『都農にも延岡にもうちたへて失礼いたしてをります。よろしくおとりはかり下さいませ』と書き添えている。
■『喜志子の手紙』(5)
〈日付〉
昭和10年3月12日
〈宛先〉
東臼杵郡東郷村坪谷・陶山絹子様
〈本文〉
『おなつかしいお手紙うれしく拝見いたしました。日ごろの御ぶさたのおわびはいまさら申し上げきれません。毎月さしあげてゐる創作にて大よそはおわかり下さることと存じ、いささかは安心してをりまして、
さて、今度、私の日向ゆきは忙しくて時間の乏しき中より割いて出かけますので延岡にゆっくり滞在出来ませず、坪谷までまゐるつもりでございますが、ほんのお墓まゐりをしてすぐ帰る位の時間しかないと思ひます。
延岡の歌碑のことも、お家の方に建つとかきいてゐた歌碑のことも一向どういふ風になってゐるのかわかりませんでしたので不安でをりましたところ、先般、谷様より十七日に除幕式をしたいから是非来て貰ひたいと申してまゐりましたので、とにかく参るべく創作の社便に十七日と書いたのでした。
しかし、十七日ではどうしても私の都合がつきませんので二十一日に延期していただきました』。
延岡市の城山公園に建つ全国3番目の牧水歌碑の除幕式に参列する連絡である。喜志子は5、6日は滞在したい心算だったが、「創作」で知った長崎、熊本の社友から是非立ち寄るよう言って来ていて寄らざるを得ない。それで坪谷行きは日帰りになる。都農にも富高(注今西家)にも寄れない。
『しんるいに対してまことに申しわけない私の立場を万々承知しながらかうしたことになって私は辛うございますが、普通の人の嫁とはちがってゐる私だと思召して何とぞおゆるし下さいませ』と断っている。
この年の3月に旅人が横浜工業高校を卒業、住友本社に入社が決まっている。この手紙も横浜から深夜12時半に帰宅、今朝は朝寝をしてしまい、枕元でキヌからの手紙を読んですぐ返事を書いた、と述べている。
除幕式には旅人にも参列させた。大正13年春以来の日向路訪問である。親戚や何かと世話になっている谷自路(次郎)ら社友に報告のためである。キヌも夫勲と一緒に参加している。喜志子、旅人親子と陶山夫妻にキヌに抱かれて眠っている美生子、牧水の叔父長田観禪、康哉親子の親戚一同が歌碑前で記念撮影をしている。
喜志子親子は同行の大悟法利雄の妻静子と自路から延岡市内を自動車で案内してもらって感激している。
(文中敬称略)