西日本新聞

千年書房・九州の100冊

横光利一「旅愁」

 今でいえば、村上春樹や大江健三郎以上の存在だろうか-。そんなことをぼんやり考えながら、山道をたどった。大分県宇佐市赤尾にある光岡城跡。標高130メートルの頂きに「旅愁」の一節を刻んだ文学碑はある。地元の地域おこしグループ「豊の国宇佐市塾」が市民から浄財を募り、1993年10月に建立したものだ。
 「家を一歩外に出たもので 胸奥に絶えず 描きもとめてゐるふるさとと 今身を置く郷との間に 心を漂はせぬものは 恐らく誰一人も ゐなかつたことだらう」
 碑文の文字は、愛(まな)弟子の芥川賞作家・森敦(1912-89)が書いた。「横光を『大恩の人』と呼んでおられたのが印象的でした。書痙(しょけい)に震える手で立派な書を書いてもらいました」。碑に案内してくれた松寿敬さん(42)が振り返る。松寿さんは横光文学研究の第一人者、井上謙・元日大教授の門下生である。宇佐市塾が88年に横光利一のシンポジウムを開いた際、頼まれて井上氏と一緒に揮毫(きごう)のあっせん役を引き受けた。その縁で宇佐市民図書館に職を得て10年になる。
 碑からは広大な宇佐平野と青い周防灘が一望できる。だが、あいにくこの日は曇り空。「もっとも、天気が良すぎてもはっきりとは見えませんが」と松寿さんは笑う。
 小説の後半、主人公の矢代耕一郎は父の納骨のため、父祖の地である宇佐を訪れる。碑の言葉はこのときの感慨だ。矢代は、光岡城にこもった祖先がキリシタン大名大友宗麟の軍勢に滅ぼされるさまを、峰々をわたる松風の音の中にまざまざと思い描く。実際の城主赤尾氏は大友方に名を連ねており、史実とはまったく逆なのだが。横光はそう信じていたのだろう。
 九州帰郷のくだりは、矢代をそのまま作家本人と置き換えてもいい。実際、横光の父梅次郎の出身地は赤尾であり、自身、43年11月に「旅愁」取材のため宇佐を訪れている。

 「当時珍しかった大型ハイヤーが山門前にとまり、父はびっくりしたそうです。蓬髪(ほうはつ)をかき上げるしぐさがさまになっていて、顔を上向き加減にして正座する姿に『東京の偉い人は違う』と妙に感心していました」。
 横光家の菩提(ぼだい)寺・西福寺の紫雲正順住職(53)が先代の玄順さん=2000年死去=から聞いた話をしてくれた。当時、玄順さんは20歳。作中にも「悧發(りはつ)な眼鼻立ちも美しかつた」と表現されている。
 墓参のため横光が山門を出ようとすると、勤労奉仕に来ていた女学生の一団が「頭(かしら)っ中!」と軍隊式の敬礼で歓迎したともいう。なじみの薄い「古里」での思わぬもてなしに、いたく感激したことだろう。
 横光は福島県の東山温泉で生まれた。トンネル工事の測量技師だった父の仕事の関係で、幼いころから各地を転々とした。故郷を持たない根無し草の自意識がこの作家の生涯を望郷の念で覆っていたといえば、感傷に過ぎるだろうか。
 「みなそれぞれ旅をしてゐるのだ、すべてのものは旅のものだ」との一節にも、作家の心情がうかがえる。子ども時代の多くを母の郷里三重県の柘植(現伊賀市)で過ごし、初期作品の舞台とした横光だが、宇佐には自らのルーツとして特別な思い入れがあったようだ。30年、満鉄の招きで菊池寛(1888-1948)らとともに満州に向かう飛行機の中で、夫人にあてて「僕の國(くに)宇佐が見える」と記している。

 30代半ばで「文学の神様」と称された横光の評価は、敗戦を境に地に落ちた。文壇のトップランナーとして文芸銃後運動の中心にあったことが指弾されたのだ。「戦犯文学者」との汚名を着せられ、多くの弟子、崇拝者が離れていった。敗戦の悲しみと混乱の中、49歳で鬼籍に入った。
 その軌跡は、ともに「新感覚派」として出発し、弟分だった川端康成(1899-1972)がノーベル文学賞の栄に輝いたのとは非情な対照をなしている。横光は戦後、黙殺され忘れられた作家となった。「旅愁」の不評が拍車を掛けたことも、論をまたないところだろう。
 「旅愁」は、パリ、東京を舞台に、日本の精神文化と西洋の物質文明との相克を描いた思想小説と評される。確かに、矢代が古神道に関心を寄せ、国粋主義的傾向を強めていくなど、いわゆる「近代の超克」がテーマであることは一目瞭然(りょうぜん)だ。この点が批判の対象となり、未完に終わった要因ともなった。しかし、短編「機械」に代表される観念的作品を数多く手掛けてきた横光が、最後は自らの足元に回帰せざるを得なかった背景にこそ、この作品を読み解く鍵があるような気がしてならない。
 横光家の墓にも足を運んだ。荒れた竹林の中、大小の墓石群が小糠(こぬか)雨にぬれて、ひっそりとたたずんでいた。63年前、横光が目にした光景と、さほど変わってはいないはずだ。
 横光という姓は全国的に珍しく、宇佐が発祥という。光岡城の隣だから「横光」-。西福寺の周辺は多くが横光姓だった。
 (文=宇佐支局・本山友彦 写真=写真グループ・納富 猛)

▼よこみつ・りいち

 1898年福島県生まれ。小説家。早大中退。菊池寛に師事し、1924年川端康成らと「文芸時代」を創刊、擬人法や比喩(ひゆ)を多用した独特の文体で「新感覚派」の中心的存在となる。プロレタリア文学に対抗、心理主義に進み、自意識をもった現代人を描いた「機械」(30年)は文壇に大きな衝撃を与えた。「上海」「寝園」「紋章」「家族会議」などを発表、文壇を代表する作家に。36年ベルリン五輪取材のため新聞社の特派員として渡欧。翌年から46年までの約10年間、「旅愁」を新聞、雑誌に断続的に書き継いだ。47年日記体の小説「夜の靴」を発表後、胃かいように急性腹膜炎を併発し死去。49歳。

●私の推薦文

テーマは「日本とは何か」 平田 崇英さん(58)=豊の国宇佐市塾塾頭(大分県宇佐市)

 今から十数年前、「旅愁」の舞台であるパリを訪れ、この小説が理解できたように思った。ノートルダム寺院などゴシック様式の壮大な建築物を目の当たりにし、西洋を礼賛する自分を発見した。同時に、木と紙で成り立った情趣あふれる日本文化の良さも再認識できた。
 作中、国粋派の主人公矢代と、友人で西洋派の久慈はしばしば論争をするが、どちらも作者の分身であり、矢代イコール作者では決してない。横光と同じ場所に立ってみて、そのことがよく分かった。
 この作品は、「日本的なものとは何か」を問うた骨太な思想小説だ。明治の文明開化以降、日本人が外国文化を受容するうえで直面せざるを得なかったアイデンティティーの危機の問題と正面から切り結んでいる。この問いは今日においても何ら解決していない。60-70年前に書かれながらも、「旅愁」は古びていないどころか、真に新しい小説といえるだろう。

●メモ

 ■「光岡城跡」は16世紀の赤尾氏の山城遺構。「旅愁」では「城山」の名で登場します。宇佐市赤尾、国道10号を中津方面に向かう左手の丘陵にあります。県の史跡公園として整備され、地元保存会を中心に毎秋、横光利一を顕彰する「秋光祭」を開いています。

 ■宇佐市は横光家の旧蔵資料64点を購入しました。絶筆の小説「洋燈(らんぷ)」などの自筆原稿、川端康成らからの書簡、本籍欄に「大分縣宇佐郡長峰村大字赤尾」と記されたパスポートなど、市民図書館が所蔵しています。

 ■同図書館は毎月第4土曜に「『旅愁』を読む会」を開催しています。無料で参加できます。また生誕100年記念行事の一環として1999年から毎年「横光利一俳句大会」を開催しています。同図書館=0978(33)4600。

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