空の軌跡エヴァハルヒ短編集
第九話 LAS小説短編 大きな栗の木の下で
エヴァンゲリオン量産機との戦いで激しく傷ついたアスカ。
彼女はその戦闘前からベッドに寝たきりのままの状態でもあったため、体はすでにボロボロであった。
そしてさらに彼女の左半身には痛々しい包帯が巻かれている。
戦いの後彼女はしばらく医療施設の整っているネルフ本部の病院に入院していたが、退院の時期になっても彼女は日本に残ることを強く希望した。
周囲の大人達は、アスカがシンジにそれほどまで好意を抱いているのかと誤解していたが、アスカの瞳は憎しみに満ちていたのだった。
碇シンジと二人きりで暮らしたい。
アスカがゲンドウ亡き後のネルフのトップになった冬月に申し出た希望はただ一つ、それだけだった。
冬月はアスカの要望を笑顔で聞き入れ、第二新東京市に新しい住居まで用意した。
しかし、アスカはまだ自分一人では体の自由が利かない身。
介護の人間を付けようかと冬月は申し出たが、アスカは頑なに断った。
冬月はアスカの態度に折れてシンジに全てを託す事にした。
人里離れた山の奥の方にある一軒家。
アスカが静かに暮らしたいと言う事で、警備上の観点からも広い庭のある家が選ばれた。
外から家の様子はほとんど見て取れない。
この好条件にアスカは思い切りほくそ笑んだ。
二人の同居が始まった初日から、アスカによるシンジへの『復讐』の日が始まった。
「アタシの嫌いな物ぐらい、いい加減に覚えなさいよ!」
夕食の席でもアスカは何かにつけてシンジを怒鳴りつけていた。
「アスカ、そんなに暴れるとせっかくくっ付いた肩の傷口が開いちゃうよ」
「うるさい! この怪我もアタシの弐号機がエヴァ量産機に囲まれた時、アンタがすぐに助けに来なかったからじゃないの!」
シンジはその一言をアスカに言われると逆らえない。
アスカが一人で戦っている時、シンジはベークライトで固められた初号機の前でぼう然と立ち尽くし、初号機の方から動き出すまで何もしなかった負い目があるからだ。
「アタシの怪我が完全に治るまで、アンタはアタシの側で奴隷のように世話をするのよ! アンタのせいで大怪我をしたんだから当然でしょ!」
アスカは怒った様子でシンジにそう宣言すると、シンジは全てを受け入れたかのように悲しそうな笑みをこぼすだけ。
次の日もその次の日も、アスカの怒鳴り声が部屋に響き渡る。
「このバカっ! いつまでアタシの風呂のお湯の温度を覚えられないのよ!」
「そんなこと言ったって……仕方無いだろ!」
シンジが口答えするのでアスカの方もムキになって暴れてしまう。
実はアスカは食事の内容もお風呂のお湯の温度も別にどうでも良いと思っているのだが、敢えて意地悪を言っているのだ。
すなわちシンジがいくら努力しても、アスカが正解と褒める事は無い。
そんな生活がしばらく続いたある日、シンジはマヤに呼び出されてネルフ本部へ来ていた。
新しく新設された自分の研究室にシンジを招き入れたマヤは穏やかな笑顔でシンジに話しかける。
「ごめんね、シンジ君。仕事が忙しくてなかなか構ってあげられなくて」
マヤはリツコ失踪の後、冬月にMAGIの管理を全て任されるなど、ハードスケジュールをこなしていた。
「どう、シンジ君。アスカちゃんと二人で楽しくやっている?」
「え、ええ……」
シンジはそう答えたが、その笑顔はとてもぎこちなかった。
そして、シンジの瞳はとても悲しげだった。
その微妙に暗い雰囲気を、マヤはシンジから感じ取った。
「……もしかして、シンジ君、アスカちゃんと上手く行っていないの?」
マヤが真剣な眼差しでそう問い詰めると、シンジは慌てた様子で首を横に振る。
「そんな事ありません!」
「ねえ、正直に話して。私の方でアスカちゃんの世話をしてくれる人を探すから」
「いえ、いいんです」
「じゃあ、私の方からアスカちゃんにシンジ君に我がままを言わないように言い聞かせるから」
「止めてください!」
必死に止めようとするシンジに、マヤは溜息をついた。
ミサト亡き後の二人の保護者はマヤになっている。
「……とにかく、何か辛いことがあったら私に何でも相談してね」
「……はい」
そう言って部屋を出て行くシンジの姿はとても悲しげにマヤには見えるのだった。
シンジの様子がやはり気になったマヤは、翌日に空調関係の点検と称して業者を二人の暮らす家の中に潜入させて盗撮カメラを付けた。
そして……カメラに映し出される映像はマヤが危惧していた通りのものだった。
アスカは何かにつけてシンジを怒鳴りつけている。
シンジは奴隷のようにペコペコ頭を下げて平謝り。
決してシンジに笑顔を見せる事の無いアスカ。
張りついた愛想笑いだけが顔に張り付いているシンジ。
極めつけはアスカの口からたびたび漏れてくる言葉だった。
「いい? アタシはアンタに復讐するためにここに居るの! 怪我が完全に治るまで責任を取ってもらうわよ!」
この二人を側に居させてはいけない。
マヤはこれは早く手を打たないといけないと考えた。
思い悩む彼女の居る部屋にやってきた突然の訪問者はレイだった。
「伊吹三佐、お元気ですか?」
「レイちゃん? 久しぶりね」
そういえば今日はレイの体の定期検診の日だった事をマヤは思い出した。
レイの体をチェックするのはリツコの役目だったが、それもマヤが引き受けている。
「美術学校の方はどう?」
「問題ありません、毎日が楽しいです。……伊吹三佐、何か困っているのですか?」
そう質問されて、マヤはさらに困った顔になった。
普段から腹を割って話す相手もいないので、マヤはレイの体の検査中、ずっと悩んでいたアスカとシンジの事について話していた。
「……そうですか、惣流さんと碇君が……」
「私は早く二人を引き離すべきだと思うのよ……」
マヤがそう言って溜息を吐くと、レイは赤い瞳でマヤを見つめながら強い口調で宣言する。
「……私が惣流さんと碇君の気持ちを確かめてきます。それまで結論を出すのは待っていてください」
大きなスケッチブックを抱えたレイがシンジとアスカの暮らす家に姿を現したのはその翌日の事だった。
「伊吹三佐に碇君達の家の庭に立派な大きな栗の木があるって聞いて来たの。ついでに二人の様子を見てくるようにって」
突然の訪問に驚くシンジとアスカに向かって、レイは理由をそう話した。
「そ、そうなんだ、じゃあゆっくりと見て行くといいよ」
シンジはとまどった笑いを浮かべながら、レイを栗の木が良く見える部屋へと案内する。
そこは空き部屋としてベッド以外ほとんど物が無い状態だった。
レイが部屋に入って行くと、アスカは怒った顔でシンジの頬をつねった。
「アンタ、この前ネルフ本部に行った時、マヤに変な事を喋ったんじゃないでしょうね!」
「そんなことしてないよ!」
レイが部屋のドアを開けて顔を出すと、アスカはパッとシンジから手を放した。
「……トイレはどこ?」
「あ、右行った奥だよ」
シンジが指し示した方向にレイは歩いて行った。
「……仕方無いわね。変な報告をされても困るし」
その後アスカがシンジに辛く当たる様子は無く、カメラを通して監視していたマヤはとりあえずホッと胸をなでおろした。
しかし、これは一時的なものにしか過ぎないとマヤは分かっていた。
マヤがハラハラしながら様子を見守っていると、シンジがレイに夕食のメニューを提案している。
「今夜は綾波が来てくれたから、ニンニクラーメンにしようか?」
そうシンジが尋ねると、レイは首を横に振る。
「私はハンバーグが食べたい」
その言葉を聞いてシンジは思わず顔をしかめた。
「それ以外で何か食べたいものはない?」
シンジは遠回しに拒否したが、レイは意見を変えない。
「私はハンバーグが食べたい」
さっきよりも大きな声が辺りに響く。
そのレイの声はアスカの耳まで届いたのか、アスカは嫌悪感をあらわにする。
「……わかったよ」
シンジは諦めた様子でハンバーグの材料を買いに外出した。
「……一体どういうつもりよ……」
レイと二人きりになったアスカは思わずレイをにらみつけながらそう呟いた。
「あなたの方こそ、どういうつもり?」
言い返されたアスカは言葉に詰まり、黙って部屋に入るレイを見送った。
家に戻ってきたシンジは急いでハンバーグを作る準備に入る。
「久しぶりだから、上手く作れるかわからないよ」
「それでもいいの」
そう言ってハンバーグを作るシンジの手は緊張から小刻みに震えていた。
これは、レイにハンバーグを食べてもらうためからくるものではなかった。
怯えるシンジの視線の先にはアスカが固い表情をして座っていた。
焼き上がるハンバーグの音、そして鼻孔をくすぐる匂い。
シンジがアスカと暮らし始めた直後にも一度ハンバーグを作った事がある。
しかし、アスカはハンバーグを特に表情も変えず能面のような顔で食べていた。
その姿にショックを受けたシンジはそれから二度とハンバーグを作っていなかった。
夕食が始まり、シンジはドキドキしながらアスカの方に視線を送る。
「碇君、おいしいわ」
「あ、ありがとう……」
レイの言葉に少しシンジは救われたような感じでシンジは再びアスカの顔色をうかがった。
だけどアスカは表情一つ変えずにハンバーグを口に運んでいた。
シンジはガックリとした様子で夕食の後片付けをしている。
レイはじっとアスカの顔を見つめている。
アスカがそれに気がついてレイをにらみ返す。
「何よ?」
「別に何でもないわ……」
レイはそう言うと部屋へと戻って行く。
その後アスカは落ち込んでいるシンジに声をかけず、夜は更けて行った。
夜中になっても眠れなかったシンジは、レイの泊っている部屋の明りがまだついている事に気がついた。
シンジはレイに気がつかれないようにそっとドアを薄く開けて中を覗き込む。
「綾波……、こんな夜中に絵を描いてるの?」
シンジは真剣な様子でスケッチブックに向かっているレイを見て、邪魔してはいけないと思いそのまま部屋を離れた。
そして翌日。
朝食の席にレイはスケッチブックを抱えて現れた。
シンジとアスカは怪訝そうな顔でレイの事を見つめている。
「綾波、大きな栗の木の絵は描けたの?」
シンジの言葉にレイは首を横に振る。
「違うわ。よく見て惣流さん、碇君」
レイがそう言ってスケッチブックを開く。
そこには美味しそうにハンバーグを満面の笑みで頬張るアスカの姿と、それを穏やかに微笑んで見守るシンジの姿が描かれていた。
「こ、これがアタシだっていうの……」
そう呟いたアスカの蒼い瞳から涙がこぼれ落ちた。
シンジも絵の中のアスカの笑顔を食い入るように見つめていた。
レイは涙を流しているアスカに向かって話しかける。
「惣流さん、あなたはもう碇君を許してあげているんでしょう? 責める事に疲れているんでしょう? なんで素直に碇君に言ってあげないの」
「だ、だって……許してあげるって言ったら、シンジがどっかへ行っちゃうと思ったから……」
アスカはそう言うと、ついにその蒼い目からせきを切ったように涙をあふれさせる。
「……え?」
シンジは驚いた様子で声を上げた。
「だって、アタシはシンジにひどいことしてきたし、こんなガリガリに痩せたアタシなんて放って、他の子の所に行くに決まってる……例えば……」
アスカはそう言ってレイを見つめた。
そしてアスカの独白を聞いたシンジも必死に頭を下げて謝りはじめる。
「ごめん! ……僕もアスカの怪我が治らないように、わざとアスカを怒らせて暴れさせるようなことをしたんだ! 元気になったらこんな情けない僕を放ってドイツに帰っちゃうと思ったから……」
シンジの独白を聞いてアスカも涙が途切れるほど驚いた様子になる。
アスカとシンジは黙って見つめ合う。
お互いの瞳には憎しみも、悲しみもすでに存在していなかった。
「惣流さん、碇君、私はもう一枚絵を描いてみたくなったの。……お願いできる?」
レイが描きたい絵は、幸せそうな恋人達の風景なのだと言う。
シンジは大きな栗の木の下で、アスカを膝の上に乗せて抱き寄せた。
レイが描き上げた二枚目の絵は、その後『大きな栗の木の下で』と題名を付けて、美術コンクールに出品された。
受賞はできなかったが、その絵は大切な宝物としてリビングに飾られることになる。
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