<神岡磨奈氏>
人間とその産物との関係性とはなんだろうか、などと考えたことは今まで1度もなかった。産物が産物たりうるのは人間がいるからである。モチロンだ。演劇は特に生の人間の存在が不可欠な「アート」である。そこに参戦してきた「カオス*イグザイル」。そこに関わる人間は無数でありながら、影を潜め、隠れ、また息絶えていた。そこに見えた「人間」とは。
恥ずかしながら、「カオス*ラウンジ」についてはほとんど予備知識を持ち合わせていなかった。Festival Tokyoで1番Tokyoらしいプログラム、そんなイメージを持って雨の秋葉原に足を向けた。「アキハバラ」を中心としたサブカルチャーの氾濫のようなものを期待して、そのまま第一会場に入場した。
そこにあったのはUFOキャッチャーの筐体。どこか古臭いお馴染みの「ゲームセンター音」の中、訪れた客はゲームに興じることになる。「景品」であるよく見る「顔文字」のついた白いぬいぐるみは、色とりどりの汚しをかけられている。その「顔文字」が人気絶頂のAKB48のアスキーアート[1] だと分かる客はどれほどいるだろうか。かしこに散らばるフィギュアやグッズの作品タイトルやキャラクター名を全て答えられる客も少ないだろう。しかし当然のことながら、それらは全く問題ではない。
個体認識されない、ただ「それっぽい」アキバカルチャーの乱雑な積み上げられ方はまさに日本で私達が日常目にする光景である。本物のゲームセンターで並ぶ「とある〜」 [2]とか「イカ娘」[3] とか言う単語はそれに興味のない人間には理解が難しい。しかしそれを見ただけで、どんな客層がターゲットであり、どのような背景のもとに人気が成り立っているか簡単に想像することができる。そんな分かりやすいアイコンが、薄暗いアミューズメント施設として表現されていた。
こうしたポップカルチャーの産物を展示として破壊行為を加えたり、原形をとどめない形にしたりという表現がカオス*ラウンジのお家芸であることは後で知った。いろいろと問題[4] にもなり、今も確執があるとかないとか。ここでそれに触れることはしないが、何も知らない私はそれを見て、一種の物悲しさや現代的な傷のようなもの、アキバカルチャーを揶揄しながら愛でるような倒錯した印象を受けた。現代社会の娯楽の中で生き生きとしているものが、息を止められているという生々しい哀愁。どのような言葉で表現されるべきだろうか。そのイメージを第二会場でさらに色濃く感じることとなった。
件の「景品」をゲットすることで第二会場へのチケットが手に入る。数回、または数十回のチャレンジの末に客はようやくコマを進めることができる。これはまさしく「ゲーム」であった。単純な作業を繰り返して、大層でもない何かを手に入れて、先にある「お宝」を胸に描いて進む。日本で慣れ親しんだビデオゲーム、アミューズメントゲームの単純な形である。
インターネット上でよく見かける金髪の女性の写真 [5]が入った「会員証」を握りしめて、第二会場へ。そこは一見してはたどり着かないような分かりづらいビルの中で、「あきば女子寮」 [6]というコンセプト店の上階であった。色とりどりに汚された壁と鏡に囲まれた空間は、そこにいる人間(客)を含めて「展示」と錯覚させた。そこにどんな人間が何人いるか、あるいは誰もいないか、と言ったことで観る者に与える印象が変わってくるのだと言うことはそこにあった会場内の写真を見ても明らかだった。デジタルフォトフレームの中で変わり行く会場内の景色は、コスプレの女性や笑いあう人々でそれぞれ違った表情を見せていた。
天井には秋葉原駅のホーム、ウィンドウズのデスクトップ、宇宙、アニメ絵の女の子といったモチーフが大きくあって、そこに落書きのような文字や絵が幾重にも書き込まれていた。前出のAKB48のアスキーアートにしても、pixivに関する問題にしても、インターネットの、主に掲示板というツール上に暮らす「住人」の存在は「アキバカルチャー」に深く関わってくる。彼らの存在はあってないような有象無象でもあるが、もちろん無視することはできない。その産物がありとあらゆるものに重なって表現されていた。「便所の落書き」 [7]と言い表されているそれが具現化したらまさにこんな感じか。それは、そこに人間がいるかいないかで何もかも変わってしまうことも含めてネットカルチャーの表象のようであった。繊細で雑であり、人間との関わりがなければ息絶える。それは2階の展示でさらにはっきりする。
2階には誰もいない和室と寝室があった。どちらも使用する人間を失った機器が放置された空間で、空恐ろしく、とにかく不気味であった。寝室には透明のビニールハウス状テントが立て込まれて、その中にはデリバリーピザの空き箱、毛布と生活の色を残しながら、パソコンから発されるSOSのような電子音の英語が単調に鳴り響いており、サバイバルの跡を思わせた。またその乱雑な様子は「引き籠もり」の生活のそれとも取れた。いずれの状況だとしても目の前には家主不在のそれがあり、そこからは空虚な絶望、終末、死といった言葉が連想された。今の日本では直視しづらいイメージ。聴こえてくる英文は単調で「We are Japanese」から始まり、生き残った、破壊された、海外に行きたいなど自分達の状況を述べるような内容がひたすら流れていた。そんなカオス*ラウンジからのメッセージは瀕死のモールス信号のようであり、また映画「E.T.」をも想起させるような光景だった。
隣の和室はドラえもんが寝起きするような押し入れにテレビが1つ、初音ミクを思わせる二頭身のドットで描かれたキャラクターがコンピューター画面の上を延々と歩き回っていた。廃墟のような家の壁ははがれていて、ベニヤがむき出しになっている。ちょっとしたお化け屋敷とも言えるような薄気味悪い部屋。その得も言われぬもの悲しい部屋をブラウン管の明かりだけが照らしていた。止められることを知らない初音ミクは歩き続け、動かない電脳世界に生き続ける。
2階は1階と違い、人間がいなくなった空間こそに意味が生まれてくる。それは人間不在のまま在り続ける無機物達で、黒瀬陽平氏が言うところの語義矛盾する「野生のアート」と言うことができるかも知れないようにも感じられた。3.11と展示を照らし合わせる時に、持ち主を失い、地上に打ち上げられた携帯ストラップを思い出さざるを得なかった。たくさんの無機物が日々生み出され、またそれらは時に芸術と呼ばれるが、人間がいないことには意味がない。
帰りに「あきば女子寮」の前を通ると(行き帰りには通らざるを得ない)ちょうど客が帰るところで、中の様子が垣間見えた。ピンクを基調としたファンタジーの可愛らしい空間と笑顔のスタッフもまた虚無の産物に見えたが、生きた三次元であることに些かホッとする。至極複雑。
無人のまんだらけやヴィレッジバンガードにブルドーザーが突っ込んだようなカルチャーの氾濫。「芸術は糞、糞は芸術」[8]と壁に書きなぐられた言葉がまさにすべてを表しているのかも知れない。人間の居る、または居た跡みたいなものが芸術。人間の痕跡、廃墟、その虚無感に漂う「アート」。「ヲタク」の存在が見え隠れするそれぞれの場所で、それは会場のあった秋葉原という土地全体をも指す表現だが、産物だけが取り残されているような展示。それは壊されたり、残されたり、如実に人間との関係性の中で表情を変えていく。その存在はどこか哀しい。黒瀬氏は震災が明らかにしたものは、世界の「動物化」だと語った[9]。息づく無機物たちも人間と同じように「動物化」していくのだろうか。この野放図なまでの文化の放牧が10年代に起こりうる、人間と産物、「アート」の関係性だと提案したい。
1 AA(アスキーアート)と呼ばれる芸能人の顔文字。前田敦子は∵。
2「とある」シリーズと呼ばれる鎌池和馬によるライトノベル「とある魔術の禁書目録」「とある科学の超電磁砲」とそれに関連するテレビアニメ他。
3安部真弘による漫画「侵略!イカ娘」とそれに関連するテレビアニメ他。
4イラストSNS「pixiv」に掲載された作品を利用、また掲載していた作品が閲覧者からの通報があったにも関わらず削除処分を受けなかったなどの出来事がインターネット上で取り沙汰された。他に千円札をコピーして使用した作品など。"イラストSNS「pixiv」に批判殺到!カオス*ラウンジって、どんな集団". ITライフハック (2011年7月28日)。
5ドメインレンタル業者のトップページに表示される顔写真。
6コミュニケーションルーム「あきば女子寮」。"秋葉原にあるパジャマを着た寮生と一緒にゲームして楽しめちゃう、癒し系小部屋スペース!"。
7匿名巨大掲示板「2ちゃんねる」を表す言葉として用いられる。
8第二会場1階部分の壁に「art is shit, shit is art」。
9「カオス*イグザイル」http://chaosxlounge.com/chaosexile/chaosexile.html