「敗戦後の国民への警句再び」
「原発安全神話 重ね」
伊丹万作 「戦争責任者の問題」
<引用開始>
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。(略)だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。(略)「だまされていた」といって平気でいる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でも別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。
<引用終了>
朝日新聞は、この言葉を紹介するとともに、自分の意思で「原発ノー」の声を上げる人々の姿を変化と捉え、希望であるとしている。
甘い、と言わざるを得ない。今の流れを見ていると伊丹万作が言うように「別のうそによってだまされ始めている」のであり、その流れを誰も止めることができないでいる。
筆者は伊丹万作という人物(伊丹十三の父)を良く知らないが、「罪」という概念をどのように捉えていたのか疑問が残る。
クリスチャンにしか理解できない「罪」もある。今日の新聞には、竹島問題に関する韓国民の態度を「反日無罪」と中国の「愛国無罪」同様に紹介している。反日行動であれば「罪」にはならないということである。
神の律法(原則)を破ることはできない。それを破ろうとすれば自分自身が破れるだけだ
セシル・B・デミル
「罪」とは神の原則を破ることである。つまりコンプライアンス違反ということであり、人間の決めたローカルルールを破ることではない。
ビル・クリントン元大統領の不倫が問題になった事があったが、彼は悔い改め「罪」から救われた。「罰」も与えられなかった。
このような基本的知識がないと、「だまされるのも罪」の本当の意味は理解できない。
聖書より
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。
ヤコブの手紙1章14節〜16節
アダムとイブを惑わしたヘビの行為である誘惑も「罪」である。この世にはビジネス上の思惑からの誘惑が充満しているのであるから、「罪」である誘惑なのか、「罪」には当たらない宣伝なのかを見分けるにはそれ相応の仕分け能力が不可欠である。
このブログに何十回と書いているが、筆者もサンクチュアリ出版にコロッとだまされた人間である。泣き、苦しみ、倒れ、そして再び立ち上がって初めて「もうだまされない」と言える人間になったと考えるが、それでもまだまだ不安な部分もある。それは、極めてスマート(利口な)なトラップ(わな)である。
筆者がスマートトラップと呼ぶわなは、明らかに合法的なものである。将棋やチェスのように理詰めで勝利を得るようなものであり、ユダヤの世界征服のシーケンス(順序)にも似ている。
筆者は、日本人は極めてだまされ易い民族であると考える。最大の「だまし」は、戦後の官僚による国民「だまし」である。
「だまし」が基本の国家運営であるから、そこから出てくる成果物も「だまされたもの」なのである。
以下の文を噛みしめて読んで欲しい。朝日新聞を「甘い」と評した理由が理解いただけるはずである。
菅直人 法政大学講座「国民主権論」より
<引用開始>
私はよく『三権分立』という言葉を取り上げます。私も、ここは大学院の皆さんですから、学部の学生さんとは若干違いますけれども、時折単発で大学の講演とか、若い人たちの前で話をする機会があります。そこでよく「皆さんは、国会は何をするところだと思いますか」と聴くと、答える人の十中八九どころではなく、大体100のうち98ぐらいまでは、「国会は法律をつくる立法府です」と答えるのです。私が採点すると、甘く採点して50点。正確に採点すると、これは×ですね。国会は、立法府である。では、立法府しかやっていないのかというと、私の本なり、いろいろなものを見られた方々はもうご存じかもしれませんが、普通の人は大体立法府だと答えるのです。多分、普通だったら○なのですね。しかし、国会の第一の仕事は立法ではありません。実際に衆議院選挙が終わって、最初に何をするか。議長を決めた後、総理大臣を決めるのです。つまり国民に代わって総理大臣を決めるのが、国会の第一の仕事なのです。ここがきれいに忘れられている。これが、大統領制との違いです。
国民主権というものが、行政をコントロールするということが当然含まれるとすれば、国会が立法府だけだったら行政と国民の間が切れてしまう。今日は、私の仲間の平岡さんというわが党の代議士でもありますけれども、もともと法制局にもいた方で、私の不足部分があれば時々知恵をお借りしたいと思い、来ていただいているのですが、平岡さんももちろん役所におられた経験を持っていらっしゃいます。霞が関の皆さんは「三権分立ですよ」、依然として議員の私に言うわけです。「国会の皆さんは、法律をつくる、審議をする、予算を議論する、それは大いにやってください。しかし、行政府の仕事は、大臣をはじめ私たち官僚の仕事ですから、それは国会議員の皆さんは立法府で、私たちは行政府なのです。三権分立は、中学で習ったでしょう」と言うわけです。大体よく勉強している人は、そこでコロッとだまされるわけです。「そうだな、確か三権分立は習ったな。あまり行政府のやることに口を出したら、ちょっとやり過ぎになるのかな」。
<中略>
皆さん、憲法をよく見てください。三権分立なんてことは、一言も書いてありません。書いてあることは、「国会が内閣をつくるその総理大臣を指名する」と書いてある。そして「総理大臣になった人が、大臣を任命して構成される内閣は、連帯して国会に責任に負う」と書いてある。
「なぜ、言ってはいけないのだ。予算を決めるのも国会ではないか。予算の使い方がおかしいときに、おかしいと言ってなぜ悪いのだ」と言って、大げんかをしまして、全部撤回をさせました。しかし残念ながら、ちょっと議席がまだ300ほど足りませんでしたから、その法案は通らなかったのですが、もうすぐ足りますから。
そういう意味で、実はこの『三権分立』という言葉ほど、私が経験した中で言えば、日本の国民主権の1つの一番大きなルートを遮断している。そしてその代わりに何があるか。今度は行政というのは、霞が関の皆さんが主にやる仕事だということになっている。誰かおかしいと思う人はいますか。憲法上ですよ。実は憲法六十五条(【行政権と内閣】)には、『行政権は、内閣に属する』と書いてあるのです。内閣に属すると書いてあるのです。内閣というのは、定義があるのです。内閣というのは、総理大臣と大臣です。霞が関のお役人がやるとは書いていない。行政権は、内閣にあるのです。いつの間にか、霞が関にあるように思い込まされている。特にマスコミが、ちょっと減ってしまったけれども、マスコミの皆さんは、「内閣」という言葉がよほど嫌いなのですね。ほとんどの場合、「政府」という言葉を使います。政府という言葉は、一般的にいえば決して悪い言葉ではありませんよ。ローカルガバメント(Local Government:地方自治体)、ナショナルガバメント(National Government:中央政府)。今の憲法でいうと、全文に1個所だけあります。しかし政府という言葉には、憲法上の定義はありません。政府の一員、「じゃあ、大蔵省(現、財務省)事務次官は政府の一員なのか」、「大蔵大臣(現、財務大臣)は一員なのか」。つまり政府という言葉には定義がないから、それは当然一員だろうな。政府は行政をする。しかし、憲法六十五条には、行政権は内閣に属すると書いてあるのであって、内閣を構成するのは官僚ではありません。1人も入っていません。一般職は、大臣にはなれませんからね。つまり、行政権を握っているのは、官僚ではなく政治なのです。政と官という言葉もありますけれども、官僚ではありません。政治なのです。その政治を決めるのが、国民なのです。「政治家は当然悪いことをするから、そりゃ官僚のほうがいいや」と、いいか悪いかの話は国民が持っている力の問題であって、少なくとも今の憲法は官僚が行政権を握るとは書いていない。内閣が行政権を持つと書いてある。
<引用終了>