音羽山丸 出典 : 松井邦夫/日本・油槽船列伝/成山堂書店/平成7年 |
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参考: 石井正紀/陸軍燃料廠/光人社NF文庫/2003年 岡村恒四郎/香港海軍工作部/昭和52年 鵜飼二郎/日の丸船団/日本郵船株式会社「あの頃の思い出」/昭和40年 |
●日本の石油輸入 日本の年間石油輸入量は昭和6年に1969万バレルだったのが昭和10年には3346万バレル,4年間に1.7倍に膨れ上がっております.毎年平均14%の増加でしたが昭和11年の輸入量は3610万バレルですから前年比4%増加にとどまります.アメリカの対日禁輸政策が影響し始めているのでした.昭和11年は日本の石油輸入が頭打ちになった年でした.その数値は昭和15年までほぼ横ばいでしたが,昭和16年には僅か837万バレルに激減します.その数値は昭和19年には498万バレル,昭和10年の1/7という惨憺たるものになるのです.三井物産が原油輸送に参入するために建造したタンカー「音羽山丸」と姉妹船「御室山丸」はそんな時代に生を得たのでした. 昭和11年4月から約5年間にわたって音羽山丸はアメリカから石油を運び続けます.そして昭和16年7月28日,ロスアンゼルスに入港したものの石油の積込みを拒否されて空船で帰国したとき,商業タンカーとしての役目は終わりました.開戦後は陸軍に徴用され南方原油の輸送に携わるようになります. ●香港工作所 昭和17年11月,音羽山丸は潜水艦の魚雷をうけますが「海水が油と入れ代わっただけで沈没は」しませんでした.空タンクに目に染みるほどのガソリン臭を漂わせ,左舷に大きな穴をあけたまま,日本占領下の香港のネービー・ヤードに入ります.一万トンタンカー音羽山丸の記録的な復旧工事について当時技術将校として計画に携わった岡村恒四郎氏の著書に基づいて記述します. 戦時特急工事の完了予定日は昭和18年2月10日でした.しかし大本営陸軍部からは「年内完成」「あと二年持てば良いから」という要請が11月25日に届きます.工期を1/3にするため無経験の工員や所員に促成訓練を施し,昼夜兼行の二交代で突貫工事がおこなわれました.夜間は工事の明りが外部に漏れぬよう,ワイヤーから幕をかけて附近の船体をすっぽりと覆ったそうです.朝晩幕を上下するのは警備係の仕事でした.かくして翌年1月3日,修理を終えた音羽山丸は再び激戦の海へと出撃していったのです. 昭和19年9月にシンガポールから内地に帰還するため船を捜していた日本郵船社員・鵜飼二郎氏が選んだのも「最も船員の士気が挙がっている」音羽山丸でした.「あずさ丸」が被弾し真赤に炎上して沈むのを目撃しながら船団は北上します.音羽山丸と御室山丸が2万キロリットルの燃料を運んだこの時,海軍の国内備蓄は3万4千キロリットルでした.日本はそういう戦争をしていたのです. 「あと二年持てば」という言葉は悲しい的中をしました.昭和19年12月22日,最後の航海でガソリンを満載した音羽山丸は雷撃され,上空数百メートルに達する紅蓮の炎に包まれて沈んだのです.「三十年経った今でも,ガソリンのにおいをかぐと音羽山丸を思い出」すと岡村恒四郎氏は書き残しておられます.(この項おわり) |
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