児童相談所の押すプレイ・・・米軍オスプレイのように事故多発か?
児童相談所の呆れた言い訳の数々に私ほとほと嫌気がさしております。世は当に岩国米軍基地へのオスプレイ導入反対で盛り上がっているところ、児童相談所は親、子供に対して屁理屈イッパイの”押すプレイ”に必死になっているようです。
児童相談所は何故に、言い訳をしなければならないんでしょうね?私は疑問に思うんです。児童相談所であり、児童相談所の一時保護所は子供の生命を守る、子供の命を危険から避けるための最後の砦であれば良いじゃないですか?最後の砦というのは、文字通り最後でなければならないのだと思うんですがどうでしょうか?児童相談所の思考は大変危険な思考で、何でも良いから子供を危ない親から離せ!が主流になっていて、子供と親を放さなくて良い事例まで予防線として一時保護という名の下に拉致を強行しているのではないでしょうか?最後の砦の守りを強化する前に、砦の前の防御柵を強固にすれば良いのではないでしょうか?
私は、児童虐待に関する専門家ではありませんが、一人の親としてこう思うのです。児童虐待というのは、継続的、理由無き親の鬱憤を晴らしている事案を児童虐待だと言わざるを得ないのだと。親が子供に手をあげ暴力に助けを求めるのは、程度問題を含んであるべきではないと思うんです。がしかし・・・実際に私は、子供に力ずくでも正しき道へ引き戻すと理由で暴力に助けを求めた事もあります。私の行いは、全てが正しかったわけではないので、暴力に助けを求めなくても子供を正しき道へ引き戻す方法はあるはずだと、信念をもって考えるようにと児童相談所職員のアドバイスも受け入れたことがあります。ですから、私は子供に力ずくでという思考から逃れる事ができたのも事実。その反面、暴力とは違う意味での体罰を完全に否定するわけではありません。時として体罰も必要である事も同時に考えなければならないのだと思っています。(体罰も時と場合により必要)
児童相談所の思考は、都合が良い部分は法律で規定しています。都合が悪くなると、法律には規定していませんけど・・・判断しました!という話になってくる。どうもこの児童相談所の思考が・・・親子供に対する”押すプレイ”になっているのではないか?と分析せざるを得ません。児童相談所の”押すプレイ”はどうしても児童相談所、親との確執を生み出し、話のできる要素を一切奪う危険な状態を呈すると私は考えます。私が相談を受けている家族の話からは・・・児童相談所の”押すプレイ”が手に取るように分かってしまいます。
米軍のオスプレイがどれほど危険なのかは、オスプレイ開発、試作機の実験段階から多くの命が奪われるような事故が発生しているのも事実であり、事故の発生を懸念して日本国民が、岩国基地や、普天間基地への配備を異常なまでも拒否する姿は容易に想像ができたものです。そして児童相談所の”押すプレイ”はこれも未だ開発、試作の段階で実験中に数多くの事故が発生しているのに、米軍が行ってきたように、事実をある一定のレベルで隠しているのではないか?と思われます。私は・・・児童相談所が隠していると思う疑念を晴らすことがどうしてもできないでいます。
児童相談所の”押すプレイ”の実態として私が聞いた事案では、トンでもない”押すプレイ”が顕になっています。ある家庭の事案です。この家庭では、児童虐待などありえないそんな家庭です。母親が、数年前に父親の児童虐待を疑い、児童相談所へ相談を行っていた事を、児童虐待に結びつけ、児童虐待だと思惑で判断をしたことで、強行に一時保護を行った経緯があります。一時保護の手法は、こんな内容で良いのでしょうかねぇ~?虐待の事実を確認する前に、一時保護が必要なのか?どうかを、家人からの確認もなしに、子供を幼稚園から連れ去り、その後親への聴取もろくにしないまに、子供は、頭部に痣があったから一時保護をする。そういって、親の話に聞く耳を持たないと言うスタンスで子供の一時保護を決行した事例。どうですか?これって、私だけが思う、児童相談所の”押すプレイ”ではないと思うんです。実際には、日常的に虐待が行われていたのか?どうなのか?幼稚園の先生達への聞き取りがあってしかるべきではなかったのか?その聴取の事実も無いままに・・・一時保護。児童福祉法33条の規定に従い、児童相談所長が虐待を疑えば、一時保護を開始できるという、そもそもの法律規定が、”押すプレイ”を容認しているようでなりません。
こんな状態で、児童相談所が保護すれば、親の怒りは爆発し、更なる疑念を児童相談所に抱き、児童相談所と親との確執は深まるばかり、その深まりを埋める術を知らない児童相談所は更なる”押すプレイ”へと突っ走る。これって・・・児童相談所の暴走と思しき負の連鎖の始まりなのではないでしょうか?児童相談所の職員たち・・・専門家という立場で公務に当たっているのでしょ?”押すプレイ”が児童相談所職員を救うなんて考えているわけじゃないですよね?専門家として公務にあたるなら・・・それなりの見識をもって公務執行するのが常ではないでしょうか?”押すプレイ”が常であるなら、そんな公務は誰でもできますし、屁をこいていてもできるような話じゃないですか?
子供の為、子供の利益、子供の権利と豪語するなら、”押すプレイ”は導入すべきものではないと思います。試験段階の極めて危険な状態にあるものを、無理やり導入しようとする米軍と同じ思考になっているのでしょう。事故が多発しても、その事故を何らかの形で言い訳すれば良いというこの思考も”押すプレイ”なんでしょうね。
児童相談所がどうしても必要な事は、理解しているが・・・今現状最良の方法だと児童相談所が考える、”拉致”と”押すプレイは”、考え直す必要性があると私は思います。児童相談所の”押すプレイ”に苦しむ家族は全国にいます。そして、家族というのは、親だけを示すのではなく、子供も家族なのです。児童相談所の”押すプレイ”に苦しむのは、親子供両方です。児童相談所の言う、子供の為にはどう考えてもなっていないと思うのは私だけなんでしょうかね?
誰でもいいから・・・児童相談所の”押すプレイ”を止めて欲しいと思うんです。子供を虐待から守る方法は・・・一時保護だけではありません。どこかの弁護士が言っていました・・・拉致でもなんでも良いからとにかく危ない親から子供を切り離せ!こんな不埒な弁護士が世に存在している事も間違いです。拉致でもなんでもいいから・・・親から子供を切り離せ!という思考も”押すプレイ”を助長する原動力になっているのかもしれませんね。何とも醜悪な話なのです。
わが家のラブラドールたちの”押すプレイ”犬が人に与える”押すプレイ”は受ける側がちゃんと受け止めてくれると猛烈に抗議しております。確かに、犬たちの”押すプレイ”は飼い犬、飼い主との間でコンセンサスの取れた本物の”押すプレイ”なのだと私は思います。児童相談所の職員相手に本物の”押すプレイ”わが家の犬たちに講義させたいと思うのです。
いじめがあったのに「いじめはなかったと認識している」と言う校長先生。
虐待がなかったのに「虐待があると認識、または虐待の予防的措置として認識」と言う児童相談所。
うーん、非常に現実を無視した姿ですね。
子どもの立場からすれば、拉致されて、とんでもないことになったと傷つきますね。
まさに収容所ですからね・・・。
子ども達、自分を責めるような心が芽生えなければと思います。
絶対にしてはいけないことをしたら、殴ってでも親はその子を叱るでしょう。
その時に殴られた子どもは大人になって正しい人生を歩くでしょうけど、殴られなかった子どもは大人になって殺人を犯すような人生になる可能性を秘めていると思います。
叩きたくて叩くんじゃない。
どうしても、どうしても必要な時があると思います。
それが人を育てるということの責任でもあると思うんですよ。
投稿 | 2012年7月26日 (木) 12:55
名無し さんへ
今の児童相談所を私が検証しようとすれば、間違いなくユダヤの強制収容所へ送り込む前のユダヤ人居住区のような様相だと判断をするでしょうね。実は、自由があるように見せかけておいて、実際には自由がなく、虐待を捏造したくてあれやこれちゃと体中を調べまくられる・・・これが子供に良い影響を与えるわけがないのです。
児童相談所は、子供を親から離した後でも、虐待の屁理屈をつけてきます。何でも、虐待の理由にしたがるトンデモ組織です。
児童相談所は、児童の虐待防止に関する法律で規定されている虐待というあの定義だけで、虐待を認定しているのです。一発でも殴ったらそれは虐待だと言い張るのです。立法も児童相談所、行政も児童相談所、裁くのも児童相談所・・・強大な権限を有しているように勘違いをしている児童相談所が幾ら何を言っても、児童相談所はしょせん児童相談所なのですから。
児童相談所の進める子育てで、どれほどのわけのわからん子供が量産されて、将来的にどれほど、事件が発生するのか確認をして見たいと思います。今でも有るんじゃないでしょうかね・・・児童相談所に保護されていたとかされていないとかそういう類の犯罪統計があるのだと思います。
投稿 albrada | 2012年7月27日 (金) 09:06