セルジュ・ブロンベルジュ編、チョン・ジングク訳『韓国戦争通信』(目の輝き社)
「興南の埠頭(ふとう)でのことだった。接近を防ぐため憲兵が張り巡らした埠頭入り口の鉄条網の隙間を越えて、船に乗ろうと大勢の民間人がやって来た。(中略)続いて到着した人々が、鉄条網を揺さぶった。善良で勇敢なこの憲兵は、泣きながら声を上げ腕にすがる女たちの一群を前にして、どうすればいいか分からずにいた。(中略)ちょうどその場に、AP通信のトム・ランバート記者がいた。ランバート記者は少しの間避難民の話を聞いていたが、すぐさま第3師団の指揮所に走っていった。5分後、スール将軍(ロバート・ホーマー・スール少将、第3師団長)が乗った最後のジープが埠頭の入り口に急停車した。避難民を乗船させよ、という命令が下った。それも、できるだけ多く」(290ページ)
今から62年前の6・25戦争(朝鮮戦争)には、世界16カ国の将兵が国連軍として参戦した。さらに、将兵らと共に、従軍記者がペンやカメラを武器に参戦した。本書は、AFP通信やル・フィガロ紙などフランスのメディア所属の従軍記者4人が戦場を駆け回り送稿した記事をまとめたもの。1951年にパリで出版され、自由世界にいち早く6・25戦争の実相を知らせた。当時、主に20代だった従軍記者たちは「韓国に行きたくないか」という提案を受けて快く戦場に飛び込んだ。8月2日に釜山港に到着した従軍記者たちは、それから51年4月まで、韓半島(朝鮮半島)全域約2万キロを飛び回った。
6・25南侵と9・28ソウル奪還、1・4後退。そのたびに戦乱を避け荷物を包み、南へ北へと、ヒツジの群れのようにひたすら前の人について歩かなければならなかった韓国人の境遇に対する憐れみの視点は、誰しも共感できるものだ。目の前で同僚を失うという残酷な経験をし、夜間に待ち伏せに遭い、すんでのところで死から逃れるなど、従軍記者たちもまた、軍人たちのように命の危険を感じた。しかし、フランス記者の視点で整理した従軍記ということで、米国中心の視点とは異なる部分も見られる。従軍記者らは、釜山港で1日にジープ1000台を陸揚げし、コカコーラやテレタイプをまず補給する米軍の巨大な補給システムに驚いた。実際「イギリス軍の冷静さと米軍の装備、韓国軍の信じ難い武勇が合わされば、何の被害も受けなさそうだ」と思えるほどだった。しかし、洛東江沿いで手詰まり状態の戦線は、なかなか動きそうになかった。そんな中、仁川上陸作戦が行われ、従軍記者らはマッカーサー元帥に同行した。従軍記者たちは「野蛮な恐怖と荘厳さ」「夜になると、目の前の景色は、まさしくダンテの『神曲』で描かれた地獄だった」と上陸作戦の様子を描写した。平壌を占領したとき、記者たちは金日成(キム・イルソン)首相の邸宅の一つを発見したが「私たちが見つけ出したのは、金日成がソ連製の物を好むという、極めて泥臭い、一種の俗物的趣向だけだった」と記した。中共軍の捕虜からは「戦争に勝利したら、われわれが韓国の良質なコメや家畜、そして良い服や女を持てるようになると聞いた」という話も聞くことができた。