2010-01-13 モンテネグロ萌えー
■[バルカン][歴史]バルカン諸国における「国王」の系譜
そういえば僕は昨年,紫音さんからあまりにも唐突なキラーパスを貰っていました。
といいながら、バタバタしているうちにMukkeさんあたりがロシアとドイツの大統領制について論考した挙句に東欧の元首制度比較をやるとみた(キラーパス)
お返事などなど - 戯言 by 紫音
よろしい,では,近代バルカン諸国の君主制について比較(?)するエントリを上げましょう。
概観
そもそも近代バルカン諸国というのは,フランスやイギリス,プロイセンのように元からあった王国が発展していったのではなく,オスマン帝国からの独立運動やら列強の介入やらで「新しく作られた」国々なので,王家を成り立たせることができるような在来の貴顕があまりいません。ビザンツ王朝もセルビア王朝もブルガリア王朝もどっか行っちゃいましたし。
けれどそれらの国々ができた時,ヨーロッパの大国に君臨していたのは共和主義に怯える王様たち。新しく作られる国は王政が望ましい,ということで新興国には次々と王様があてがわれていきます。無論それらは独自の王家ではなく,西欧諸国の王家や大貴族の一員です。薩摩藩からもぎ取った領土の領主に徳川宗家の末っ子を据えるようなもんですね。違うか。こんな風に王家が形成されたのが,ギリシア,ブルガリアといった国々です。
一方では,在来の現地勢力が王家を形成することもありました。セルビアやモンテネグロといった国々です。その場合,西欧的基準から見ると,かなり怪しい血筋のひとが王を努めることにもなりました。豊臣秀吉が源氏の末裔でもないのに征夷大将軍になっちゃうようなもんですね。違うか。
無論こうした単純な括りでは説明しきれない国もありますし,このふたつの流れを両方経験した国もあります。では皆様,複雑怪奇なバルカン情勢の世界へようこそ。
セルビア――ふたつの王家
1804年,オスマン帝国の地方行政の腐敗に耐えきれず,セルビアでは豚商人ジョルジェ・ペトロヴィチ(Đorđe Petrović),通称「カラジョルジェ(Karađorđe。「黒いジョルジェ」の意)」を指導者とする第1次セルビア蜂起が起こります。この蜂起は一時期ベオグラードを陥れるまでに成長しますが,露土戦争が終わると鎮圧されてしまい,失敗したカラジョルジェは逃亡し,のちに殺されます。かわってリーダーとなったのが,同じく豚商人のミロシュ・オブレノヴィチ(Miloš Obrenović)で,彼は1815年に第2次セルビア蜂起を起こします。この蜂起は成功し,1817年,ミロシュはオスマン帝国からセルビア公の地位を認められ,セルビア公国が成立しました。これがオブレノヴィチ家の起源です。彼は中央集権的な施策を進めます。
一方で,ミロシュの政策に反撥し,カラジョルジェの子孫――つまり,カラジョルジェヴィチ家こそが正統だと主張するグループもあり,彼らは1842年のクーデタでカラジョルジェの息子アレクサンダル(Aleksandar)を公位に就けることに成功しました。しかし彼はミロシュの中央集権的な姿勢を徐々に継承するようになり,今度は分権派の支持がミロシュに集まります。1858年,議会はアレクサンダルの廃位とミロシュの復位を決定しました。
時は流れ,1882年,セルビアは王政に移行します。国王ミラン(Milan)の治世になると,ハプスブルク帝国とロシア帝国に挟まれた形のセルビアは,親墺派と親露派の狭間で政治闘争が発生,国内は混乱に陥りました。ついにミランは息子アレクサンダルに譲位します。ところが,彼は権力を掌握すると独裁志向を強め,憲法を破棄,更には国外追放されていたミランを呼び戻します。国内の混乱を中々収拾できないでいるアレクサンダルは,前王妃の女官だったドラガ・マシン(Draga Mašin)という年上の未亡人と結婚,ご懐妊となります。
ところが前王妃が
「ドラガは子供の産めない体だ!」
ということを公表し(それなんてアルス○ーン戦記?),王家はスキャンダルにまみれます。全欧州規模で王家が笑いものにされたことについに軍部の堪忍袋の緒がプッチンし,1903年,王宮を襲撃した軍部隊により国王夫妻は射殺され,窓から投げ捨てられました。国民は歓呼の声でカラジョルジェヴィチ家の王を迎え,以後セルビア,セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国,ユーゴスラヴィア王国と,この一族が国王を務めます。けれど共産主義革命によって彼らはその地位を失いました。
小咄でも。ナチス・ドイツの侵攻によって,王家はロンドンで亡命生活を送ることになりました。ある日,王妃が出産を迎えます。けれどユーゴスラヴィアの王室典範によれば,国外で出生した王子には王位の継承権がありません。そこでイギリス政府は,王妃の投宿していたホテルの一室を1日だけユーゴスラヴィアに割譲し,無事王子アレクサンダルが誕生しました。
2001年,王家の面々には帰国が許されました。セルビアには王政復古を主張する政党がありますが,泡沫政党に留まっています。王女のひとりは創価学会に入信したそうです。
カラジョルジェヴィチ家のウェブサイト(英語版)はこちらを↓
Official Website of The Serbian Royal Family
また,1903年のクーデタについては,以下のサイトが詳しいです↓
第一次世界大戦への道…大セルビア帝国の夢(2) - 歴史のお部屋
セルビアは,同程度の正統性を持つ土着の2つの王家が抗争を繰り広げるという,バルカン諸国では珍しい,というか世界でもあんまり類のない王政を持ちました。1つの王家の正統な後継者の座をめぐって争うとか,幕末の日本みたいに聖俗ふたつの王家が対立するならまだしも,世俗の2系統の王家が相争う政治状況は,セルビア近代史に大きな影響を与えます。政治対立がそのまま王家の対立として表象される状況にあったわけです。また,彼らの出自が豚商人であったことから,オスマン帝国成立以前にまで遡ることのできる家系すら存在するボスニア貴族層は,王家を軽んじることも多かったといいます。
ギリシア――報われなかった初代国王
多民族をミッレト制のもとで統治してきたオスマン帝国にも,ナショナリズムの足音は忍び寄ってきました。当時バルカンのキリスト教徒社会で最も教育と富があったギリシア人が,真っ先にそれにかぶれます。そして1821年,秘密結社フィリキ・エテリア(Filiki Eteria)が主導した蜂起が起こりました。ギリシア独立戦争です。古典文明発祥の地ギリシアに西欧の同情は集中し,1829年,アドリアノープル条約で自治国ギリシアが樹立されます。ギリシアは共和政を採用し,1827年にイオニア諸島出身のロシアの外交官を呼び戻して大統領に選出していたのですが,当時はヴィーン体制の華やかなりし頃。共和政ギリシアが認められるはずもありませんでした。1832年,ギリシアの独立国への昇格と,王政への移行が列強によって決定されます。
王政にするのはいいとして,国王をどこから調達するか――当時,ギリシアは英仏露3国の利害が絡み合っていました。そこで白羽の矢が立てられたのが,利害関係を持っていなかったドイツ第3の強国バイエルン王国の王子,オットー・フォン・ヴィッテルスバッハ(Otto von Wittelsbach)でした。彼はオトン(Óthon)1世として戴冠します。
しかし彼はバイエルン人の官僚とバイエルン軍の部隊を引き連れてギリシアに上陸しました。彼らはギリシアの「改革」に専念します。けれどギリシアにとって,彼らはあまりにも異質過ぎました。また国王は,大ギリシア主義に与してはいたものの,正教に改宗せず,王妃もドイツのオルデンブルク公家から迎えました。彼は民心を失います。1862年,2度目のクーデタが発生し,彼はギリシアを去ってバイエルンに戻りました。けれど彼は終生ギリシアの民族衣装を着用し,1866年のクレタ島での反乱の際はポケットマネーから反乱軍に援助をしました。この報われなかった片思いを,今のギリシア人たちはどう思っているのでしょうか。
列強は新たな国王を選定します。デンマーク王家グリュックスブルク(Glücksburg)家から王子が迎えられ,彼は後継者を正教に改宗させることを誓約した上で,ゲオルギオス(Georgios)1世として即位します。その後,第二共和政,ギリシア内戦などを経て「王冠を戴いた民主主義」が成立します。しかし1967年のクーデタで軍事政権が樹立され,国王は逆クーデタを企てましたが失敗しローマに亡命します。1974年7月,軍事政権は亡命していた民主派の政治家コンスタンディノス・カラマンリス(Konstantinos Karamanlis)を首相に任命し,民主化が実現しました。12月,王政の是非を問う国民投票で7割が廃止に投票,ギリシアは共和国となって今に至ります。
セルビアとは対照的に,ギリシアの王政は,バルカンの君主政の典型的な姿を示していると言えるでしょう。外部から押しつけられた王家への忠誠と反逆の相剋。これがギリシア近代史を彩っています。
ブルガリア――首相になった国王
1878年,露土戦争の結果ブルガリアは自治公国としての地位を得ます。翌年,ブルガリア議会は憲法を制定し,ヘッセン公家の流れを汲むロシア軍人アレクサンダー・フォン・バッテンベルク(Alexander von Battenberg)を公に選出しました。しかし彼は自由主義的な憲法をめぐって頻繁に議会と対立し,1886年に退位,かわってザクセン=コーブルク=ゴータ(Sachsen-Coburg und Gotha)家のフェルディナンド(Ferdinand)が即位します。ザクセン=コーブルク=ゴータ家は,ベルギー王室,ポルトガル王室を出し,イギリス王室と縁戚関係にある名家です。その後,ブルガリアの君主はツァール(Tsar)と名乗り,ブルガリア王国が成立しました。
1943年,父王ボリス(Boris)3世の急逝によって,わずか6歳の王子シメオン(Simeon)が国王シメオン2世として即位します。しかしながらその治世は短く,1946年の共産主義体制の成立で王位を追われ亡命しました。ここでブルガリアの王政は終わりを迎えます。
しかし運命というのは不思議なものです。共産主義体制が崩壊すると,1996年,シメオンは故国に戻りました。特段政治的な意図はなかったようですが,体制転換後の混乱に喘ぐ国民にとって,元国王であり,西側で実業家をしていたという経歴を持つ彼は期待の星となったのです。2001年,彼は政党「シメオン2世国民運動」を旗揚げし,同年の選挙で勝って首相の座に就きました。かつての国王シメオン2世は,シメオン・サクスコブルゴツキ(Simeon Sakskoburggotski)として再び国の支配者となったのです。彼は経済発展を導きますが,2005年の選挙で敗北,首相の座を譲りました。
アルバニア――部族主義に苦しめられたふたりの王
アルバニアでは「アルバニア人」意識の形成が遅れましたが,19世紀後半になると現在のコソヴォを中心に民族運動が昂揚します。バルカン戦争後の1913年,列強は分割を恐れるアルバニア人からの要求に応える形でアルバニアの独立を承認し,ドイツ貴族のヴィルヘルム・ツー・ヴィート(Wilhelm zu Wied)を公に選出します。彼は1914年2月にアルバニア公スカンデルベウ(Skënderbeu)2世として即位,3月にアルバニアに到着します。彼は対外的には公を名乗りましたが,国内では,隣国との対抗上王と名乗っていました。
しかし彼は玉座を暖めるだけの時間を与えられませんでした。6月28日にサライェヴォ事件が起こり,第1次世界大戦が勃発,有力部族が割拠し統治の難しい国だったアルバニアは,ギリシアの侵略や大国の介入などによって内戦に突入,ヴィルヘルムは9月に亡命しました。とはいえ,形式的にはまだ君主のままだったのですが。
戦争が終わっても彼は君主としての復帰を認められず,1925年,ファン・ノリ(Fan Noli)との政争に勝利し政権を奪取したアフメト・ベイ・ゾグー(Ahmet Bej Zogu)は,正式に共和国を宣言し,みずから大統領に就任します。有力氏族の長だった彼は,この時30歳の若さでした。ここにアルバニア共和国が成立したわけですが,1928年,ゾグーは憲法を改正し王政移行を宣言,ゾグー1世として即位しました。別名をスカンデルベウ3世といいます(スカンデルベウというのは,中世アルバニアの英雄の名前です)。彼は「アルバニア国民」の創出に努めますが,1939年,イタリアの侵略に遭い亡命します。アルバニア王位はイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ(Vittorio Emanuele)3世の手に渡りますが,1944年に共産主義者が国土を解放し,アルバニアは長い共産主義時代を迎えます。
ゾグーの息子は1997年に帰国し,王政復帰を国民投票に問いますが敗北しました。その後も彼は武器の不法所持やら政府転覆の陰謀やらで色々な騒動を巻き起こしています。また,ハンサムなので,そっち方面の騒動にも事欠かないそうです。アルバニアは,外来の王政と土着の王政のふたつを経験したことになりますね。ていうかゾグー凄いです。ボカサ皇帝の数十年先を行っていたわけですから。実は侮れないアルバニア。
モンテネグロ――神権政治,偉大な詩人,そして対日百年戦争
モンテネグロは,ちょっと変わった境遇を辿ります。この国はその峻厳な地勢と,資源の貧しさから,オスマン帝国からの事実上の独立を享受していました。16世紀初めに土着の王朝の最後の公が退位し,主教(vladika)が政治をも取り仕切ることになったのです。勿論,主教というのは教会の中の選挙で選ばれます。モンテネグロの神権政治が始まりました。日本の歴史学ではモンテネグロが扱われることは殆どないため,この特殊な役割を担った主教の呼称に関して定訳がなく,主教公とかヴラディカとか色々な呼ばれ方をされていますが,取り敢えずここでは主教公に統一します。この時期,主教公が選挙によって選ばれていた時期は,要するにダライ・ラマ政権下のチベットみたいな感じだと思ってくださればいいです。
しかし,17世紀末以降,主教公の座はひとつの家系によって占められることになります。ペトロヴィチ(Petrović)家です。その本拠地の名を取って,ペトロヴィチ=ニェゴシュ(Petrović-Njegoš)家とも呼ばれます。当たり前ですが正教会の高位聖職者は妻帯できません。ではどうやって「世襲」したかというと,叔父から甥に受け継いだのです。この時期の主教公で最も有名なのが,ペータル(Petar)2世です。単に「ニェゴシュ」と呼ばれることもあります。彼は近代化に努めた名君であり,同時に傑出した詩人でもありました。彼の叙事詩「栄光の山並み」は,セルビア文学の粋と讃えられています。そして彼は,主教公という地位に苦しんだ人物でもありました。彼は一度だけ恋愛詩を書きましたが,それをすぐに焼き捨ててしまいます。「人びとは何と思うだろう,主教が恋愛の詩を書いたなどといったら。駄目だ」
この奇妙な国家体制も,やがて終わりを迎えます。1851年に即位したダニーロ(Danilo)2世は,「嫁が欲しい」と言い出して翌年に結婚,称号を公と改め,モンテネグロは公国となりました。更にニコラ(Nikola)1世の治世には,王国へと昇格を果たします。ですが第1次世界大戦で,モンテネグロはハプスブルク帝国軍の侵攻を被り,王は国外に亡命しました。そしてセルビア軍による解放後,首都の国民議会は王の廃位とセルビアへの併合を決議します。ここに,モンテネグロ王国は終焉しました。
ところが,モンテネグロ王国は奇妙な遺産をその後のモンテネグロ外交に残すことになりました。モンテネグロ人は,日本人を見つけると誇らしげに語ります。「俺たちはかつてサムライの国・日本と戦ったんだ」――モンテネグロは,正教世界の盟主ロシアに従って,日本に宣戦を布告したのです。1904年のことでした。そう,日露戦争です。しかしロシアはポーツマス会議にモンテネグロを呼ばず(あとでわかったことですが,ロシアはモンテネグロからの参戦の申し出を断っていました),日本も彼らが宣戦布告をしていたことを知りませんでした。そしてモンテネグロのセルビアへの併合によって,両国は――主にモンテネグロ人の主観において――講和条約を結ばぬまま,つまり戦争をしたままユーゴ崩壊を迎えることとなったのです。2006年,セルビア・モンテネグロからモンテネグロが独立すると,上記のような事情が一部で(※)騒がれましたが,別に何事もなかったかのように(というか実際なかったのですが)両国は国交を結び,奇妙な日モ百年戦争は終結しました。ひとりの血も流さないまま。
(※)実は日本の国会で,上述のような事情を問い質した議員さんがいます。……ええ,そうです。質問趣味書と言われたあの方です。
二 一九〇四年にモンテネグロ王国が日本に対して宣戦を布告したという事実はあるか。ポーツマス講和会議にモンテネグロ王国の代表は招かれたか。日本とモンテネグロ王国の戦争状態はどのような手続きをとって終了したか。
一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問主意書
これに対する当時の小泉政権の回答は,非常にあっさりしたものでした。
政府としては、千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。モンテネグロ国の全権委員は、御指摘のポーツマスにおいて行われた講和会議に参加していない。
衆議院議員鈴木宗男君提出一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問に対する答弁書
ですよねー。
ルーマニア――選ばれた君主たち
のちに「ルーマニア人」という自意識を獲得することになるロマンス語を話す正教徒たちは,かつて,主に3つの行政単位にわかれて住んでいました。オスマン帝国の属領であるワラキア公国,モルダヴィア公国,そしてハンガリー王国の属領であるトランシルヴァニア公国です。ワラキア・モルダヴィア両公国の公は,ある時期以来,富裕なギリシア人特権階層(ギリシア語で彼らをファナリオティスといいます)がオスマン帝国から任命されて努めていました。ナショナリズムの時代になると,「ルーマニア人の居住地域を統一しよう!」という運動が起こってきます。オスマン帝国が徐々に退潮していく中,両公国はロシアなど列強の支援もあって自治獲得に成功しますが,「統合なんてしたらパワーバランスが狂っちゃうし,ハンガリーがうるさいから駄目」と言われてしまいます。そこで,「統合は駄目って言われたけど,両公国の議会が偶然同一人物を公に選出しちゃうのはアリだよね?」ということで,1859年,アレクサンドル・ヨアン・クザ(Alexandru Ioan Cuza)が両公国の公に選出され,なし崩し的に既成事実を作っていって1862年に合同公国を樹立します。けれど彼は1866年に保守派の反乱で退位してしまいました。
ルーマニア政府は困り果てます。そもそも合同は,クザの在位中に限り特例として認められていたものでしたから,早く後継者を決めないと折角築き上げた合同は瓦解します。そして親仏派がフランスにお伺いを立て,ナポレオン(Napoleon)3世はひとりのドイツ貴族を推薦しました。ジグマリンゲン侯の息子カール(Karl)は,偽名を使ってまで敵国を横断し,ルーマニアに歓呼の声で迎えられます。彼はカロル(Carol)1世と名乗り,ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン(Hohenzollern-Sigmaringen)朝を開くのです。この苗字にピンと来た方は多いでしょう。そうです,彼はプロイセン王家ホーエンツォレルン家とも姻戚関係にありました。彼はその後オスマン帝国から実質的な独立を獲得し,1881年には国王に即位します。
第1次世界大戦の結果,ルーマニアは念願だった「ルーマニア人の統一」に成功します。ハンガリーからトランシルヴァニアを奪い,ブルガリアからドブルジャを,革命ロシアからベッサラビア(現在のモルドヴァ共和国)などの地域を獲得し,「大ルーマニア」を実現したのです。ところが,国内のファシスト団体の活動や王家の親独的な傾向などもあって枢軸国側に立って参戦した第2次世界大戦では,ハンガリーにトランシルヴァニアを奪われ(ちなみにハンガリーは枢軸国です),その他の領土も喪失してしまいます。これに対し無為無策だった国王カロル2世は退位し,息子のミハイ(Mihai)1世が復位します。けれど国民はもはや王家に幻滅しきっており,更には共産化の圧力などもあって,彼は1947年に退位,亡命に追いやられました。彼の祖国への帰還が認められるのは,1992年のことになります。
クロアチア――国王なき王国
1941年,ドイツ軍はユーゴスラヴィアに侵攻し,これを解体します。自治を希求していたクロアチアには,クロアチア独立国という国が与えられました。この国はファシスト団体ウスタシャによるセルビア人大虐殺を行ったことで知られていますが,実は国王がいたのです。イタリア王家サヴォイア(Savoia)家の一員,アオスタ公アイモーネ(Aimone)が,ウスタシャの統領アンテ・パヴェリッチ(Ante Pavelić)による「イタリア王家から国王を迎えたい」との要請を受け,クロアチア王トミスラヴ(Tomislav)2世として即位しました(トミスラヴというのは,中世クロアチア王国の建国者です)。しかし彼は不穏な現地情勢を恐れ,一度も彼の「王国」に足を踏み入れることなく,イタリアの敗色が濃くなった1943年には王位を放棄しました。戦後は,ブエノス・アイレスで余生を送ったといいます。
まとめ
バルカンの王室情勢は複雑怪奇なり――どっかの首相ばりにこう言いたくなってきますが,それでも西欧の君主政のカオスさに比べれば遥かに簡単ですね。どうしてそうなったかというと,冒頭に書いたような歴史的条件です。上で挙げた国々は,クロアチアと実質的に独立していたモンテネグロを除くと,オスマン帝国の統治下から新たに作られた国でした。この地域の近代史を見る上で,この地域で競合していた様々な帝国の「遺産」を見ずにすますことは不可能でしょう。「国王」というプリズムを通して,この地域の歴史の一端を垣間見てみることも面白いかもしれません。
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