騒がせてしまったようだ。(汗;、
降魔の剣≠ノ関しては、私は今後とも参加する予定は無い。もともと、あのバカロムが面白そうなので、すこし遊んでみようと思っていただけである。(笑)、
また、私は現在、正宗を離れている身であり、今後の方針というか今後自分の信仰をどうするかはまったく考えておらず、正宗の教義に関しても、全面的に受け入れる考えは無い。
例えば日蓮本仏論≠ネのだが、上行の垂迹である蓮祖がどうして久遠元初の自受用報身と、ただちに決判してしまうのか。三宝の立て分けでいえば、法は久遠元初の南無妙法蓮華経は当然だが、仏は久遠実成の釈尊、僧宝は上行菩薩と立てなければ末法時代≠ニいう意義が吹き飛んでしまう。
ただ、上行と教主釈尊は互為主伴≠ナあり九界の上行菩薩が本因で、内証本果は教主釈尊ということになることには異議は無い。
一応の三宝から文底の三宝を立てた場合、法宝は久遠元初の妙法、仏宝は久遠元初の自受用報身、僧宝は久遠元初の僧宝と立ててから末法嫡時の三宝を立てた場合、
@法宝=久遠元初の南無妙法蓮華経。 A仏法=垂迹上行(本因)本地の本果仏。 B僧宝=六老僧
とならなければ鎌倉時代に垂迹を示した蓮祖の一代弘教の意義が損なわれるのではないか。僧宝に六老≠ニ為すのは本弟子≠ナあるからだ。
むろん原殿書による「日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当つて覚え候えば、本意忘るること無くて候」は十分に尊重されるべきではあるが、もっと大事なことは仏法によって建設される仏国土の意義である。
日蓮正宗と云っても数代つづくと気違ひ≠ェ出来上がる宗教ではどうにもなるまい。
私はじっと法華講を見てきた、40年間である。寿量品の最中に倒れてそのまま死んで決して成仏相ではなかったとか、最後は苦悶の絶叫の中で死んだ伝統講員やら、これが数代つづいて功徳を積んだ現証であるか。創賊に至ってはさらに悲惨なものがある。
さらに悪いことに、日達上人以降、正宗は神学化≠オているように思えてならないのである。五百塵点劫と三千塵点劫のどちらが古いか、などの簡単な算数が貫主位≠フ人物が理解出来ていないのである。
蓮祖の仏法は日本仏教の成立である。中国天台の四明智礼と華厳の澄観との激しい論争で決着がつかず日本に持ち越され、その結論は蓮祖が出したがその意義がまったく宣揚されておらない。
ま、そのうち纏まったらぼちぼち書いていくので批判があれば遠慮無く叩いてくれて結構である。
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