2012年08月10日

「狭山茶の歴史」間違いのもとを発見

入間市博物館のホームページより
<引用開始>
狭山茶の主産地である埼玉県西部では、いつから茶の栽培・製茶が始まったのでしょうか。これについては諸説あり、いずれも確かな史料は見つかっていません。しかし、南北朝時代の書物『異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)』に、「天下に指して言う所」の茶産地の一つとして「武蔵河越(むさしのかわごえ)」が登場します。
<中略>
その後の戦乱によって有力寺院が衰退すると、これらの茶産地も荒廃したと考えられ、詳しいことは伝えられていません。
<中略>
江戸時代後期(1800年代初め)、現在の入間市近在の吉川温恭(よしかわよしずみ)、村野盛政(むらのもりまさ)、指田半右衛門(さしだはんえもん)の三人は、試行錯誤を重ねた末、この地域での茶の生産を復興しました。彼らはそれぞれに当時最新の製茶法であった宇治の蒸し製煎茶の製法を習得し、文政2年(1819)には、この茶を商品として大消費地江戸へと出荷するようになったのです。
<引用終了>
http://www.alit.city.iruma.saitama.jp/07tea-museum/13history.html

今から40年前の昭和45(1972)年に「狭山茶場実録」という本が発刊されています。著者は吉川忠八氏という、上記吉川温恭氏の子孫の方です。
この本は、上記ホームページに紹介されている「重闢茶場碑」という石碑を出発点としていますので、その意味では決して間違っていません。我田引水もありません。

しかし、です。歴史の連続性と茶場としての必然性が見受けられないのです。

入間市博物館ホームページが示す狭山茶の歴史はこういうことです。

◇茶祖栄西禅師が鎌倉時代初期に茶を仕入れた。
(それから約150年後)
◇南北朝時代の書物に河越茶が登場する
(それから約450年後)
◇戦乱によって荒廃した茶産地を吉川氏などが努力して復興した。

これだけです。さらにいけないのは、茶が何の目的で栽培されてきたのかが、全く記されていません。
その理由は、すべてこの本を「丸飲み」しており、歴史を研究していないからです

この本には、私が知らない事実が記されていました。それは、茶場碑は瑞穂町の狭山神社にもあるという事実です。さっそく行って写真に収めてきました。

狭山神社茶場碑.JPG


明治10年に建てられています。どのような思惑からなのか分かりませんが、一つだけ奇妙な点が見受けらました。
それは、裏面の関係者名に二本木や宮寺の中村姓の記載が一切見受けられないのです。出雲祝神社の茶場碑の裏面には東京本町の中村氏から、二本木村の中村氏などが名を連ねていますが、それが見受けられません。
まるで、狭山茶の本場は東京側(当時は現神奈川県の韮山県)だと言わんばかりです。

茶場碑をいくら解読しても狭山茶の歴史は見えてきません。必然性と連続性を解き明かすのが新しい歴史の発見方法です。

1800年代の再興を出発点にするのではなく、鎌倉幕府の誕生と物の考え方を出発点にすべきなのです。

中世の歴史と「禅」と「茶」栄西 多賀宗隼著 吉川弘文館
<引用開始>
禅と茶
禅と茶と。それは今日の日本にとって、いかにも日本的な名であるが、これを歴史的にみると、それはすぐれて中世的なものであり、中世日本の象徴であるというも過言でなく、中世の歴史は、禅と茶を外にしては語りえないのである。
 中世を通じて、京都と鎌倉と二つの政権と文化の中心には、臨済宗が、世・出世を通じて、支配的な力をふるった。両都にそれぞれ五山をはじめ禅宗の大伽藍が甍をならべ軒を競うて、時の権力者、文化の指導者であった公家・武家の上層部の信仰をあつめた。一方、曹洞宗はおもに地方に発展して、これまた地方豪族・武士・民衆の帰依を得たのであり、かくして禅は中央・地方にわたり、わが国の仏教を代表する一大勢力となった。勢いの及ぶ所、日本の文化の禅宗化の風を馴致し、思想・芸術ないしは政治・外交・経済より、日常の行儀・風俗から飲食・言語に至るまで、禅を離れてほとんど存じ得ず、考えざるに至った。
<引用終了>

必然性とは
◇禅の修行には茶が欠かせない。
◇鶴見の総持寺など禅寺用の茶を京都でつくり運ぶ理由が無い。
◇鎌倉を中心とした東の国で茶や梅干しなど、禅寺必需品を生産する必要がある。
◇禅寺が存在する以上「茶禅一味」は必然である。

中世の歴史と「禅」と「茶」栄西 多賀宗隼著 吉川弘文館
<引用開始>
禅と日常生活
武人においてとくに死と結びついた禅は、また日常生活におけるよき指導者ともなった。豆腐と納豆と饅頭と梅干しと茶と。禅宗の食事・点心(てんじん)・飲料はやがて禅寺から溢れ出て民衆のものともなった。同時に禅宗の生活の規則 ―清規(しんぎ)― も世間の作法のもととなり、なかんずく。喫茶の作法となる。茶は心身を養い爽かにする飲料であるとともに、人間交流の仕方を規制するよりどころともなった。禅宗の生活の、かかる世間への拡大は、特に茶を通じて実現されたものであり、禅道を中心とした禅宗の茶禅一味はここに茶を中心とし、禅を背景とする世間の茶禅一味となる。
<引用終了>

連続性とは
◇鎌倉幕府は、茶祖栄西禅師などが育てた茶を狭山の地で生産させた。
◇禅寺が衰退する理由がないし、戦禍に巻き込まれる理由もない。衰退したという史実を記したものを見受けることはできない。
◇禅寺必需品の「狭山茶」の生産は続けられた。
◇茶場碑がある出雲祝神社には、北条家や徳川家が神社に対し社領や朱印十石を与えた由緒がある。時の政権の天領地の禅寺用の茶の生産が「復興」を必要とするほど衰退していたとは到底考えられない。
◇よって1800年代の「復興」とは、禅寺用以外の茶の復興の可能性を否定できない。
◇元狭山村は天領地(幕府領)であり、同じ天領地である青梅の梅干しや秩父の桑(火薬も作っていたと地元の方から教えていただいた)同様に、茶を作り続ける使命があった。それは、鎌倉時代から連続する使命であった。

茶場碑がある入間市宮寺の出雲祝神社の由緒
由緒
延喜式内社で人皇第十二代景行天皇の御代創建 大宝二年(筆者註703年)九月二十九日再建す その後幾度かの乱世にあいながらも御神のゆるくことなく一般から寄木様と親しまれてきた 弘治三年(筆者註1557年)小田原城主北条家より社領を賜り 尚徳川家康将軍はじめ代々の将軍より朱印十石をいただく 明治になり有栖川宮一品鐡仁親王により御染筆を賜る

中村家13代(江戸初期より)である元狭山村初代村長時代の中村為一郎は、明治23年7月から8月にかけて上野で開催された第3回内国勧業博覧会で狭山茶を出品し、総裁である貞愛(さだなる)親王からから褒状を授かっています。

このように茶場維持の必要性と連続性を考えると、いかにこの茶場碑に記された内容を丸飲みすることが、危険であることが分かります。

埼玉県や入間市が丸飲みしたこの本が書かれたのは40年前の昭和45年です。情報量が少なかったに違いありません。今ではインターネットで大阪の狭山池のことや、古事記や万葉集に狭山の地名が記載されていることなどが容易に調べられます。

翌昭和46(1973)年には、入間市根岸の豊泉寺に佐藤栄作元首相の名が刻まれた茶場碑が建てられていますが、その内容も残念ながら吉川氏が書いた本の内容と重なります。

韓国の大統領が竹島を訪問したニュースが流れていますが、正しい歴史認識を共有することは難しいことです。
入間市の茶場碑、瑞穂町の茶場碑、誰かが歴史を「作る、作文する」ために建てたとするのなら、将来に禍根を残すだけです。

そろそろ、狭山茶の歴史については入間市、埼玉県、瑞穂町、東京都などへ情報を「謹呈」する段階に来ていると考えます。
posted by M.NAKAMURA at 16:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/285892660

この記事へのトラックバック