仏教ブログ 〈聞其名号信心歓喜〉

南無阿弥陀仏 あなたが念仏を称える人となりますように  by zenkyu
 
2012/08/08 10:50:20|仏教ブログ掲示板 
毎日更新の終わり
 このブログももうじき二年になります。毎日更新するほどに書きたいことはありましたが、ここにきて、もう書くことがなくなりました。「歎異抄」「教行信証」「和讃」についても学び終わりましたし、「内山興正老師の言葉」「曽我量深師の言葉」も引用を尽くしました。「清沢満之」も紹介し終わりました。

 ただ、「浄土論註」は未完で終わりましたが書きたいことは書きました。蓮如の「御文」と親鸞の「御消息」は少し残っていますが、もう消化試合のようです。「浄土三部経」は始めたばかりですが、とくに書きたいと思うこともなくなりました。そんなわけですので、これからは気が向いたときに残りのシリーズを書くことくらいになります。

 もう書くことはなくなりましたが、今後は、読者のみなさんのお話をお聞きしたいと思っています。質問でも愚痴でもなんでもいいのでお便りください。ブログ上でご返事いたします。あなたの質問は同じような疑問を抱えている多くの読者の役に立つと思います。いっしょに聞法してまいりましょう。

 南無阿弥陀仏

 平成二十四年八月八日
 全休 zenkyu

 *写真* わたしの散歩道『大梅寺』(小川町)







2012/08/05 22:31:43|親鸞和讃を味わう 
万不一生
  専修のひとをほむるには
  千無一失とおしえたり
  雑修のひとをきらうには
  万不一生とのべたまう

  ※「万不一生」の左訓
  万に一人も報土に生まれずとなり。

  (高僧和讃 44)*520

 人の「理想」は人の数だけあるので「雑修」といいます。宇宙の「真実」は一つしかないので「専修」といいます。自分の思い、自分の理想、すなわち妄念妄想にこだわっている限り、「万不一生」、万に一つも「真実」に触れることはない。







2012/08/04 9:06:21|御消息集を読む 
他力のなかの自力の人々
  他力のなかにも自力ということはある、と聞きました。
  しかし他力のなかにまた他力があるということは聞きません。
  他力のなかの自力ということは、浄土に生まれるためには迂遠な種々雑多の修行や、
  心静かな禅定に入って行う念仏を心にかけることで、
  このような人々は他力のなかの自力の人々です。
  しかし他力のなかにまた他力があるということは、聞いていません。

 (末燈鈔 17)*361

 正嘉元(1257)年十一月二十五日の日付で、弟子の真仏に宛てた手紙です。「他力のなかの他力」「他力のなかの自力」についての疑問に答える返書です。

 念仏を称えているのは、仏の御促しですから、すでに「他力」の中です。念仏を申しておりながら、まだ自分が称えていると思っているような人を「他力のなかの自力の人々」といいます。

 (全40回/その25)







2012/08/03 0:25:49|全休版・歎異抄現代語訳 
歎異抄現代語訳・第九章 (2)
                
  また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、
  死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。
  久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、
  いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、
  まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。
  なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、
  かの土へはまいるべきなり。
  いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。

  これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。
  踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、
  煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と云々

  (歎異抄・第九章A)


 ◆現代語訳・第九章(続き)

 また、死んで早く仏の国に生まれたいといえば、信心をいただくと生への執着もなくなるかのように思うのでしょうが、わたしたち凡夫から生に執着する心がなくなることはないのです。現に、ちょっと体の具合が悪くなれば、さて死ぬのではないかと心配するではありませんか。

 苦悩ばかりかといえばそうでなく、喜びもあればこそ、一日でも長く生きたいと願うものです。死んで早く仏の国に生まれたいなんて煩悩のなくなった仏のような心境にはなろうと思ったってなれるものではありません。死にたくないと思いながらも、生きる気力もなくなって死んでいくのが凡夫です。

 さて、お念仏を喜ぶ心も少なく、いそぎ死んで仏の国に生まれたいとも思わない。それこそがわたしたち凡夫の現実なのであり、喜ぶ心も多く、いそぎ仏になりたいなどと思うとすれば、それはすでに仏の心境であり、煩悩具足の凡夫ではなくなってしまうではありませんか。

 念仏は煩悩にこだわらない教えです。煩悩をなくすのではなく、煩悩はそのままにして、煩悩を仏の智慧でもって照らしている。煩悩が見えているということが往生が定まった、真実の信心をいただく身となったということなのです。

 〜全休版・歎異抄現代語訳 11〜







2012/08/02 8:25:28|全休版・歎異抄現代語訳 
歎異抄現代語訳・第九章 (1)
  「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、
  またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、
  いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、

  「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。
  よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、
  いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。
  よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。
  しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、
  他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。

  (歎異抄・第九章@)


 ◆現代語訳・第九章

 得がたき信心をいただく身にさせていただいたはずなのに、お念仏を称えていても念仏を喜ぶ心が湧いてまいりません。また、すぐにでも死んで仏の国に生まれたいと願うはずですのに、そんな気持ちもありません。こんなことで、本当に信心をいただいたといえるのでしょうか。

 あるとき、親鸞聖人にそのようにお聞きしましたところ、厳しく叱られるかと思っていたのですが、意外なことに「唯円、あなたもそうでしたか。実は、この親鸞も同じ気持ちでいたのですよ」と言われたことがあったのです。そのとき親鸞聖人はこのように仰せになりました。

 得がたき信心をいただく身になったら、なにか煩悩がなくなって仏のような心境になるように思ってしまいがちですが、仏さまはわたしたちを「煩悩具足の凡夫」とお呼びくださっているのですから、信心をいただいたからといって、なにか特別な身の上になるわけではありません。

 むしろ、信心をいただく身にさせていただいたことは、天におどり地におどるほどに喜ぶべきことなのに、それを喜ばないのはまったくもって煩悩のせいなのです。煩悩がなくなるのではなく、煩悩が見えるということが信心をいただくことであり、見えるということが救われるということなのだと理解するとよいでしょう。(続く)

 〜全休版・歎異抄現代語訳 10〜







[ 1 - 5 件 / 722 件中 ] 次の5件 >>