幸せに生きる〜ブッダの智慧から学ぶ〜

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help RSS ★★難解な本の内容がどんどん理解できる不思議

<<   作成日時 : 2011/01/29 22:57   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 31

皆さんは勉強をしようと思うと、まずテキストが欲しいと思うでしょう。
私も、「仏教を勉強するためのいいテキストがほしいのですが・・・」
というような質問をされることがよくあります。
このテキストについて考えてみましょう。

コンピュータや最近の携帯電話などを買うと、
すごくたくさんマニュアルがついてきます。

あれはコンピュータのテキストなのですが、
量も多いし、すごく読みづらいのです。


便利だからといってコンピュータを買ったのに、テキストを読む苦労だけでもう
便利ではなくなってしまうのです。

私もパソコンが好きで色々といじってはいるのですが、
私の場合は間違えてもかまわないからと思って、とにかく実際にいじって、
いじってコンピュータの使い方を覚えたのであって、
マニュアルにはほとんど頼っていません。



たまにどうしてもわからなくなってマニュアルを開けても、あくびは出るわ、
眠くなるわ、書いてあることはさっぱりわからないわで、あきらめてしまうのです。

ですから、やはり実際にいじってなんとかするほうが
マシだと思って、また機械をいじることに戻ってしまいます。

勉強する時のテキストも同じです。
テキストを読んで理解しようと思っても、もし簡単に理解できなければ、
イヤになって眠くなってしまいます。
どうしてもわからなければ諦めてしまいます。


勉強というのは知らない世界を知っていくことなのですから、
本来楽しく、ワクワクするはずなのですが、
学生たちが「勉強は嫌いだ」と言うのは、
テキスト中心の勉強ばかりしているからです。


難しくて、眠くて眠くて仕方がなくなってしまうのです。

でも、いくらイヤだと言っても、どうしてもテキストで勉強しなければ
ならない分野も多いですね。

コンピュータならいじっていればなんとかなりますが、
数学や哲学や経済学など、
テキストで勉強しなければどうしようもないのです。


ですから、どうすれば難しくてイヤなテキストを勉強することが
できるかということについて考えてみましょう。


画像


概念を自分の経験として理解すれば、とてもわかりやすくて、
その上に簡単に覚えてしまうことを先ほどお話しました。
ではテキストを経験的に読めばいいという話になりますが、
そのためにはどうすればいいのでしょうか。

テキストに書いてあるのは、当然言葉です。
ということは、テキストもやはり何かの経験によって
作られた言葉の集合体であることには違いありません。


つまり、誰かが経験によって学んだこと、理解したことを言葉にして
テキストにしているのです。
ですから私たちは、そこにある経験は何かということを感じ取ればいいのです



テキストを読むときも、言葉の裏には経験があるのだと
覚えておいてください。

段落ごとに、いったい何を言おうとしているのかという経験を読み取る。
たとえ一行でもわからなかったら、

テキストの作者はここで何を言おうとしているのかと、
経験を得ようとしなければなりません。

ただ文字を読むだけで満足することは、まったく意味がないことです。
きちんとゆっくり味わって体験しながら読んでみてください。


よく一生懸命に難しい本を読んでいるのに、内容を質問すると
まったくわかっていない人がいます。

意味もつかめていなし、何を覚えているのかと聞きただしてみても
何も覚えていません。
せっかく難しい本を苦労して読んでも、これではまったく意味がありません。

こういう人は本の読み方が間違っているのです。

本を読むときも、なるべく自分の経験になるように読むコツがあります。

どうするかというと、


自分で書いた本を読んでいるつもりで読むのです。
「まず主観的に読んでください」とよく言いました。

歴史の本を読むときでも、その時代に入ってしまって、イマジネーションを
働かせながら読むのです。

おもしろい小説を読むときは、皆さんも自然にそうなっているでしょう。

本のなかに入り込んでしまって、
自分が主人公になって、一気に読んでしまいます。


夜を徹して読んでも全然疲れないし、
それどころかかえって楽しいんです。

その上に内容もすごくよく覚えています。

数学の本を読むときでも、哲学の本を読むときでも、
そのような心の働きで読んでみてください。
それが主観的にテキストを読むことです。


「頭が突然するどくなる瞑想法」P30〜P33
A・スマナサーラ長老

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コメント(31件)

内 容 ニックネーム/日時
(続き15) 友人の彼が推薦を蹴って、しかし、一般入試で合格した大学は、私も合格したのですが、筆記試験の後、一般入試においても、面接試験がありました。

 面接に当たっては、レポートとまではいえないような書面を提出します。例えば、どのような本を読んだとか、そういうことを書きます。

 私は、とても困りました。なぜならば、小説とか本を全く読んでいなかったからです。
 小説を読んだのは、小学校の終りか中学1年生のころ、シャーロック・ホームズか三国志(父親所蔵で古い本だったので文字がとても難しく全部意味が取れなかったような記憶があります)を読んだのが最後だったと思います。

 それで、どうしようかと思ったのですが、高校の授業で芥川龍之介の「鼻」が教科書に載っていたかなんかで、勉強していた記憶を思いだし、
 
 「そうだ。芥川龍之介なら、誰もが認める作家だし、話も面白いし、話も凄く短いだろうから、それを読もう。」
 
 と決めました。
 
 それで、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」と後、何かもう一つか二つ読んだのではないかと思います。

 もし面接試験を受ける予定があって、誰もが認める作家の小説をあまり読んでいないという受験生がいたら、私は芥川龍之介をお勧めします。
 短編2つくらいなら、半日で読み終わるくらいではないかと思います。

 なお、時事的なものも読んでないとまずいだろうと思い、芥川龍之介の他に、「東京に原発を!」(広瀬隆著)を読みました。
ヴィーナス
2011/01/30 06:49
(続き16)

 実際の面接試験の場では、本のことは聞かれませんでした。
 その大学の学部の試験は私の感触としても英語の出来がよく、面接官の態度からしても、合格を前提としたような話しぶりだったので、あまりどんな本を読んだとかがポイントではなく、向こうが聞き出そうとしていたのは、併願校だったように思います。
 直接的な聞かれ方としては、「私立大学以外に東京の国公立大学でどこを受験しているのですか?」というような感じだったと思います。

 その言葉の裏で聞きたがっているのは、東京大学(文T)を併願しているかという点のように感じられました。

 「東京大学を併願しています」と答えるとどうなるのか分りませんが、補欠合格に回される可能性が出てくるのではないかと思います。

 なので、面接試験で探りを入れられたら(東大の探りを入れる大学は少ないかもしれませんが、他大学の面接試験においても、受験生がそちらに流れるのを防止するため併願校の探りを入れるということはあると思います)、この点は注意された方がよいのではないかと思います。

 ちなみに、私は、「東京の大学を受験しています。しかし、共通一次試験の成績が悪かったのでとてもではありませんが、受かりません。」というような答えをしたような記憶があります。

 なお、私は、合格したこの大学には結局は行きませんでした。
 しかし、もう一度受験して合格できるか?と言われると、合格できると断言することは、とてもではありませんができません。

 私はこの大学のその学部の難しさをよく知っているだけに、その学部の推薦を蹴ってあえて一般入試で受験した彼はやはり特別に尊敬に値すると思います。
 彼は、昨日述べましたとおり、自分の人格を高めることに挑戦したのだと思います。
ヴィーナス
2011/01/30 07:03
私の小説を読むように、読めば良いというのは、

この本からの情報源ではなく

過去に印象的に残っていた方の、言葉で

岡本かの子さんと言う方の言葉です、岡本太郎さんのお母さんだそうです。ずいぶんと昔にこの言葉に感銘を受け、納得し、ちょくちょく皆さまにもお伝えしてるところでありました

よし今から、マーヤ―デー―ヴィー精舎に出発だ

「頭が突然するどくなる瞑想法」
A・スマナサーラ長老

を読んでくるぞよ、
才木広之
2011/01/30 09:34
おはようございます。

本、特に難解本と言われているのを衝動買いしてしまう癖と、目下悪戦苦闘してます。

今日の内容は珍しく自分向きでないな。と思いました。

逆パターンになったら多いに参考にしようと思います。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

2011/01/30 09:37
映画があるでしょう

それを見るときは、もう待ったなしでしょう

次々話の展開が流れていっちゃうんです。ちょっと聞き逃したり、見逃したりしても、もうストップはできないんです。ビデオなら知りませんが、映画館や、テレビでは、ストップはできないのです。ちょっと待てよと、繰り返し、そのところを見返すことはできないのです。それでも一通り読めば、まあまあ、話の起承転結は見えてきます。

それでも、もう一回映画を観に行って一から終わりまで見れば、また新たな発見があります。

私は、決して本を読んでいる途中には、止まったり、読み返したりはしません、一通り、読んでしまいます。

ようするに、読み返そうと思えば、一番初めから、読み返すのです。「はじめに」と書かれたところから、読み返すのです。

私の場合は一冊で一つの内容が書かれているというとらえ方なのです

ですから映画のワンシーンだけ、こうしてみても、感想は書けないところがあります。

まだ、一冊の御本を読んだ感想文のほうが参考になります。

宣伝としては、映画のワンシーンと同じで、宣伝にはなります。が内容自体はなんの参考にもなりません。

映画のワンシーンの宣伝と同じです。

一冊読んで初めて、映画を観たのと同じで。宣伝用のワンシーンを、見ても、私は映画を見たということにはなりません。まったくの無意味です。

ただ宣伝としては、映画のワンシーンと同じく、興味を持って全部読んでみようと思われる方もおられるかもしれませんので、宣伝にはなると思いますが、

映画のワンシーンを見て、感想は、書けません
才木広之
2011/01/30 10:27
今日の宣伝の本は、

以前協会掲示板で、自燈明、法燈明と言うことを目にしたことがあります

まーここら辺りの微小なところが、自燈明、法燈明の境目に当たるんではないかなと、感じたりもします
才木広之
2011/01/30 10:34
たとえばです、最後の最後に、なって、この本の内容は全部間違いですので、真似しないでください、と書いてあったらどうしますか。

ですから、一部引用などというものは、たいへんに危険をはらんでますよ。と言いたい気もしますが

まーそこは、あんさんの、正直でまじめな人柄が、ここには表れておりますから、そんなことはないでしょうけど、
才木広之
2011/01/30 10:41
とにかく一冊読んでください、そこにはこの本を読むにあたっての注意書き、なども書いて有ったりしますから

その注意書きを読まずして、一部分だけ読んだら、危険だよ、読んでもいいけど、一部分だけ読んで、実践したら危険ですよと言いたいのです

なぜなら、注意書きがあるかもしれないのですから。
才木広之
2011/01/30 10:44
私が幸せでありますように。

私の親しい人々が幸せでありますように。


生きとし生けるものが幸せでありますように。


私の嫌いな人々が幸せでありますように。


私の事を嫌っている人々が幸せでありますように。


あん、一連の書き込み気にしてないとは思いますが、出来る範囲で淡々と続けて行っていただけたらと思います。
あんさんは出来る範囲でお釈迦様の教えを広める努力をなさっていると思います。

あのお釈迦様ですら、覚れる素質がある人を優先的に指導されたのですから、出来る範囲でやればいいと思います。
慈悲と知慧
2011/01/30 11:08
 一部引用は危険なので、本の名前と該当頁は示しておく必要があると思います。

 何かおかしいと感じた人は、自らその本の全文を読んで確かめることができると思います。熱心な方は、おかしいと感じなくても全文読まれて自ら確かめるかもしれません。

 しかし、スマナサーラ長老の説法は、可能ならば、生で拝聴すべきであると思います。冥想指導はなおさらです。

 昨日のあんさまのブログ本文のスマナサーラ長老の説法によれば、

 「私は皆さんの心に向けて喋っています。ですから、言葉以外にもいろいろなことを伝えようと努めていて、聞いておられる方たちにもそのことが頭の中にしっかりと入るはずなのです。」

 となっています(本の名前、該当頁も昨日のブログ本文記事に記載あり)。

 これは、いわゆる身ぶり手ぶりなどのノンバーバルコミュニケーションの意味ではないと思います。

 つまり、スマナサーラ長老は、おそらく言葉を使わずにダイレクトに我々に概念をたたき込む特別な超越した能力をお持ちなのだと思います。

 ただ、我々が、言葉を使って理解する場合にも能力差があるように、ダイレクトに概念が叩き込まれる場合にも、我々の方に能力差があるので、受信能力に差が出るのだと思います。

 あまり受信できないようだと、長い間、スマナサーラ長老のこの特別な能力に気づかないこともあると思います。

 逆に、受信能力が高い人を「電波君」などと揶揄してしまい、重い罪を犯し、墓穴を掘るといったこともあるように思います。

 この点についても、単なる精神錯乱者か、それとも、本当に受信能力が高い人か、データに基づいて理性的に判断する必要があると思います。

 つまり、観る眼が必要ということです。
ヴィーナス
2011/01/30 11:09
あんさんのさんが抜けてました。
失礼しました。
なお、全文を読んだ方が良いことは確かですが、実践も含めて、やるのは自分次第ですね。こればっかりは仕方がない。
慈悲と知慧
2011/01/30 11:19
私も主観的な表現で書きすぎましたが

一冊読んでほしいという、こころからの願いを書きました。

時間も遅くなりますから、部屋の掃除して、雪開けをして、マーヤーデ―ヴィー精舎へという予定です

生きとし生けるものは、幸せでありますように

才木広之
2011/01/30 11:33
あんさんのブログや事務局長のツイッターに甘えないで、可能な限り、生で聞いたり、実践した人が勝ちといったら表現がおかしいですけど、そんな感じです。
生きとし生けるものが幸せでありますように
慈悲と知慧
2011/01/30 11:41
このブログの引用でスマナサーラ長老の誤解を生むことより、このコメント欄のコメント(ヴィーナスさんのことではありません)見て、協会の人達やスマナサーラ長老の読者にはへんな人達が多いのではと思われないかの方が私のまったくの主観では心配です(笑)。

生きとし生けるものが幸せでありますように

慈悲と知慧
2011/01/30 11:54
ここに最強のへんてこなものでも、受け止めてくれている、マーヤ―デーヴィー精舎の方々がおられるのですから

へんてこな人は私にどうぞ声かけてください
才木広之
2011/01/30 12:03
ブログ再開いたしましたので、どうぞお立ち寄りください
才木広之
2011/01/30 16:11
 念のために書いておきますが、私は著作物の全部引用を奨励しているわけではありません。
 
 スマナサーラ長老は、仏陀の教えに著作権なしということを仰っておられたと思いますので、著作権を主張されることはないと思いますが、出版社にも著作権が成立しているのが普通と思われ、こちらは著作権を主張する可能性があります。
 著作権法32条の要件を満たせば、引用は可能ですが、結構その要件は厳しいと思います。
 
 一部引用で、善意から行っていて、出版物の宣伝に貢献しているというような場合には、出版社の黙示的な承諾(黙認)があると理論構成して適法とすることも可能と思っていますが(しかし実際に争いとなる時は出版社の反対があるので黙認の理論は使えないことが多いと思います)、本一冊、丸々全部引用となると出版社の黙認というのはまず無理だと思います。

 大体常識外れのことをする人がいて、著作権は問題になったりすることが多いように思います。
 典型例は企業内部で一つのソフトを何台ものパソコンで使用して、それをソフト会社が発見した場合とかだと思います
ヴィーナス
2011/01/30 17:28
隠し事はあまり好きではないから、あのまま残しておきます

罰があるなら受けるしかありません

生きとし生けるものが、幸せでありますように。
才木広之
2011/01/30 19:39
結局
解かる人には解かる
解からない人には解からない
そんな単純なことかと思います。

ブログを続けることは
何か役立っているのかと疑問に思ったりもします。

各自がそれぞれのやり方で
学ぶべきことですよね。
このブログは一つのきっかけとなれば
良いなぁ〜と思ってやり始めたことです。

長老のパワーというかオーラというか
法話は凄いですよね。
DVDからもしっかり伝わってきますね。

生きとし生けるものが幸せでありますように
あん
2011/01/30 19:42
それは違いますよ、

わたしたちは、先人の志や、多くの方々に知って頂きたい、触れていただきたいという思いがあったからこそ。

今のわたしたちがあるのですよ。偶然に見つけた本や、出会いではないのですよ。

そこには、かなりの努力と、慈しみの心と、(何もわからない人々にも、何も評価されなくとも、自分の存在が知られようが、知られまいが、)見知らぬ私たちのことを思い、初めて、本や、出会いがあったのですよ、わたしたちが偶然見つけて、であったのではないのですよ

ですからわたしは何度も申し上げますが、わたしたちは、もう自己責任なのです、コメントしてる方たちは、解る人には解るでいいでしょうし、解らない人には、解らないでいいです。

しかし、しかしです、わたしたちは、初めての出会いというものが必ずあったでしょう。ほんの出会いであったり、友人から勧められてとか、いろいろあったとは思います。それは、自分は解る人だから、解ったんだ、ではないんです

何も知らない人に解るようにと、それは真剣に、まじめに努力をされたからこそ、初めて、何も知らなかった、わたしたちが、こうして今に至り、もうすでに自己責任で、ブッダのことを学ぶところまで来ているのです。

解らない人には、解らないということは、ブッダや、スマナサーラ長老のことを知らない方に、言ってはならんことです

解らない人には、解らないなんてこと言ったら、いっぺんに帰ってしまいます

才木広之
2011/01/30 20:50
スマナサーラ長老が、説法で、そんなこと言いましたか。

もう、一人前に、ブッダのことを学ぶことが、できるようになった人には、言うかもしれませんが、いろんな方々が、はじめての方もおられるところでは、そんなことは言わないと思います

どうして、わたしたちの今があるか、もっと真剣に考えてもいいと思います。

それは、何も知らない、何もわからない、人たちに向けて、努力した方々があったからです。

まだ見ぬ人たちに向けて、努力があったからです

そのまだ見ぬ人たちが、わたしたちだったのですよ
才木広之
2011/01/30 20:50
もうそろそろ時間ですので

一言、言います。

あんさんの今日のコメントは

「けしからんです」

わたしは、御先輩方に、わたしたちの行為を、ここに謝ります。すみませんでした。

御先輩方の努力がありここまでブッダや、スマナサーラ長老のことを知ることができたのに、生意気な発言をお許しください。

これでもみんなそれなりに頑張っています

あんさんもきっと謝ってくれると思います。

才木広之
2011/01/30 20:57
あんさん

お気になさらずに、今後もお幸せでありますように。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
慈悲と智慧
2011/01/30 21:08
才木様
たいへん貴重なご意見を賜りまして
厚く御礼を申し上げます。

「解かる人には解かる」というのは
ブッダの教えの解釈も各人それぞれの顔形が違う
ように受け止め方、理解に差があると
そう言う意味で言ったのです。

コメント欄で、
自己主張激しいコメント連ねるというのは、
それは善い行いになるでしょうか?
自分にとって、他人にとって、周りにとって
ためになる言葉なのでしょうか?
一旦、言いたいことが生まれたら
どこか「メモ帳」などで書いてみて
何度も読んでみたらどうでしょうか?
この内容をコメント欄に書き込みして
善い結果が得られるかどうか。
人の心を汚すような内容になってはいないか?
ちょっと時間をとって考えてみる。
そんな提案をいたします。

あん
2011/01/30 21:50
冥想中でしたが、ブログを消すという、ことが頭に浮かび、気になるのでこうして、報告をと思い、お尋ねしましたが、あんさんのコメントが、ありましたので、返事を書きます。

一応わたしのコメントと解るように、わたしがコメントしたことの証明になるように、わたしの生年月日を書いておきます、47,10,26です。これでもうみんな知りましたから、今度からはこの手は使えませんが。ブログで、確実にわたしからのコメントだと伝えるのは結構難しいですね。ではそういうことです

何度も、何度もわたしはだまされたふりをする訳にはいきませんので、もうあなたのことは信用しませんし、だまされません。

才木広之
2011/01/30 22:16
才木さんの「成りすまし」が登場してるってことでしょうか?
よくわかりませんが、個人的な意見ですが、この際、本物の才木さんは、本名からハンドルネームに変えられてはいかがですか^^
ポリシーあっての本名での投稿とお聞きしましたが、様々なリスクが心配です。


358
2011/01/31 11:48
358さん

成り済ましではないと思います。

ある意味、他人が成り済まして書ける文章ではないと思います。

私は医者でないので分かりませんが、精神的な病があるのかもしれません。


一言でいえばかまって欲しい、認めて欲しいのだと思います。

それであれこれやって、何とか気を引こうとしているのでしょう。

どちらにしても、本来、私達が、どうにか出来るレベルの人ではないと思います。


慈悲と知慧
2011/01/31 12:42
慈悲と智慧さん、ありがとうございます。
そういうことなんですかぁ

仏教を学び始めると早い時期から心に刻まれるキーワードがりますよね。
例えば
「相手を尊重する」
例えば
「自分自分ではダメ」
例えば
「その行為は自分のためになるか・相手のためになるか・皆のためになるか」
例えば
「人のことはとやかく言わない(そんな暇があったら自己の精進)」

仏教を学んで、相当皆さん頑張ってらっしゃるのに、未熟な私から見ても何でこんなことを・・・・という書き込みが時々ありますが、それはあくまで私の主観ですし、「相手を尊重する」「ひとのことはとやかく言わない」と決めた以上は、沈黙しています。
でも、心には小さな怒りがあります。観察できます。

例えば
「常に冷静でいること」

未熟だなぁ。と痛感する次第です。
ホント、実践が大切ですね
358
2011/01/31 13:34
358さん

むしろ358さんはお世辞抜きで良く対応されている方だと思いますよ。

主観的な意見としては、才木さんは禁煙も精神面においても、しかるべき医療機関で診察を受けるレベルにあると思います。
スマナサーラ長老がたまに仰る、仏教の管轄外のレベルであると思います。

生きとし生けるものの悩み苦しみが無くなりますように。
慈悲と智慧
2011/01/31 16:00
 私の中学校3年生の時の担任の先生は、当時、若くてかっこいい先生で、スポーツマンでした。

 慶応大学出のエリートで、数学の先生でした。

 朝礼のときとかでもサングラスをかけていたりするのですが、それがまた似合っている。
 水泳やっているからか髪が若干金色がかっている。それまた似合っている。

 人望も厚く、圧倒的実力があったからでしょう、他の先生もサングラスなどについて何も言えなかったのではないかと思います。

 修学旅行において、粗相をした生徒もその先生には喜んで叱られていました。

 私のことをあだ名で呼んだ先生も、小学校から大学までその先生だけではないかと思います。私は雰囲気からしておそらくあだ名では呼びにくい雰囲気なのです。しかし、その先生はあだ名で呼んで下さいました。

 今はその先生は校長先生をしておられます。

 それで、私が書きたいのは、その先生が中学校3年生のとき、私のクラスを担任して、その間、クラス内でいじめなどを一切、私がみたことがないことです。

 凄く華があり、慈しみのある先生でしたから(今思うとムディターが強い先生のように思います)、いじめとかが起きる雰囲気が全くありませんでした。

 この先生も三因かもしれません。

 数学の授業でよく覚えているのは、確率のことを教えて下さって、宝くじを例に挙げられて、宝くじは確率で観ると、絶対損するから、買うなという話です。

 そこはすごく強調されておられ、数式を用いて理論的に説明してくださいました。

 今思うと、数学の授業でありながら、道徳的なことも教えておられたように思います。

 そういうところにも、三因であることが伺われるように思います(私が知る限りテーラワーダ仏教徒ではありません)。
ヴィーナス
2011/01/31 20:45
 ちなみに、私の通っていた中学校は、単なる公立中学(市立中学)です。
 
 当然といってはなんですが、教師には明らかになっていないような「いじめ」は沢山あったと思います。

 なお、慶応大学出の数学の先生というのはとても珍しかったと思います。私立の名門中学というわけではありませんから。

 ちなみに、その後進学した高校も公立高校で、3年間クラス替えがない高校なのですが、その3年間にもいじめはありませんでした。
 
 こちらは公立高校とはいえ進学校ですから、品行方正な人が多く、いじめは起こりにくいとは思いますが、それでも、全く起こらなかったのは、先に述べました某難関大学の推薦を蹴って一般入試で入った彼の善の心の力も大きかったのかもしれません。
ヴィーナス
2011/01/31 22:19
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