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禁断の遊郭「飛田新地」が“外”に開かれた日 (3/3)

[産経新聞]
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 近くに新世界の歓楽街を控え、鉄道交通の便もよかったことから大いににぎわった。遊郭は戦後も「赤線」として生き延びたが、昭和33(1958)年に売春防止法が施行され、赤線は廃止された。しかし、飛田は「料亭」と名を変え、昔ながらのスタイルで“静かに目立たず”営業を続けていく。

 約20年前に飛田新地を取材したことがある。当時はバブルが弾けて間もない頃で、新風営法の施行(昭和60(1985)年)やエイズ騒動(62年)、ファッションマッサージなど新手の風俗産業の台頭で、商売的には厳しいときだった。「10年余り前に比べ、客足はめっきり減った。昼間から開けていても客がほとんど来ない日もある」。曳っ子のおばさんがこう嘆いていた。

 「かつて月何百万円の“あがり”があった店でも、今なら100〜200万円程度。女の子に日当を払ったらナンボも残らず、赤字を出さないようやりくりしている店が多い」。事情通の関係者からはこんな話も聞いた。

 しかし、同じく客離れに頭を痛めていた別の飲み屋街で聞くと、また違った反応が返ってきた。「(飛田のような)男の本能を満足させるような世界は、廃れることはない。不景気やと言っても、私らの商売とは根本的に違う」

 どちらが当たっているのか、それとも、どちらも正しいのか。その後、飲み屋の方はどんどんつぶれていったが、対照的に飛田は、駐車場などに転用される空き地が少し増えたとはいえ、店は変わりなく続いている。

 一方、街の周辺の風景はずいぶん変わった。20年前は阿倍野再開発の初期で、飛田の東のJR天王寺駅方面の古い商店街などが整理され、マンションやショッピングモールに変わった。現在は再開発がさらに進み、2年後に開業予定で西日本一の高さとなる複合ビル「あべのハルカス」が街を見下ろしている。遊郭時代の名残で街を取り囲んでいた「嘆きの壁」といわれるコンクリート製の壁も、20年前には残っていた東側の一部が撤去された。

 女の子もやり手ばばあも客も代替わりし、周囲の風景も変わったが、それでも営業スタイルや街の風景など飛田新地の“根本”は何も変わっていないように見える。現代の遊郭はしぶとく、したたかに生き続けている。

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