1968年メキシコ五輪から44年。長い年月を経て、日本サッカー史の「金字塔」に手をかけた関塚監督は不思議な「運命」を感じていた。
準決勝で対戦する相手は、44年前に日本と3位決定戦で死闘を演じたメキシコ。オリンピックという舞台での因果な巡り合わせに、関塚監督は「僕は8歳だったのであまり印象にないが…。やはり釜本さんと杉山さんの攻撃のラインが印象に残っている」と記憶をひもといた。一呼吸置くと、しみじみとこう語った。
「恩師である宮本征勝さん、ユースのときは松本育夫さん。メキシコ五輪の銅メダリストに指導を受けてきて、縁も感じている」
宮本氏は早大時代の監督だった。情熱あふれる指導に心を動かされ、関塚監督は卒業後も宮本氏の後を追うように日本リーグの本田技研入り。宮本氏が鹿島の初代監督に就任すると、プロ指導者への転身を勧められ、鹿島のコーチになった。
「退社は大きな決断の一つだった。指導者として前へ進んだ感覚だった」(関塚監督)。宮本氏の存在なくして、プロ監督「関塚隆」はあり得なかった。
松本氏はユース代表時代の監督だった。激しい練習が特徴で、「4部練習で、いつも寝るのが怖かったね。朝、起きたら、また走るのかって…」(関塚監督)。宮本氏と共通するのは、サッカーへの情熱、指導者としての情熱、選手に対する情熱だった。2人の恩師の存在が、関塚監督にとって「サッカー人」としての血肉となっている。
五輪4強。あと一つ勝てば、日本史上初のファイナル進出が決まる。
「これまでやってきたもので十分できると思う。自信と誇りを持って、自分たちが持っているもの全てを出す試合にして、ひとつ歴史をつくっていきたい」
サッカーの聖地「ウェンブリー」で、関塚監督が情熱のタクトで新たな歴史の扉を開く。
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