「影響力があるんだから発言に責任を持ってください」。
たまにツイッターで投げかけられて強烈な違和感を覚える言葉について考えてみました。
責任は受信者にある
その通りでごじゃるよ。RT @nari_104: 自分の責任で、流れてくる情報の取捨選択をしなきゃならないのに、他人に対して「無責任」って何がなんだか。 RT InsideCHIKIRIN: 「無責任なツイートはしないでください」とか言ってくる人がいるんだけど、
— ちきりんさん (@InsideCHIKIRIN) 8月 6, 2012
「ちきりんさんみたいに影響力のある人がそんなこと言うのはよくない」的なこと言ってくる人にもウゲウゲする。君はネット中をパトロールして回ってんのか?
— ちきりんさん (@InsideCHIKIRIN) 8月 6, 2012
「無責任なツイートはしないでください」とか言ってくる人がいるんだけど、あたしは今まで一度も責任のもてるツイートをした記憶がない。
— ちきりんさん (@InsideCHIKIRIN) 8月 6, 2012
ちょうどちきりんさんがこのテーマに触れて、上記のような意見をツイートしていました。この気分はとても共感します。
何も知らないイノセントな幼児ならともかく、情報は自分で取捨選択すべきものです。僕らは日ごろ、そうして情報に接しています。基本的に「責任」は受信者にこそあるわけで、発信者(それもたかだかツイッターで発言する個人)にそれを求めるのはある種の責任転嫁でしょう。
悪影響とは何か?
「発言に責任を持ってください」という非難は、もう一歩進めれば、「社会に悪影響を与えるな」という思いと連携しているのでしょう。ちきりんさんのケースでいえば「ちきりんさんに”だまされる”人が出てきてしまう」という懸念から、そうした発言を行っているのでしょう。
(「下積み三年なんてナンセンス」なんてことを言いつつ、フリーランスというキャリアについて語ったりする僕も、おじさんたちから「若者を破滅に導くハーメルンの笛吹きだ」と揶揄されたことがあります。昨日も言われたんですが、「若者をミスリードしている」とかもよく言われます)
もし、その人のツイートなりブログ記事が本当に社会に悪影響を与える(例えば犯罪を教唆する、自殺をほう助するなど)場合は、「発言に責任を持ってください」という批判は正義に適ったものといえるでしょう。インターネット上で個人が個人を断罪することについて、僕はしばしば疑問を覚えますが、明らかに悪影響がある場合においては、批判者の感情はよく理解できます。時には僕も断罪する側に回るでしょう。
が、本当に悪影響があるのか分からない場合に―例えば僕が「フリーランスになってよかった。ノマドワークは最高だ」と語るときに―「影響力があるんだから発言に責任を持ってください、無垢な若者がミスリードされるかもしれない」と言われても、僕は自分に責任があるとは思えません。そこまで考えて発信する必要があるのでしょうか。そもそもそんな「無垢な若者」は存在しないことが大半ですし、彼らも実例(実際に僕の言葉でミスリードされた若者)を持って実証してくれるわけではありません。
結局、「影響力があるんだから発言に責任を持ってください」なんて言葉は、十中八九、安全地帯から発言者に石を投げたいがための言葉です。
僕が観察するかぎり、この言葉はほとんどの場合、自分の過去・現在、考えを否定された気がして、苦し紛れに出てくる非難です。インターネット上の個人に投げかけられる場合、この非難が意味を持つ場面はほとんどありません。
まとめると、
・子どもでもない限り、情報の取捨選択の責任は受信者側にある
・社会的に明白な悪影響がある場合は別だが、そうでない場合に「発言の責任」を求めるのはかなり疑問
・官報や国営放送、マスメディアならともかく、そもそもインターネット上の個人に「発言の責任」を求めるのがナンセンス
というあたりが僕の感覚です。
もちろん僕は発信者側の人間でもあるので、寄った考え方だと思います。どういった条件のもと、どういったケースなら、個人に発言の責任が求められるのか、というあたりは深く考えてみたいです(別記事にて研究してみたいと思います)。みなさんはこのテーマについてどう考えますか?ぜひコメント欄やツイッター、フェイスブックでご意見を投稿してみてください。
関連本。マイケル・サンデルの本なんかも参考になります。
リバタリアンの議論なんかも繋がってくるでしょう。