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1/a + 1/b = 1/f ・・・(Lens - 1) | ||||||
a: 物体点の位置からレンズ中心までの距離 | ||||||
b: レンズ中心から結像点までの距離 | ||||||
f: レンズ焦点距離 | ||||||
M = b/a = l / L ・・・(Lens - 2) | ||||||
M: 撮影倍率
l: 像の大きさ L: 物体の大きさ |
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【レンズの厚みを無視できるとき】 | |||||||
1/f = (n - 1)・(1/r1 - 1/r2) ・・・(Lens - 3) | |||||||
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【レンズの厚みがtであるとき】 | |||||||
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2θ = 2・tan-1(A'B'/2・b) ・・・(Lens - 5) | ||||
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2θ = 2・tan-1(A'B'/2・f) ・・・(Lens - 6) | ||||
(上式は、物体が像よりも20倍以上大きく、bが限りなく焦点距離fに近い時のもの。) | ||||
f = 1.072・A'B' ・・・(Lens - 7) | ||
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M = b/a ・・・(前述) | |||||
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F = f /φent= (f - χ)/φexit ・・・(Lens - 8) | |||||
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- 歪曲(%) = 100 x (y' - Y') / Y' ・・・(Lens - 9)
- y' : 歪曲した像の位置
- Y' : 理想の像の位置
F = f / D ・・・(Lens - 10) | |||||
F: レンズ逆口径比(Fナンバー、F値) | |||||
f: レンズ焦点距離 | |||||
D: レンズ口径 | |||||
- 0.7、1.0、1.4、2.0、2.8、4.0、5.6、8、11、16・・・
N.A. = n・sinθ ・・・(Lens - 11) | |||||||||
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F = 1/(2・N.A.) ・・・(Lens - 12) | |||||||||
レンズのF値とN.A.の関係。 | |||||||||
光と光の記録「レンズの分解能」参照 | |||||||||
T = F/√τ ・・・(Lens - 16) | |||||
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Feff =(1 + M x 1/ψ)F・・・(Lens - 17) | |||||
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E = Eω・cos4θ ・・・(Lens - 20) | ||||
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DP1 = L x (H + f) / (H +L) ・・・(Lens - 21)
DP2 = L x (H - f) / (H - L) H = f 2 / (δ x F) |
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1/a + 1/b = 1/f = 2/R・・・(Lens - 22) | |||||||
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球面鏡の結像公式
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- レンズ表面が球面形状をしたレンズで、もっとも一般的で古くからあるレンズです。レンズ研磨も比較的簡単なのでほとんどのレンズが球面レンズで作られます。上に示した凸レンズ、凹レンズ、メニスカスレンズはすべて球面レンズに属します。
- 1.の球面レンズに属さないレンズで、身の回りの非球面レンズでは遠近両用の眼鏡レンズがあります。非球面のカテゴリーには放物面、双曲面、楕円面なども含まれます。レンズはガラスを研磨して作る関係上、球面仕上げが基本でした。しかし、球面レンズではたくさんのレンズを組み合わせないと収差が取りきれません。レンズの周辺部を少し削ると、補正レンズの枚数を格段に減らすことができることは昔から知られていました。しかしながら、手作業で磨くならともかく、量産レンズで非球面レンズをたくさん作ることは至難の業で、プラスチックレンズが現れるまで非球面レンズの量産化は実現しませんでした。プラスチックレンズは、予め精密な金型を作っておいてそれに溶けたプラスチックを流し込み、レンズ成形することで複雑な形状のレンズを量産することができます。プラスチックレンズによる非球面レンズの登場で、補正レンズを極端に少なくしたカメラレンズが安価にできるようになりました。
- 1995年7月にフジ写真フィルムから発売されたレンズ付き使い捨てカメラ「写ルンです」は、カメラ業界にとって衝撃的な出来事でした。800円程度を支払って、フィルムが入った箱形のカメラを購入し、撮影が終わったら写真屋さんに持って行って、現像とプリントをしてもらうというものです。使い捨てカメラは、そこそこの画質があったので、簡便さも受けてあっという間にフィルムカメラの主力製品になりました。このカメラに使われたのが、1枚のプラスチック非球面レンズ(f=32mm)でした。たった1枚のレンズであれだけの画質が得られるのです。このレンズの特徴は、レンズをプラスチックにして量産化を図り、非球面にして収差を抑え、さらに絞りをF/10にして周辺部の収差も抑え、過焦点距離をかせいで1mから無限遠(∞)までフォーカスが合うようにしています。1枚のプラスチックレンズ成形もさることながら、フィルムの感度向上がF/10という暗いレンズ設計を可能とし、さらに、フィルム面を平面ではなく湾曲させることにより画像周辺部の収差を除去させることに成功しました。1枚のレンズでもあそこまで画質が向上するのか、という特筆すべき事だと思います。
- 焦点距離の曲率が一方向のみに設けられた、カマボコ形状(凹型では雨トイ形状)のレンズです。細かい目盛をふったスケールを読み取るレンズにも使われています。また、レーザをシート状にする光学系にもシリンドリカルレンズが使われています。映画用の撮影レンズ及び映写レンズには、シリンドリカルレンズを組み込んだアナモフィックレンズ(anamorphic lens)、及びシネスコレンズ(Cinema scope lens)が使われています。人の眼の乱視にもシリンドリカルレンズが応用されています。ただし、実際の眼鏡ではメニスカスレンズにシリンドリカル形状をあてるため、乱視を補正するレンズには以下に説明するトロイダルレンズが使われます。
- 円筒レンズ(シリンドリカルレンズ)を長手方向に湾曲させたレンズです。トロイダルとは円環状のという意味です。トロイダルという名前で一般的なものは、電子部品のトロイダルトランスや、自動車の自動変速機に使われ出したトロイダルトランスミッション(CVT = Continuous Variable Transimission)などがあります。これらはいずれもドーナッツの形状からこの呼び名がつけられています。トロイダルレンズもドーナッツ形状といえなくもありませんが、ドーナツの一部分を切り出したような形状をしています。乱視用の眼鏡レンズは、トロイダルレンズの典型です。トロイダルレンズの曲率を小さくして面が無限大(平面)にしたものが円筒レンズ(シリンドリカルレンズ)になります。
- 灯台の投光レンズ、映画照明用レンズ、OHPの投影レンズ、手帳や地図を拡大して見るための携行用のプラスチックプレート状のレンズがフレネルレンズです。通常の凸レンズと違ってレンズに厚みがなく、平板に近い形をしているにもかかわらず集光作用を持つレンズです。このフレネルレンズを結像作用に使おうとすると収差が大きすぎるので、主に光を集める目的に使われます。フレネルレンズは、1822年、フランスの物理学者フレネル(Augustin Jean Fresnel、1788-1827)が灯台の灯光レンズ用として考え出しました。レンズを開発した目的は、レンズの軽量化でした。灯台、サーチライト、映画照明用に使う灯光レンズは、たくさんの光を前面に投影しなければならないので、レンズが大きくなります。そうすると重量がとても重くなるので、軽量化の図れるフレネルレンズは都合良いものでした。また、携帯用のルーペ、老眼者用の書見台用としてもフレネルレンズは安価で持ち運びに便利であるため、プラスチック製の平板のものが使われています。この他、カメラファインダのフィールドレンズとしてペンタプリズムの下に平板のフレネルレンズが貼り付けられています。収納性が良いのが大きな理由です。カメラ用レンズとしてフレネルレンズは使われません。その理由は、レンズ形状が連続ではなく、段階的なレンズ(プリズム)なので周辺部の収差が極端に悪く、使用に耐えないからです。しかしながら、7.で述べるゾーンプレート(DOE = Diffractive Optical Element)の開発により、フレネルレンズ形状でも画像が得られることが実証されました。許容錯乱円以内に像ボケが収まるようにフレネルの断面形状を細かくしてやれば良いということのようです。平板フレネルレンズの材質は、アクリル(PMMA = Polymethylmethacrylate, ポリメチルメタアクリレート) で、金型を使って成形されることが多く10mm角から500mm角程度の大きさのものが市販されています。
- ▲ 灯台のランプハウス
- フランスの物理学者フレネルが、灯台用の灯光レンズとしてフレネルレンズを発明した動機は、レンズを軽量化して効率よい灯光装置を作りたかったからです。産業革命後の1820年当時は、大型の蒸気船の建造が進み海路の安全運行がとても大事になっていた時代で、遠くまで届く灯台の明かりが求められていました。灯台に使われているフレネルレンズがどのような形をしているのか、我々にはあまり馴染みがないのでよくわからないと思います。灯台に使われるランプハウスは、光源を中心に置いた全面ガラス張りの部屋という感じのものです。このランプハウスで海上50km程度まで光を到達させます。光を遠くまで到達させるためには点光源を効率よく平行光にする必要があります。灯台に使われる光源は思ったほど大きなランプを使っておらず、タングステン電球、キセノンランプ、HMIランプが多いようで、出力も250W〜1,000W前後のようです。灯台ができた当初の光源には、鯨の脂が使われていました。それがラード(豚の脂)になり、ケロシン(灯油)になり、電気の明かりに替わっていきました。ススの出ない高輝度光源は喉から手が出るほどほしかったに違いありません。ススのでる光源はフレネルレンズを曇らせ毎日の掃除が大変だからです。電気の明かりができた当時はアークランプが使われ、施設の中で蒸気機関を設備し、蒸気機関によって電気を起こし灯りを作っていました。
- 灯台の光源は、光の到達距離が大事なので、光の量よりも光度(カンデラ = 一点から放出される単位立体角当たりの光束)の強いものが求められます。出力の大きい光源は点光源ではなく面を伴った光源となるので、むやみに出力の高いものを使うのではなく、出力は低くても光度の高いランプ(点光源)が選ばれています。一点から放出される点光源を精巧に平行光に変えるのがフレネルレンズの役目です。平行度の良い光線を作らないと、光は遠くまで届かず短い距離で発散してしまうのでフレネルレンズの研磨加工・製作は極めて高い精度が要求されます。
灯台のレンズは、大きさと性能よって6等級に分かれていて、1等が一番大きく、6等が一番小さいものになっています。日本では、1等級の灯台は犬吠埼(千葉県銚子)、室戸岬(高知県)を含め6箇所にしかないそうです。1等級のレンズは、焦点距離f=920mm、レンズ内径1,840mm、レンズの高さ2,590mmと決められています。レンズは、2面、3面、4面、もしくは8面でできていて、レンズが光源の回りを回転して海上を水平方向にスキャンするようになっています。多面のフレネルレンズで覆われたランプハウスの中心に光源が置かれます。すべての等級にわたってレンズの焦点距離と内径は2倍の関係があり、焦点距離の2倍が内径になっています。つまり光源はフレネルレンズの焦点距離に設置されていて、光源から出た光が平行光で放射される仕組みになっています。1等級のレンズの大きさは2,590mmとかなり大きく、レンズ焦点距離920mmの2.8倍、Fナンバーで表すとF/0.36となります。この値から、フレネルレンズはかなり明るい光学系であることがわかります。灯台のランプハウスのレンズ中心部は、フレネルレンズの特徴である同心円状の薄型凸レンズ形状をしています。レンズの高い位置と低い位置では、長いプリズムを長手方向に緩やかにカーブをつけた構造となっていて、それが何段にも鎧戸のように装備されています。こうしたシャンデリアにも似たようなガラスの部屋で覆われたライトハウスによって、比較的小さな消費電力の光をきれいに整った平行光にして夜の海に遠くまで投光できるようにしています。
- このような軽量化を図ったフレネルレンズライトハウスでも、1等級の重量はレンズ部だけでも5トンにもなると言います。この重たいガラスのランプが回転して夜の海に強い光を投げかけます。光の強さは、1等級の灯台で100万カンデラの光度があるそうです。
- 灯台のフレネルレンズを見るととても優雅で芸術性さえ感じます。下図のフレネルレンズは、米国フロリダにあるセントオーガスチン(St. Augustine)灯台のものです。重厚な感じを受けます。こうしたレンズはすべて手作りなのだと思います。一等級の灯台が日本に6灯しかない需要を考えると、世界中で数社程度の光学会社が灯台のレンズを作っているのではないでしょうか。日本の灯台は多くはフランスから輸入していたようです。フランスのソーター・ハーレー社、イギリスのチャンスーブラザーズ社などから輸入して、1919年(第一次世界大戦終結)以降は、国産化に力をいれ、現在では日本光機工業が日本の灯台レンズの製造、メンテナンスを一手に引き受けているそうです。
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- 米国フロリダにあるセントオーガスチン(St. Augustine)灯台。
- ほとんどすべてが光学ガラスでできている。
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- 静岡県御前崎市の灯台(明治7年、1874年建設)。
- 建設当時は一等閃光レンズでしたが、太平洋戦争時連合軍の標的にあって破壊されました。
- 戦後、三等大型レンズになりました。
- 窓の中にはフレネルレンズが装備されていて、中心に置かれた点光源を平行光にして遠い海の先に投げかけています。
- フレネルレンズ灯体は、20秒で一回転しています。
- レンズが両面にあるので、10秒周期で海上に光を水平にスキャンしています。
- 2006.02.14に見たこの灯台の光は白い光でした。キセノンランプかHMI ランプと思われます。
- この灯台の高さは22.5m、光軸は海抜約54mにあります。
- 灯台の光度は、56.0万カンデラ。到達距離は、19.5海里(約36km)。
- 木下恵介監督映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台となった有名な灯台です。
- 上に述べた大規模な灯台のフレネルレンズとまでは行かなくても、投光を目的としたフレネルレンズは自動車のヘッドランプ、テールランプなど身近に見ることができます。これらのランプも点光源を効率よく前照させるためにレンズ前面にいろいろなカッティングが施されています。これらのレンズはモールドによる大量生産でできています。
- 光学ガラスは、一般に均一の屈折率を持っていますが、このレンズは光の進行方向の断面に対して屈折率が徐々に変化するレンズです。光ファイバーのコア部のガラス組成がこの原理でできています。グリンレンズは、一般的に、φ1.0〜φ2.0mmx2〜5mm程度の円柱状のガラス(BSG=ドープされた硼珪酸ガラス)でできていて、ガラス内部の屈折率が中心から周辺部に行くに従って放物線的に変化しているものです。円柱状のガラスレンズは、両端が光学研磨されています。両端が平面であってもガラス内部の屈折率の変化により集光作用があります。グリンレンズでは、平行な光が一方から入ったときに反対側の端面で集光するようにできています。このレンズが端面で集光する働きをもつことから、レンズの性能を表す数値の一つとして波長のピッチで表し、0.25Pと呼んでいます。0.25Pというのは1/4波長を意味していて、レンズの端面に光が収束することを意味しています。無限遠の光の焦点が射出側の端面より外にでるレンズを0.23Pのレンズと言っています。グリンレンズには焦点距離という考え方はありません。平行光がどの位置で集光するかが問題になるレンズです。グリンレンズは、ファイバーのカプリングを目的として使われます。
- 光の回折作用を使ったレンズです。通常の可視光域でのレンズとしてよりも、単色光、それも波長の短いX線領域で使われます。可視光領域ではピンホールレンズの派生としての位置づけが強いレンズで、ピンホールよりは明るいけども通常のレンズに比べて暗くて収差が出やすくソフトフォーカスの画像になります。単波長で使うのであればそこそこおもしろい使い方があるのではないかと思います。
- 分光分析に使われる回折格子は細かな直線上のケガキ線が普通ですが、ゾーンプレートはきめの細かい同心円状のケガキ円です。中心部から周辺に行くほどパターンの間隔が短くなり、その間隔は使用する波長とパターンの数の積の平方根に比例して決められます。
- X線で使われるゾーンプレートのきめの細かさ(ピッチの間隔)は、ルーリングエンジンを使った機械製作レベルを越えたもので半導体製造技術(フォトリソグラフィー)を用いたナノレベルのオーダーでできています。X線用のゾーンプレートの働きは、ちょうどナノレベルでのフレネルレンズと言えましょう。これは、X線のような非常に直線性が強い光、言ってみれば通常の光学レンズでは収束できない光を集光させたい目的に利用され、X線光源の集光や拡散目的に使われます。この素子は、製造上の問題からあまり大きなものができず、φ1mmからφ5mm程度の大きさに限られるため、この大きさでのX線ビームの取扱となります。 シリコン基板の上にタンタルの金属膜を2.5umの厚さにして、これを同心円のパターン形状として作られます。パターンの巾によって回折限界が求まるので、細かい線ほど波長分解能が良くなります。X線のような波長の短い光は、数十nmレベルのパターンを形成したゾーンプレートでX線光源のレンズが作られています。
- ▲ 回折光学素子(DOE = Diffractive Optical Element)
- 2000年9月、キヤノンが写真レンズ用に積層型回折光学素子を用いた望遠レンズ(EF400mmF4DO IS USM。EFはEOSカメラ用AutoFocus、DOはDiffractive Optics、ISはImage Stabilizer、USMはUltraSonic Motorの略、価格77万円)の発表を行いました。回折光学素子は、ここで述べているゾーンプレートと構造が極めて似ていて、レンズ面に同心円上の微細なケガキ線を入れることで積極的に回折を生じさせ、これを2枚向き合わせることにより(積層構造)、不要な回折を抑制し効率よく光を伝達できるというものです。回折光学素子(DOE)は、波長による色収差が屈折型レンズと逆になるという特性があり、積層型回折光学素子と従来の屈折型レンズを組み合わせると、極めて良好な色収差補正が可能となります。その補正の性能は、現在主流になっている低分散の蛍石以上の効果が得られると言われていて、尚かつ、回折ピッチ(間隔)を変えることで非球面レンズと同様の収差補正ができると言われています。こうした特徴から、望遠レンズに積層型回折光学素子を組み込むことにより、従来のレンズよりも格段にコンパクトで高性能なレンズが可能になりました。キヤノンは、回折光学素子を写真レンズに応用しようというプロジェクトを1995年に立ち上げ、2000年に試作品を完成させました。5年の歳月を要したのは、基本設計もさることながらミクロン単位でのグレーティング加工が必要な金型設計や、レンズ成形加工の難しさがあったに違いありません。キヤノンが開発した回折光学素子は、直径が100mmの大きさを持ち、中心部は7-8mmの同心円上のピッチ、10ミクロン程度の高さを持ったケガキ線が刻まれ、周辺部に行くに従いピッチが細かくなり100ミクロン程度になっています。
- それにしても、回折現象を写真レンズの要素に組み込んだというのはすごい着想だと思います。
- DOEは、今後、望遠レンズの他に眼鏡ディスプレー(HMD = Head Mounted Display)、液晶プロジェクタレンズ、小型カメラ用レンズなどに応用が期待されています。
レンズ前面部:フィルタを取り付けるネジが切ってある。 | カメラに取り付けるレンズマウント。産業界では、ニコンのFマウントとCマウントが一般的。 | ||||||||||||||
フォーカスリング部: 鏡筒を回してピント調整を行う。撮影距離を示す数値が左に、絞りによるピントの合う範囲が右に示される。撮影距離の数値は、メートル表示とフィート表示の2系列で示されている。 | 絞りリング部: 鏡筒を回してレンズの絞りを調節する。絞りの値は、開放値から√2の倍数(1.4、2、2、2.8、4、5.6、8・・・)で数字が刻まれている。 | ||||||||||||||
レンズの内部は、上の図のようになっている。レンズは焦点距離Fを持っているが、焦点距離は前方の焦点距離(F)と後方焦点距離(F')の2つある。焦点距離は、レンズの主点からの位置で求められ、前方と方向の焦点距離のため主点はHとH'の2つある。主点は、レンズによって変わり、この位置はレンズメーカーに問い合わせなければ正確な位置はわからない。 | |||||||||||||||
- ▲ 焦点距離(Focal Length)
- レンズのもっとも基本的な性能の一つです。レンズは、当然の事ながらレンズの前と後ろに焦点位置を持っています。前方の焦点距離を(F)で表し、後方焦点距離を(F')で表します。焦点距離が長いと屈折力が弱く焦点距離が短いと屈折力が強くなります。拡大撮影や広い範囲を撮影するには焦点距離の短いレンズを使い、遠い所のものを引きつけて撮影するには焦点距離の長いレンズを使います。 人間の標準的な視角(50°)を画角に持ったレンズを標準レンズと言い、それよりも広い画角をカバーするレンズを広角レンズ、狭い画角をもつものを望遠レンズと言っています。(「焦点距離と画角」参照)
- ▲ レンズの主点
- カメラ用レンズは、収差を抑えるために複数のレンズを組み合わせてレンズを作っています。レンズの焦点距離を決める際に、レンズの光学的中心が問題となります。このレンズの中心位置が主点と呼ばれるもので、Hで示されます。通常レンズには二つの主点(HとH')がありこの主点の距離を主点間距離と言います。通常薄いレンズや曲率の対称な球面レンズではレンズの主点(H、H')はレンズの中心にあり、両者は同一です。しかし複数のレンズエレメントで構成されるレンズでは主点が異なるのが普通で、厳密な光学式を定義するときに 主点間距離(HH')を考慮します。主点間距離を考慮した光学式は以下の式で表されます。
- D = f(2 + M + 1/M )+ HH' ・・・(Lens - 24)
- D: 撮影距離 = 被写体から撮像面までの距離
- f: レンズ焦点距離
- M: 撮影倍率。
- M=b/a bとaは(Lens - 1)で定義。
- HH': 主点間距離
- a = f(1 + 1 /M ) ・・・(Lens - 25)
- b = f(1 + M) ・・・(Lens - 26)
- M: 撮影倍率
- a: 物体点の位置からレンズ主点Hまでの距離
- b: レンズ主点H'から結像点までの距離
- (2009.07.02 Len-24の記述に誤りがありました。
- 2009.06.27 S氏よりご指摘があり訂正しました。Sさんどうもありがとうございました。)
- 上の式は、主点間距離(HH')を考慮に入れた撮影距離(D)とレンズ焦点距離(f)、撮影倍率(M)を表したものです。この式は、拡大撮影を行うときの撮影距離を求める場合に有効です。また、主点(H、H')をもとに被写体までの距離(a)と結像位置までの距離(b)を上の式で簡単に求めることができます。撮影倍率が小さい時(M<<1/100)、bすなわち結像位置は限りなく焦点距離fに近づき、aの物体までの距離は、焦点距離fに撮影倍率の逆数(1/M)を掛けた値になります。また、拡大撮影などのようにMの値が1よりも大きくなると、物体の位置aは限りなく焦点距離fに近づき、結像位置は倍率Mに比例して焦点距離fの倍数で遠くなります。M=1で、a=b=2f、つまり使用するレンズの焦点距離の2倍の位置に物体も像も位置することになります。
- ▲ 口径比と絞り(Aperture Ratio, Diaphragm)
- レンズをよく見るとf50mmF2.0というような標記に出会います。アルファベットの「F」が二つも出てきます。レンズに詳しい方なら、この標記の最初がレンズの焦点距離を表し、次の標記がレンズの明るさを表すものであることを知っています。焦点距離を表すf50mmという標記は、焦点距離(focal length)が50mmであるという意味であり、これはよく理解できます。しかし絞りの意味のFというのはどういう意味を持つのでしょうか。英語では、絞りはDiaphragmという言葉があるのに、あえてF.stopとかF number という言葉を当てています。 この言葉が何から由来しているかは、「F値の由来」のところで述べました。F値は、レンズ焦点距離fに対するレンズ口径の比で示される値です。
- ▲ レンズマウント
- レンズマウントは、カメラに取り付けるための口金で、とても重要な意味を持っています。有名なレンズマウントとしては、産業用CCDカメラ(CMOSカメラ)に使われているCマウントであり、35mm一眼レフカメラに使われているニコンFマウント、放送局のENGカメラに使われているソニーENGマウントなどがあります。レンズマウントの歴史的な意味については、「レンズのいろいろ」で述べました。
- ▲ レンズ設計
- レンズ設計は、我々ユーザが直接に関わることはありません。我々は、出来合いのレンズを使えば良いのでレンズ設計など考えなくてもよいのです。しかし、レンズを使うユーザであっても、どのようにレンズが設計されるのかという概要を知っておくことは、レンズと関わっていく上で決して無意味なことではないと思います。レンズは芸術の塊であるとされています。たしかにきれいに磨かれたレンズは美しく機能的です。その美しく機能的なレンズも、その設計に際しては設計上の制約があまりにも多く、収差と格闘しながら最適なレンズ設計がなされています。レンズ設計では設計者のひらめきと地道な光線追跡計算が必要不可欠でした。コンピュータのなかった頃、光線追跡計算に費やされた時間は途方もないものであったと言われています。以下に、本格的な写真レンズの開発経緯と写真レンズの設計について紹介します。
- 【ペッツバール(Petzval)と写真レンズ】
- 写真レンズ設計の基本は、現在になっても19世紀のペッツバール(Jozeph Miksa Petzval : 1807.01.06 - 1891.09.17、スロバキア人)の時代から変わっておらず、光線追跡(ray tracking)という計算手法が使われています。光線追跡は、ドイツ人のフラウンホーファー(Joseph von Fraunhofer : 1787-1826)が考案したものと言われています。
- 写真レンズの詳しい話は、項目を改めて述べるとして、ここでは、本格的な写真レンズの黎明としてのペッツバールの果たした役割と、ペッツバール以後の写真レンズの足跡を述べます。そして、なによりも写真レンズを作る設計が極めて忍耐のいる作業であることを紹介したいと思います。
- ペッツバールはハンガリー生まれの数学者で、オーストリアのウィーン大学で数学教授の職を得てラプラスの数式処理(ラプラス変換)を研究していました。
- ■ ペッツバールの新しい写真レンズ
- レンズ設計手法は、彼の研究の主流ではなかったようですが、ひょうんなことでレンズ設計に関わることになります。1839年の夏のことです。フランスのパリ科学アカデミー研究所のアラゴがダゲールの写真術を発表してから、性能の良い写真レンズが必要になりました。アラゴと交流のあったウィーン大学教授のエッティングスハウゼン(Anrease von Ettingshausen) は、写真術の発表を聞いて写真レンズの必要性を痛感し、帰国後、同じ大学の数学者であるペッツバールに設計を依頼しました。彼は、依頼を受けて1840年に設計に着手し、レンズ収差を考慮した光線追跡法を考えだして、ポートレート用色消しレンズを製造しました。1840年は、ガウスの近軸光線の理論が発表された年でしたが、レンズ設計の包括的な収差を総括できるザイデルの収差論(1856年)が出る16年も前の事でした。レンズに対する数学的理論の裏付けはまだ十分ではなかった時代です。ペッツバールは、自らの数学的能力で一気に高性能レンズを作り上げてしまったことになります。
- このレンズは、当時使われていたメニスカスレンズと比べ、口径比がF3.4と16倍も明るく、描写力も格段に優れたレンズだったと言われています。メニスカスレンズとは、メガネレンズのような両面が同じ方向の曲面できたもので、両凸ではなく一方が凸でもう一方が凹面構成となり全体として凸の性能を持つレンズです。ペッツバールレンズは、4枚のレンズで構成され、焦点距離f=149mmで、口径比F/3.4、φ90mmのイメージサークルを持っていました。35mm一眼レフカメラのイメージサークルよりも4倍、2/3インチCCDカメラの撮像エリアより8倍も大きなレンズです。このレンズ設計にあたっては、当時計算能力が秀でていたオーストリアの砲兵隊一個小隊がかり出され、光線計算に協力したという話が残っています。このレンズによって、従来、30分以上も露光にかかっていた撮影が1分半に短縮できるようになりました。この成功を経て、ペッツバールのレンズはオーストリアの光学会社(Peter Friedrich Voigktl穫der氏によるフォクトレンダー社)の手によって1841年に製品化され、そしてパリ万国博覧会に出展され銀メダルを獲得しています。この写真レンズの登場は、ダゲール(L.J.M. Daguerre、1787-1851)が銀塩感光材料を発明し写真の基礎ができた2年後のことです。フォクトレンダー社のカメラレンズは、ツァイスやライツのカメラレンズができるまでの間、優秀なレンズとして君臨しました。
- ■ ペッツバール以前の写真レンズ
- 写真が発明された当時、つまり、ペッツバールが明るい切れの良いレンズを作る前まではたいした写真レンズなどなく、画像がなんとか得られる程度のものだったことが伺えます。ダゲールが用いたレンズは、風景画家や肖像画家が使っていたカメラオブスキュラ用のもので、このレンズは当時、英国の物理学者ウォラストン(William Hyde Wollaston:1766-1828)が作ったものです。写真が作られる前までのカメラオブスキュラは、目で見る人物や風景の転写が主であったので画角が40-50度のレンズが求められていました。このような目的から広角用単レンズであるメニスカスレンズが登場したのです。ウォラストンは、当時メガネレンズの収差を研究していて、視線を動かしても(眼球が回転しても)良質な像が得られるレンズ、すなわち、非点収差を重点的に除去して広角をカバーするメニスカスレンズの研究を行っていました。このメニスカスレンズは、カメラレンズとしても良質なものでした。そこで、彼は遠視用メニスカスレンズを裏返しに使う方式を1812年に考え出し、画角60°の単玉写真レンズを作りました。このレンズは眼鏡用のもので、それを逆さに使っているために、レンズの絞りは目の瞳と同じ位置と大きさにセットされていました。カメラオブスキュラで風景を写し取り、エンピツでなぞるにはこのレンズで特に大きな問題ではありませんでした。しかし、写真感光材ができて、写真撮影用に使うレンズとしては周辺部の収差が大きいので、ダゲレオは焦点距離f=340mmで口径φ81mm、レンズ前面に絞りを入れた口径比F14のシュバリエレンズ(Chevaliers' lens)を新たにあつらえました。シュバリエ(Chevalier)はフランスの光学技術者です。このレンズは、フリントガラスとクラウンガラスを貼り合わせて色消しを図ったメニスカスレンズでした。シュバリエの作ったレンズでも暗かったので、ペッツバールが登場したというわけです。ペッツバールのレンズも、しかし、画面中央部でこそ球面収差、コマ収差、色収差が十分にとれて開放時良好な画像が得られはしたものの、周辺部は像面湾曲が甚だしく画角20°程度しか使用に耐えませんでした。このために、彼の発明したレンズは画角の狭い撮影用に使われ、人物撮影用のポートレートレンズとして有名になっていきました。
- ■ 写真レンズの位置づけ
- 望遠鏡や顕微鏡は1600年頃に発明されていますから、写真レンズは、240年を経て写真感光材料ができた後にそれに追従してできてきた格好です。望遠鏡や顕微鏡の分野では色消しの技術も進み性能のよいレンズができていました。それでもドイツのフラウンホーファーが完成度の高いガラスレンズを作り出した1810年頃に至っても、明るいレンズはできなかったようです。品質のよい光学ガラスができるようになったのは、ペッツバールがレンズを作った30年ほど後のことです。より高度な品質の安定した光学ガラスが作られるようになったのは、ドイツのアッベとショットの時代になってからで、1889年のことです。この年、ショット社によってバリウムクラウンガラスが開発されて、像面湾曲と非点収差が除去できるアナスチグマートレンズが作られるようになりました。1900年を越え、第一次世界大戦を通じてレンズ光学、写真工学は急速に進展していきました。第二次大戦中、米国のKodak社は希土類ガラスを開発し、これが戦後の大口径レンズを生む原動力になっていきました。
- 写真の発明と発展とそれをサポートする明るくて切れの良いペッツバールレンズは、世界的に有名になりましたが彼自身はこの恩恵にあずからず、一財産を築いたのは製造会社のVoigktl穫der社(フォクトレンダー)だったと言います。この会社は、ドイツのツァイス、ライツ社などが優秀なカメラレンズを開発するまで優秀なカメラとレンズを生産していました。ペッツバールの最後は貧しかったと言います。彼は、このほかに望遠鏡やオペラグラスの設計・製造にも携わりました。 ペッツバールの門下生に、物理学で有名なボルツマン(Ludwig Boltzmann)がいます。
- 【光線追跡】
- 光線追跡は、被写体の任意のポイントを数個選び、そのポイントから数十本の光線を引き出してレンズに入射させます。レンズ面に入射した光線をスネルの法則を適用させ、進行していく光線経路を逐次追いかけて、最後のレンズ面から出た光線が撮像面のどの位置に落ち着くかを丹念に計算していきます。最後の計算結果は、像面を貫く座標の差から横収差(Δy、Δz)が求められ、光軸や主光線と交わる位置から縦収差(Δχ)が求められます。この光線追跡は、スネルの法則を基本としていますから、三角関数計算が主計算となり計算精度は7桁が必要となります。7桁の計算はコンピュータで行うと24ビット数値になります。8ビット処理のパソコンでは3回に分ける必要があるので、ストレスなく計算を行うには32ビットCPUがほしい所です。32ビットCPUは、パソコンでは1990年代で実現された性能でPentium4も32ビットCPUです。1960年頃までは、コンピュータが普及しておらず、当時の技術者達は算盤と7桁の対数表(対数表はかけ算と割り算をそれぞれ足し算と引き算に変換処理できるので計算時間が早く間違いが少なかった)を用いて、二人一組で1面毎に計算結果を照合し、誤算を防止しながら光線追跡を行っていました。
- 通常、レンズは4枚から6枚程度あり、レンズ1個に対しては両面(2面)あるので、合計8面から12面の計算が必要になります。この光線追跡に費やされる計算は、熟練した人で1面当たり5分から10分かかり、12面あるレンズでは1本を追跡するのに2時間程度かかることになります。光線追跡は、1本ではなんの情報も得られず、被写体から50本程度の光線を出させて追跡させるため、50本の光線追跡で収差の状況を把握するには100時間の計算が必要になります。1日8時間の労働として12.5日、約2週間の労働を必要としました。計算は、これで終わったわけではありません。2週間の計算によって、レンズの収差のおおよその傾向が把握できたに過ぎません。この計算結果を基に、レンズの曲率半径を変えたり、レンズエレメントの間隔を少しずつ変えたりして収差の改善の傾向を読み取りながら、最適な収束条件を求める計算を何十回、何百回となく繰り返します。レンズの最適条件を求めるため、100回の計算を行ったとして200週間、4年近くの歳月がかかることになります。普通は、計算するグループをいくつかに手分けして作業を進めるために、4年はかからないにしても1年程度の設計期間は当たり前であったことがうかがえます。コンピュータが嘱望されていた設計分野の一つがレンズ設計であったことがこのことから十分に理解できると思います。
- 【コンピュータによる光線追跡】
- 世界で最初にコンピュータが開発されたのは米国で、ミサイルの弾道計算に使われました。日本でコンピュータが国産化された動機は、光学設計にありました。1956年3月、富士写真フィルムの岡崎文次氏 (1914-1998)の手により 1700本の真空管を用いた「FUJIC」というコンピュータが開発され、レンズ設計に使われました。それだけコンピュータの導入が望まれていた何よりの証拠だと言えます。
- 岡崎氏は、1939年に東京帝国大学を卒業後、富士写真フィルムに入社しレンズ設計を担当する中で、10年後の1949年にコンピュータによるレンズ計算手法の開発に着手し、20万円の予算を元に7年後の1956年3月に完成を見たそうです。これが日本の国産化による初のコンピュータでした。このコンピュータは、クロック周波数30KHz、2進法3アドレス(3ビット)、255WORDメモリ(4080ビット)の超音波水銀遅延線による記憶装置を持ったものだったそうで、加減演算を 0.1ms = 1/10,000秒、乗除演算を1.6ms =1/625秒 で行いました。この性能は、人による計算の2,000倍の性能だったそうです。つまり、設計時間が1/2,000に短縮された計算になり、1年の計算が半日以内に短縮されたことになります。このコンピュータは、開発されてから2年半の間に富士写真フィルムの小田原工場で社内、社外のレンズ設計に活躍したそうです。
- 現在のレンズ設計用のコンピュータは、1秒間に800面もの計算をするほどに性能が上がっているそうです。人手に寄っていた時代の実に250,000倍の高速演算になります。コンピュータのおかげでレンズ設計はより速く最適化レンズ構成が決められるようになりました。レンズエレメントの多いズームレンズの発展も、プラスチックレンズによる非球面レンズの設計もコンピュータ支援なくしてあり得なかったことでしょう。
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■ 球面収差 - 軸上での焦点が合わない。
■ 非点収差 - 光軸外での焦点が合わない。 ■ コマ収差 - 光軸外で彗星のような尾を引く。 ■ 歪曲収差 - 像の歪み。 ■ 像面湾曲 - 結像面上に像が集まらない。 |
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● 単色での収差
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収差
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■ 軸上収差 - 波長による屈折率の違いで光軸での焦点が合わない。
■ 倍率色収差 - 色によって像の倍率が異なる。 |
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● 多色の収差(色収差)
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- ・ 凸レンズ:屈折率が高くて分散が低いガラス(バリウムクラウンガラス)
- ・ 凹レンズ:屈折率が低くて分散が高いガラス(フリントガラス)
- 【ザイデル (Philipp Ludwig von Seidel:1821-1896)】
- 1821年ドイツに生まれる。日本の年代でいくと江戸時代後期にあたる。彼の幼少期は、郵便局に勤める父親の仕事の都合で学校を転々とした。18才で学校を卒業した後、すぐに大学に入らずに数学の家庭教師を雇い数学の勉強を始める。このときの家庭教師が、ガウスの元で数学を勉強していた優秀なギムナジウム(大学進学コースの高等学校)の教師であったため、彼の数学素養をいっそう開花させることになった。1840年、19才の時にベルリン大学に入学。当時の慣習として大学在学中に他の大学への留学が認められていたので彼もその例にならってケーニヒスベルグ大学に学び、当代の最高数学者、ヤコブ(Carl Gustab Jacob Jacobi)、ベッセル(Friedrich Wilhelm Bessel)、フランツ・ノイマン(Franz Ernst Neumann)らの手ほどきを受けた。この後、ミュンヘン大学へ移り博士号を取得した。博士号は、天体望望遠鏡に使われるミラーの数学的考察についてであり、6ヶ月後には、光学とは関係のない連鎖分数の収束と発散に関する数学論文を書き上げてミュンヘン大学の講師の職を得た。以後、ミュンヘン大学にて天文学と数学に功績を残した。
- ザイデルの功績は、光学、特にレンズの収差論において傑出した足跡を残したことである。彼の収差論は、数学を巧みに応用して単色光で現れる5つの収差を一つの式で書き表し、収差を除去するレンズ設計の際の一つの指標を作り上げたことである。レンズの設計、およびその考察には、オランダのスネル(もしくはフランスのデカルト)が発見した屈折の法則によって三角関数が多用される。複数のレンズを組み合わせた光学設計では、sinθ = θと近似した近軸領域(ガウス領域)が主流であった。計算が楽だからである。しかし、この領域での考察は像のできる位置は特定できるものの、像の質を論議するには何のヒントも得ることがなく誤差が大きすぎた。ザイデルは、入射/射出光線を sinθ = θ + θ3/6 まで展開して光線の式を構築した。3次の項によって数式化された光学式は、球面から成るレンズの収差が数学的にきれいに整理され、5つの係数となって数式化された。5つの係数は、とりもなおさず上で述べている5つの収差である。
- ザイデルは、レンズの性質を3次項まで取り上げた数式でまとめ上げたが、この数式を解いて5つの収差が取り除かれるレンズデータが即座に得られるかというとそういうものではない。あくまでもレンズの性質を1つの式で書き表せるというものであって、レンズの性質を理解して補正への手引きをしてくれる有用なツールとして位置づけられるだけのものである。
- ザイデルの式では、3次項までしか考慮していないので、写真レンズのように広角で明るいレンズ(焦点距離が短く口径の大きなレンズ)では誤差がなお無視できなくなる。精密な光学設計では光線追跡法にかなうものはない。ザイデルは、自分の学問の成果を同じ大学の天文学者で光学器械製造会社を持っているシュタインハイル(Karl August von Steinheil: 1801-1870、息子はAdolph:1832-1893)に提供し、アプラナート(Aplanat)という対称型広角レンズを1866年に作った。このレンズは、非常に性能がよく、以後、このレンズから様々な発展型レンズが生まれた。このレンズは、1840年にペッツバールの設計したポートレートレンズと双璧をなす初期の写真レンズの傑作であった。
- 彼の晩年は決して幸福とは言えなかった。失明が原因で大学教授とアカデミーの要職を早期に辞し、全く見えなくなった彼の看護は、彼が生涯独身で通し家族がいなかったために同じ独身を通した姉が彼の面倒を1889年まで見た。彼の亡くなる最後の7年間は教会の聖職者の未亡人の看護にたよったと言われている。
- また、学術的に功績の多かったザイデルであったが、同国で同年代の数学者リーマン(Georg Friedrich Bernhard Riemann:1826-1866)の編み出した幾何学を邪道なものとして生涯を通して認めなかった。
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- 【ツァイスとアッベとショット】
- 現代光学機器の原点ともなったツァイスとアッベとショットは、どのような関係であったのでしょう。3者のどの人を欠いても現代の光学の発展は遅れていたに違いありません。以下に、3人の人となり、相互の関係を述べることにします。
- ■カール・ツァイス(Carl Friedrich Zeiss:1816-1888)
- カール・ツァイスは、ドイツワイマールに生まれた。父親は玩具職人であったという。グラマースクールを卒業後、光学機器を製造するお店(師匠はフリードリッヒ・ケルナー)に奉公人として働き、イエナ大学(The University of Jena)で光学、物理学の講義を受けた。1846年、彼が30才の時に独立して、小さな光学機器を作る店をイエナに開業し、簡単な顕微鏡や光学機器などの製造販売を細々と始めた。イエナ大学も当然大切なお客様であった。顕微鏡製作を始めたのは、植物学の教授であるシュライデンからの勧めがあったからと言われている。当時の彼の会社はまったく無名で、ツァイスの名前が少しは知られるようになったのは、1847年、彼が31才の時あたりからであり、奉公人を一人雇った時からであった。この年には顕微鏡を専門に製造する店となって、解剖学用の単玉の顕微鏡製造を始めた。この顕微鏡は、その年23セット売れたという。彼は次に複合レンズを使った顕微鏡製造に乗り出して、これが評判となった。出来が良かったのである。1861年、彼が45才の時にはドイツで最高の栄誉とされる科学器機のゴールドメダルを受賞した。この頃には彼の工房には20名の従業員をまかなうまでに大きくなっていた。1866年までに、彼は1000台の顕微鏡を製造し販売した。彼は正規の大学教育を受けていなかったので、顕微鏡製造で性能を向上させていくのはトライアンドエラー(試行錯誤)しか方法がなく、現状に甘んじることなく絶えなる光学の問題点を解決していくためには、光学の理論的な裏付けのできる技術指導者が必要なことを痛感していた。
- そうした折り、彼はイエナ大学で数学と物理学で教職をとっている26才若い有能な学者、エルンスト・アッベと知り合うことになる。当時のアッベは駆け出しの無給の大学講師であった。田舎大学のイエナ大学には潤沢な物理実験器具が無く、アッベは満足に動きそうもない実験器具に手を加えながら、学生に物理実験を教えていたという。実験器具を手直しをする時に、自分の手ではどうしてもできない所は外に頼むしかなく、イエナの町では腕の良い精密機械業者がカール・ツァイス社であったので、それがもとで二人は交流を深めることになる。当のカールの会社でも、先に述べたような顕微鏡作りに性能の良いものができずに悩んでいた矢先でもあったので、双方は良き理解者と協力者になっていった。カールは、アッベと共同で1869年に顕微鏡の光源装置を開発する。
- 1872年、カールは、エルンスト・アッベを彼の会社に招き入れて、共同で光学機器の性能向上を目指して技術開発を行っていった。アッベは、光学に関して明晰な判断と数学の理論を持っていて、彼の発見した球面収差を補正する正弦条件(sine condition)を用いて理想のレンズ作りがツァイス社で始まった。
- 1884年頃からは、オットー・ショットがガラス光学技術を提供することとなり、ショットの良質ガラスをレンズ材料とすることによって世界最高水準の光学機器を提供できるようになり、ツァイスの名前をさらに有名にしていった。
- カール・ツァイス自身は、ツァイス財団を築きあげず72才で天寿を全うした。
- 彼の意志を受け継いで、ツァイスを財団に仕立て上げ労働条件を改善した会社運営の舵を切ったのは、彼よりも24才若く、彼の死後17年長く生きたアッベ博士であった。
- 20世紀に入って第二次世界大戦が終わる1945年までの半世紀は、カール・ツァイス社は世界の最先端を行く光学機器会社であった。しかし、第二次世界大戦におけるドイツ敗戦によって、ロシアに占拠されたイエナの地はカール・ツァイス社が分断されるという事態に見舞われた。第二次世界大戦後、ドイツの東西分断によって、ドイツ東部にあったイエナはソ連占領統治下に置かれることになる。しかし、連合軍は、世界最高技術を持つカール・ツァイスの光学技術がソ連にわたることを恐れ、ソ連軍に先んじてイエナに入り、技術者の多くを半ば強制的にシュトゥットガルトに移動させ、もう一つのカール・ツァイス社として光学機器の生産を引き継がせた。一方、ソ連軍はイエナにあった工場群を接収、残った技術者もソ連に送った。これによってカール・ツァイスは東西に分裂し、西側はシュトゥットガルト近郊のオーバーコッヘンに新会社が設立され、東側はイエナに半官半民の「人民公社カール・ツァイス・イエナ」を置くことになった。カール・ツァイスは、東西ドイツ双方で生きることになったのである。東西両国に分かれたカール・ツァイス社は、どちらがツァイスの名やコンタックス等商標の権利を持つかで法廷闘争に及ぶ長年にわたる争議が続けられた。
- 1989年、ドイツ統合後には、再び一つになった。財団傘下の企業として、カール・ツァイス社やツァイス・イコン社(Zeiss-Ikon)、ショット・グラス社 (Schott Glas)などがある。
- ■エルンスト・アッベ(Ernst Abbe:1840-1905)
- アッベは、紡績工を父に持つ貧しい家庭に生まれ、奨学金によってイエナ大学で物理学と数学を学び、その後ゲッチンゲン大学で熱力学によって学位論文を取得した。1863年、23才の年にイエナ大学に講師の職を得て物理学と数学の研究に入る。1870年にはイエナ大学の物理学と数学の教授(ただし員外教授)になり、1878年、38才の時にはイエナ天文台と気象台の台長に任命されている。天文台とはいえ、田舎町イエナの天文台は質素なもので、家族の住む小さな家が天文台についていたのでそこで生活をしていた程度であった。天文の施設はお粗末なものであったという。その間、1866年にはツァイス社から技術所長の招聘を受け、光学の研究に没頭していくようになる。ツァイス社の技術所長と言っても従業員5名の小さな会社のことである。光学顕微鏡の理論的解明協力を依頼された当時のアッベは、26才の無給の大学講師であった。暮らし向きは貧しかった。しかし、当然、彼には光学によって財をなしたいとか、学問の世界で有名になって学府の長に立ちたいという野望は希薄であった。その証拠に、彼の学問が世間に認められるようになった1878年、ベルリンの有名な物理学者ヘルムホルツが彼の家を訪ね、学問の都であるドイツ帝国の首都ベルリンに出て、ベルリン大学の物理学教室の特別教授の職に就く申し出をした。彼は、しかし、その職を断りイエナでのカール・ツァイスとの顕微鏡の共同研究の道を選んだ。清貧の求道者のようであった。彼がイエナ大学であまり良い待遇を受けていなかったのは事実のようで、彼は生涯正教授になることはなかった。それは一つには彼の出自がよくなくプロレタリアート出身であった事が大いに影響していた。アッベは、イエナ大学の正教授であるカール・スネルに認められ、彼の娘を嫁にもらうという幸せをつかんでいたが、イエナ大学から認められるまでには至らなかった。また、彼の家族に不幸が襲う。1874年末から彼の家族のすべてがチフスにかかってしまった。家族を救うためには自分も健康になることはもちろん経済的な助けが必要であった。この状況の中で、アッベはツァイスに手紙を出している。ツァイスからの提案は、彼の会社の共同経営者となることであり、その見返りとして全売り上げの利益のうち1/3をアッベが受け取るというものであった。彼らは、1876年にその契約を交わした。
- 1868年、アッベは顕微鏡におけるアポクロマチックレンズを考案する。ただし、この顕微鏡もこれを作り上げる光学ガラスがなかったために、ショットが作ったイエナガラスができあがるまでの20年間、1886年まで待たねばならなかった。また、アッベは、1869年に顕微鏡に使う照明手法を考案し、その光源装置を製作する。1872年には、彼を有名にするレンズ収差に関する正弦条件(Sine Condition)や光学の倍率限界を解き明かす。数年のちには彼の理論に裏打ちされたツァイスの17種類の顕微鏡レンズが完成した。顕微鏡レンズの開発にあたって、彼が示した光学材料の性質を示すアッベ数(Abbe Value)は、光学設計の大切な設計数値となった。アッベ数とは、3成分の波長(C線、D線、F線)の屈折率を使った逆分散値で、この数値をきめ細かく決めた光学ガラスの製造と品質管理によって、光学機器は設計通りの性能が出るようになった。またアッベは、精密工学分野でも足跡を残し、測定物と基準物を同一の軸上に配置して機械的に生じる誤差をできるだけ小さくするアッベの原理を編み出し、これを応用した測長器を開発した。測長器は、ツァイス社で光学機器を製造する際に精度が良く歩留まりのよい製品を作るのに不可欠なものであった。アッベは生産技術でも多大な足跡を残したことになる。
- 1882年、イエナガラスも完成せず、アポクロマチックレンズもできていない時期、ドイツの医学学者コッホ(Heinrich Hermann Robert Koch:1843-1910)がツァイスの顕微鏡を使って結核菌を発見する。その当時のコッホは、ベルリンの帝国衛生院の所員であった。アッベは、コッホに油浸系顕微鏡を紹介し、明るさを大幅に向上させるための改良を施した照明装置付き顕微鏡の活用をアドバイスしたと言う。ツァイス社は、レンズのみならず装置そのものまで深い洞察力で装置を向上させていたことが伺えるエピソードである。ちなみに、細菌はフランスのパスツールが1862年に発見している。20年もの歳月をかけてようやく完成させた至宝のアポクロマート顕微鏡を、アッベは意図的に特許化しなかった。当時、ツァイスには、同国のライバルであるエルンスト・ライツ社(Ernst Leitz, Wetzlar:1850年設立)がいた。アポクロマート顕微鏡ができたとき、いよいよ自分たちの会社(ライツ)も終わりかと思ったと言う。しかしアッベがあえて特許を申請しなかったことにより、ヴェッツラーにあるエルンスト・ライツ社もアポクロマート顕微鏡製造ができるようになった。
- 1888年、アッベのよき理解者、カール・ツァイスが亡くなる。アッベが58才の時である。アッベはツァイスの亡くなった1年後、彼らの会社を私物化せず公のものにするためカール・ツァイス財団を作った。財団を作る際に、カールの息子ローデリッヒ・ツァイスがカールの財産を相続して発言権を持ち、アッベとは違う方向で会社を運営しようとしていたので、アッベは善意を尽くして財団設立に同意させたという。この財団のすごいところはアッベ自らの財産を提供したのみならず、ツァイス社が発明した多くの特許を無料で公開したことである。この財団は、現代の企業が取り入れている労働者の働きやすいいくつかのアイデアを盛り込んでいた。その代表的なものは、1日8時間労働であり、有給による休日休暇や、労働災害や病気による保険の適用などであった。アッベの父が、紡織工として一日16時間の労働で身を粉にしてアッベを育てた時代背景と、同時期の同じ地域の哲学者、経済学者、革命家であるカール・マルクス(Karl Heinrich Marx:1818-1883)が共産主義を唱えて闘争に立ち上がった社会背景を考えると、プロレタリアート出身のアッベが、当時の極悪なまでの社会労働環境をマルクスとは別の方向で改革し、先進的な会社経営を打ち立てたことは記憶にとどめておくべき事と思う。アッベの晩年は、光学技術の科学者と言うよりも会社を運営する経営者という色合いが濃い。経営者としても時代を先取りする優れた雇用システムを取り入れた希有な才能を発揮した。
- ■オットー・ショット(Friedrich Otto Schott: 1851-1935)
- ドイツウィッテン(Witten)で板ガラス製造を営む家に生まれた。父親がガラス工業組合の副会長を務めるほどであったから、彼は比較的裕福な家で育った。幼い頃よりガラスに馴染んで成長しガラスの製造、特性をそらんじるまでになった。光学ガラスの祖と言われる。アーヘン工科大学で化学工学を学んだ後、1875年、イエナ大学で窓ガラス製造時の欠陥に関する論文で博士号を取得した。1876年、彼が26才の年にスペインにヨウ素と硝石を精製する工場を立てる。アッベ博士とは、年が11才離れている。カール・ツァイスとは35才離れている。ショットがイエナ大学に入った当時、アッベ博士は同大学の員外教授の職にあり、カール・ツァイスの会社の技術顧問としても活躍していた。ショットは、アッベ教授の光学理論を理解し、精度の良い光学ガラスの必要性を十分に認識していたと思われる。ショットとアッベ教授とは光学ガラスに関する意見交換がずいぶんとあったようで、1877年から光学ガラスの基礎研究が両者の間で始められている。1879年、ショットは新しい光学ガラス特性の見解を聞くために、酸化リチウムを含んだ新しい光学ガラスをアッベ博士の元に送った。測定の結果、そのガラスはアッベが望んでいた性質を持つものではなかったがショットの仕事ぶりに大いに感銘を受けたという。以後、アッベとショットは光学ガラスに関して長い書見のやりとりを続けることになる。3年の技術書見交換を通じて新しい光学ガラスを作り出す段階にまでこぎつけ、1882年、ショットは研究する場所をイエナに移した。そしてさらなる新しい光学ガラスの試作実験が続けられた。この試作実験は、ショットとツァイス社による光学ガラス研究所の設立という形であらわれた。しかし、この研究には非常に多額の資金が必要であったため、ツァイスとアッベだけの力だけでは研究を継続することは不可能になった。そこで、彼らはプロイセンの助成金を申請し、その資金で新しい設備投資を行い研究所をスタートさせた。1884年には、マインツ(Mainz)に新しい光学ガラスを開発するためのSchott & Genossenガラス工業所を設立した。この会社はカール・ツァイス社との共同出資の工場であった。
- 1886年には、非分散光学ガラスを開発し、44種類のガラスをリストアップした製品目録を完成させた(■ 光学ガラスチャート 参照)。彼らの製品目録は、従来の体系とは大きく異なっていた。従来の光学ガラスが比重だけで区別されていたのに対し、彼らの製品リストには、屈折率や3本のスペクトル線の分散値、比例値まで記載されていた。この精密な光学特性を出せるショットの光学ガラスの完成によって、アッベが20年以上も構想してきたアポクロマートの顕微鏡が実現したのである。ショットはさらに、1887年から1893年にわたってホウ酸珪素による光学ガラスを開発し、イエナガラスの品質を不動のものとした。
- 1891年、彼が40才の年には、アッベ博士の趣旨に賛同して自分の持っていたショット企業に関する持ち株をすべてカール・ツァイス財団に移した。以後この財団は、ツァイスグループとショットグループの2本柱で運営されることになった。
- ガラスは固溶体である。
- 結晶質構造ではない。
- 熱を通しやすい。
- 電気を通しにくい。
- 応力が集中すると破談(亀裂破壊)しやすい。
- 金属とガラスは性質が大きく異なります。金属は、基本的に金属色をしていて、透明ではありません。透明な金属はありません。金属は電気を良く通しますが、ガラスは電気を通しません。金属は、結晶構造が複雑で部分部分で結晶構造を持つものの個々の結晶粒塊が集まってできたものがほとんどです。一部固溶体のものもあります。
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- 【ドイツ数学の巨匠 - ガウス(Johann Carl Friedrich Gauss:1777-1855】 (2005.07.27記)
- ドイツが生んだガウスは、天才の名をほしいままにした数学者としての位置づけが私の中にある。同時代にフランスのフレネル(Augustin Jean Fresnel、1788-1827)がいる。ガウスの小学校時代、1+2+3+・・・+98+99+100の合計和をいとも簡単な数式に置き換えたエピソードや、当時の教師が、もう彼に教えることは何一つ無いと言わしめたほどの早熟で早くから数学的才能が開花していた。多くの優秀な数学者がそうであるように、彼は天文学を専門とし、1807年、30才の年にゲッチンゲン天文台長となって後、40年間その職にとどまった。
- ガウスは数学者としての位置づけが強いが、数理をもとにした物理学への貢献も多大なものがあった。磁気の単位であるガウスや、複素平面の概念を取り入れたガウス平面、最小二乗法の発見、自然界に現れる誤差の分散(正規分布=ガウス分布)の定義など馴染深いものが多い。光学の分野でもガウスは足跡を残している。レンズの主点という考え方を最初に使ったのがガウスであり、主点を用いてレンズ公式(近軸光線)を導いた。レンズ公式とは、1/a + 1/b = 1/f という馴染みの深い簡単な公式である。この公式が成り立つ光学の領域を近軸光線、ガウス領域と言っている。レンズの主点の考えを著した彼の論文は、1840年の発表であるから、彼の晩年の研究ということになる。彼は数学と天文学が主な研究テーマであり、光学は天体望遠鏡の関係から考察の対象としたように見受けられる。レンズ設計も行っていて、後に写真レンズの標準となるガウスタイプのレンズはガウスの設計したレンズが発端となっている。しかし、現在のガウスタイプのレンズそのものをガウスが着想したかというとそうではなく、有名な学者の名前をニックネームのようにして使ったという感をぬぐいきれない。
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- 右に示すような一定間隔のストライブ(格子状)のチャートを使って、レンズを通して像を作ったとき、どのように像が結ばれるでしょうか。一般的に、解像力を評価する場合、強度レスポンスによる方法と、空間レスポンスによる二つの評価法があります。
- 強度レスポンス法は、チャート(縞 = ストライブ)の濃度を変化させて(濃い濃度から薄い濃度に変化させて)像がどのように追従するかを見る方法であり、空間レスポンス法は、ストライブの周波数を高くしていって(非常に細かな縞格子を使って)どこまで追従するかを見る方法です。
- 基本的に、強度が弱くなるに連れて(コントラストの弱い被写体になるにつれて)、像のレスポンスが悪くなります。また、周波数が高くなると像はそれに追従できずに強度レスポンスも悪くなって行きます。
- こうしたレスポンスを評価する際に使うチャートは、白と黒のコントラストが1:1000、もしくは1:30のもので、周波数は、格子間隔を√2、もしくは2^1/3、2^1/4の等比数列で刻んだものにしています。コントラストが1:1000というのは、白い部分の明るさと黒い部分の明るさの比がこれだけあるということです。つまり輝度比がこれだけあるということです。一般のCCDカメラは、8ビット濃度で画像を得ているので濃度範囲は1:256となります。この意味では1:1000のチャートは、10ビット(1,024諧調)の濃度諧調を持つことになります。こうしたチャートは印刷によって作られますが、印刷は一般のCCDカメラよりも深い階調が得られるのです。透過型のチャートでは、光学ガラスにアルミなどを蒸着することによってこうしたコントラストを持つものを製作しています。このチャートを使ってレンズで大きく拡大投影させ、レンズを通した拡大像を見てうまく像を結んでいるかどうかを調べます。像は、場合によっては顕微鏡を使って調べることもあります。
- レンズは、中心部と周辺部では当然解像力が異なるので、それを調べるためレンズチャートも中心部と周辺部に解像力チャートを配置します。一般に、レンズ中心部は解像力が高く、周辺部に行くほど解像力が落ちるため、中心部のチャートは細かく、周辺部のものは荒く設計するのが普通です。良質なレンズでは、レンズ中心部は100本/mm程度の解像力があり、周辺部で60本/mm程度あります。4x5インチフィルムを用いる大判カメラレンズでは、イメージサークルが大きいので大きな像面エリアすべてにわたって良好な解像力を求めるわけにはいきません。多くの場合、レンズの絞りを絞るというのは、中心解像力を落として周辺収差を改善させ全体的に解像力を平均化することをねらいとしています。こうすることにより、4インチx5インチ(101.6mmx127mm)の像面エリアを50本/mm程度の解像力でカバーすることができます。50本/mmは、撮像面上で10um単位の像を結像させる能力ですから、このレンズを使ってCCD固体撮像素子でしっかりととらえるには5um単位の画素を持つ必要があります。(「▼フィルムのレスポンス、固体撮像素子のレスポンス」参照。)5um単位の固体撮像素子は小さいサイズのものでしか供給されておらず、4x5インチサイズの写真乾板に替わる固体撮像素子は世の中にないので、レンズの性能は固体撮像素子に比べて十分あることがわかります。このレンズの性能を十分に引き出す固体撮像素子があるとすれば、その画素数は、20,000x25,400画素となります。ちなみに、35mmライカサイズ(24mmx36mm)フィルム用レンズの場合、平均解像力を70本/mmとすると、6,720 x 10,080画素相当になります。現在の高級デジタル一眼レフカメラの画素が、4,000x3,000画素になっているので、レンズの性能から見るとこの程度の画素が必要にしてかつ十分な性能であると言えるでしょう。それ以上の画素をカメラが持つとレンズの性能が劣るためにレンズ性能の良いものを使うか、画像処理を使って擬似的に画質をあげる必要が出てきます。
- レンズの解像力は、非点収差 の影響によって画像の任意の点で放射方向(ラジアル方向、サジタル方向)と円周方向(タンジェンシャル方向、メリディオナル方向)で解像力が変わってきます。従って、画像の任意の点で双方(サジタル方向とメリディオナル方向)の解像度を検査する必要があります。画像中心部では非点収差 の影響は皆無ですが、画像周辺部にいくほど顕著にこの影響が現れてきます。この理由から、レンズを評価する解像力チャートでは、下に示すように、放射状にテストチャートを配置し、サジタル方向とメリディオナル方向での解像力をチェックするようにしています。
- 上で述べたように、画像全般にわたって解像力をチェックするためにいろいろなテストチャートが開発されてきました。JIS規格でもレンズ性能を検査するチャートの規定があり、専用のチャートを製造販売しているメーカもあります。チャートは、基本的には先に述べた格子状のものとドット状(もしくはドーナッツ状)のもの、それに菊の花びら形状のものがよく知られています。こうしたチャートの大きさの異なったものを並べて、画像の部位によってどこまで再現できるかを検査します。検査する値は、多くは[lp/mm](ラインペア/ミリ、ミリ何本)という言い方で表現します。
JIS解像力チャート。解像力の細かさを若干ずらして直交配置したもの。数値は、格子巾ペアの間隔。3.5は、白黒一対が3.5mmの間隔を示す。 JIS規格の解像力チャート。2^1/3の等比級数で作られる。縦方向と横方向で組み合わせられている。 ドットチャート。歪曲の度合いをチェック。 濃度と色情報をチェックするカラーチャート 四半円形状のターゲットチャート。自動読み取りソフトで使うチャート。レンズの歪みを計測。 ジーメンススター(Siemens' Star)ターゲット。放射状に拡がる菊状のターゲット。焦点ポイントのチェックや非点収差のチェックに利用される。 - 上のチャートのうち、解像力をチェックするのは最上段左に示した短冊状の格子線を使います。格子線のピッチは、縦と横の何組かの構成でできあがっています。このチャートが白黒一対の巾が3.5mmだとして、これを撮影倍率1/50に縮小してカメラに撮影したとすると、この格子は撮像面で、
- 3.5/50 = 0.07mm(14.29本/mm)
- となります。
- ドット状のチャート(上右図)は、主に歪みのチェックに使われます。このチャートは、解像力というよりも像の歪みを主に調べるチャートです。ターゲット中心を画像解析ソフトウェアで自動的に特定する場合には、その下の図に示したような四半円形状のターゲットマークが使われます。
- 上図の中程左にあるチャートは、濃度や色を見るためのものです。このチャートではグレーが18段階(85%〜3.5%)に分かれ、カラーは、赤・緑・青・シアン・マゼンタ・イエローの三原色で構成されています。このチャートでは、レンズというよりもレンズを含めたカメラが正しく濃度や色情報を記録しているかのチェックを行います。
- 上図の下に示したものは、ジーメンススターと呼ばれるもので放射状の形状をしています。放射形状のチャートは非点収差 をチェックするのに都合が良く、どの方向にピントが出ていないかを知ることができます。
- 映像を結ばせるレンズは、アナログの情報伝達要素です。従って、アナログ要素であるレンズを評価するには、上で述べたようなチャートを目的に応じて使い分ける必要があります。映像を記録するCCD(CMOS)固体撮像素子は、映像を画素という1単位に分解する点でレンズとは異なりデジタル要素と言うことができます。固体撮像素子ができる以前の撮像管を使ったテレビカメラや銀塩フィルムは、画素という概念がないのでアナログ要素でした。アナログのレンズを使って、アナログの撮像管テレビやアナログの銀塩フィルム感光材に記録する組み合わせは、アナログ + アナログとなります。現在は、アナログのレンズとデジタルの撮像素子が組み合わさったアナログ + デジタルが主流となっています。アナログ+アナログの記録からアナログ+デジタルの記録に変わることにより、画像の性能をどのように評価したら良いのでしょうか。
- ■ デジタル
- デジタル信号評価にはアナログ信号の評価とは違った評価法が取られます。デジタルは、アナログと違って性能限界が明確です。つまりデジタル機器による情報伝達は、デジタルサンプリングされた性能以上には情報を伝達することはできないのです。CCDカメラの場合、カメラの画素以上の解像力は得られません。もう少し詳しく言うと、画素の半分しか解像力がありません。これは、米国の科学者シャノンとナイキストが明らかにしたことです。
- ただし、計測する画像があらかじめわかっているときは、画像の形状から類推してサブピクセルまでの処理をすることがあります。たとえば、円形形状があらかじめわかっているとき、その中心位置を円形形状から重心位置を計算してサブピクセルまで計算で求めることがあります。これは、画像の持っているデータの本質的なものではないので、この項での説明は省いています。
- ■ アナログ
- アナログの場合、デジタルと違って細かい情報を見切ることはしません。細かいところまでそれなりに情報を伝達します。画像や音声などの細かな部分は、人の五感でいうと余韻に相当します。細かいところまで余韻を残したアナログ記録が、銀塩フィルムでありオーディオのレコード盤であると言えます。オーディオのアンプでは、現在でも真空管を用いたものが作られています。東京八王子にあるオーディオ・テクネ社という小さな会社は、真空管を使ったオーディオアンプを作っている会社ですが、このアンプは高い評価を(特にイタリアで)得ています。真空管アンプは真っ正直な増幅が可能です。トランジスタは真空管の増幅機能を真似たものですが、NFB(Negative Feed Back = 負帰還)による増幅が基本となっているために全帯域に渡って素直な増幅ができません。トランジスタアンプでは、後処理によって高音部や低音部にイコライザを用いて補正を加えなければなりません。真空管はリニアリティが優れていて、微小な音から大きな音まで素直に増幅します。原音を忠実に再生するのに真空管アンプほど優れるものは他にないのです。こうした理由から一部のオーディオ愛好家や音楽ホールでは、現在でもなお真空管アンプによる音響装置が作られ、そして使われています。アナログを突き詰めた事例だと思います。もっとも、小さい部屋や車の中で聴く音楽であればiPodで十分でしょうし、駄菓子のように音楽を頬張るのであれば高価で運用に大変な真空管アンプを使う必要は全くないでしょう。
- 時計も、デジタル(水晶発振子によるカウント回路内蔵の時計)が主流である中、アナログ(テンプ=振り子とヒゲゼンマイを使った時計)もしっかりと根付いています。特にスイスの高級機には昔ながらのアナログ時計が高い人気を呼んでいます。30万円、50万円、100万円といったアナログ高級時計を宝物として購入するケースが、所得の低い若い世代にまで広がっているように見受けられます。1日に10秒も狂う高級時計と10日に1秒しか狂わない5,000円のデジタル時計(高級アナログ時計の100倍の精度)で、どうして精度の出ない高価な時計が売れるのでしょう。最近では、一生の間に1秒と狂わない電波時計も2万円くらいで購入できます。科学的に理解しがたい五感(人の心)の満足度がこうしたアナログ時計を希求する事例だと思います。日本の大手時計メーカは、1970年代後半に大々的にデジタル時計に切り替えてしまったのですが、未だ根強いアナログ時計の需要があることと、高級アナログ時計を作ることによってスイスに持って行かれてしまった高級ブランドイメージを呼び戻す目的から、再びそうした時計を作り始めました。計測の分野から見ればアナログ時計が復活する機会はありません。(モーター)スポーツの計時システムなどでは、ほとんどのケースでデジタル時計が使われています。ただ、宇宙飛行士は今でもアナログの手巻き式時計(スイスのオメガ社SpeedMasterは、アポロ計画で採用された宇宙飛行士用の時計)を使っているそうです。バッテリを使わず、シンプルで頑丈というのが採用されている理由だそうです。1日に10秒遅れても正確な計時は宇宙船の計時システムが担ってくれるため、非常用として人の側にいてアシストするという考えのようです。
- いずれにせよ、私たちはアナログとデジタルの両者の特性を十分に理解しておく必要があります。
- 以下、回りくどいかもしれませんが、アナログ記録とデジタル記録の違いについて触れておくことにします。
- デジタルという概念を復習しておきましょう。
- デジタルとは何でしょうか。
- デジタルと言う言葉が出てきた背景には、デジタルでない世界からデジタルの世界になった、という意識革命を促す意味合いが込められていました。デジタルの対語がアナログです。デジタルを一言で言うと「数値化」です。もっと突き詰めていうと「0」と「1」の二種類しかない記号表現の世界ということができます。(現実の生活では、「0」と「1」の二つだけの数値表記ではとても理解できないので、十進法の数値表記をさしてデジタルと言っています。)この「0」と「1」の数値表現を数学では二進法と言っています。数値化の世界では、今や二進法が全世界を席巻し全ての数値世界を支配しています。なぜならコンピュータに使われている算術手法が二進法であり、コンピュータ内部で行われている処理 が全てこの2進法であるからです。従って、デジタル画像ももとをたどっていくと二進法の数値記述となります。「0」と「1」だけの世界がかくも高い信頼を得て世界を支配するようになったのは興味あるところです。パソコン(いや、広い意味でIC技術を使ったデジタルプロセッサー)のおかげで、デジタルの世界がみるみる広がって行きました。
- ■ 二進法(Binary Notation)
- 二進法についておさらいをします。二進法というのは二つの数字だけの数的表記の世界です。2つの数字しか扱わないのです。十進法は10個の数字をもっていて、9という値に一つ値が加わると桁が上がって10となり、0〜9の九通りの記号で数を表して加減乗除を行っています。小学校で習う算術が、この10進法による加減乗除に他なりません。これに比べ二進法は、「0」と「1」の二つの数しかないために、「1」にもう一つ加えても「2」とする事ができず、桁が繰り上がって「10」となります。二進法では簡単に桁が上がっていきます。数値が2通りしか取れないので当然と言えば当然です。従って、「1001」という4桁の二進法の数値表記は、十進法に直すと一桁の「9」となります。「1111」は15に相当します。二進法では、それぞれの桁での表記が「1」と「0」しかないので、コンピュータのロジックでは、それぞれの桁に電流を流す、流さない、電位を持っている、持っていないというスイッチの「ON」、「OFF」に相当させて情報を処理させることができます。パソコンの記録媒体であるCD(コンパクトディスク)では、ディスクの記録面(ピットpit = 情報の小さい穴)にレーザ光を当てて、ピット面での光の反射の有無で「0」と「1」を表現しています。ハードディスクドライブでは、記録面の磁性体の状態、「N」と「S」の極性によってデータ記録しています。このように、二進法は「ある」と「ない」の二つの表現方法であると言ってもよいと思います。「ある」と「ない」のわかりの良い簡単な算術が、コンピュータの発達で世界を支配するようになりました。
- このようにコンピュータは、電気スイッチ(「ON」と「OFF」)のかたまりでできているといっても過言ではなく、電気を通したり止めたり、あるいはそれを保持して演算を実行し、その結果の数値を2進法として記憶したり表示部に回しています。コンピュータでは二進法で情報(数値)を入力することをビット(bit)を立てると言っています。たとえば、「1001」という数値は4つの桁のビットを立てているわけであり、これをある時間タイミング(クロック)で別の4桁のビットとの間で加減乗除を行っています。この4桁のビットでの演算処理を4ビット処理と言っています。(上図参照。)4ビット(24 = 16)では、16通りの数値表現ができるので、十進法の10通りの数値を4ビットに当てて二進法による処理がなされてきました。3ビットだと8通りにしかならないので、十進法の数値を割り当てることができません。人間が理解しやすい10進数との狭間にあって、2進法は4ビットを一つの単位として扱われるようになりました。その後、アルファベットの文字や記号(+ - & %)などを当てはめる必要ができたので、4ビットの倍の8ビット(256通り)が入力の基本桁数となり、1バイト(byte)と呼ばれるようになりました。さらに、漢字や世界言語を当てはめる必要から2バイト( = 16ビット、65,000通り)処理が主流になっていきました。
数字の10進法表記(上段)と2進法表記(下段)
10進法 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 2進法 0 1 10 11 100 101 110 111 1000 1001
- 2進法処理装置である最初のマイコンは、4ビットから始まりました。1970年代後半のマイコンキットでは、8ビットCPUが開発され、NEC9801シリーズで有名になったパソコンでは16ビット対応になり、現在は32ビットから64ビットの桁数を持つに至っています。64ビットは十進数に直すと200京(2,000,000兆、19桁)の数字に相当します。この膨大な数字を1つのタイミングクロックで演算処理できるようになりました。昔は、一度にこのような桁での計算ができなかったので、精度が要求される計算では、桁を何回かに分けて処理していました。ビットの少ないパソコンでは処理に時間がかかるわけです。64ビットの演算を通常のCPUのクロックである500MHzで行うとすると、十進法の19桁単位の計算を1秒間に5億回繰り返して行うことができます。これらの数値は、我々の日常生活には及びもしない数の世界です。しかしながら、デジタル画像を見たり送ったりする場合にはこの程度の演算が必要になってきます。
- 人は2進法で物事を考えることが苦手で、逆にコンピュータは10進法で計算をすることができません。従って、人がテンキーを使って10進法に従った数値を入力すると、すぐさまこれを2進法に変換してコンピュータ内部の処理に回します。コンピュータ内部で処理された結果を人が判断する際には、2進法で処理されたデータを10進法に直してモニタなどに表示しています。最近では、数値だけの表示が見づらいので、表やグラフに直して表現しています。アナログ表記にしているわけです。
- こうしたデジタルの革命は、トランジスタの発明と発展を抜きにして語ることができません。トランジスタの発明によって、高速演算処理が可能なデジタル回路が発展しました。(トランジスタ以前には真空管でデジタル回路が作られ、電気による計算機ができる前には、イギリスの数学者チャールズ・バベッジ(Charles Babbage:1729-1871)が歯車による計算機を発案しています。)トランジスタの発展につられるようにしてデジタル機器が進歩したのです。トランジスタの発展は、集積回路技術、もっと言うと、シリコン半導体(トランジスタ初期はゲルマニウム半導体が主流でした)を使った集積技術があったからこそなしえました。その発展の究極がCPUの高集積化、ICメモリの高集積化です。ゲルマニウムでは今のような集積回路の発展は不可能でした。シリコンの精製技術、そしてシリコンの酸化膜によるプレーナー技術がなければ今の集積回路は生まれていませんでした。トランジスタの集積化とともにIC(Integrated Circuit)が1960年に発明され、デジタル素子(IC素子、TTLデジタル回路)が米国テキサスインスツルメンツ社から発売されました。TTLデジタルICファミリー素子の発明によりデジタル回路が大いに普及します。ちなみにICトランジスタを使ったコンピュータは、1964年に開発された米国IBM社によるIBM/360が最初です。
- デジタル装置のもっとも身近なものは、デジタル時計です。電卓はマイコンの元祖です。パソコンはデジタルそのものです。現在は、CD 、DVD、オーディオ、カメラまでデジタルの時代になりました。テレビ放送もデジタル化が進んでいます。1990年前半まではテレビ画像を送信するのはアナログでした。画像はとてもたくさんの情報があり、これをデジタルで送信するのは技術的に無理だったのです。NHKが開発したハイビジョンは、開発当時アナログで送信されていました。それでも送信帯域が足りないのでMUSEと呼ばれるアナログ圧縮により画像を送っていました。この方法ではスポーツなどの動きの速い画像は処理が追いつかずに前の画像が持ち越されてダブった画像になりました。現在ではハイビジョンもデジタルになり画像のダブりもなくなっています。デジタル処理の驚くべき発展というほかないでしょう。
- 現在のきらびやかなデジタルの世界は、元をたぐっていくと「0」と「1」の電気情報に行き着きます。
- ■ 標本化(デジタイズ)の基本要素
- デジタル化を行う場合に問題になるのが、元のデータ量をどのくらい細かく細切れにして、「0」と「1」の情報に変換するかということです。たとえば、音声信号(オーディオ)の場合、1秒間にどれだけ細かく音を標本化すれば原音に忠実なデジタル音になるかという問題があります。オーディオCDでは1秒間に44,100サンプリング(44.1KHz)で標本化を行っています。従って、このサンプリング(標本化)ではこれ以上の周波数(高音部)は含まれていないことになります。人の耳は20kHzは聞こえないという前提に立った規格です。また、CDでは、音の深さを16ビットと規定しています。CDに記録されたミュージックの音の強さは1:65,000のダイナミックレンジを持つことになります。それ以上の音圧に関しては原則として再生できないことになります。デシベルでいうとこの16ビットの音圧は96dBに相当し、人間の可聴音圧120dBに少し足りないレンジとなります。オーケストラは、120dB程度まで音が出るそうですので、静かな音から最大音までを同じ条件で収録してCDに納めることは無理となります。
- デジタル画像では、画像を標本化するのに画素(pixel = ピクセル)という考え方を導入しました。CCD カメラの構造は、画像をデジタルにする上で格好の素子でした。時間(T)と空間(X、Y、D)に対する標本化がデジタルの基本概念です。
- ■ 自然の量(アナログ量)→コンピュータ処理(デジタル量)→人間の認識(アナログ量)
- 自然の世界は、音にしてもレンズを通した画像にしても、「0」と「1」の情報でできているわけではありません。量は無限大にあり、量の変化は滑らかです。こうした自然界にある量をアナログ量と言いますが、この量の変化をコンピュータが処理をするとき、もとのアナログ量をデジタル量に変換して処理を行い、その結果を出力する際に再びアナログ量に戻すという工程を経ます。この変換をAD変換(Analog to Digital Transfer)、DA変換(Digital to Analog Transfer)と言っています。音声も電話回線もテレビ送信もコンピュータの高性能化と小型化によってどんどんデジタル化されています。人の認識がアナログを好み、自然界にあるものがすべてアナログ(ただし、量子力学では飛び飛びの値を取る)であるのになぜ、デジタル変換をしなければならないのでしょう。それは、デジタル化した方が便利だからです。なぜ便利なのか? そのことについて述べることにします。
- ■ なぜ「0」と「1」の記録が安定しているのか。 - デジタル記録とアナログ記録
- アナログ情報量とデジタル情報量について述べます。アナログ量というのはデジタル量の対語としてできた言葉です。従ってコンピュータが作る量をデジタル量と言い、それ以前の量(自然界にある連綿と続く数えられない量)をアナログ量と言います。これを画像について言うと、人によるスケッチや絵画、フィルムを使ったカメラ画像、 VHSテープによるビデオ画像などはアナログ画像と言って差し支えないでしょう。アナログ量の特徴は、画像の濃淡を連続的な変化量として記録していることです。したがって、これらをコピーする場合、元画像と完全同一なものを得ることは難しく、保管する間にも画像品質が経年変化してしまいます。スケッチは筆記具の筆圧、濃淡、色などによって記録されるので、人が描く限り一つとして同じものはできません。フィルム画像は、銀塩粒子が光の強さに反応して黒化銀として現像され定着されるものであり、アナログ記録の顕著なものです。そのフィルム像も完全に同じ像を作るのは難しく、使用するフィルムの製造条件、保管、現像条件の厳しい管理をしなければ良質の複製画像を得ることができません。VHSテープによる映像記録も、テープ面に記録された磁気量を磁気ヘッドによって拾い上げて電気信号に変換しています。テープの走行安定性、テープの磁気量保存能力、磁気ヘッドの性能によって再生画像の品質が大きく変わってきます。
- デジタル画像は、こうしたアナログ情報を永遠に固定してしまい、何度コピーしても元の情報を損なうことがないと言う魔法のような能力をもっています。デジタル画像の代表的なものは、デジタルスキャナーで取り込んだ画像データがあり、それにデジタルカメラの画像データ、ビデオカメラからの映像を画像ボードを介してコンピュータに接続して取り込む画像などがあります。端的に言えば、コンピュータに保存されたデータ(文書、音楽、画像)はすべてデジタルデータです。なぜならば、コンピュータは、「0」と「1」しか扱わない(扱えない)世界だからです。
- ハリウッドで作られる映画は、基本的には35mm(もしくは70mm巾の)映画フィルム(アナログ)で撮影が行われますが、現像を終えた後の画像処理、効果処理などはすべてデジタル処理がなされています。こうしてできあがった作品は全編デジタルで保存され(A/D変換)、配給時にレーザプリンタで再びフィルムに焼き付けコピーされて(D/A変換)、映写機で上映されています。SFXと呼ばれるジャンルの映画(ロード・オブ・ザ・リング、スターウォーズ、ターミネータ、ジュラシックパーク、キングコング)などは言うに及ばず、米国ピクサー社が手がけるアニメ(ファインディング・ニモ、Mr.インクレディブル、カーズ)などはデジタル映画の典型です。一昔前(1994年)に作られた映画「フォレスト・ガンプ」(トム・ハンクス主演、ロバート・ゼメキス監督、アカデミー賞6部門受賞)は、自然なドラマの流れの中に、おやっ?と思う映像シーンが多数見受けられました(ニクソン大統領に会うシーン、ピンポンのシーン、両足を切断された軍曹のシーンなど)。これらはすべてデジタルで作られたものです。「アポロ13」という映画にも本当か?と思ってしまうようなデジタル画像で作られたロケットの打ち上げシーンや宇宙活動のシーンが多数ちりばめられていました。このように、デジタル映画はつぎつぎと新しい世界を切り開いて行きました。
- デジタル画像は、コピーしてもなぜ情報に変化がない(劣化しない)のかというと、デジタル画像の情報が「0」と「1」の二つしか取り得ないからです。さらに、その「0」と「1」の情報を電気的に記録する場合、「0」の情報が0V〜0.8Vまでの電圧、「1」の情報が2.7V〜5Vという具合になっていて、情報を記録する際に少々電圧に変動があってもしっかりと「0」と「1」の情報を伝えることができるためです。アナログ情報の場合、例えばビデオ信号は、 0.3V〜1.0V間の電圧が明るさ情報となっていて、0.7Vの間に黒から白までの情報を入れなければなりません。0.1Vの電気的なノイズが入っても画像が大幅に変わってしまいます。方やデジタル記録では、0.1V程度の変動でも情報に影響を与えることは全くないのです。デジタル保存の真骨頂がここにあります。
- ■ なぜデジタルなのか?
- デジタル画像が発達した理由の一番大きなものは、何度も言いますがコンピュータの発達です。もっと広く言うとデジタル電子回路の発達です。逆に言えば、コンピュータの発達無しにはデジタル画像の発展はあり得ませんでした。一昔前のコンピュータは、今に比べて格段に能力が劣り、画像を記録するにも再生するにも大変な時間がかかっていました。したがって、米国のNASA(航空宇宙局)とか政府の大きな研究所のような高性能のコンピュータを所有する機関以外ではデジタル画像を扱うことは事実上不可能でした。
- 12年前(1994年当時)のパソコンを考えて見ましょう、当時は、インターネットが産声を上げた時期で、画像が配信できるWWWネットワークソフト = Netscape Navigatorの前身であるモザイク・コミュニケーションズ社製の「モジラ・バージョン0.9」が発売された時期です。HTML言語(HyperText Marking up Language)とWWW(World Wide Web)が1989年にティム・バーナーズ・リーによって開発され、その言語で記述された文章はどんなパソコンでも回線を通じて全世界、津々浦々、いつでも即座に読み出せるというものでした。当時の通信手段は、専用の回線のある施設は別として、電話回線によるRS232Cの転送速度の9600bbs(9,600ビット/秒)が主流でした。パソコンには、現在主流になっているUSB2.0(Universal Serial Bus)もIEEE1394(The Institute of Electrical and Electronics Engineers, Inc. = 米国電気・電子標準化団体が採用した1394番目の規格)も、ましてイーサネットなどという高速通信インターフェースなどもついていません。Comポート(RS232C)とプリンタポート(セントロニクス)、もしくはSCSI(スカジー)と呼ばれるインターフェースが主流だったのです。その中で、長距離転送ができるのはシリアル転送であるRS232Cでした。この通信規格は、米国機電子工業会(EIA = Electronic Industries Association、1997年よりElectronic Industries Alliance)が1969年に決めたもので、テレタイプに使われていました。この規格はシンプルな規格で、電話回線を使って全世界と通信できたので一躍脚光を浴びました。CPUは、1993年に開発されたPentium(66MHz)が使われ、DRAM16MB、HDD400MBのパソコンが一般的でした。
- 当時のパソコンは、640x480画素、RGB各8ビットの画像表示が主流となっていました。今となってはびっくりすることに、この表示は、画像表示というより文字表示でした。当時、文字表示は文字のコード(2バイト)を画面表示ジェネレータに送って、ジェネレータ部で文字を発生させて1文字24ビットx24ビットで画面に表示させていました。従って大きさも固定されていたので、文字の大きさは半角、倍角、4倍角程度しかサポートできていませんでした。VGAモニタでレポートを書くとき、文字は20文字x26文字と固定されていたので400字詰め原稿用紙程度でした。当時、滑らかな文字と画像をふんだんに使って表示していたのはマッキントッシュしかありませんでした。滑らかな文字を自由な大きさで描くことができるようになったのは、Windows98からです。それでも滑らかな文字(ポストスクリプト)を表示するにはかなり高性能のパソコンが必要でした。この事実からわかるように、10年ほど前のパソコンは、640x480画素のデジタル画像を1秒間に60回程度リフレッシュして描画することは、画像表示ボードの性能、CPUの性能、そしてメモリ容量の点からも恐ろしく困難であったのです。画像の表示はきわめてノロマでした。ですから、当時のパソコンは決められた画素数によるドット文字による通信が中心で、見た目にかっこいいポストスクリプト対応の文字や画像表現によるホームページは作ることができませんでした。ポストスクリプトというのは、米国Adobe社が長年開発してきた言語表示の言語で、文字を数式で表す言葉でした。ビットではなく数式です。文字を数式で定義していたのでどんな大きな文字でもスケールを多くすれば滑らかな表示をすることが可能だったのです。しかし、1990年当時のパソコンではポストスクリプトを処理する能力が貧弱で1画面を作り上げるのに恐ろしい時間が必要だったのです。
- 当時のRS232Cによるデータ転送では、1秒間に最大9600ビットのデータしか送ることができませんでした。通常、データを送る場合にはエラー処理などがあって、設計速度そのままでデータを転送できることはほとんどありません。イーサネット通信にしても規格速度の1/10〜1/20程度がせいぜいです。そうしてみると、RS232C通信では1秒間にせいぜい960ビット(120バイト)の情報しか送れないことになります。
- VGAモードの画像表示は、画面をすべてビットマップで処理しようとすると、640画素x480画素x3色x8ビット = 7,372,800ビットとなり、RS232Cの通信回線でこの画像を送るとなると2時間程度かかってしまいます。画像を圧縮して送る手法は、1984年にコンピュサーブ(CompuServe)社がGIFという画像ファイルを完成していて、それを追いかけるようにJPEGファイルができあがります。1994年当時は、JPEG画像もパソコン上で使われるようになっていました。(画像の圧縮は、FAXを送る目的で開発されたようです。)このJPEG画像をもってしても1枚のデジタルカラー画像を送るのに10分程度かかってしまいます。方やテレビ(アナログ画像)では、同等の画像を1秒間に30枚で送るシステムをとっくの昔に完成させていました。当時、アナログ画像はデジタル画像に比べて2〜20万倍も高速に送ることができたのです。実際問題、2000年までは、ビデオ信号による画像記録の方が遙かに速くて便利であったので、CCDカメラで撮影する画像もVHSテープや8mmビデオテープを使ってアナログ記録を行っていました。
- VHSテープが衰退し、代わってDVDやHDDによる大容量デジタル記録が普及してきたのは、記録媒体が安くなり、MPEG圧縮技術が進み、CPUの性能が向上した2004年あたりからです。その間、インターネットの高速化も図られ、デジタル化が一般家庭にまで及びました。
- こうしてデータ転送の問題が解決されるようになると、俄然デジタル画像の優位性がクローズアップされることになります。デジタル画像の恩恵は以下で述べます。ただ注意しなければならないことは、デジタルはすべてにおいて万能ではないことです。デジタル化の最も大事なことはアナログデータを必要にして十分なデジタルデータに数値化することです。粗いサンプリングでデジタル化されたデータは時として全く役に立たないことがあります。
- ■デジタル記録 - 処理の基本的な考え方
- 自然界に存在するアナログ量をデジタル化する考え方を述べます。デジタル化の一番の根本は、量子化です。これは、アナログ量をどれだけ細分化して「0」と「1」に分けるかという考え方です。量子化はサンプリング(標本化)とも言われています。画像の標本化には以下のパラメータがあります。
- 1. 空間を量子化する度合い - 画素(512x512画素、720x480画素、1280x1024画素、など)に分ける。
- 2. 濃度を量子化する度合い - 8ビット(256階調)、10ビット(1024階調)、16ビット(65,000階調)濃度などに分別する。
- 3. 時間を量子化する度合い - サンプリング周波数(撮影速度、コマ/秒)を使って時間を細切れにする。
- 4. 情報を多重化する度合い - 複数データを統合処理する。
- ■ 連続量を区分化し数値化する
- 連続量を区分化する手法は、数学の微分・積分の考え方を取り入れています。ただし取り入れたのは微分・積分手法の一歩手前の手法である区分求積法でした。区分求積法の中で、特に有限の量子化手法を採用して、連続量を細切れにしてモザイク情報にしました。無限数を範疇に入れてきれいな連続関数とする高校の数学で習う積分法までにはコンピュータに求めませんでした。ゴツゴツした量子化でも「良し」と見切るやり方にすごみがあります。つまり、このことはデジタル画像は慎重にサンプリングをしなければ、必要にして且つ十分な情報を提供するものにはならないことを示唆しています。
- こうして出来上がったデジタル画像(見切りが悪いとゴツゴツ画像になる)は、どれだけコピーしてもアナログ記録(テープレコーダ、銀塩写真)のように劣化することがありません。もっとも、画像フォーマットの中のいくつかは圧縮によるデジタル保存時に元のデジタル画像よりも画質が劣化してしまいます。
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- 円をデジタル化する際の注意点。
- 画素を荒く(量子化を間違える)と十分な情報を記録できない。
- 左の図は360dpi(dot per inch)で画像にしたもので、右は50dpiで行ったもの。
- ■ デジタルの長所、短所
- これまでに長々とデジタルについて述べてきましたが、デジタルの考えは極めて見切りの良い考え方であり、その処理は単調な作業であると言えます。コンピュータでなければとても行えない作業です。適切な量子化のもとでデジタル化されたデータは品質の劣化がなく、何度コピーしても品質は同じになります。
- 最後にデジタルの長所、短所をまとめておきます。
- 【長所】
- ・コピーによる品質の劣化無し。
- ・データ通信に便利である。
- ・編集、加工が容易である。
- ・互換フォーマットによるデータの共通化が可能。
- 【短所】
- ・量子化(デジタイズ)によっては品質が劣化する。
- ・データ量が多い。
- レンズを通してできた像を記録する時に、フィルムを使う場合と固体撮像素子(CCD、CMOS)では特性が変わります。
- 両者の大きな違いは、フィルムがアナログ記録であるのに対し、固体撮像素子はデジタル記録であることです。個体撮像素子では、撮像面に画素と呼ばれる小さな光を蓄える部屋が作られていて、そこで画像が区切られます。部屋(画素)で情報が仕切られるということは、情報が細切れになることであり、デジタルサンプリング(標本化、量子化)されることを意味します。固体撮像素子では、画素数以上の情報を得ることは基本的には不可能です。(ただし、被写体の形状がわかっている場合、例えば円形のものを写す場合、複数の画素から円形の形状や中心位置をサブピクセル単位まで計算によって求めることは可能です。)
- 2/3インチCCD(8.8mm x 6.6mm)で、800x600画素を持つ撮像素子自体の解像力は、
- 800画素/8.8mm x 1/2 (本/画素) x 1/2 (ナイキスト限界) = 22.7本/mm
- となります。
- 反面、銀塩フィルムのようなアナログ記録は画素という概念がなく、銀塩粒子の大きさが解像力の決定要因となります。また、アナログ画像は、デジタル画像のように量子化によってある解像力以上になると情報が突然に消えることはありません。アナログ記録では、細かい情報に対して突然に無くなることはなく徐々に無くなっていき、最後までかすかに情報を持っています。銀塩フィルム自体は、白黒フィルムでおよそ200本/mm程度の解像度があり、カラーフィルムで100本/mm程度の情報を持っています。アナログ記録媒体は、一般のCCD 撮像素子の100倍以上の情報を持ちえるのです。
- 最近の光学書やCCDカメラの関連書籍を読んでいると、解像力の項目にナイキスト線図という言葉が出てきます。これは、古典的な光学分野では使われなかった言葉です。デジタルの世界で登場してきた言葉です。
- ナイキスト線図とはどのようなものなのでしょうか。それに、ナイキストというのはどんな人物なのでしょうか。
- ナイキスト(ハリー・ナイキスト、Harry Nyquist、1889.2.7 - 1976.4.4)は、スウェーデンのNilsby生まれの物理学者で、自動制御理論の研究で知られています。彼は、18才の時に米国に渡って帰化を果たし、ノースダコタ大学で電気工学を学び、エール大学(イェール大学、Yale University)で博士号を取得しました。大学卒業後、28才の年の1917年から1934年までの17年間、AT&T研究所(American Telephone and Telegraph Compnay)に勤め、電信画像と音声通信の研究に従事しています。その後、1934年から1954年までベル電話機研究所に移り通信技術の研究に従事しました。当時のベル研究所からは、きら星のごとく有名な研究者達が輩出されています。トランジスタを作ったショックレー(1947年)や、CCD素子を考案したW.S.ボイルとG.Eスミス(1970年)、レーザの研究で知られるタウンズ(Charles H. Townes:1915〜)、コンピュータの世界を席巻しているUNIXを構築したケン・トンプソンとデニス・リッチ(1968年)もベル電話機研究所の研究員でした。私のライフワークである高速度カメラも、このベル電話機研究所で産声を上げました。この時代、第二次世界大戦から東西冷戦時代にかけてのアメリカは、国を挙げて国防に取り組み、トランジスタの開発もレーザの開発もインターネット(通信分野)も活発な研究が進んで、ベル電話機研究所は特に優れた研究成果を出していきました。
- 1927年、AT&T研究所で通信技術の研究をしていたナイキストは、アナログ信号をデジタルサンプリングする際に、これを再現するのに取り出したいアナログ信号周波数の2倍が必要であることを突き止めて発表しました。これが後に、ナイキスト - シャノンのサンプリング定理(標本化定理 = Sampling Theorem)と呼ばれるようになり、デジタル信号処理をする上で非常に大切なものとなりました。シャノン(Claude Elwood Shannon, 1916.04 - 2001.02、米国ミシガン州生まれ)は、情報理論に関する有名な数学者でコンピュータ技術の基礎を築き上げた人です。彼の数学的メスによってナイキストの発見の数学的裏付けがなされました。標本化定理とは、要するに、音声信号とか画像信号、温度データなどのアナログ信号をデジタル信号として取り込む際に、ほしいアナログ情報信号の2倍以上のサンプリングを持ったデジタル信号処理が必要である、という理論です。温度制御をおこなう温度管理で10Hzの確からしい温度データが欲しいとき、これをデジタルサンプリングする場合、最低0.05秒に一回(20Hz)でデータを取らないと正確な温度計測ができないことを意味します。また、例えば、100Hzで振動している物体を計測するには最低200Hzでサンプリングできる測定系が必要であることを示しています。2倍のサンプリングがあればなんとかデータが読み取れる、というのが標本化定理です。
- ここで一つの試みが行われます。CCDに代表されるデジタル撮像素子は、撮像面が碁盤の目のように区切られていて、画素という単位でレンズによるアナログ像が標本化されます。固体撮像素子では、画素が画像情報の基本単位となってこれ以上の細かい情報は基本的には読み出すことができません。画素をナイキストのサンプリング定理に当てはめますと、像の情報は、カメラの画素の半分しか記録できないことになります。1,000mm x 1,000mmの対象物を、1,000画素 x 1,000画素でとらえると、情報は1mm四方ではなく、2mm四方(500 x 500サンプリング)の記録となります。下図に示したデジタルカメラで写した解像力チャートの画像は、上の説明をよく表しています。白と黒の画像は4ピクセル(2ピクセルx2)以上ないと十分にその情報を伝えることができません。2ピクセルがデジタル画像の最小検出単位になることをよく物語っています。
- 方やレンズは、CCDカメラのように映像を升目に分けることはなく、アナログの光学要素と言えます。光ファイバーのような繊維で映像を情報伝達するものも、標本化するとして差し支えないでしょう。
- ■ 開口率(Fill Factor)と解像力
- ここでちょっとした疑問がわき上がります。レンズとは直接関係ありませんが、デジタルサンプリングした時の疑問です。CCDカメラに使われている固体撮像素子は1画素分がすべて受光部ではなく、一部分しか受光部として使っていません。受光部が一画素の面積に占める割合を開口率(Fill Factor)と呼びます。電子シャッタ機能があるインターライン型CCDカメラ(現在のほとんどのCCDがこのタイプ)は、素子部に転送回路を配線しなければならない関係上、開口率は20%程度です。古典的なCCDカメラであるフレームトランスファ型では、画像の転送を画素上で行うので開口率が100%になっています。
- 一般のCCD素子の場合、受光部が点在する画素でアナログ情報のどこまでを忠実に再現できるのでしょうか。結論から言いますと、周波数的には開口率が低いカメラの方が細かい部位を再現できる反面、正しい位置情報は欠落してしまいます。
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- tanω’/tanω= (M*L/2*b)/(L/2*250)=M*250/b ・・・(Lens-41)
- M=b/aより、
- tanω’/tanω=250/a ・・・(Lens-42)
- 【紫外線の発見】
- 紫外線の発見は、赤外線の発見から遅れること1年、1801年にドイツの化学者リッター(Johann Wilhelm Ritter: 1776-1810)によってなされました。彼は、英国人天文学者ハーシェル(Sir Willam Herschel:1738-1822)が発見した赤外線の追試験を行っているときに、青色の外側にも、人の眼には見えないけれど塩化銀が反応する光があることを突きとめたのです。当時、光が波長に依存して色が変わるということはまだ明確になっていませんでした。リッターが紫外線を発見した1801年にイギリスのヤング(Thomas Young、1773-1829)が光の干渉・回折理論を発表しています。したがってこの頃はまだニュートンの光の粒子論が主流であり、色と波長の特定は明確ではなかったのです。この時代では、ニュートンが行ったプリズムを使って光を分散し、可視光の外側にも何か光めいたものがあるという発見で十分だったのだと思います。十数年ほどして、回折格子を作ったドイツ人の職人フラウンホーファーが太陽光を分析して暗線があることを発見しました。これがフラウンホーファー線と言われるものです。1814年のことでした。この時には回折格子はまだ性能が悪かったのでプリズムを使っていました。フラウンホーファーは、この暗線がどんな波長であるのかを調べるために、1817年に回折格子を使って特定します。この頃には光の波長と色の関係が十分に認知されていたと思います。
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- Mo = A'B'/AB ・・・(Lens - 43)
- Me = A"B"/A'B' ・・・(Lens - 44)
- M = Mo x Me = (A'B'/AB) x (A"B"/A'B') = A"B"/AB ・・・(Lens - 45)
- ・Acro、Acromat: 2波長での色補正(アクロマチック)。
- ・Fluor、FI、Fluar、Neofluar、Fluotar: 蛍石を使った光学補正。
- ・Apo: 3波長での色補正(アポクロマチック)。
- ・Plan、PI、Acroplan, Plano: 像面湾曲補正。
- ・EF、Acroplan: Extended Field (field of view less than Plan)。より精密な像面湾曲補正。
- ・N、NPL: Normal field of view Plan。通常の像面湾曲補正。
- ・Plan Apo: 3波長色補正と像面湾曲補正。
- ・UPLAN: オリンパス社の総合像面湾曲補正(Universal Plan)。
- ・CF、CFI: Chroma - Free、Chroma - Free Infinity-Corrected。
- ニコン社のブランドで、色補正済みのレンズという意味です。
- CFIは、無限遠補正を加えた色補正レンズです。
- これらは、対物レンズ、接眼レンズ双方に独立した色補正が
- なされているため互換性があります。
- 同様のものにツァイスのICS(Infinity Color - Corrected System)があります。
- ・DIC、NIC: Differential Interference Contrast、Nomarski Interference Contrast。
- 微分干渉顕微鏡の意味です。
- ・Oil、Oel: オイルによる液浸を表します。対物レンズと標本の間をオイルで満たします。
- ・Glycerin: グリセリンによる液浸を表します。対物レンズと標本の間をグリセリンで満たします。
- ・Water、WI、Wasser: 水による液浸を表します。対物レンズと標本の間を水で満たします。
- ・HI: Homogeneous Immersion。均一液体による液浸を表します。
- 対物レンズと標本の間を均一液体で満たします。
- ・Corr、W-Corr、CR: 補正環付
- ・L、LL、LD、LWD: 長作動距離
- ・ELWD: Extra-Long Working Distance
- ・SLWD: Super-Long Working Distance
- ・ULWD: Ultra-Long Working Distance
- x1/2: 色なし
- x1〜x1.5: 黒
- x2〜x2.5: 茶
- x4〜x5: 赤
- x10: 黄
- x16〜x20: 緑
- x25〜x32: 青緑
- x40x50: ライトブルー
- x60〜x63: コバルトブルー
- x100x250: 白
- Oil液浸: 黒
- Glycerol(グリセリン)液浸: オレンジ
- Water液浸: 白
- 特殊液浸: 赤
- ▼接眼レンズのタイプ
- 顕微鏡に使われる接眼レンズには大きく分けて、ホイヘンスタイプ(Huygenian Eyepiece)、ラムスデンタイプ(Ramsden Eyepiece)、ケルナータイプ(Kellner Eyepiece)、ペリプランタイプ(Periplan Eyepiece)があります。望遠鏡ではもっとたくさんの接眼レンズが作られています。接眼レンズの進化は、主に色収差などの光学補正の目的や、視野の確保にありました。歴史的には、今述べた順番通りに作られて来たので、順番通りに性能が上がったと解釈して良いと思います。これらの接眼レンズは、アッベ(1840年生)が生まれる以前から考案されているものなので、顕微鏡用というよりも天体望遠鏡や双眼鏡、各種光学計測装置のアイピースとして考案され、それが複式顕微鏡の発達とともに導入、進化したと考えて良いと思います。天体望遠鏡や双眼鏡での接眼レンズの役割はとても重要です。双眼鏡ではできるだけ広い範囲を一度に見たいので視野の広い接眼レンズが求められ、多くのタイプが考案されてきました。望遠鏡の接眼レンズについては、望遠鏡の所でも触れています。
- 接眼レンズの基本的な考え方は、虫メガネ(ルーペ)です。顕微鏡の像は虫メガネで見る像と違って、物体からの光そのものではなく対物レンズで作られた実像です。その像は限られた光束によって形成されているために、時にはその像に収差が残っています。つまり、普通の物体を拡大するのとは勝手が違うのです。従って、通常の虫メガネを使って顕微鏡の接眼レンズとしたのでは、像の全体を観察する人の目に集めることができず周辺部が暗くなってしまいます。もちろん周辺部の収差も取り切れていません。また、接眼レンズの鏡筒には大きさの制約があるので、虫メガネを利用すると筒の口径で像の大きさが制限されてしまいます。こうした不具合をなくすために、顕微鏡の(望遠鏡の)接眼レンズ(アイピース)が作られました。接眼レンズでは、対物レンズからの光束を効率よく集めるための視野レンズ(しやれんず、Field Lens)が組み込まれていて、発散していく像の光束を曲げて眼レンズ(がんれんず、Eye Lens)に送り込んでいます。下の図に接眼レンズの仕組みを示します。この図から視野レンズの働きがよくわかると思います。視野レンズはすばらしい機能を持っている反面、対物レンズの像を小さくしてしまいますから、拡大率は下がってしまいます。拡大率が下がっても、視野が大きくとれることのほうが重要であることをこの図は教えてくれています。
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- 上図: 基本的な接眼レンズの仕組み
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- ◆ ホイゲンタイプ(Huygenian Eyepiece)
- オランダの物理学者ホイヘンスが1703年に考案したアイピースです(上図参照)。このタイプの接眼レンズを顕微鏡分野ではホイゲンと呼び、望遠鏡分野ではハイゲンと呼んでいます。2枚の平凸レンズの凸面はいずれも対物レンズ側に向いています。2枚のうち、像側にあるのが視野レンズで、眼の方にあるのが眼レンズです。このタイプの接眼レンズでは、対物レンズからの像が接眼レンズの中の視野レンズの後方にできました。
- ホイゲンタイプは、初期の接眼レンズであり、望遠鏡の接眼レンズとして作られました。比較的低倍率の目的に利用します。レンズ構成が少ないため安価です。
- 2枚のレンズの関係は、視野レンズ(f1)が眼レンズ(f2)の3倍の焦点距離を持っていることと、2枚のレンズ間距離が、眼レンズ(f2)の2倍になっていることで、これが色消しの条件となります。この条件の時、この接眼レンズは都合良く見えます。
- また、f1 = 2 x f2で、レンズ間距離がf2の1.5倍である時も色消し条件が成り立ちます。
- 【色消し条件】
- 色消し条件とは、分散(ν1、ν2)の異なった凸レンズと凹レンズ(f1 、f2)を組み合わせて、f1 x ν1 + f2 x ν2 = 0という条件式が成り立つとき、色収差がなくなるというものです。同じ材質の2枚のレンズを同一光軸で距離dを置いて配置する場合には、
- d = (f1 + f2)/2 ・・・(Lens - 46)
- d: レンズ間距離
- f1、f2: レンズ焦点距離
- 上式は、
- d = (f1 x ν1 + f2 x ν2)/(ν1 + ν2)が本来の式であるが、
- ガラスの材質が同じなので、ν1=ν2 として導かれる。
- 上の式が成り立ちます。ホイゲンタイプの接眼レンズでは、視野レンズの焦点距離が長く眼レンズの3倍(f1=3 x f2 )なので、d =(3 x f2 + f2)/2 = 2 x f2 が色消し条件となります。
- ◆ ラムスデンタイプ(Ramsden Eyepiece)
- ラムスデン(Jesse Ramsden: 1735 - 1800。英国数学者、天文学者)が1783年に考案したアイピースです。ホイゲンタイプの接眼レンズが現れて80年の後に登場しました。ラムスデン48才の時の作品です。
- ラムスデンの義理の父親、すなわち彼の奥さんの親父さんがドロンド(John Dollond:1706-1761)という人で、世界で始めてレンズの色消しを考案して特許を取得した人です。ドロンドはメガネ屋で、ロンドンで手広くメガネを作って販売する傍ら色消しレンズのできることを伝え聞き、ガラス屑(廃材)を利用して色消しレンズの製造を始めました。これが商売的に大いに当たり財をなしました。そうした商才に長けたドロンドとは違って、娘婿のラムスデンは実直一徹な性格だったようです。
- 彼は機械技術屋として毎日工場でヤスリがけをし、精密機械装置を作っていました。彼の作品には精密六分儀があり、誤差1umの精密な親ネジを15年間かかって作り上げています。産業革命が始まる前の時代、ろくな工作機械ができる前の時代にヤスリを使ってすばらしい精密機械を作っていました。彼の接眼レンズは、彼が手がけた糸線測微尺(ファイラー・マイクロメータ、Filar Micrometer)と呼ばれる天体観測用光学装置に使うためでした。
- ラムスデンタイプは、焦点距離が同じ2枚の平凸レンズの凸面がお互いに向き合っています。このレンズも視野レンズと眼レンズの二つで構成されていますが、対物レンズからの像が、視野レンズの前方にできるのが大きな特徴です。これはホイヘンスタイプと違って接眼レンズの外側に像を置くことができるので、像の位置にレティクルや視野マスクを自由に置くことができて便利でした。また、このタイプの接眼レンズは、視野が広く取れることから広視野接眼レンズ(Wide Field type)として知られています。収差も良くとれているので高倍率の対物レンズに使われます。
- ラムスデンタイプの接眼レンズの色消し条件は、二つのレンズが同じ焦点距離のものを使っているのでf1 = f2となり、これより、d =(f1 + f1)/2 = f1、つまり、レンズ間距離dを焦点距離分だけ離して作られます。そうすると視野レンズ上に眼レンズの前焦点が来ることになります。この条件だと、視野レンズ面に付着したチリやホコリ、レンズのキズがクッキリ見えてしまうため都合が悪くなります。そのため、焦点を少しずらして、つまり、d = 0.85f1 として眼レンズの焦点位置を視野レンズの前に持ってくるようにしています。こうすると色消し条件からずれるので色収差が若干出るようになります。その不具合を解消したものが次のケルナータイプとなります。
- ◆ ケルナータイプ(Kellner Eyepiece)
- ケルナー(Carl Kellner:1826 - 1855。ドイツ光学設計者。Leitz社の前身の会社を創設。29才で他界)が1849年に考案したアイピースです。ラムスデンタイプの接眼側 = 眼レンズ(Eye Lens)に収差を補正したアクロマティックレンズを使用しています。色消しが非常に秀逸であったために、広い視界を得る接眼レンズ用として、また、高倍率のアクロマート対物レンズ用の接眼レンズとして使われました。ケルナーの接眼レンズは、開発当初、見掛け視界が40°程度であったそうです。
- ケルナーは、1849年、23才の時にWetzlarに小さな光学会社(光学研究所 = Optical Institute)を設立します。Ernst Leitz社の前身です。当時、この会社は12名の従業員だったそうです。彼は1855年、結核を患い29才の若さで亡くなります。彼亡き後、彼の未亡人が引き継いで会社を存続させ顕微鏡を作り続けます。Kellnerが亡くなった年、カール・ツァイスは39才、エルンストアッベは15才でした。当時はツァイス社も小さな町工場でありましたがKellnerの会社も小さな町工場でした。この会社が急速に成長するのは、1864年、21才の精密機械工 Ernst Leitz(1843 - 1920)が合流してからです。合流の5年後、1869年にライツは、ケルナーの会社を引き取り、エルンスト・ライツ社と社名を変えます。彼の会社が有名になったのは双眼タイプの顕微鏡が大いに当たってからです。また、1913年、同社の技師オスカー・バルナックの手によるフィルムカメラ(ライカ)が人気を博し大いに有名になります。
- ◆ ペリプランタイプ(Periplan Eyepiece)
- 光学収差をさらに除去したタイプのアイピースで、4群7枚のレンズで構成されています。ケルナーの後継会社Leitz社が設計しました。この接眼レンズは、セミプランタイプやプランタイプの高倍率対物レンズ用として開発されました。このアイピースでは、光軸中心から離れた周辺部の色収差の除去と、損面湾曲の除去、高倍率での各種収差の除去を目的としています。そうした理由で初期の接眼レンズに比べてレンズが多くなっています。
- ▼ 視野レンズ(Field Lens)
- 先に説明したように、接眼レンズのもっとも大きな特徴は視野レンズというものが使われていることです。顕微鏡の接眼レンズを取り出して虫メガネとして使おうとしてもピントがうまく合いません。ルーペとして使おうとすると、物体を置く位置に接眼レンズ自体が当たってしまいます。実は、レンズが物体に当たってしまうのは、接眼レンズを構成している視野レンズ(Field Lens)が物体を置く位置近傍に配置されているからです。視野レンズがない接眼レンズでは、対物レンズによって拡大された像の中心部のみしか眼に入ってきません。第一結像から接眼レンズに入る光束が拡がっているので、口径の限られた接眼部のレンズでは捕らえきれないのです。そのため、光束を曲げて接眼部のレンズに向かわせる工夫が必要になり、その目的のために視野レンズが使われるのです。(図:接眼レンズの仕組み 参照)
- ▼ 視野数(Field of View)
- 顕微鏡の接眼レンズの性能を示す数値の一つに、視野数(Field of View)があります。この数値は、接眼レンズで見える視野の大きさを示していて無次元数で表示されます。20とか30という具合です。この視野数は、実は、観察者が見ることのできる視野を表していて、接眼レンズの結像面の視野の大きさを示しています。20というのは結像面を20mmの視野で見ることができることを示しています。従って、x20倍の対物レンズと視野数20の接眼レンズの組み合わせでは、対物レンズによって20倍の像が第一結像面にできて、そこではφ20mmの視野が確保されているので、φ1mmの物体がφ20mmの像となって、それが視野として見ることができるようになります。つまり、
- 物体の視野(mm) = 視野数/対物レンズの倍率(M o) ・・・(Lens - 47)
- という関係になります。視野数が大きい方が広い範囲を見ることができます。
- 視野数は大きいほど観察が行いやすくなります。視野数の大きい接眼レンズは高価です。望遠鏡では見掛け視野角という言い方で角度で視野の大きさを表しています。
- ▼ 視野倍率
- 接眼レンズの倍率です。一般的にはx5、x10、x20程度の倍率が多いようです。接眼レンズの倍率が大きければ顕微鏡の総合倍率が上がりますが、上で述べた視野数が小さくなり広い視野が得られないので、一般的にはx10、x20が多いようです。顕微鏡の総合倍率は、
- 顕微鏡総合倍率(M) = 対物レンズの倍率(Mo) x 接眼レンズの倍率(Me) ・・・(既述)
- となります。対物レンズで大きくした像(倍率M0)をさらに接眼レンズで大きくする(倍率Me)という意味が上の式に表されています。
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- H = f2/(δxF) ・・・(Lens-21)(既述)
- H: 過焦点距離
- f: レンズ焦点距離
- δ: 許容錯乱円
- F: レンズ口径比
- M = fo / fe ・・・(Lens48)
- M: 望遠鏡の倍率
- fo: 対物レンズの焦点距離
- fe: 接眼レンズの焦点距離
- M = tanω'/tanω ・・・(Lens49)
- M: 望遠鏡の倍率
- ω’: 望遠鏡による像の視角
- ω: 肉眼で見た物体の視角
- 但し、本来は、M = ω’/ωであるが、tanω→ω、tanω’→ω’と近似できる時に成立。
- Mo = fo/a ・・・(Lens50)
- h = H x fo / a ・・・(Lens51)
- h' = h x a/fe ・・・(Lens52)
- Me = h'/h ・・・(Lens53)
- Me = h'/h = a/fe ・・・(Lens54)
- M = Mo x Me ・・・(前述)
- M = Mo x Me =(fo/a) x (a/fe)= fo / fe ・・・(Lens55)
- ▼ 実視界と見掛け視界: 実視界は望遠鏡を使って見える実際の視界(ω)であり、見掛け視界は望遠鏡で拡大された像の視界(ω')です。両者には、
- 見掛け視界(ω') = M x 実視界(ω)
- の関係があります。この式を書き直せば、
- M = ω'/ω ・・・(Lens57)
- となります。
- この関係式から見ると、倍率10倍の望遠鏡では、3°の実視界を30°の見掛け視界で見ることができます。実際には、対物レンズと接眼レンズの組み合わせでこうした視野が決まるので、まず、接眼レンズの視野(ω')があって、これに望遠鏡の倍率Mが加味されて実視界(ω)が求まります。接眼レンズの視野(ω')が広ければ広い実視野を確保できます。
- 見掛け視界は人間の標準的な視野である40-50°は欲しいところです。それ以下ですと視野が狭まり望遠鏡の縁(円形)が見えるようになります。見掛け視界が広いと観察が楽です。望遠鏡の接眼レンズには、先に述べたナグラーのように80°〜90°の広視界を持つものも作られています。これだけ広いとレンズを覗いているという感じを抱かないでしょう。
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▼ 屈折型望遠鏡(ケプラー式)
- 望遠鏡の最初の説明で図に表したタイプです。このタイプは、2組の凸レンズ群で構成されているのが特徴です。歴史的に見ると、この望遠鏡は同じ屈折型に属するガリレオ式望遠鏡の発明の後、1615年に作られました。屈折望遠鏡では代表的なものなので、最初に説明します。双眼鏡も基本的にはこのタイプに属します。この望遠鏡を実際に作ったのはケプラーではなく、彼は理論付けをしただけで、シャイネルが彼の理論から望遠鏡を作りました。ケプラーは不器用だったようです。ケプラー(Johannes Kepler, 1571 - 1630、独)は、1609年に作られたガリレイの望遠鏡の潜在能力に着目して光学の研究を始め、2年後の1611年に『屈折光学』という本を出しています。この本には地上望遠鏡や対物レンズ、接眼レンズの光学系に関する光路図の記述がありました。ケプラー式望遠鏡は、ガリレオ式の欠点である視野が広くとれないことを克服していました。しかし、この望遠鏡では像が反転してしまう倒立像の欠点がありました。しかし、天体はそれほど速く動くものではないので、この欠点よりも他の長所が活かされて現在も使われています。ケプラーは、自分の考えた望遠鏡が倒立像になる欠点にも触れていて、必要であれば凸レンズをさらに加えて正立像に変換する手法も『屈折光学』の中に書きあらわしています。双眼鏡では視野を広くとりたい関係上ケプラー式の望遠鏡が採用され、問題となる倒立像に関しては内部にプリズム(ポロプリズムやダハプリズム)を入れて正立像に補正しています(双眼鏡参照)。
- 屈折光学望遠鏡は、ニュートンの発明した反射望遠鏡が作られるようになって一度失速します。反射鏡のほうが当時としては利点が多かったからです。しかし1757年イギリスのドロンド(John Dollond、ラムスデンの義父)が色消しレンズを開発して、色収差のメドが立つと屈折型望遠鏡のブームが起きて、1900年までは大型の屈折型望遠鏡が作られて行きます。ドイツのフラウンホーファーは、屈折望遠鏡の性能向上に大きく貢献しました。ちなみに、屈折望遠鏡で最大のものは、1897年に作られた米国シカゴ大学附属ヤーキス(Yerkes)天文台のもので、口径40インチ(101.6cm)、焦点距離f1,935.494cm、F19.05でした。この巨大な屈折望遠鏡は、現在もまだ現役で使われているそうです。1メートルもある巨大なガラスレンズは、この天体望遠鏡を境に登場することはありませんでした。その理由は、1850年代にガラスに銀メッキする手法が確立し、屈折型望遠鏡よりも大口径の反射鏡製作のメドがたったからです。脈理の少ない大口径の光学ガラスを鋳込むのは、1メートル径が限界で現存する屈折型天体望遠鏡も1メートル口径が最大となっています。
- ■ ヤーキス天文台
- ヤーキス(Yerkes)天体望遠鏡の建設を巡っては、おもしろいエピソードがあります。19世紀末に火花を散らしていた大口径屈折望遠鏡の建設競争は、建設費用があまりにかかりすぎるために青色吐息の状態となっていました。ヤーキス天文台に使われたレンズも、大学研究機関が進めていた望遠鏡建設計画が予算捻出困難になって頓挫しかけたものを、シカゴ大学の24才の若き助教授ジョージ・へール(George Elley Hale:1868 - 1938)の政治的外交手腕によって立ち直ることになりました。へールは、非常に競争心が強く独創的な天文学者で、天文学のことなど全くわからない金持ちを口説いて巨大資金を払わせる天才的な手腕を持っていました。彼はシカゴの鉄道王で百万長者のチャールズ・ヤーキス(Charles Tyson Yerkes)を口説き、大型望遠鏡建設に必要な30数万ドルを提供するよう丸め込み、説得し、懇願し、最後には脅しをさえかけて同意させました。ヤーキスは、はじめレンズと架台だけ、つまり望遠鏡のみの資金提供に同意しただけであったそうですが、へールにさらに口説かれて天文台全体の建設費用34万9000ドルも提供したそうです。大金持ちアメリカならではの話です。へールは、その後大金持ちを次々と口説きカルフォルニアのウィルソン天文台(1908年、出資は富豪John D. Hooker)、パロマー天文台(1928 - 1948年、出資はロックフェラー財団、1,250万ドル)などの大型施設を次々と建設していきました。
- ▼ 屈折型望遠鏡(ガリレオ式)
- この望遠鏡は、望遠鏡の走りとも言えるべきものです。ガリレオ(Galileo Galilei、1564 - 1643)が発明したものではなく1608年にオランダのメガネ屋ハンス・リペルシェ(Hans Lippershey、1570 - 1619)が特許申請して市販化したものを、1609年に天文学分野に応用すべく彼が改良して、天体観測に初めて使ったのです。時計を発案したり、力学を構築したり機械仕掛けが何より好きだったガリレオでしたが、光学に関しては深くのめり込まずに計測手段としてしか関与していません。後世の著名な天文学者が光学も主研究テーマとしたのに対して、彼は深く関わることはありませんでした。
- ガリレオが用いた天体望遠鏡は、口径42mm、長さ2.4メートルで倍率9倍のものでした。彼は、生涯に60本以上の望遠鏡を作り、最終的に口径56mm、32倍の望遠鏡を作りました。発明当時の望遠鏡の口径が42mmであったというのは、現在の一眼レフカメラのレンズ程度の大きさで、現在からみると小さい口径です。しかも、彼が製作した望遠鏡レンズの材質は、ビンやコップに使われる程度のガラスだったので、透明度や均質性に問題を抱え、不良品が多くてまともに使える望遠鏡は1割程度だったと言われています。
- ガリレオが作った望遠鏡は、使われている2つのレンズのうち、対物レンズは凸レンズを使い、接眼レンズは凹レンズを用いています。もちろんすべて一枚のレンズで構成されていて、色消し(色収差補正)とはなっていません。彼の時代には色消しという概念がなかったのです。彼の望遠鏡では、接眼レンズに負のレンズを使うことにより、物体像と拡大像が同じ位置の正像とすることができました。ただし、この方式だと視界が狭くなるので、後年の天体望遠鏡は(倒立像になる)ケプラー式望遠鏡が多く作られました。ガリレオが製作した望遠鏡の一つである口径37.5mm、長さ1,280mm、15倍のものは、実視界が約6'(6分)であったそうで、これは月の視直径(30' = 30分)の約1/5しかならないため、月全体を見ることが困難でした。一般的にガリレオ式望遠鏡では倍率が上がるにつれ、視界はその二乗に反比例し、どんどん視界が小さくなります。ケプラー式では一乗であるのでその差は歴然です。倍率を上げれば上げるほどガリレオ式は不利になります。
- 私の持っている双眼鏡は口径が42mmで倍率10倍、見掛け視野角が61度あります。ガリレオが最初に作った望遠鏡をはるかに凌いだ性能です。私の双眼鏡では月をすべて見ることができ、明るくしかも正像として観察できます。クレータなどはくっきりと浮き上がって見えます。
- 余談ですが、ガリレオは自分で作った天体望遠鏡で太陽を観察して黒点も発見しています。おそらく肉眼で太陽を覗いて黒点などの観測を長期間したものと思われます。そのせいで晩年、1637年に片眼を、翌1638年には両目を失明するという不幸な目にあっています。
- ▼ 反射式望遠鏡(ニュートン式)
- ガリレオやケプラーの望遠鏡の欠点、つまりレンズ(屈折光学系)を使ったのでは色収差が像の分解能を邪魔して性能が上がらないことに悲観し、代案として考え出されたのが反射鏡(ミラー)式望遠鏡でした。ニュートンがこれを考案して作り上げたのは1668年で、ケプラーが屈折型望遠鏡を作ってから30年以上も経っています。彼の望遠鏡は、反射鏡の直径が1インチ(25.4mm)、焦点距離が6インチ(152.4mm)で倍率が30 - 40倍であったそうです。口径比はF6となっていました。おそろしく小さな反射望遠鏡でした。ニュートンは、3年後の1671年12月に、一回り大きい口径34mm、焦点距離159mm、倍率38倍のものを製作し王立学会(Royal Society)に寄贈しています。
- 反射式望遠鏡で実際に役に立つものを作ったのは、ニュートンの発明から55年経った1723年で、ハドレイ(J. Hadley 1656 - 1742)による口径6インチ、焦点距離5フィート、口径比F10、倍率230倍のものでした。ニュートンの歩んだ17世紀は、純度の高い光学ガラスの製造技術が確立されていず色消しレンズもなかったので、彼の取った方策は当時としては良いアイデアであったと言えます。しかし、19世紀になると光学ガラス製造技術が進歩し、屈折型光学機器もすばらしい進歩を遂げました。ミラーを使った反射光学系は、大口径のものが製作できるというメリットがある反面、広い視界を得ることができません。そういう性質があったので、カメラレンズや地上望遠鏡、双眼鏡などには反射鏡によるレンズはほとんどなくなりました。
- 反射鏡を使った天体望遠鏡は、19世紀の後半にガラスの表面に銀メッキができるようになって大口径化が進みます。現在の天文台の天体観測に使われる望遠鏡はほとんどが反射鏡式です。大きな天体望遠鏡では口径10mのものも作られています。屈折型のレンズではこれほど大きなものは不可能です。
- ▼ 反射式望遠鏡(カセグレン式)
- ニュートンが関わった反射式望遠鏡の製作には、スコットランドの数学者・天文学者グレゴリー(James Gregory、1638〜1675)の影響が大きかったようです。グレゴリーが1661年に発表した『Optica Promta(進歩した光学)』にヒントを得て、ニュートンが反射望遠鏡を製作したと言われています。グレゴリー自身も製作に着手しましたがうまく製作できませんでした。
- カセグレン(Laurent Cassegrain、1629 - 1693、仏)もグレゴリーが考案した反射式望遠鏡を1672年に製作しました。カセグレン式望遠鏡は、反射鏡の中心部に孔を空け、副鏡(凸面鏡)をメイン反射鏡(凹面鏡)の前(入射側)において光路を折り曲げるようにして配置してあります。こうすることにより、鏡筒が短く作れるメリットと光軸が一致するという利点、それになによりも、主鏡である凹面鏡の球面収差を副鏡である凹面鏡がキャンセルする構造とすることができました。この特徴が活かされて現在の主な天体望遠鏡は、カセグレン式、およびカセグレン式の改良型になっています。
・マクストフ・カセグレン(Maksutov-Cassegrain)望遠鏡
- カセグレン望遠鏡で有名なものに、マクストフ(D. D. Maksutov:1896-1964、ソビエトの光学物理学者)が設計したカセグレン式望遠鏡があります。この望遠鏡が作られたのは、1941年と言われていますから、第二次世界大戦中の開発ということになります。反射式望遠鏡は、非点収差 が顕著に現れるのでその補正のためにいろいろな工夫がなされてきました。マクストフは反射鏡の前に屈折レンズ(メニスカスレンズ)を置いて、屈折光学系と反射光学系の双方を組み合わせて収差を補正し、F10程度の明るさを可能としました。この望遠鏡は、鏡筒を短くできるという特徴以外に鏡筒の前面部をメニスカスレンズで覆うことができるために、鏡筒内を密封することができ、筒内気流の抑えることができました。またメニスカスレンズの中央部をコーティングして副鏡を形成させることができるので、副鏡を支えるスパイダー(支持棒)を排除することができ、像のボケ部が放射とならずに素直な像となります。
- また、この望遠鏡はすべて球面の研磨で作ることができ、他の望遠鏡のように非球面研磨とか双曲面研磨をする必要がないので、製作しやすく安価にできるという特徴を持っています。そのために、最近のカセグレン望遠鏡はすべてと言って良いくらいにマクストフ・カセグレン望遠鏡になっています。
- 反射光学系の望遠鏡に屈折光学系を入れたハイブリット望遠鏡をカタディオプトリック(Catadioptoric)望遠鏡と言います。ちなみに、カタディオプトリックとは反射屈折光学という意味であり、反射光学をcataoptrics、屈折光学をdioptricsと言います。
- 以下に示すシュミット望遠鏡もカタディオプトリック式です。
- ▼ その他の反射望遠鏡1(ナスミス式)
- ナスミス式反射望遠鏡を作ったナスミス(James Hall Nasmyth、1808 - 1890)は、スコットランドのエンジニア(機械技術者)でスティームハンマーの発明者として有名な人です。当時、スコットランドは、ワット(James Watt: 1736 - 1819)など著名な蒸気機関の技術者を輩出し、産業革命に多大なる寄与をしていました。ナスミスは機械技術者として名を馳せ多くの富を得て、48歳で引退してからは趣味の天体観測で月を観察するようになります。彼は、隠居する前から趣味の天体望遠鏡作りと天体観測を行っていて、1840年から1842年にかけて次々と10インチ、13インチ、20インチ(φ508mm)のナスミス型反射望遠鏡を作りました。自作の望遠鏡で月面を観測して本も出しています。彼の父と兄は画家でしたから彼も画の才能があったのです。彼の手による天体望遠鏡は、機械技術者らしい彼のアイデアが盛り込まれ、天体望遠鏡を赤道儀に沿って動かしても接眼部は絶えず一定になるように工夫されていました。これによって天体望遠鏡を動かしても、観測者はいつも一定の観測位置で天体を観測できるようになりました。この機構は非常に便利なもので、現在の大型望遠鏡には必ず装備されているものです。
- ▼その他の反射望遠鏡2(シュミット式)
- 反射望遠鏡は、反射鏡(球面鏡、放物面鏡)の特性上球面収差が出やすく、光軸を外れるととたんに収差が増してしまうため広い視野での観察ができない短所を持っています。視野の狭い天体望遠鏡は、取り扱いが難しく観測に支障を来すことがあります。またラージフォーマットカメラ(70mmフィルムカメラや写真乾板)を使って天体を撮影する場合、画像の周辺が収差によって劣化してしまう恐れがあります。そうした画像周辺部(軸外)の球面収差を補正した光学系がシュミット式天体望遠鏡です。この望遠鏡は、エストニア生まれのドイツ光学設計者ベルンハルト・シュミット(Bernhard Schmidt, 1879 - 1935)によって1931年に考案されました。
- シュミットは、機械技術者で、小さい頃よりレンズ磨きが好きだったそうです。彼の磨く反射鏡は誤差が少なく秀逸でした。少年時代に事故によって右腕を無くし、左腕だけとなりましたが、左腕一本で磨き上げる鏡面はすばらしい出来映えでドイツ各地の天文台に優秀な望遠鏡を収めていきました。シュミット・カメラはハンブルク天文台からの依頼によって、より明るくより広視野の望遠鏡を作るために開発されました。シュミットは、ハンブルグ天文台の要求に応えるために、反射鏡の曲率中心位置に非球面の透過型補正板を置いて球面収差とコマ収差を補正した望遠鏡を開発しました。この望遠鏡は、反射(球面)鏡の口径が440mmで補正板の口径は360mmであり、焦点距離f625mm、口径比F/1.75、視野16°の性能を持っていました。非常に明るくて視野の広い望遠鏡です。
- 上の説明でわかるようにシュミット式望遠鏡は、良いことづくめのようですが、像面は平坦とならずに湾曲となってしまいます。このため、フィルム面も像面に沿って湾曲させる必要がありました。シュミット望遠鏡は、カメラでの撮影が主目的であったために、シュミット・カメラという言い方が一般的です。シュミットカメラの目的は、広い視野の天体写真撮影をするのが主な狙いであり、銀河系の研究に使用されています。先にも述べましたように、シュミット・カメラでは撮像面が球面湾曲しなければならないことから、現在でもフィルム(乾板)が使われることが多く、CCD撮像素子を使う場合は、像面湾曲を補正する補正板を素子の前に置いて使用されています。
- ▼その他の反射望遠鏡3(リッチー・クレティアン式)
- リッチー・クレティアン(Ritchey-Chretien)式天体望遠鏡は、最近の大型天体望遠鏡の主流になっている方式でカセグレン方式の改良とも言えるべきものです。この望遠鏡は、1920年代に登場します。日本の大型天体望遠鏡「すばる」も米国宇宙望遠鏡ハッブルもこのタイプの反射望遠鏡になっています。
- この望遠鏡は、主鏡と副鏡をともに双物面鏡構造とすることにより、良好な球面収差、コマ収差の除去に成功しています。従って、このタイプの望遠鏡では、カセグレン式よりも広い視界を得ることができます。
- リッチー(George Willis Richey:1864 - 1945)はアメリカの天体望遠鏡製造業者であり、アンリ・クレティアン(Henri Chretien:1879 - 1956)はフランスソルボンヌ大学の教授でした。クレティアンはすぐれた光学設計者でもあり、アナモフィックレンズ(映画用のワイドスクリーン用のレンズ)発明者として名を残しています。リッチーは、米国大型天文台の祖へール博士(George Ellery Hale:1868 - 1938)と共に1900年代初頭の米国天文台建設に携わり、ウィルソン天文台など数多くの天体望遠鏡の設計・製造を手がけていましたが、カセグレン式では視野が狭いため、広視野の観察ができる望遠鏡製作を依頼され、友人のクレティアンに相談しました。フランスのクレチアンとは、リッチーがパリ天文台で仕事をしていたときに知り合い、ともに研究を行った間柄でした。クレティアンは、主鏡を凹双曲面として副鏡を凸双曲面にすれば収差がとれて広視野のものが作れるとアドバイスしました。しかし、双曲面は製作がとても難しくテストする手だてもさらに難しいものでした。しかしリッチーはこの難題を克服し、1923年に50cmの望遠鏡を作り、1936年には、アメリカ海軍天文台に口径1mのリッチー・クレティアン望遠鏡を納めました。
- 以後、大型天体望遠鏡はこのタイプの望遠鏡が採用されるようになりました。
■ULE(Ultra Low Expansion)
- この光学素材は、米国コーニング(Corning)社が開発した膨張率の低い光学ガラスです。線膨張率が 30x10-9/℃(0〜300℃)と小さい値を示し、現在の所、低膨張ガラスではドイツショット社のゼロデュアと双璧をなすものです。組成は、二酸化ケイ素(SiO2)92.5%と二酸化チタン(7.5%)で作られ、二酸化ケイ素がプラスの膨張係数を持ち二酸化チタンがマイナスの膨張係数であるため、相殺されて低膨張率となります。
- ULEの製造は、高温ガスを噴出させて二つの材料を溶かしながら噴出させ1ミクロン以下の小さい粒状として作られます。このため、これを集めて径1.5m、厚さ16cmのブール(丸くて平べったいフランスのパンのブールに由来)を作ります(右図参照)。この円板を2つ重ねて溶接し、これから1辺73.3cm、厚さ約30cmの正六角形の板(Hex = ヘックス)を作ります。このヘックスが鏡材の1ユニットとなります。このヘックスをきれいに敷き詰めて炉に入れて加熱させると互いにくっついて1枚の鏡材となります。8メートルもの大きな素材は一気に作れないのでブールをつなぎ合わせて六角形のセルを作り大口径の素材を作っていきます。
- ULEの対抗馬であるゼロデュアは、特性上熱処理ができないので(熱処理によって膨張率を調整するので)、溶接という作業ができません。ULEではこれができるので大口径のものを作ることが可能です。
- 大きな口径の素材製作は、内部の歪みを残さないように作らなければならないため2年から4年の製作期間を必要とするそうです。
- この素材は、「すばる」「ハッブル」「ジェミニ」に採用されました。
- ■ゼロデュア(Zerodur)
- この光学材料は、ドイツのショット(SCHOTT)社が開発した膨張率の低い光学ガラスです。光学ガラスセラミクスとも呼んでいます。基本特性は、クラウンガラスK4に近く、光学ガラスとの違いは結晶化ガラスになっていることです。通常、ガラスというのは光学ガラスも含めて結晶構造をしておらず、粘土の高い液体です。固溶体(こようたい)とも言います。ゼロデュアは、水飴状のガラスではなく構造のしっかりした結晶状態のガラスを使っているのです。従って、重量の70%が結晶性の微粒化結晶石英(大きさは約50nm)を含んでいます。この微粒化結晶石英の回りをガラス状石英が包み込み、両者の膨張率の違い(結晶石英がマイナスでガラス状石英がプラス)でトータルの膨張率を限りなくゼロに抑えています。線膨張率は、0〜50℃で 20x10-9/℃ です。
- ヨーロッパ南天天文台(ESO = European Southern Observatory)の大型反射望遠鏡VLT(Very Large Telescope)に採用されました。
- ■ボロシリケートガラス(borosilicate glass、ほう珪酸ガラス、PYREX)
- この素材は、耐熱ガラスで有名なパイレックスのことです。コーヒーサーバーのガラスポッドがこの耐熱硝子、パイレックスで作られています。熱膨張が低いことからULEやゼロデュアが出現するまでの間、大型反射鏡の主流でした。現在でも、取り扱いが良いことや製作コストが抑えられることからパイレックス使われています。特にハニカム構造とする反射鏡ではこの材質が主流のようです。パイレックス(PYREX)は、米国コーニング社(Corning)が開発したほう珪酸ガラスのブランド名で1915年に発売されました。1934年に建てられた米国パロマ天文台の200インチ望遠鏡の主鏡に初めて使われました。
- パイレックスが使われた経緯は、米国の天文学者へール博士(George Elley Hale:1868 - 1938)によります。1917年の秋、ウィルソン天文台を建設したへール博士が、2人のスタッフを伴って新しい天体望遠鏡で星を観察するためにウィルソン山に登った時のことです。観察は深夜に及び、夜が更けて温度がどんどん下がってくるにつれて、望遠鏡の性能がグングン上がっていることに気づきました。つまり夜間に鏡が十分に冷えて正確な凹面に戻っていたのです。この経験を通してへール博士とそのスタッフ、アダムスは、鏡材に熱膨張の低いものを使わなければならないことを痛感したのです。
- この経験をもとに、次なる大型天文台(パロマー)の望遠鏡の鏡材には低膨張率のものを使うことを決め、その選定にはいりました。当時、GEが製造している溶融石英がもっとも膨張率が低いものでしたが、大きな母材を鋳込むことができませんでした。彼らが次に選定したのはコーニング社が製造しているパイレックスでした。コーニング社はへール博士の要請を受けて、1931年に大型のパイレックス母材を鋳込むプロジェクトを立ち上げ、5年の歳月を経て200インチ、20トンの母材を完成させました。パイレックス素材は大きくて重いので、補強構造用としてリブ(肋材)が付けられました。これに費やされた費用は34万ドルと言われています。
- 現在、ボロシリケートガラスを使って大型主鏡の設計製造をしている機関にアリゾナ大学(The University of Arizona)があります。アリゾナ大学は、大学研究機関でありながら大型天体望遠鏡の鏡を作る施設を持っているユニークな研究機関です。アリゾナ大学の天文学部門の教授ロジャー・エンジェル博士(Prof. Roger Angel)は、英国オックスフォード大学出身で1974年にアリゾナにやってきて天体望遠鏡の製作に携わり、6.5メートルの主鏡を鋳込んで磨いています。彼らは独自のハニカム構造のガラス製造工場を持っていて、それに使われているガラス材料が日本のオハラのE6と呼ばれるボロシリケートガラスです。このガラスの熱膨張率は鉄の1/10と小さいものの、先に紹介したULEやゼロデュアに比べると1000倍も大きくなります。しかし、ULEやゼロデュアではハニカム構造にすることができず、この材質を使う根拠は十分にあるようです。アリゾナ大学で進めている大型天文台LBTや、新MMTにはこの素材が採用されています。日本でも、京都・岡山3.8m新望遠鏡でボロシリケートの鏡材が使われることになっています。
- ■溶融石英(Fused Silica)
- パイレックスが使われるまで、熱膨張の低い光学素材は溶融石英でした。しかし、この材料は大口径のものを作ることができません。最初の取り組みは、1920年代にへール博士の要請を受けて米国GE社が3年の歳月をかけて60インチ(152.4cm)の素材を作ったのに始まります。しかし、それが大口径素材としては最初で最後であり、以降、パイレックスに取って代わられるようになりました。
- ■青板ガラス(Soda-lime glass)
- 1910年代までの鏡の素材は、通常のガラスで作られていました。光学ガラスではない通常のガラスが反射鏡に使われていた理由は、反射鏡ではガラス内部の脈理や透過率の品質は問われなかったからです。ガラスが使われる前の反射鏡は、金属鏡が使われていました。金属鏡とは、金属そのものを磨いて凹面(球面)状にしたものです。ニュートンの時代はこの鏡でした。ガラスを使った反射鏡は、ガラスの上に銀メッキができるようになった1850年代後半から登場します。そのときに使われたガラス材料が青板ガラスと呼ばれるものです。青板ガラスは、現在では一般的になっている窓ガラス材で、昔の水族館や船の窓に使われていました。この素材を使った窓は厚くすると青く見えます。青く見えるのは、ガラスに鉄分が混入しているため赤色成分を吸収するからです。最近の水族館の窓はアクリルを採用しているので、青くは見えません。
- 青板ガラスを使って大型の天体望遠鏡が最初に作られたのは、フランスのパリ天文台で、φ120cmF6.5の反射鏡でした。これには、フランスの光学会社サン・ゴバン(Saint-Gobain)の青板ガラスが使われ、フーコー(Leon Foucault: 1819 - 1868)の助手A.マルタンが磨いて銀メッキ処理を施しました。銀メッキ処理された反射鏡は、従来の金属そのものを磨きだした反射鏡と比べものにならないくらい明るいものでした。この望遠鏡を使ってM.P.アンリ(Mathieu Prosper Henry: 1849 - 1903)は、火星にある衛星を2個発見しました。
- 大型ガラス素材の開発と銀メッキ(後にアルミメッキ)処理の技術革新がなければ現在の反射望遠鏡の時代はなかったかも知れません。現に、反射望遠鏡は1800年代は伸び悩み、光学材料の技術革新(色消しレンズの登場、高品質な光学ガラス製造の確立)もあり、屈折望遠鏡が花開いて1900年までは40インチ(101.6cm)までの大型望遠鏡が作られていたのです。しかし、その後は、メッキ技術が確立されたのでふたたび大型の反射鏡が作られるようになりました。その母材に使われたのが青板ガラスでした。当時、フランスのサン・ゴバン社が供給する大型母材の青板ガラスが主流で、米国のウィルソン天文台の60インチ主鏡にもこの会社のものが使われました。
- ■金属鏡(Metal Reflection Mirror)
- ニュートンが反射鏡による望遠鏡を作ったとき、反射鏡はブロンズ(真ちゅう)で作られていました。真ちゅうをそのまま磨いただけの望遠鏡でした。真ちゅうはスペキュラム合金(鏡金)とも呼ばれていて、当時、鏡として使うのに十分な硬さと反射を持っていました。ニュートンが使用した真ちゅうは、銅66%、錫22%、ヒ素11%、それに銀少々という合金でした。ヒ素を入れたのは合金を作るときに煮立った湯からスができにくかったからだったそうです。反射率はおそらく40%程度であったろうと考えられます。また、金属鏡は、使用するにつれて酸素に触れて曇ってきます。従って反射鏡は定期的に磨き直す必要がありました。それでも反射式望遠鏡は屈折式望遠鏡よりも性能が良かったのです。このことは、17世紀の時代では屈折望遠鏡に使う光学ガラスにろくなものがなかったことを物語っています。反射率が悪くてもコンパクトにでき、口径を大きくすることで今まで見えなかった天体が見えるようになるのですから注目を浴びないはずはありませんでした。
- 金属鏡は進化を続け、1800年代の中頃には、イギリスのロッス(Rosse)(正式名はウィリアム・パーソンズ・ロッスWilliam Parsons Rosse:1800 - 1867)が反射率の高い真ちゅう(ブロンズ)を研究して銅70、錫30の合金を作ります。この合金で反射率67%を達成したと言われています。合金にヒ素を入れなかったのは、ヒ素を入れると合金が脆くなって耐久性がなくなり大口径化には向かないためでした。ロッスは同時に真ちゅうを作る製造法も確立します。つまり、大きな合金は脆く製造途中で割れやすい性質があるために、徐々に冷やしていくアニール(焼鈍)の方法を開発したのです。彼は、その技術で口径6フィート(183cm)、口径比F8.83、厚さ7インチ(17.8cm)、重量9,000ポンド(約4トン)の主鏡をもつ望遠鏡を作りました。この望遠鏡は、銀河系を発見したそうです。
- 1835年にドイツの化学者 J. フォン・リービッヒ(Justus von Liebig:1803-1873)がガラス板に銀を化学メッキする方法を発明しました。これを応用して、ドイツミュンヘンの光学機器メーカであるスタンハイル(Steinheil)が100mm口径の凹面鏡に銀メッキを施しました。銀メッキの反射率は、従来の金属鏡に比べ格段に良好で、しかもガラス表面にもメッキができることから、金属鏡に替えて光学ガラス上にメッキする反射鏡が脚光をあびるようになり、時代は光学ガラスを使ってその上にメッキ(コーティング)を施す鏡へと変わって行きました。
- 大型反射鏡が精度よくできるようになった技術革新の中で、フランスの物理学者フーコー(Jean Bernand Leon Foucault:1819 - 1868)があみ出した球面検査法(フーコー・テスト)の功績をあげないわけにはいきません。フーコー・テストの発明により大型の球面鏡でも精度良く球面を出せるようになりました。フーコーの考え出した検査法は非常にシンプルで、点光源を球面鏡に照射させて反射させ、焦点を結ぶ位置にナイフを切り込んで主光線を遮り、陰影がどのように変わるかを目視で検査するやり方です。球面鏡が正しく研磨されていれば、ナイフエッジの切り込みで陰影が均一に消えていきます。球面鏡に歪みがあるとナイフエッジの切り込みよって凹凸が現れます。この状況を目視で確認しながら、球面を研磨していき均一な陰影像になるまでこれを繰り返します。この手法は、シュリーレン光学系の原理にもなったものです。
- ▲ 反射鏡メッキ(Front Silvered Mirror)
- 反射鏡が天体望遠鏡の主流になったのは、鏡表面を反射効率の良い銀やアルミの精度良いメッキができるようになったからです。メッキ技術は化学メッキから出発し、蒸着技術が確立されて分子レベルでの膜厚が可能になりました。蒸着は薄膜技術になくてはならない手法で、現在の光学分野で大切なものになっています。反射鏡では、銀とアルミによる蒸着が発展しました。銀は可視光域に対し93 - 98%の反射率を持ち、アルミニウムは92 - 86%です。銀の方が総じて反射率が高く赤外部ではアルミよりも良い反射特性を持っています。また、銀は化学的も簡単にメッキできるので実験室レベルでよく利用されています。ただ、アルミ蒸着に比べて耐久性がないために、現在の反射鏡にはアルミニウムが多く使われます。
- 耐久性があるアルミニウムでも東京のようなところで使用していると3年くらいで目に見えて表面が濁ってきます。我々がよく使う表面鏡や、シュリーレン光学系の凹面鏡はアルミニウム蒸着を施し、一酸化珪素(SiO)を保護膜として蒸着するのが普通です。この保護膜はとても強いもので重宝します。しかし、これは強すぎて逆に剥がすのがやっかいなので、天文台の大型反射鏡ではこの保護膜を使用しないそうです。保護膜とは別に、アルミニウムの反射効率を高めるために使用する波長の1/4波長(0.1um〜0.2um)の膜厚で多層膜コーティングを施します。使用される膜材料は、二酸化チタン(TiO2、屈折率2.35)、二酸化珪素(SiO2、屈折率1.38)などで、これを何層にも渡って蒸着し、可視領域に渡って97%の反射率を得ています。
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- ▼ プロジェクト発足
- 新世代の天体望遠鏡は、1970年代から1980年初めにかけて始まりました。その当時、欧米では3m以上の口径を持つ望遠鏡が次々と建設されていました。日本では、当時から遡って20年前、1960年にイギリスから輸入した1.88m口径の岡山観測所の望遠鏡が最大でした。その天体望遠鏡は、導入された当時は世界第10位であったそうですが、その後の大口径望遠鏡建設ブームの中にあって取り残されていく感が否めなかったそうです。
- 1982年に新しい天体望遠鏡建設の計画が動きだし、1990年代に完成させるプロジェクトが立ち上がりました。これが「すばる」望遠鏡計画の母体です。すばるは、1998年12月24日、ハワイ マウナ・ケア山(標高4,139m)に完成し、ファーストライト(first light、星からの最初の光を受けること)が行われました。
- ▼ 概略性能
- すばる天体望遠鏡のもっとも大きな特徴は、以下の点にあると思います。
- ・主鏡の大きさが世界最高レベル: 口径8.2m、リッチー・クレチアン式。
- ・主鏡の能動素子(Adaptive Optics)化で解像力が向上。
- ・天文台設置場所: 大気が安定し、光公害のないハワイマウナケア山に設置。
- ・観測装置: 高精細CCDカメラ及び分光装置の採用。
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- ・主鏡(Primary Mirror)
- 主鏡は天体からの光を集める大切なところで、基本的に口径が大きいほどたくさんの光を集めることができます。最近の最先端の主鏡は、10m径のものが主流となっています。これだけの大きな鏡をつくるのは並大抵ではありません。すばるでは以下の性能を持つ主鏡が採用されています。
- ・口径: 8.2m
- ・焦点距離: 15m
- ・口径比: F1.8(非常に明るい光学系)
- ・方式: リッチー・クレチアン式
- ・材質: ULE(米国コーニング社)
- ・厚さ: 200mm(口径と厚さの比: 42:1、薄い)
- ・重さ: 22,800kg
- ・研磨精度: 0.012um
- ・総合分解能: 0.23"(23/360000°)
- この主鏡は、材料を米国ニューヨーク州にあるコーニング社が請け負い、4年の歳月をかけて鋳込み、研磨は米国ペンシルバニア州コントラビス社に持ち込んで、さらに3年の歳月を費やして完成しました。研磨には、作業環境温度を一定にするために、米国ピッツバーグにある石灰岩の廃坑を採掘し直して30mの深さの穴を掘り、そこに研磨装置を設置して作業が行われたそうです。7年の歳月を費やした計算になります。
- ▼ AO(Adaptive Optics = 波面補償光学装置、Active Optics = 能動光学装置)
- 鏡が大きく作れるようになったのは、鏡の歪みを微妙に調整できるマイクロアクチュエータ制御装置の確立があったからです。鏡を大きくすると、その自重と温度変化で鏡が歪んでしまいます。しかし、マイクロアクチュエータによって鏡の歪みを補正する技術ができあがると、鏡を薄くしても鏡面を理想通りに保持することができるようになりました。鏡を薄くすると軽くなり取り回しも楽になります。すばるの場合、薄くなった鏡を背面から261本のアクチュエータで押したり引いたりして鏡に応力を与えて、鏡が回転して位置が変わる毎に自重によって歪む鏡面を補正して理想的な鏡面を作るようになっています。鏡を薄くしたことで、かえって精度の良いものにできるようになりました。
- また、地上から天空を望む望遠鏡の宿命として大気の揺らぎによる画質の低下は避けられない宿命となっていました。鏡の背面に配置された261本のアクチュエータは強制的に(能動的に)鏡を補正して、大気の揺らぎまでを補正する働きを持っています。このような積極的な光学補償装置を波面補償光学系(アダプティブ・オプティクス、Adaptive Optics、AO)と呼んでいます。なお、AOには、Adaptive Optics(波面補償光学装置)とActive Optics(能動光学装置)の二つの意味が混在して曖昧になっています。ミラーやミラー保持機能の補整を行う周波数の低い補整をActive Opticeと言い、大気の揺らぎのような10Hzから1,000Hz程度の周波数の光学補整を行うことをAdaptive Opticsと呼ぶ傾向があります。
・ アクチュエータセンサー 音叉式センサ
- 主鏡面を補整するアクチュエータの心臓部に、音叉式のセンサが使われています。主鏡を保持する機構は、三菱電機(株)が設計、製造を担当しました。アクチュエータに使われている圧力センサーには、おもしろいセンサーが使われています。それは、新光電子(株)が1983年より開発・製造している音叉式センサーと呼ばれるものです。新光電子(株)は、精密電子天秤の開発・製造をしている会社で、重さを量るセンサーとして彼らが開発した音叉式センサーを精密電子天秤に用いています。すばる建設の技術者達が主鏡のアクチュエータセンサーとして目をつけたのが、この音叉式センサーでした。
- 音叉式センサーの特徴を右図に示します。このセンサーは、荷重の検出機構に構造物の持つ固有振動数を利用しています。物には最もよく共振する固有の振動数をもっています。音叉はその代表的なもので、Uの字構造により極めて安定した固有振動数を発します。この固有振動数を持つ発振源が外部より力を加えられると音源に歪みができて共振周波数が変化します。その周波数の変化を検出して荷重を算出します。すばるに採用された音叉式センサーは、秤量(ひょうりょう)1500N(約150kgf)にて0.01Nを検出できる分解能を持っています。これは、150kgの力が加わった時、その力を1gの精度で測定できる(1/150,000)能力となります。
- 圧力を検知する測定装置は、音叉式センサーの他に、歪みゲージを使ったロードセル方式、コイルの電磁力(分銅の代わり)で重さを量るフォースバランス式(力平衡式)があります。電子天秤はこれらの仕組みを使った製品です。こうした重さを量る高精度センサーが幾種類かある中で、すばるのアクチュエータのセンサーに音叉式のものが選ばれた理由について、音叉式センサーは、
- ・堅牢な構造。
- ・シンプルで小型。
- ・作動時ウォーミングアップが不要なこと。
- ・温度変化に対する安定性が良い。
- ・消費電力が少ない。
- などの特徴をもっています。
- 右の音叉式センサーでは、U字音叉を二つ使用した構造となっています。この方がより安定した周波数の発振ができるそうです。この金属音叉振動子をてこや支点機構のモノブロック構造の中に入れて厚さ3mm程度の一体構造として信頼性を高めています。この構造物はワイヤ放電加工により加工されます。このセンサーに電源を投入すると、音叉振動子に取り付けられている圧電素子に電圧が加わり、一定の周波数(約2,000Hz)で振動するようになります。支点を介した力点部に加重が加わると支点を介して作用点にある音叉振動子に加重が伝えられて音叉振動子の発振周波数が変化(約200Hz)します。その変化を周波数ピックアップ用圧電素子によって読み取りコンピュータ処理されます。
写真提供: 国立天文台 - ・ レーザガイドスターシステム(Laser Guide Star System)
- 大気の揺らぎを補正するシステムは、建設当時から順を追ってステップが上げられてきて、つい最近(2006.11.21、朝日新聞発表)、大気のナトリウム帯域をガイド星としたレーザガイドスターシステム導入の完成を見て、全天にわたる光学補償ができるようになりました。すばるがこれまで行ってきた大気の揺らぎを補償する方法は、見たい天体近くの明るい星をガイド星としていたために、ガイド星のない遠い銀河や超新星の観測ができませんでした。今回のレーザガイドスターシステムは、観測したい天体に仮想の星(12等星程度の明るさ)を作ってその星を使って大気の補整を行うというものです。疑似星(ガイドスター)を作るのにレーザを使います。より詳しい原理を述べますと、すばる天文台より夜空にレーザ光を放射し、地表90km高にある大気のナトリウム帯域のナトリウム原子を励起させて発光させ、これを仮想の星とみなして、大気の揺らぎを観測し、AO(波面補償光学装置)によって補整するというものです。AOを用いると、光学性能が10倍向上するそうです。今回発表があったシステムは、589nmの発光を持つ4W出力のレーザが使われているそうです。ナトリウムの励起光が589nmであるので、この波長の発振が行える効率の良いレーザ発振器の開発が国立天文台と理化学研究所で続けられ、固体グリーンレーザ (10W)+ 色素レーザによる基礎研究の後に、2つのNd;YAGレーザ(1319nmと1064nm、和調発生器で589nmを得る)を組み合わせた、589nm発振、4W出力の装置(YAG和周波レーザ)が開発されました。このレーザを使って、観測する天体に向けて放射し90km上空にある大気のナトリウム層を通過させて、径500mm、奥行き5,000mに渡るナトリウム発光(D線、589nm)を起こし12等星相当の擬似的な星を作り上げます。この疑似星(ガイドスター)をすばるで見る場合、当然大気の揺らぎによってぼけた像となっているので、これをきちんとした像にするためにAO(Adaptive Optics)を使って正しい像になるように補整をかけます。この装置は、主面鏡とは別の波面補償光学系(可変鏡)で行い、188個の能動素子によって2,000Hzの周波数で波面が補整されるようになっています。補整に使う鏡の口径は、130mmで有効口径が90mmです。この鏡は2mm厚の薄い鏡で、鏡には圧電素子が組み込まれていて電圧によって変形するようになっています。補整は、大気から戻ってきた589nmのナトリウム発光光を主鏡で受けて188個のマイクロアレイレンズに導かれ、これを188本の光ファイバーで高速応答高感度光センサー(アバランシェフォトダイオード、APD)に導いて、ここで波面の分析が行われ可変鏡にフィードバックされます。
- ▼ ハワイ マウナケア山(Mt. Mauna Kea in Kona Hawaii)
- 大型の天体望遠鏡の設置には、大気の澄んだ場所で外乱光が少なく、一年中を通して大気の安定した場所が望まれます。こうした場所は世界中でも数多くあるわけでなく、チリとハワイの2箇所が一番適した所だそうです。すばるが設置されたハワイのマウナ・ケア山は、各国の大型天文台(合計13基)がひしめく大型天文台銀座のような所です。マウナケア山頂は標高4,200mあり、地上の天候に左右されず一年を通して晴れた日が多くしかも乾燥しています。回りに大きな都市がないため光害も少ない環境です。
- ▼ 観測装置
- すばるには、以下に示すような光学観測器機が搭載されています。ここでは我々がもっとも興味をもっているCCDカメラについて説明を加えたいと思います。
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- ■ CCDカメラ:すばる主焦点広視野カメラ(Suprime-Cam、Subaru Prime Focus Camera)
- すばるに使われている観測用CCDカメラは、Suprime-Camと呼ばれています。我々映像計測屋にとって、最先端の天体望遠鏡にどのようなCCDカメラが使われているのかを知ることはとても興味あるところです。Suprime-Camに使われているCCDカメラは、10枚のCCDチップで構成されています。1枚のCCDチップは、2,048x4,096画素のチップで構成され、これがタイル状に2列x5段=10枚並べられ、焦点面に配置されモザイク状の画像を得ます。従ってこのカメラは合計10,240画素x8,192画素の情報を持つことになります。このCCDは、撮像面全体を -98℃で冷却し画像ノイズを抑え、16ビット(65,000階調)の画像が得られるようになっています。CCDのタイプは、背面照射型フレームトランスファー型(Back-illuminated Frame Transfer CCD)と言って、光がCCDの背面から入射して受光します。受光面積は100%で、受光部を使って画素情報が転送される仕組みになっています。これをフレームトランスファ型CCDと言います。CCDは、一般的にシリコン基板上にフォトダイオード部と転送電極などが作られていますが、ダイオード部や電極部に比べてシリコン基板が厚く、シリコン基板からダイオード部に浸入する熱ノイズが画像信号に混入してS/Nの高い画像が得られません。背面照射型は、CCDの支持体であるシリコン基板を削り取って、削り取った面、すなわち、背面から光を入射させたものです。この方法にすると微弱な光信号もノイズに邪魔されずに16ビット階調画像を有効に取得することができるようになります。また、このCCDには画像転送部がなく、受光部を使って転送する方式なので、画像を転送する場合には撮像素子部を遮光しなければなりません。このため、メカニカルシャッタが必要になります。画素転送も転送ノイズを抑えるためにゆっくり行われ、転送に要する時間は1分となります。
- 【仕様】
- ・主焦点に配置された10枚の背面照射型CCDチップで構成されるカメラ
- ・撮像素子数: 2,048 x 4,096画素 x10枚
- 合計 10,240 x 8,192画素
- ・画素サイズ: 15um x 15um
- ・撮像面積: 153.6mm x 122.9mm(10枚のCCD合計)
- ・撮影波長: 300nm〜1,100nm
- ・濃度: 16ビット
- ・画像容量: 168MB/1枚合成
- ・メーカー: 米国SITe社、英国EEV(E2V)社、米国MIT-LL
- ・冷却: スターリングサイクルエンジン(3W x 2unit、176K = -98℃)
- ・撮影視野: 約30'(30/60°)。月の直径と同じ視野。
- ・読み出し時間:60秒
- ・飽和電荷: 80,000e-
- ・読み出しノイズ: 10e-
- ・シャッタ: メカニカルシャッタ 1秒〜
- ・フィルタ: 有効サイズ 192mmx158mm、 10種類同時格納
天体観測に使われているCCDチップは、現在の我々が理解しているインターライン型CCDと違って電子シャッタ機能がありません。このカメラに採用されているフルフレームトランスファ型はCCD素子ができた当初のタイプと言って過言ではありません。また、このCCDを使うと決めた時代は1990年代前半であり、当時メガピクセルサイズの計測用CCDカメラはほとんどが電子シャッタのないフルフレームトランスファ型でした。こうした天体観測用CCDチップを製作するメーカーは、英国のEEV(English Electron Valve、現E2V、Marconi社の傘下)社、米国ロッキード社傘下のSITe社、米国マサチューセッツ工科大学リンカン研究所のMIT-LLでした。これらの機関が熱心に天体観測用のCCD素子を開発していました。現在も、これらの機関が中心になって天体観測用のCCD素子を開発しています。現在、我々が日常に使っているデジカメにも4,000x3,000画素程度の撮像素子が使われていて、画素だけを見ればあまり目新しい感じは受けません。しかし、天体観測用に使われるカメラは、画素数もさることながら、画素1つ1つの特性、電子冷却によるノイズの低減、転送時におけるノイズの低減、微弱光をとらえるための高感度素子が大切な性能となります。右に示した図は、φ150mmのシリコンウェハーから作られるCCD撮像素子のパターン図です。このウェハから6個のCCD撮像素子ができます(歩留まりが良ければ)。すばるで使われている撮像素子は合計10個ですから、この基板で作られる6個のCCDにさらにもう一枚の基板から作られる素子をあてがう必要があります。一般のCCD素子は非常に小さいので、同じφ150mmのウェハーからこれよりもはるかにたくさんの素子を作ることができます。
- すばる望遠鏡に使われているSuprime-Camは、受光する電荷が80,000e-と言われ、読み出しノイズが10e-となっているので、S/Nで言うと78dB(8,000:1)の能力を持っています。一般のCCDが256階調で10程度のノイズを持っていますから、その能力は、310倍もすぐれています。
- このカメラは10年ほど前(1990年半ば)の設計思想で作られています。今ではそれほど目新しくない高画素素子でも、当時は時代の最先端を行く技術でした。当時は1,000x1,000画素が一般計測に使われ始めた時代で、そんな大きな画像をデジタル処理するパソコンもありませんでした。RAMメモリも32MB程度でHDDも1000MBがせいぜいだったので、多くはビデオ信号で画像を処理して、ビデオテープやビデオディスクで保存している時代でした。そんな時代に168MBの画像によるカメラが作られていたのです。
- すばる天体望遠鏡では、このほか、以下に示すような光学観測装置が装備されています。
- ■ コロナグラフ撮像装置(CIAO、Coronagraphic Imager with Adaptive Optics)
- 主焦点に取り付けられた暗い天体を赤外線で撮影するための装置。明るい天体にマスクをかけて明るい天体の近くにある暗い天体を観測するもので、太陽以外の惑星の存在を探るのが目的。
- ■ 微光天体撮像分光装置(FOCAS、Faint Object Camera And Spectrograph)
- 非常に暗い天体を観察する分光装置。1時間の露光で28等星を観察。分光機能を備えていて銀河形成過程の研究に利用。
- ■ 冷却中間赤外撮像分光装置(COMICS、Cooled MidInfrared Camera and Spectrometer)
- 10um〜20um帯域の赤外線での天体観測をする装置。非常に長い波長の検出を行うため、装置は4K(-270℃)まで冷やされて使われる。惑星の形成過程や系外銀河の形成過程を観測。
- ▼ すばる以外の大型望遠鏡
- 以下に、世界の巨大天体望遠鏡の一覧を示します。この表から、大型天体望遠鏡は、ここ10年の間に次々に作られてきたことがわかります。主鏡は単体で口径10mクラスまで作られるようになり、複数の鏡と組み合わせて10m以上のものができるようになっています。これら大口径の望遠鏡が作られるようになった背景には、光学ガラスが低膨張率のものが作られるようになったことと、AO(Adaptive Optics)の進歩により大型で薄型の主鏡でも十分な解像力を持つことが可能になったことが大きな理由と考えられます。
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全世界の大型天文台
大型天体望遠鏡は、この他に、アメリカ国立光学天文台(アリゾナ州)では、25mの主鏡を持つELT(Exremely Large Telescope)の建設が計画されていて、ケック望遠鏡では、30mの主鏡を持つCELT(California Extra Large Telescope、カリフォルニア超巨大望遠鏡)の計画があります。これらの巨大な口径を持つ鏡は、共に対角線1mの正六角形の球面鏡セグメントを蜂の巣状に組み合わせて一つの大きな鏡としています。ELTでは、91枚を用い、CELTでは1,080枚を使うという計画です。CELTは、その後2004年に第二案を発表し、セグメントミラーを大きくし対角線1.4mとして614枚にして30mの主鏡を作る案も出しています。光学望遠鏡も10mを越える大きなものが登場する時代になりました。
▼ 生い立ち
- ハッブル宇宙望遠鏡は、宇宙開発時代と共に産声を上げました。宇宙望遠鏡の構想は1946年に米国天文学者Lyman Spitzerの提案した大気圏外に設置する望遠鏡(Astronomical advantages of an extra-terrestrial observatory)に始まります。米ソ両国で宇宙開発が始まった1950年代より20年後の970年代後半に、アメリカ航空宇宙局(NASA)がグレート・オブザーバトリーズ計画を打ち出しました。地球上では観測困難なガンマ線とX線、それに可視光(近紫外、近赤外を含む)と赤外線をカバーする大きな天文衛星を4機打ち上げるという計画でした。可視光は、当然のことながら地上まで届く光線ではありますが、大気の揺らぎで画質が劣化するために、大気圏外での可視光観察が望まれていて、その意味で可視光望遠鏡ハッブルの期待は大きかったのです。この計画は、1977年にまず予算がつき、可視光とガンマ線の天文衛星建設の認可が下りました。これがハッブル宇宙望遠鏡とコンプトンガンマ線衛星でした。ハッブルと言う名前の由来は、銀河系が驚くべき速度で移動していることを発見したアメリカの天文学者エドウィン・ハッブル博士(Edwin Hubble:1889 - 1953、系外銀河の提唱者、へール博士の弟子)にちなみます。米国政府によるハッブル望遠鏡プロジェクトの認可がおりたものの、ハッブル望遠鏡が実際に宇宙に飛び立つまでに13年の年月がかかりました。開発の遅れは、プライマリーミラー(主鏡)製作の遅れに加え、周辺装置の不具合、コンピュータソフトウェアのバグ、スペースシャトル・チャレンジャー号の爆発事故が重なったためでした。
- ▼光学的性能
- ハッブル宇宙望遠鏡は、大きさφ4.3m(太陽電池を拡げると巾12.0m)、長さ13.3mで重さが12トンあります。望遠鏡の形式は、リッチー・クレティアン(Ritchey-Chretien)式でカセグレン式をさらに改良して視野を広く取ったものです。ハッブルの主鏡は、米国Perkin-Elmer社(Danbury, Connecticut)(現在は、 Hughes Danbury Optical Systems社) が請け負い、設計製作が行われました。主鏡は、口径2.5mで厚さが300mm、中心部に600mmの穴が空けられドーナッツ状になっています。重さは900kgでした。厚さと口径の比は1:8.33であり、感覚的にかなり薄い鏡です。日本がハワイのマウナケアに設置した天体望遠鏡「すばる」の口径8.2mに比べてかなり小さい口径ですが、宇宙に持って行くにはこの大きさが精いっぱいだったのかも知れません。鏡に使われた材料は、米国コーニング社(Corning)が開発した超低膨張ガラスULE(Ultra Low Expansion)であり、「すばる」の鏡材料にも使われています。ハッブルの口径では、この材質を使ってもハニカム構造にすることができるようです。「すばる」のような大口径主鏡ではハニカム構造とすることができないために、別の方法で作られています。この鏡材をコンピュータ制御とレーザ計測手法によって1/20波長精度(30nm)で双曲面状に研磨していきました。さらにこの鏡の上に、75nm(ナノメートル)厚のアルミ蒸着と25nm厚のフッ化マグネシウムのコーティングがなされました。口径2.5mで30nmの精度の研磨加工と言うと、東京ドーム大のグランド(100m x 100m)を0.12mm以下の凹凸でならすようなものです。そのぐらいにしないと紫外線から赤外までの光を精度よく一点に集めることができません。
- ■主鏡の主な仕様
- ・口径: 2.4m(94.5インチ)
- ・焦点距離: 57.6m(189ft)
- ・タイプ: リッチー・クレチアン(Richey-Chretien)型
- ・集光面積: 約4.3m2(46ft2)
- ・口径比: F/24
- ・厚さ: 最大300mm
- ・材質: ULE(Ultra Low Expansion)
- ▼ミラー研磨のトラブル
- ハッブル主鏡の研磨作業は、1979年に始まり1981年まで続きました。この研磨作業の過程で、NASAはパーキンエルマーのやり方に異議を唱えたため、これからさらに作業が遅れ、大規模な追加予算計上も余儀なくされました。NASAは、予算が突出するのを防ぐためにスペア用のミラーを製造することを中止し、ハッブルの打ち上げを1年遅れの1984年10月に延期させることも決めました。研磨作業がなぜこれだけ遅れたのかというと、激しい受注活動のためにパーキンエルマー社が自分の技術部門が提出した見積よりもさらに低い見積と短い工期を提案して受注してしまったからだと言われています。また、当時のパーキンエルマー社は、比較的小ぶりな精密光学機器の設計製造は実績があるものの、ハッブルのような大型で特別に精度の要求する部品の製作は初めてでした。このプロジェクトを遂行するためにパーキンエルマー社は、最先端のレーザ測定機器と研磨加工機をあつらえて製作に入ったのですが、これがうまく行かず工程が遅れてNASAや関連機関からかなり強いプレッシャーがかけられたそうです。そのプレッシャーもまた納期遅れにつながったとも伝えられています。パーキンエルマー社とは別に、バックアップ用としてKodak社も同じミラーを製造する契約を結んでいて、旧来の手法によってNASAの要求する仕様を満たしたミラーを計画通り製作して納品しました。これもパーキンエルマー社に強いプレッシャーを与えたようです。Kodak社のミラーは、現在スミソニアン学術協会 (Smithsonian Institution)に展示してあるそうです。パーキンエルマー社の受注したミラーは、実際にはさらに遅れたため、最終的には打ち上げが1986年9月まで延期されました。打ち上げ予定の8ヶ月前、1986年1月にチャレンジャーの事故があり、NASAの宇宙計画そのものが遅れてしまいました。ハッブル望遠鏡が最終的に打ち上げられたのは、それから4年遅れた1990年4月となり、ディスカバリーによって宇宙に運ばれました。4年の延期期間中ハッブルはクリーンルームに保管され、打ち上げの順番を待っていました。
- ▼ 活躍
- 1990年に打ち上げられたハッブル望遠鏡は、すぐに活躍をし出したかというとそうではありませんでした。打ち上げ後の2ヶ月目でハッブルに決定的な欠陥があることがわかりました。念入りに作られた主鏡であったのにもかかわらず、球面収差がありピントのボケた画像しか得られないことがわかったのです。ぼやけた像の原因は、口径2.4mの主鏡の端が、設計値よりもたった0.002mm(2ミクロン)平になっていたからでした。このほんのちょっとした製造ミスが像を50mmにボケさせ、点像として結ばせることができなくしてしまったのです。
- 大きなプロジェクトを失敗に終わらせたくないNASAと天文学者チームは、画像処理ソフトを開発して球面収差を画像で補正する手法を考えだしました。この画像処理ソフトウェアは、一定の成果をあげ、なんとかものになる画像が得られるようになりました。このソフトウェアは優秀なもので、別の用途である乳ガンの検診に流用されるという副産物を得ました。また、ハッブル望遠鏡は、当初からスペースシャトルによる定期的な保守、点検、アップグレード作業による運用が計画されていました。アップグレードに、観測装置を最新のものに交換するサービス・ミッションや、望遠鏡の姿勢制御を司るジャイロ、それに太陽電池パネルの交換が含まれていました。このプログラムを通じて、抜本的なハッブルの性能回復の修復プログラムが組まれました。1993年に行われた最初のサービス・ミッションは、4人の宇宙飛行士によって述べ5日間、合計35時間28分に及ぶ船外活動がなされ、主鏡の球面収差を補正する光学装置と周辺装置が組み込まれました。このサービス・ミッションは、COSTAR = Corrective Optics Space Telescope Axial Replacementと呼ばれています。この作業により、ハッブルはまさに「不死鳥」の如くよみがえりました。この大きな手術を経てハッブルは、これまでにないクリアな天体画像を我々に供給してくれるようになりました。その中には、地上望遠鏡では決して見ることができない驚くべき高画質なものが多数ありました。また、ハッブル宇宙望遠鏡の功績は、宇宙の年齢が約137億年であることを裏付ける観測や、地球から最も遠い「ウルトラ・ディープ・フィールド」(超深宇宙)にある銀河の発見、そして暗黒物質の環(a ghostly ring of dark matter、地球から50億光年離れた銀河団で発見されたもので、直径は260万光年。10億〜20億年前に二つの銀河団が衝突し、その衝撃で周囲の暗黒物質が波紋のように広がったとされる)などがあり、多くの成果をあげています。
- ▼ 引退
- ハッブルは、その後何度かのサービス・ミッションを受け観測装置の刷新や運用装置の交換が行われています。しかし、このハッブルも2013年で現役を引退すると言われています。その後は、次世代のジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(James Webb Space Telescope、JWST)が2013年に打ち上げられ、この望遠鏡にバトンタッチをする予定になっています。ジェームズ・ウェッブは、NASAの第2代長官でアポロ計画を推し進めた人物です。彼は在任中、惑星探査を含めた75回にも及ぶ科学ミッションを遂行させ、1965年の早い時期に宇宙望遠鏡の必要性を訴えてハッブル望遠鏡の実現に多大なる功績を果たしました。その功績をたたえて、ハッブルの後継機に彼の名前が付けられることになったのです。しかし、ジェームズ・ウェッブ望遠鏡は赤外望遠鏡であり、ハッブルのように可視光望遠鏡ではありません。その理由からか、ハッブルの延命を望む声は強くあります。
- 輝かしい実績を残しているハッブルにも終焉の時は来ます。その終焉は、現実的にはハッピーエンドになりそうもありません。宇宙開発にはお金がかかります。そして多くの事故が伴います。スペースシャトルの事故の教訓以来、NASAはスペースシャトル計画に終止符を打ち、2008年までにスペースシャトルに代わる有人探査機(CEV)を開発し、これによって宇宙ステーションの建設を進めていく方針を打ち出しています。宇宙ステーションは、ハッブル望遠鏡とは別の周回軌道で運用されています。従って、ハッブルのためだけに予算を計上してサービスプログラムを遂行することが困難になってしまいました。ハッブルのサービス・ミッションは、船外活動が中心となるため非常に危険が伴います。フェイル・セイフ(Fail - Safe Program、万一事故が起こったとき飛行士やスペースシャトルを安全に帰還させるというバックアッププログラム)が十分になされないサービス・ミッションは計画が立てられないという理由から、スペースシャトルはハッブルの維持(サービス・ミッション)を行わないことを決定したのです。
- こうしたハッブルの余生をなんとか延命させたいという専門家や一般市民の声が大きな活動を行っていますが、現実には高額な予算や安全性も絡むため具体的な良案は示されていません。(→その後の発表2006.11、2009.05.15)
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- ▼ ハッブルの今後の問題
- 2013年に、ハッブルの役割が終わることは当初からの計画通りだとしても、その終焉までには多くの問題がつきまといます。ハッブルは、スペースシャトルのサービス・ミッションを当て込んで建設されているため、維持管理作業が絶たれると寿命を縮めかねません。ハッブルには、6個のバッテリーがあり、周回軌道時間( = 96分)のうちの夜の部分(最長で36分)で使う電気は、太陽電池パネルでの充電でまかなっています。そのバッテリにも寿命があり、100,000回程度の充放電で命がつきると言われています。この寿命は、2007年から2008年に訪れる計算になり、その間に新しいバッテリに交換しないと、ハッブルの寿命は尽きてしまいます。
- また、ハッブルの姿勢を制御するジャイロは、6個組み込まれていて、運用には、3個のジャイロを使い、残り3個はバックアップ用でした。そのジャイロは、打ち上げ早々、2個が故障で使えなくなり4個で運用を続けてきました。2005年には、4個のジャイロを2個づつに分けて、2個で運用する方法に切り替えました。残り2個はバックアップ用です。本来なら3つのジャイロを使わなければ精度の良い姿勢保持ができないのですけれど、やむにやまれぬ措置のようです。その4つのジャイロのうち1つは、2008年に命が尽きると言われています。
- ハッブルは、長さ13メートル、重量12トンの巨大建造物です。それが、地上高600kmの非常に低い軌道で周回しています。2013年にハッブルの命が尽きたとき、ハッブルは大気圏に突入し南北緯度56度のどこかに落ちます。巨大な建造物は、完全に燃え尽きることはないため残骸がいずれかの地上に落ちます。その残骸を、安全な場所に打ち落とすための軌道修正を行わなければなりません。
- 今、NASAは、宇宙開発で重大な局面に立たされています。それは主に予算です。宇宙開発には、膨大なお金を必要とします。このハッブルプロジェクトに関しても、立ち上げ当初は4億ドル(500億円)を見込んでいたのに、実際の収支は当初の15倍の60億ドル(7200億円)にもなろうかと言われています。巨大な予算をどのように計上していくかについても、米国で常に論議される重要な課題になっているのです。
- ●その後の発表 (2006.11.01)(2009.05.15追記)
- 2006年11月1日付朝日新聞の夕刊によりますと、米国NASAは、特別に、スペースシャトルによるハッブル宇宙望遠鏡(HST)の修理プログラム(サービスミッション、SM4)を実行すると発表したそうです。米航空宇宙局(NASA)のマイケル・グリフィン長官は、10月31日の発表の中で、2008年5月にスペースシャトルを打ち上げて、7人の宇宙飛行士がハッブル宇宙望遠鏡に近づき、老朽化が進んでいる電池や姿勢制御装置を新品と交換するほか、新型カメラ(WFC3)などを新たに設置するとしました。これまで、NASAは、ハッブルの修理飛行には、国際宇宙ステーション(ISS)に向かう通常の飛行とは運行が異なるため、シャトルに何らかのトラブルが発生した場合、シャトルの乗組員がISSに緊急避難するという安全対策がとれないため、ハッブルの修理プログラムに前向きではありませんでした。また、NASAは、ISSの建設を急がなければならないという課題も抱えていました。修理飛行を決めた理由についてグリフィン長官は、2006年を通したここ3回のシャトルの飛行で、シャトル運営の安全性向上が確認できたことを上げていました。シャトルの飛行を含めた修理プログラムにかかる費用は、約9億ドル(約1050億円)と見積もられています。これまで使った全費用の15%( = 60億ドル x 0.15)を新たに計上することになります。
- (2009.05.26追記) 2008年5月に行われるはずだったサービスミッション(SM4)は、11月に延期され、さらにアトランティスの打ち上げ直前に、ハッブル側に深刻な故障が起きたため(コントロール・ユニット/科学データフォーマッター = CU/SDF の故障のため、アトランティスで修理する必要が出てきたため)、打ち上げが再度延期されました。SM4は、最終的に2009年5月11日にスペースシャトル・アトランティスによって、スコット・アルトマン船長以下7名のクルーが乗り込んで実行に移されました。SM4は、11日間の任務で、5回の船外活動と、広角カメラの取り替え、故障したデータ伝送装置の交換などが行われます。このミッションがうまく行くと、ハッブルは2014年まで運用できるようになります。
- SM4は、無事に遂行され、アルトマン船長以下7名のクルーは、現地時間5月24日午前8時、米国カルフォルニア州エドワーズ空軍基地に降り立ちました。(2009.05.26)
- ハッブルは先にも述べましたように、NASAが現在進めている宇宙ステーション計画とは違う軌道のため、SM4に不測の事態が起きたときに、乗務員(クルー)を安全に退避させるための処置として、地上(ケネディ宇宙センター)で乗務員救助用のスペースシャトル「エンデバー」が待機していました。すごい壮大なサービスミッションと言わざるを得ません。また、ハッブル宇宙望遠鏡の人気と、任務の高さを改めて痛感した出来事でした。
- ▼ ハッブルに搭載されている光学カメラ (2006.11.09記)(2009.05.02追記)
- (WFPC2:Wide Field Planetary Camera 2、1993年搭載)
- (2004年からは、3号機、WFC3 = Wide Field Camera 3 の運用が予定されていたが、延期されたため2009年5月まで待機しSM4で交換作業完了。)
- CCDカメラの発展に比べて、宇宙に持っていくカメラはおいそれと簡単には交換できないために、現在のハッブルは1993年に打ち上げられた2代目のCCDカメラを16年間も使用しています。現在のCCDカメラの発展に比べて、ハッブルのCCDカメラは古い感じを受けます。しかし、それでもハッブルから送られてくる画像は息を呑むほどきれいです。そのハッブルのCCDカメラの性能を以下に紹介します。
- 【WFPC2の仕様】
- ・タイプ: MPP(Multi-pinned phase)正面照射CCD x4枚構成
- ・画素: 800x800画素
- (4枚のCCDをモザイク状に合成するため、合計1,600x1,600画素)
- ・メーカー: Loral Aerospace社
- ・素子サイズ:15um x 15um
- ・波長感度: 120nm〜1,100nm
- ・撮像素子面処理: Lumogenコーティング(UVに感度を持たせたもの)
- ・視野角: 150"x150"(2分30秒角x2分30秒角)
- ・内蔵フィルタ: 48枚
- ・読み出しノイズ: 5e-
- ・ダークカレント: 0.0045e-/s/pixel(-88℃)
- ・飽和電荷: 53,000e-
- ・A/D変換: 12ビット
- ・露出時間: 0.11秒〜10,000秒(2時間46分)
- ・メカニカルシャッタ:露光を制御する2枚羽根機械シャッタ。
- ・画像読み出し時間: 60秒
- ・電子冷却: -88℃
- ・特徴: 広角撮影が特徴。4つのCCD素子によるモザイク撮影。
ハッブルに搭載されているカメラ(WFPC2)(2009.05月まで運用)には、フルフレームトランスファー型CCDカメラ(Full Frame Transfer Charge Copuled Device)が使われています。CCDの初期のタイプです。画素に蓄えられた画像情報は、画素を使ってバケツリレーのように転送されます。従って、転送中は光が入らないようにメカニカルシャッターで撮像面を覆わなければなりません。また、高速で読み出すとノイズが入るので、ゆっくりと読み出します。読み出しノイズを除去するために、CCDの操作はMPP(Multi-pinned phase)モードで行われています。MPPとは、フルフレームトランスファ型CCDの長時間露光で行われる読み出しモードで、露光中に印加電圧を負電荷に振っておくやり方です。こうすることにより受光中と転送中のノイズが低減されるそうです。素子は、1画素15umx15umで、現在のCCDに比べて大きいものです。これが800x800画素で一つの撮像面を作っていますから、撮像素子面は12mmx12mmの大きさになります。
- この撮像素子を4枚使って広い範囲の天体を撮影します。4枚のCCDをタイル状に組み合わせて、1600x1600画素(実際はオーバーラップ分があるので1500画素相当)の画像を得ることができます。CCDをタイル上に組み合わせると書きましたが、実際は、隣同士で貼り合わせているわけではありません。画像処理工程で貼り合わせが行われます。主鏡から導かれたメインビームは、ピラミッドミラーで4分割されそれぞれ4つのCCDに入ります。その間に、光軸調整機構とリレー光学系が入り、画角の調整、フォーカス調整が行われています。
- ハッブルの画像の大きな特徴に、広い視野の天体撮影が上げられます。ハッブル宇宙望遠鏡とカメラ(WFPC2)の組み合わせでは、1画素が0.1秒(1/36,000°)の視野になるように作られています。800x800画素のCCDを4枚組み合わせますので、総合して1600x1600画素の画像となりますが、1600画素のうち100画素分がオーバラップする部分(のりしろ)となるためにモザイク撮影の総合視野は150秒(2分30秒角)となります。これは、天体望遠鏡用のCCDカメラとしては広視野です。Wide Field(広視野)と名前が付けられている所以です。
- 右の図がWFPC2の撮影する視野 = 宇宙です。4つのCCDカメラがそれぞれの宇宙空間を分担して撮影します。右上のPC(Planetary Camera)だけは、視野をわざと小さくして、つまり、1画素あたりの視野角を0.048"と倍以上に小さくして分解能を上げています。カメラ撮影で言うところのズームアップ撮影となります。WF(Wide Field)2、3、4カメラは、広い範囲の撮影を受け持ち、銀河系撮影に使い、PCカメラは、近くにある太陽系の惑星を撮影する目的に使います。
- ▼ 新しいカメラWFC3 (2006.11.09記)(2009.05.15追記)
- ハッブルが1990年に打ち上げられて、2009年で19年が経ちます。CCDカメラは、その間、1993年に2号機と交換されました。そのカメラも16年が経ちました。CCDカメラ業界で16年はとても長いスパンです。この間、地上にある撮像素子は驚くほど進歩しました。ハッブルにも、新しいCCD素子を入れ替えたいという要求は絶えずあり、計画にも乗せられていましたが、スペースシャトルの事故や、予算の削減、計画の変更などで実行が延び延びになっていました。3番目のCCDカメラは、2009年5月、SM4(サービスミッション4)で2番目のカメラ(WFPC2)と交換されました。
- WFC3(Wide Field Camera 3)カメラは、1997年にプロジェクトが発足し、2004年に完成して待機していました。このカメラは、母体がハッブルに取り付けた1号機(WF/PC1 = 最初に打ち上げた時のカメラ)と同じであり、共有できる部品を流用しているそうです。2006年10月末には、このカメラをハッブルに持って行って古いものと交換することが決まりました。サービスミッション(SM4)が認可されて2008年5月に実行されることになったのです(実際は、一年遅れの2009年5月に遂行)。
- このプロジェクトには、米国Ball Aerospace社(他に、NASA Goddarad Space Flight Center、STSci、JPL)が参画しています。Ball Aerospace & Technology Corp. (BATC)社は、Ball Corporation社の関連会社で、宇宙開発関係の機器を開発している50年の歴史を持った会社だそうです。この会社は、ハッブル宇宙望遠鏡の光学的な欠陥がわかったとき、1993年にその対策を請負い、COSTAR(Corrective Optics Space Telescope Axial Replacement)作業を行ってハッブルを見事に復活させた会社です。この功績により、次期カメラの製作にも携わることになり、WFC3の製作を任されました。
- WFC3は、これまでの4つのCCD素子に代えて、2つの素子にしています。一つは近紫外から近赤外までを受け持つCCD素子で、もう一つは赤外域に感度を持つIR素子です。
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- 【仕様 - 可視域カメラ】
- ・タイプ: 薄型背面照射CCD、2素子1枚構成
- ・画素: 2,051x4,096画素 x 2素子
- (合計4,102x4,096画素)
- ・メーカー: E2V - Marconi 社
- ・素子サイズ:15um x 15um
- ・波長感度: 200nm〜1,000nm
- ・撮像素子面処理: UV アンチリフレクションコーティング
- ・視野角: 164"x163" (0.04"/画素)
- ・内蔵フィルタ: 62枚
- ・読み出しノイズ: 3.1e-
- ・ダークカレント: 0.00014e-/s/pixel(@-88℃)
- ・飽和電荷: 85,000 e-/pixel
- ・A/D変換: 16 ビット
- ・露出時間: 0.5秒〜10時間
- ・電子冷却: -100℃
- 【仕様 - 赤外カメラ】
- ・タイプ: HgCdTeアレイ素子 モデル Hawaii
- ・画素: 1,024 x1,024画素
- ・メーカー: Rockwell Scientific社
- ・素子サイズ:18um x 18um
- ・視野角: 123"x137" (0.13"/画素)
- ・波長感度: 800nm〜1700nm
- ・内蔵フィルタ: 15枚
- ・読み出しノイズ: 30e-
- ・ダークカレント: 0.2e-/s/pixel(-88℃)
- ・飽和電荷: 100,000 e-/pixel
- ・A/D変換: 16 ビット
- ・露出時間: 4.3秒〜10時間
- ・画像読み出し時間: 約8秒
- ・電子冷却: 6段式電子冷却にて 145K(-123℃)
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- ▲ モード(Mode)
- 画像用ファイバーではあまり大きな問題とされず、通信用ファイバーで大きな問題となるものに、ファイバー内部を伝送する距離の違い、いわゆるズレがあります。光ファイバーは、光の全反射の性質を使ってファイバー内を伝搬することを述べました。ファイバー内部の光の伝搬状況は、右の図のようになります。光が伝わる光路をモードと呼びます。モードは、全反射を起こす角度が一番大きい( = 入射角が最大)ものを基本モードと呼んでいて、基本モードを0次として、以下1次、2次、・・・、n次となります。入射角度が次数で表されるのはなぜかというと、光ファイバー内では、長い距離を伝送するためには定在波(Standing Wave)の存在が必要で、定在波は連続ではなく飛び飛びとなるためです。光ファイバーのように伝送する口径が小さい(光の波長の100倍以下)ですと、離散的なモード分布が顕著に現れます。
- 光ファイバーには、たくさんの光路伝送を持つマルチモードファイバーと、一通りの伝送経路しか持たないシングルモードファイバーがあります。さらに、マルチモードファイバーには、コア部の屈折の方式によってステップインデックス(SI、Step Index)型とグレーテッドインデックス(GI、Graded Index、Gradient Index)型があります。
- モードは、画像伝送用に使うファイバーではそれほど重要な意味を持つものではありませんが、データ伝送用の光ファイバーでは重要な意味を持ちます。つまり、データ通信用として右図(a)のステップインデックス型マルチモードファイバーを使うと、いろいろな角度を持った全反射光が伝搬され、反射角の大きいもの(θ2)は光路が長いので、長い距離を伝搬し、反射角の小さいもの(θ1)との光路差がでてしまいます。これをモードの分散(mode dispersion)と呼びます。モードの分散は、周波数の高い光データ信号を送る場合に混信の原因となります。これを解決するためには、
- 1. モードが変わっても伝搬時間が揃うようにする。
- 2. 単一モードだけしか伝搬できないようにする。
- という二つの方法が考えられます。
- 1.の複数モードの伝搬時間を揃える方法として、右図の(b)に示されるGI型マルチモードファイバーがあります。この光ファイバーは、コア部の屈折率が外側に行くに従い屈折率が小さくなるような屈折分布を持っていて、コアの外側を通る光は内部を通る光よりも速く伝搬できるようにしてあります。このような理論(屈折率の放物線分布)を元に、コア部の屈折分布を最適化すれば複数のモードで伝搬する光に対して遅れがなくなります。
- GI型光ファイバーの欠点は、理想通りの屈折分布を持つファイバー製造が難しい点にあります。従って、長距離データ転送には、現在のところ2.の単一モード転送の光ファイバー、つまり、右図に示す(c)のシングルモードファイバー(Single Mode optical Fiber、SMF)が使われています。シングルモードファイバーは、コア径をどんどん細くしていって全反射を行う角度範囲をどんどん狭めていく手法をとります。こうするとファイバー内を伝搬する経路は一通りしか取りえなくなり、基本モードだけが残るようになります。シングルモードファイバーのコア径は10um程度で、マルチモードファイバーの50umに比べて1/5程度に細くなっています。シングルモードのコア径は、使用する波長の10倍以下と言われています。
- シングルモードファイバーでは、コア径が小さくて、かつ入射できる光の角度が制限されるため、N.A.が低く、これを画像伝送用途として使うには伝送効率が悪くて暗い光学系となってしまい、あまり望ましいものとは言えません。シングルモードファイバーは、データ転送用で使うことが多いものの、光をファイバー内に入れるのが難しく、光源との結合や光ファイバー同士の接合に細心の注意を払う必要があります。
- シングルモード光ファイバーは現在の光データ通信では最も適したものであるために、日本で生産される光ファイバーの90%以上がシングルモード光ファイバーであると言われています。
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代表的なテレセントリックレンズの仕様 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- ■ デジタルカメラと像側テレセントリックレンズ
最近、主流になっているデジタル一眼レフカメラのレンズにもテレセントリックレンズが使われる傾向にあります。テレセントリックレンズと言っても、像側テレセントリックレンズです。
- ご承知のようにデジタルカメラは、銀塩フィルムと違って1画素の受光部が回路の奥に引っ込んだ奥目構造になっています。この構造故に、画像の周辺部は中央部よりも光量が十分に到達できず、光量低下の原因を作っています。この問題の解決のために像側テレセントリックレンズを開発する動きが出てきています。オリンパスと米国Kodakが中心となって、フォーサーズ(Four Thirds)という規格を作り上げて、カメラとレンズを提供しだしています。
- この規格の骨格は、従来使われてきた(銀塩)フィルムカメラ用のレンズが果たしてデジタルカメラレンズに最適だろうか?という疑問から来ています。撮像素子の奥目に対応するためには、デジタルカメラ用レンズを新たに作る必要があるだろうとするものです。そして、新しい撮像素子サイズの提案です。彼らは、固体撮像素子の大きさを4/3型(3分の4インチサイズ、3分の1が四つ、だからfour thirds)としました。この素子は、17.3mmx13mmの大きさを持っています。フィルムの半分(対角線長がφ43.27mm→φ21.64mm)の大きさです。縦横比(アスペクト比)は、1:1.33です。これは、フィルム(映画)のアスペクトではなく、テレビ画面(4:3)のアスペクトです。もちろん、カメラ側のマスキング操作によって、フィルムカメラの3:2やハイビジョンの16:9に対応できるようになっています。
- 現在、このグループには、Kodak、Olympus、Panasonic、Leica、SIGMA、FujiFilm、SANYOが参加して、レンズ、素子、カメラ本体を供給しています。
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