エメラルド・シティと呼ばれるとおり豊かな水と深い緑に囲まれ、「全米で最も住みやすい都市」として知られるシアトル。ボーイング社をはじめ、マイクロソフトやスターバックス、アマゾン等の世界企業が本拠を構えるこの地に、ANAはこの7月から乗り入れを開始しました。
シアトルと日本との関係をひもとくと、1896(明治29年)に日本郵船三池丸がシアトルに入港したことに始まります。当時、極東と東海岸の輸送は、鉄道と船を繋ぎ、サンフランシスコ経由で盛んに行われていましたが、シアトルならば1日短縮できるという、グレート・ノーザン鉄道の提案を受けて、航路の開設に至ったそうです。
「グレート・ノーザン鉄道を父に、日本郵船を母に」とも言われるとおり、こうして貿易拠点として、またゴールドラッシュの中継地として急速に発展したシアトルには、多くの日本人が移住し、戦前、日本人街が栄えたそうです。現地を訪れた永井荷風は、著書『あめりか物語』〈1908年(明治41年)〉の中で、当時の日本人街の様子を「豆腐屋、汁粉屋、寿司屋、蕎麦屋、何から何まで、日本の町を見ると少しも変った事のない有様に、少時は呆れてきょろきょろするばかり」と書いています。当時のシアトルには7000人ほどの日本人が居住していたそうで、南東部のインターナショナル・ディストリクトには、今も日系スーパーや日本語書店、邦字新聞社等が残っています。
さて、このシアトル航路で活躍したのが、横浜の山下公園で今も勇壮な姿を見ることのできる氷川丸です。1930年(昭和5年)にデビューした同船は、途中、戦時に病院船や引き揚げ船として徴用されながらも戦禍をまぬがれ、戦後シアトル航路に復帰。1960年(昭和35年)まで、日米貨客輸送の主役として華々しい活躍を遂げました。氷川丸は、サービスの良さに定評があり、チャップリンが愛した名店の天ぷらを、同店に料理人を修行に出してまで提供した逸話も知られています。
ある人は職を求め、またある人は夢を追い、2週間余りの航海の間、故郷や未だ見ぬ土地に想いを馳せた当時のことを考えると、胸が熱くなる想いがします。
日本の航空会社初となるシアトル就航を機に、こうした時代や先人たちの想いを振り返りながら、これからの日米交流のさらなる発展に寄与していきたいと思う次第です。
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