シロクマの屑籠 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-10-11

シャクティから碇ユイへ----アニメ地母神の系譜(紹介)

 

 

 シャクティから碇ユイへ----アニメ地母神の系譜を振り返る(汎適所属)

 

 

 宇野常寛さんが“母性のディストピア”を連載するというので、以前の宇野さんの文章を振り返るのも兼ねて、アニメ地母神の系譜と現代男性のメンタリティについてまとめてみたのがリンク先テキストです。

 

 『Vガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』には、理想女性のアイコンにすがらずにいられない男性と、そのような理想を引き受けつつも男性を心理的に束縛して離さない女性との、共依存的関係が繰り返し描かれています。これらの“アニメ地母神の系譜”に描かれている人間関係は、現代人の――とりわけ団塊ジュニア世代〜ロスジェネ世代の――母子関係や男女関係を考えるうえで示唆的だと思います。

 

 アニメ地母神の系譜自体は、シンジがLCLの胎内を破ってアスカと対峙することを選んだことによって決着がつきましたが、現実社会の男達はそのようにはならず、「萌え」をはじめ、今でも理想女性のアイコンを選ぶことが当世流であって、現実の異性と対峙する身振りは流行していないようにみえます。おそらく、“母性のディストピア”“地母神の束縛”といった関係性の問題は、エヴァが放送されて10年経っても克服されていないのではないか?だとすれば、『Vガンダム』『エヴァ』に描かれている諸問題は、克服された過去の問題というよりは、未だタイムリーさを失わない、私達が片付けないまま残している宿題なのではないでしょうか。

 

 リンク先のテキストが、母と子の関係、男と女の関係をそういった視点から眺めやるオリエンテーションとなれば幸いです。

 

 ※なお今回は、第二次惑星開発委員会 PLANETS Vol.2内の“ゼータ(ゼータ)の墓標 私的富野由悠季」論”と、id:PSB1981さんの[カテジナ日記]を大いに参考にしました。2006年の宇野さんの問題提起と、2007年頃のid:PSB1981さんのテキストはどちらも非常に興味深く、読みやすくまとまっているので、お奨めです。

 

2008-10-01

消えた「オタッキー」――オタクを指し示す言葉の栄枯盛衰(紹介)

 

 消えた「オタッキー」――オタクを指し示す言葉の栄枯盛衰(汎適所属)

 

 現在では殆ど死語となってますが、1990年代に「オタッキー」という言葉が流通したことがありました。この「オタッキー」は、私の周囲では、専ら「オタクっぽい」「オタク的な」という意味で用いられ、侮蔑的なニュアンスを含んでいたと記憶しています。

 

 「オタッキー」をはじめ、「おたく」「オタク」「ヲタク」といった、オタクを指し示す言葉の現在と過去の使用状況について、備忘録的にまとめてみたのが上記リンク先のテキストです。それぞれの単語が、いま現在どれぐらい使われているのか・過去において、どんな風に流通していたのか、若干の考察をまじえて紹介してみました。ただし、あくまで田舎育ちの1970年代生オタクの一視点に過ぎませんので、その辺はお察しください。

 

2008-04-13 “気分転換”

石川遼さんと浅田真央さんを「理想の子ども」とし過ぎることへの懸念(紹介)

 

石川遼さんと浅田真央さんを「理想の子ども」とし過ぎることへの懸念----文科省が、無神経でなければ良いのだが(汎適所属)

 

 文部科学省が発行する、学習指導要領のPR小冊子「生きる力」の08年版において、「理想の子ども」として、ゴルフの石川遼さんと、フィギュアスケートの浅田真央さんの文章を載ったというニュースを耳にした。この小冊子に関して、文科省初等中等教育局教育課程課の小幡泰弘課長補佐(37)は、こう言う。

 

 「親にとって石川君や浅田さんは『こんな子供に育って欲しいな』という理想の存在ですから」*1

 

 少しぐらい躊躇ってくれればいいのに、と私は思うのだが、この小幡課長補佐は、あの二人を親が子どもの理想とすることに何の抵抗感も持っていないにみえる。小冊子を読む側の親や先生のなかにも、抵抗感を持たない人がいそうである。しかし育てられる子どもの立場からみて、「理想の子ども」としてこの二人が持ち上げられるのはどうなのだろうか。

 

 子ども自身がTVのスーパースターを理想化するのなら、これはまぁ分かる。子ども向けの本や冊子に世界で活躍する若い世代を掲載するのは、悪いことじゃないと思う。だが、学習指導要綱という、子どもを育てる側が読む冊子において「理想の子ども」としてスーパースターを呈示すると、親の子どもに対する要求水準を釣り上げてしまったり、親が高い理想を子どもに仮託する度合いがひどくなってしまったり、という副作用が出やすくなるのではないか、と私は懸念する。

 

 私は、学校のテストで85点を取ってきても子どもを褒めず、「100点取れなきゃスーパースターになれないでしょ!」などと怒るような親のもとでは育ちたくないし、そんな親では子どもの心的成長や能力の獲得に影を落とすのではないか、と思う。高い理想を親から仮託されながら育つ子どもは、かなり悲惨だと思うし、その理想が破れたら、子ども自身だけでなく親も含めて、大変困ったことになるんじゃないかとも思う。等身大の自分・今ここで忍びがたきを忍んで塾通いなどをしている自分自身、というものはちっとも顧みられぬまま、メディアに映るスーパースターのほうばかり理想と感じる親のもとで、子どものメンタリティがスクスク育ちやすいとは私には思えない。理想を仮託されすぎた子どものメンタリティが、遂に追い詰められてしまった状況を目にする機会の多い私としては、教育要綱なるメディアのなかで「理想の子ども」として石川遼さんや浅田真央さんが無邪気に称揚される状況を、複雑な心境で眺めずにはいられなかった。その辺りをまとめてみたのが、リンク先です。

 

 

2008-02-24

現代都市空間におけるコミュニケーション適応戦略の、幾つかのバリエーション(要約)

 

現代都市空間におけるコミュニケーション適応戦略の、幾つかのバリエーションについて(汎適所属)

 

 2/23のネットラジオのなかでは喋りきれなかった事として、現代都市空間におけるコミュニケーション適応戦略の、幾つかのバリエーションについて紹介してみたのが上記リンク先の文章です。

 

 地域社会という共通理解のバックボーンが無くなり、現代の都市空間のなかで文化的に細切れになった状況のなかでコミュニケーションを余儀なくされる私達は、例えばオタクのように、コンテンツを媒介物としたコミュニケーションを行ったり、店員-客といった立場の文脈の内側で、それに沿った形でコミュニケーションを行ったりする機会が多いと思います。また、そのようなコミュニケーションはお互いのストレスを減らし省力化したなかでやりとりを達成したり承認欲求を満たすという意味では、オタクにはありがちな、コンテンツ媒介型コミュニケーションというにも相応のメリットがあるように思います。しかし一方で、オタクのオフ会においてさえ非言語レベルのメッセージのやりとりや空気嫁の問題が混入していることが示す通り、人対人のやりとりをコンテンツ依存型のコミュニケーション“だけ”で完結させることは出来ないでしょうし、まして、街の中での不期遭遇・サービス業に従事している最中のやりとり・まなざしのやりとりのなかではとりわけそうだと思います。

 

 このような状況のなか、コンテンツや文脈の内側で、それらを媒介物としたコミュニケーションに徹するのか、それともより広い範囲で不可避的に問われがちな、文化やコンテンツに依拠しないような部分のコミュニケーションに重きを置くのか、などによって個々人の適応には幾つかのバリエーションを観察することが出来ます。これらの適応には一長一短があって、特定の一つが優れているだとか、万人に勧められる唯一解があるとかいったものは無いようにみえます。以下に、本テキストで紹介した幾つかのバリエーションの名称と、長所短所を書いておきました。もし、ご興味があるようでしたら、上記リンク先の文章をご覧下さい。

 


 

【コンテンツ媒介型/文脈依存型コミュニケーションに特化したタイプ】

 

1.「好きなことだけしていて何が悪いんだ」オタク型

長所:自分の好きなコンテンツを好きなだけ追いかけて好きなだけコンテンツ媒介型コミュニケーションを通して自意識を備給出来る。コミュニケーションの実行機能を成長させなくても、心的ホメオスタシスを保つことが容易。

短所:コンテンツ媒介型の会話なかでしか承認欲求/所属欲求を満たすことが出来ず、知人をつくることも出来ない。よって文化的越境を含むようなコミュニケーションや、コンテンツに依拠しない部分のコミュニケーションで良好な関係を構築したり、自意識を備給したりするのが苦手。

 

 

2.「何でも興味を持っちゃうよ」オタク型

長所:幅広いコンテンツをまなざすことが出来、様々な分野を相対化する視点を獲得出来る。コンテンツ媒介型コミュニケーションに軸足を置きつつも、かなり広い人間関係を構築することが出来る。

短所:好きなことの範囲の狭い人には向かない。幅広いコンテンツをまなざす為のコストが大きすぎる。コンテンツ媒介型にどうしても出来ないようなコミュニケーション(例えば街のなかでの不期遭遇的コミュニケーション)には、別途、非言語コミュニケーションなどが結局要請されがち。

 

 【コンテンツや特定の文脈に依存しない型のコミュニケーションに特化したタイプ】

 

3.DQN型

長所:あまりモノを考える能力は要らないし、特定のコンテンツに詳しくなる必要も興味の幅を広げる必要も無い。きちんと(?)凄めるだけのバックボーンがあれば、都市空間のなかで不特定多数と出会う際、自意識の傷つきを被る危険性を少なくするか、むしろ承認欲求を獲得することも出来るかもしれない。

短所:凄めるだけのバックボーンが無ければ惨めなだけで、腕力にせよ度胸にせよは必要。モノを考えないタイプは結局の所、それが祟ってしまいやすい。無闇に悪いことをしているタイプの場合には、因果が回ってくる。

 

4.見た目で勝負型

長所:先天的に見目麗しく、応分のファッションが整備されていれば、とりあえず初回遭遇の段階・街で見知らぬ人の目線を浴びる場合には、承認欲求を満たして貰いやすい。そのアドバンテージを生かせれば、いかなるコミュニケーションにおいても有利。

短所:結局のところ、見た目だけでは初回効果から先のコミュニケーションは深められない。見た目だけにリソースが極度に偏っていると、「見かけ倒し」「見た目は綺麗で頭は空っぽ」という評価に甘んじることになる

5.ネゴシエーター型

長所:様々な相手との関係構築に有利。極めればディスコミュニケーションの確率を最小化することが出来る。様々なコンテンツや文化圏に乗り出し、様々な人間関係を構築することが可能。

短所:承認欲求や所属欲求以外の面での燃費が悪すぎる(疲れやすい)。上手くマネジメントしきれないと、過剰適応の破綻が待っている。ある程度は、素養も必要と考えられる。

 

 

 

 

 実際には、これらの適応はどれもこれも一長一短で、しかも全てをマスターして完全に使い分けるという事は殆ど不可能に近いため、多くの人は、オールラウンドというよりは、いずれかに軸足を置いた形で生きていくことになると思います。コンテンツ媒介型のコミュニケーションに特化したタイプにはそれ相応の、コンテンツに媒介されないタイプのコミュニケーションを得意とする人にはそれ相応のアドバンテージ/ディスアドバンテージがある筈で、どのような適応戦略をとっているのかによって、対人関係の様相も、心的ホメオスタシスの維持しやすさも、色々に変わってくることでしょう。