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2012-06-20

なぜ非モテ論議が衰退していったのか――非モテ同人誌『奇刊クリルタイ』を振り返りながら

 

 

 ※警告!:このタイトルを見て興味が沸かない人には、今日の記事は全くおすすめできません。

 

 なぜ、はてなから「非モテ」の話題が消えたのか - Attribute=51

 何も終わっちゃいねえ!何も!言葉だけじゃ終わらねえんだよ! - 斜め上から目線

 非モテ論壇より一言。 - Welcome To Madchester

 実存は「友達作りのネタ」なんかではない - 斜め上から目線

 

 久しぶりに、「非モテ」についての昔話を読んだ。湿った火薬庫にマッチを投げ込んだようなコミュニケーションが行われていて、懐かしく思った。そういえば先日、『月刊宝島』向けと称する非モテ関連のインタビューを受けた。「脱オタサイト」という立場から見た、当時の非モテ論議とその衰退について覚えていることを答えておいた。もし、記事として採用されているなら、いずれ発売されるかもしれない。

 

 それはさておき、リンク先を読んでいて非モテについて思い出したことを書いておこうと思う。

 

 

 

 【「非モテは終わった」vsは「非モテは終わっちゃいないよ」議論。】

 

 リンク先でid:guri_2さんが書いているように、ムーブメント・流行としての非モテは終わって久しい。流行り言葉としての非モテは、2005〜2007年あたりまでが賞味期限ではないだろうか。その後は「リア充氏ね」「メシウマ」が優勢な時代がやって来て、最近はこれらの単語も旬を過ぎた気配があると思う。つまり流行語としての「非モテ」はとっくに終わっている。

 

 これに対し、「持てない者」としての非モテはまだ終わってはいない。

 

 非モテという単語を見ると、【異性に相手にされないことを苦悩している=非モテ】思うかもしれない。しかし当時、自称非モテのなかに彼女や配偶者を持ちながら非モテを自称する人がいたように、実際には異性に相手にされるか否かは大きな問題ではなく、セックスすれば非モテ感覚がなくなるわけではなかった。自称非モテの人の悩みのなかには、「いっぱしの人間として社会で扱われている感覚の欠如」や「あるべき自分と現実とのギャップ」のような、なにやら心理学的な概念に親和性のありそうな、そういったニュアンスが多分に含まれていたと思う。id:amamakoさんはリンク先で「何も終わっちゃいねぇ」と書いているが、実際、非モテ論者が抱えていた苦悩と同様の苦悩を抱えている人は、今もたくさんいると思う。ただし、twitterニコニコ動画といったネットインフラによって、そうした苦悩や葛藤の類はガス抜きされているし、「自称非モテ」という振る舞いは今ではみっともないものでしかない。だから2005〜2007年当時のような、がっつり非モテ論をやりたい機運はもう巡って来ないと思う。よしんば巡ってくるとしても、その際には「非モテ」というフレーズは使われない。

 

 

 【『奇刊クリルタイ』という同人誌について】

 

 

 id:republic1963さんが主催している『奇刊クリルタイ』は、懐の広い同人誌だった。ガチガチの非モテ論者からカジュアルな非モテ論者、さらに(私のような)非モテ論者に懐疑的な人間まで、幅広く声をかけ、様々な意見を誌面に反映させていたと思う。悪く言えば散らかっている&節操が無い同人誌だったが、そのおかげで、例えばクリルタイ2.0を再読すると、かなり幅広い考え方の人が非モテについての見解を寄せているのが見てとれる。これは財産であり、republic1963さんのスタンスが良い形になったものだと思う。

 

 しかし、こういうスタンスのために、『奇刊クリルタイ』という同人誌は、昔も今も、まとまりを欠いているという欠点を抱え続けている。そして『奇刊クリルタイ』の歴史は内部分裂の歴史でもあった。同人誌としての体裁を維持するためには多種多様な論者の主張に対して寛容でなければならず、それなりに寛容なrepublic1963さんの編集方針をもってしてすら、内部分裂や脱退は日常茶飯事だった。そのような『奇刊クリルタイ』の歴史を振り返るなら、「非モテは個人的なもの・個人の数だけ非モテの数がある」という記述がひねり出されるも分からなくもない。そうとでも言わなければ同人誌として維持できなかっただろうし、多種多様な各人の主張を掲載していくことにこそ、同同人誌の値打ちなり特色なりがあったのだろうから。

 

 クリルタイ4.0の頃は、私もrepublic1963さんの編集方針にかなり不満だったし、だから一時期は関わらないように意識していた時期もあった。けれども今になって思い返せば、その懐の深さ・散らかり具合のお陰でかえって掬い取れていた部分もあったのではないかと思うし、republic1963さんの苦労たるや、相当のものだっただろうと思う。

 

 

 【非モテ語りの衰退要因として、非モテ論者の功罪を考える】

 

 非モテ語りが衰退した理由の一端については、私もこちらで一度書いたことがあるし、そっちがメインだと思っている。非モテという単語にアイデンティティを仮託しながら自分語りするよりも、「リア充氏ね」「メシウマ!」のほうがずっと気楽なのだし。

 

 ただし、非モテ語りが衰退していくにあたって、当時の非モテ論壇な人達が為した功罪の罪の部分についても無関係とは思えないので、ここで触れておこうかなと思う。

 

 はてな非モテは話題のネタだったが、それこそ最も価値あることだった

 

 上記に、非モテ語りに熱心にコミットしていた人物の正直な思い出話がある。曰く、はてな非モテは話題のネタだった。しかしそのネタに集まってキャッキャウフフできたことにこそ意義があったのだ、と。そしてキャッキャウフフによって当事者の精神衛生に貢献するものがあったなら、それで有意義だったじゃないか、というのだ。なるほど当事者が心理的に満足しているだけでも、さしあたり有意義といえなくもない。

 

 しかし、この思い出話を逆向きに眺めるなら、当事者が非モテというキーワードを囲んでキャンプファイヤーしながらキャッキャウフフする以上の意義は無かった、ということでもある。非モテ“論壇”というのもおこがましい話で、非モテの個々の将来を考えたり非モテが流行った社会的意義について考察したりするのは二の次、三の次だった、ということなのだろう。少なくともたいした問題ではないと感じていた参加者が結構いたのは間違いない。

 

 実際、私自身も、非モテ論者が集まるオフ会で何度か「それであなた達は、非モテの5年後10年後についてどのように考えているのか」と参加者に問うてみたことがある。少なくとも私自身は、『汎用適応技術研究』をやりながら、5年後10年後の社会適応について常に考え続けていた*1から、非モテ“論壇”と呼ばれる人達――社会や時代といったマクロな視点で非モテについて饒舌に語ってみせる人達――も当然そういうことを考えていると期待していたわけだ。ところが誰からもマトモな答えは返ってこなかった。だから私は、非モテというキーワードに集まっている人達は、キャッキャウフフなレクリエーションがしたかっただけなんだと推定したし、上記リンク先の回想を見る限り、あながち間違っていなかったようだ。

 

 こうした当事者のキャッキャウフフは、当事者自身の楽しみという面から見れば成功だったのだろう。しかし、これから現れてくるであろう年下の非モテに何か参考になるものを残すだとか、非モテという単語を軸として議論を後世に残すだとか、そういった意味では失敗だったと私は思う。そのうえ、当時の非モテ-レクリエーション参加者の少なからぬメンバーが内ゲバ的な分裂をみせ、あの『革命的非モテ同盟』もみっともないスキャンダルを繰り返しながら存在感を失っていったことも相まって、結局、非モテブームの後に非モテについての系統だった論議を続ける下地は残らなかった。いや、個々人のなかではなにかしら残ったのかもしれないが、非モテという単語を軸として持続的なワークショップを行うような何かは、『奇刊クリルタイ』も含めて、残らなかったと思う*2

 

 その瞬間のキャッキャウフフに重きを置いていただけで、非モテの灯火を守ること・議論を深めていくことに尽力しなかった以上*3、流行という名のキャンプファイヤーが終わった後には何も残らない。このあたりは、非モテという言葉を娯楽としてしゃぶり尽くした人達の罪の部分だと思うし、非モテというキーワード周りが寂しくなっていくにあたって、要因のひとつとして数え上げても良いものだと思う。

 

 彼らは、思い思いに非モテという言葉を消費していたが、非モテという言葉をまとまった議題として後世に遺すための努力をしなかった。または、できなかった。後発世代のid:amamakoさんが、『奇刊クリルタイ』をはじめとする当時の非モテ論者にいらだちを感じる一端には、こういう部分もあるんじゃないかと私は推測する。正直に打ち明けるなら、私も少しだけイライラを感じるところではある。イライラするということは、期待していたということなのだけれど。

 

 ちなみに、“ああ非モテね。うだつのあがらないおっさんのキャッキャウフフのネタじゃん”的な認識は、2chの流速の早いスレッドなどでも結構見かけていたので、当事者の心胆はだいたいバレていたんじゃないかな、と思う。

 

 

 【むすびにかえて】

 

 非モテに相当するような苦悩なりメンタリティなりは終わったわけでもなく、そういった心境を抱えている人は今でもあちこちにいる。しかし、非モテという単語を駆使して議論を行うのはもはや難しいし、そうなってしまった理由の一端には、非モテが流行っていた頃の参加当事者の振る舞いによる部分も少なからずあるんじゃないかとは思う。ただまあ、そのあたりも含めて、色々と致し方のない運命だったのかもしれない。

 

 ちなみに、私が『奇刊クリルタイ』の主催・republic1963さんについて一番印象に残っている記憶は、過激な自己主張をしたがる急進的な非モテ論者をなだめたり仲裁したりしながら、なんとか同人誌としてのまとまりを保とうと努力している姿だった。彼は、多くの非モテ論者からネガティブな言葉を投げつけられても辛抱強く我慢しながら、非モテ同人誌としてのまとまりを維持しようと努めていた。その後ろ姿を知っているから、私は「『奇刊クリルタイ』は非モテについての議論の場を放擲した」などとは断罪できない。また、「非モテは個人的なもの・個人の数だけ非モテの数がある」という一見いい加減そうにみえるフレーズについても、彼が急進的な非モテ論者に関わり続けながらどうにか同人誌を作り上げてきたことを踏まえるなら、決して軽い一言ではないと思う。実際彼は、「僕が一番非モテのことをよく知っているんだ」的な非モテ論者達に囲まれ、散々しんどい思いをしながらも奮闘してきたのだから。

 

 こうした諸事に不満を感じる人もいるだろうし、私も全く不満が無いわけでもない。しかし彼が最善を尽くすべく頑張っていたのは覚えているし、同じことが自分に出来るかと言ったら全く自信が無い。だから私はrepublic1963さんと『奇刊クリルタイ』に到底文句が言えない。彼は、よくやっていたと思う。

 

*1:今も考え続けている

*2:そしてクリルタイは現在、持ち前の懐の深さと曖昧さを維持しながら、非モテとは少し軸のずれたところを漂っているように見える。

*3:いや、少なくとも『奇刊クリルタイ』の場合は「尽力したくてもとても出来る状態ではなかった」といったほうが適当か

2012-06-17 手向け

いつも見聞きしているアカウントが消えてしまった事について/はてな村の隣人がまた一人減った…。

 

 本日、『なんかねー、ブログ消した。』から始まる以下の文章をはてな匿名ダイアリーで見かけた。

 

 http://anond.hatelabo.jp/20120616105328

 

 上記が投稿されたのとほぼ時を同じくして、はてなid:nakamurabashiさんのblog『G.A.W.』の記事が読めなくなり、同一アカウントのミニblog等も読めなくなった。このことと文体その他から察するに、匿名ダイアリーの文章はid:nakamurabashiさんのそれだと私は断定した。

 

 『G.A.W.』といえば、はてなダイアリー界隈――あるいは、はてな村界隈と言っても良いかもしれない――では著名なblogだった。著名なblogだったと思う。コンビニエンスストア関連の記事で不特定多数の注目を集める一方で、エロゲーについての感想やインターネット上での体験談など、ややマニアックではあっても読む人によっては記憶に残るような、そういう文章をblogに残すことを躊躇わない人だった。それらの文章の端々には、往年のテキストサイト時代と共通する、ある種の“芸”根性が垣間見えることもあったけれども、その点も含めて「ああ、この人はこういう人なんだなぁ」という一個人の、色々な側面を見せてくれるアカウントだったと思う。

 

 ブロガーというのは、タレントや芸人や有識者ではない。だからblogを書く者・ブロガーは、キャラになっても良いけれどもキャラにならない自由もある。キャラを引き受け、コンテンツとしての方向性を固定化すれば、そのキャラとコンテンツを期待するお客さんを定期的に集めるには向いているだろう。時々、ブログのアクセスアップ論の類で「ブログのテーマを決めなさい」とか「ブログで書くことを決めなさい」的なアドバイスを見かけるが、よりたくさんのPVを獲得する手段としては、それが良いのかもしれない。

 

 その代わり、自分のアカウントのキャラを固定化し、自分のブログとアカウントをコンテンツとして特化させてしまった人は、そのキャラを維持し、これと決めたコンテンツを維持しなければならない。例えば「コンビニでの体験談や経営論」でキャラ立てしてしまった人は、他のことを書く自由を失い、「現代の社会分析」をコンテンツとして提供することを決めた人も、それに関連した事項以外は書けなくなってしまうだろう。いや、実際には自由に書いたって何にも差し支えない筈なのだ。プロの物書きでは無いのだから、何を書いたって構わないし、PVだの知名度だのはカタツムリの殻が何回転なのか程度の意味しか無い。けれども大量のPV・大量の被ブックマーク・大量の被言及に曝されれば「大量の不特定多数にまなざされる自分」について色々なことを考えさせられずにはいられないし、気にし始めると、そういうわけのわからないものに多かれ少なかれ束縛されることになる。

 

 nakamurabashiさんの『G.A.W.』というblogのスタンスからは、そういった束縛を嫌う、「これは俺のブログで俺のインターネットなんだ。俺は俺の好きなことを書きたいんであって、他人のまなざしとは無関係に何でも書きたいんだ」という、ブロガーがブロガーであり、ブロガー以外の何かではないための必要条件の気配が漂っていた、と私は思う。twitterでの投稿についてもそうで、氏のtwitterアカウントは色々なものを垂れ流すままになっていて、キャラだのコンテンツだのに束縛される度合いはかなり低いように見えた。キャラやコンテンツといった、個人に属する一面だけを拡大鏡にかけるような書き手ではなく、自分という多面体の、できるだけ多くの面を書き記すことを尊ぶ、アマチュアの自由を愛してやまない書き手としてのnakamurabashiさん――そんな風に私は彼のことを眺めていたし、私は、彼のブロガー根性を貴重なものと思っていた。

 

 尤も、ブロガー根性などと言えば聞こえが良いが、見方を変えれば、プロの書き手のような徹底を欠いているということだし、キャラやコンテンツと心中する覚悟が出来ていないとも言い換えられる。売り物という尺度から見れば、ブロガー根性など“百害あって一利なし”だろう――人間なんぞ見たくない、みたいキャラ・みたいコンテンツだけを見ていたいという昨今のネット上のニーズを考えるにつけても――。

 

 けれども、個人が可能な限り個人のままとしてテキストを書き連ねること・個人がキャラ化・コンテンツ化することに伴うまなざしの猛毒を回避することを思えば、ブロガー根性というスタンス、あるいはネット処世術はあながち悪いものでもないと思うし、ブログにしか出来ない・ブログになら出来る事と、このブロガー根性とは不可分なんじゃないかなとも思う。私のこの『シロクマの屑籠』も、そのようなブロガー根性を捨てることなく続けたいと思う。以前ここで書いたように、私もブロガーとしては幾分堕落してしまったかもしれないけれども、それでもブロガー根性的な・キャラやコンテンツに束縛されることのない、自分という多面体を嘔吐する場としてのブログを捨てたくないと思うし、それを捨ててしまったら、後になって一体何のためにブログなる個人媒体に執着していたのか、わからなくなってしまうだろうとも予測する。

 

 しかし実際には、そんなブロガー根性を持っていたと推定されるnakamurabashiさんのアカウントさえ消えた。何故か?本当の理由はわからないが、nakamurabashiさんが定期的にアカウントをリセットする習性を持っていた人らしい事を踏まえて推測するなら、「キャラ」や「コンテンツ」の呪いがアカウントに纏わり付いて、だんだん自由なブログライフ・インターネットライフがとりにくくなってきたからというのも、理由の一端にあるのかなと思う。実際、リンク先の匿名ダイアリー記事にも、こんなくだりがある。

 

たとえば俺がIDなりアカウントなりブログ名なり名乗ったら「まあ聞いたことある」程度の人って、たぶん万単位は確実に行くんじゃねえのかな。俺はあんまそういうの気にしないほうっていう建前だったし、実際、ネット上での活動の大部分は、引きこもった場所でやってたんだよね。

最近はわずか数人の人たちだけ相手に、死ぬほど長文の日記書いてたしさ(まあ、あれが直接の理由)。

でもそういう場所でだって、背後に「あの」っていう権威は背負ってて、そんで俺、自分にそれを許容してなかったかっていったら、それは絶対ないわけ。心のどこかには「俺がなんか書けば人呼べる」みたいなのあって、それもひっくるめて、もう呪わしくてたまらないものになった。

http://anond.hatelabo.jp/20120616105328

 もし、引きこもった場所でのコミュニケーションでさえ「あの『G.A.W.』の」というキャラなりコンテンツなりの呪いを蒙っていたとしたら、一個人として友誼を結んでいくにあたって鬱陶しい重荷と感じられたことだろう。また、openなインターネットの活動に際しても、キャラやコンテンツの呪いはそれなり足枷として感じ取っていらっしゃったかもしれない。私は、そのようなキャラ・コンテンツの呪いを鬱陶しく感じる感性を良いものと思う。けれども、今日日のインターネットにおいて、キャラ・コンテンツの呪いを鬱陶しく感じる感性は、アカウントの維持にとって命取りとなるかもしれない。

 

 今日日のインターネットでは、ブログ根性とは対極的な・キャラやコンテンツを進んで受け容れるような人も珍しく無い。ブログどころか、twitterのようなフィールドでさえも、やたらキャラ立ちだのセルフブランディングだのを意識しているような人を見かけることもある。けれども、そうやってキャラやコンテンツを引き受けていくこと・PVだの被フォロワー数だのを意識していくことは、本当に幸福なネットライフに通じる道なのだろうか?;nakamurabshiさんとそのblog『G.A.W.』の消失を目の当たりにして、そういう事を改めて考えさせられた。

 

 

はてな村の明かりが、またひとつ消えた…。

 

 それはさておき、はてなダイアリー(d.hatena)の一ユーザーとしての感想を述べるなら、これはd.hatenaに所属する興味深いブロガーがまた一人消失した事を意味する。いわゆる“はてな村的なるもの”の灯火がまたひとつ消えた、というわけだ。かつて、著名人も書き連ねたというはてなダイアリー。id:fromdusktildawnさんやid:y_arim(有村悠)さんといった個性的なキャラクターが話題を提供してやまなかったはてなダイアリー。けれども人が一人また一人去って行くことに、寂寥の念は拭えない。最近はHatena Blogなる新サービスが始まったことも相まって、いよいよもって、はてなダイアリーと“はてな村的なるもの”は過疎化の進んだ山村のような様相を呈しつつある。一応、『とある青二才の斜方前進』『斜め上から目線』といった、きわめてはてな村的で、その名のとおり斜め上をゆく新進気鋭のブログが無いこともないけれども、全体としては、d.hatenaを巡る一連のコミュニティは寂寥感をもって語られるものになりつつあるように見える。

 

 しかし、私は、この“はてな村的なるもの”にそれなり愛着を感じているし*1、(株)はてなが、はてなダイアリーやはてなブックマークを通して形成した緩やかなコミュニティには、それなり存在意義もあったんじゃないかと最近思いはじめるようになった。だから私は、d.hatenaに残された者の一人として、皆がはてな村に帰って来れるよう、村の灯火を守り続けていこうかな、などと思う。みんな、好きなところに行って好きなネットライフを過ごせばいいと思うけれども、盆と正月と彼岸にははてな村に帰っておいで。そして、逝ってしまった人達にお線香を供えながら、牡丹餅やお萩を頬張ろう;愚にもつかないことかもしれないが、ゴーストがそうしろと囁く限りにおいて、当面はそうしてみたいと思う。

 

 

「我々は一人のはてなダイアラーを失った。」

 http://anond.hatelabo.jp/20120616105328

 

我々は一人のはてなダイアラーを失った。しかし、これは敗北を意味するのか?否!始まりなのだ!

twitterやFacebookに比べ、我が(株)はてなの国力は30分の1以下である。

にもかかわらず今日まで戦い抜いてこられたのは何故か?

諸君!はてなダイアラーのブログが個人的なものだからだ。これは諸君らが一番知っている。

我々は現実世界を追われ、ネットの日陰者にさせられた。

そして、一握りのオピニオンリーダーらがインターネットにまで膨れ上がったマジョリティを支配して数年、インターネットに住む我々が自由を要求して何度踏みにじられたか。

ブロガーの掲げる人類一人一人の自由なインターネットのための戦いを神が見捨てるはずはない。

私の兄!諸君らが愛してくれたid:nakamurabashiは消えた。

何故だ!?

 

「坊やだからさ」

 

新しい時代の覇権を、我ら選ばれたネットユーザーが得るは、歴史の必然である。

ならば、我らは襟を正し、この戦局を打開しなければならぬ。

我々は過酷で回線速度の遅いインターネットを生活の場としながらも共に苦悩し、錬磨して今日の文化を築き上げてきた。

かつて先人達は、人類の自由はインターネットの民たる我々から始まると言った。

しかしながらtwitterやFacebookのモグラ共は、自分たちがネットの支配権を有すると増長し我々に抗戦する。

諸君の父も、子も、そのマジョリティの無思慮な抵抗の前に消えていったのだ!

この悲しみも怒りも忘れてはならない!それを、id:nakamurabashiは!死をもって我々に示してくれた!

我々は今、この怒りを結集し、ネットマジョリティに叩きつけて、初めて真の勝利を得ることができる。

この勝利こそ、消えていったアカウント全てへの最大の慰めとなる。

はてな村民よ立て!悲しみを怒りに変えて、立てよ!村民よ!

我らはてな村村民こそ選ばれたブロガーであることを忘れないでほしいのだ。

自由なブログライフを愛する我らこそインターネットを救い得るのである。

ジークはてな!

 

 

 ※あまり真に受けないで下さい。所詮、コピペ改変ネタですから。

 ※文字列にしてみると、これはこれで醜悪というか、著しく美意識を欠いた何かだなぁと思いました。

 

*1:一時期は疎ましく思っていたけれども。

2012-06-12

時代の最先端としての田舎。

 

 時代の最先端としての田舎。

 

 もちろん田舎が流行の最先端だと言いたいわけではありません。でも、見方によっては、下手な都会人より田舎者のほうが時代の最先端を行っているというか、未来を生きているなぁと感じてしまう瞬間があります。どちらかというと、悪い意味で。国道沿いの景色をぼんやり眺めていると、そういう奇妙な未来感覚を覚えることがあって、ふと田舎の暮らしを振り返りたくなったので、これからちょっと振り返ってみます。

 

  ・“動くファンシールーム”

 

 「自動車が普及している」という視点ではちっとも未来感の無いロードサイドですが、「動くファンシールーム」「動く子ども部屋」が路上を走っていると思いながら眺めてみると、週末の国道沿いの風景はジワジワ来るものがあります。フィギュアをびっしり並べた軽乗用車も、紫色のカーテンとふわふわのファーで飾ったワンボックスカーも、『デトロイトメタルシティ』のステッカーを車に貼りつけて大音量の音楽をがなりたてながら走るワゴンも、公道を走りながらに、きわめてプライベートな時間と空間をドライバーに提供しています。というか、あれって車というより「個人向けの部屋」に車輪とエンジンとハンドルがついているような、そんな何かでしょう*1

 

 都会人も、『iPod』や『ウォークマン』を耳に装着して自分だけの時間を過ごしてはいますし、『ウォークマン』が出た頃などは、「自分だけの世界に閉じこもるアイテム」とかなんとか言って批判していた人もいたと記憶しています。ところが田舎の“動くファンシールーム”の場合は、時間だけでなく、空間ごと自分の世界に没入できる点が違います。大都市の路上を『iPod』を聴きながら歩くよりも、格段にプライベートで、格段に自分だけの世界――そんな“動くファンシールーム”のテールランプがどこまでも続く風景を見ていると、いまや、自分の世界に閉じこもったライフスタイルの本場は都会の真ん中より国道沿いのように思えてきます。

 

 

 ・人に会わなくても買い物できる

 

 で、国道沿いに住んでいると、ロクに人に会わなくても買い物できちゃいます。“動くファンシールーム”に乗ってショッピングモールに移動し、買い物かごに食料品や日用品を詰め込んだら、後はレジで精算するだけ。レジでは黙ってお金を突き出すだけで済みますし、最近のイオンなどにはセルフレジもありますから、自分で精算を済ませることも可能です。衣類を買うにしても、イオンやユニクロで買うぶんには、誘導ミサイルのような店員につきまとわれる心配もありません。

 

 「田舎の人間はコミュニケーションしながら買い物もする」なんて遠い昔の話で、田舎で暮らしていても会話しない人は会話しなくて済んでしまいます*2。田舎なのに、会話が無い。

 

 

 ・「イオンに行けば何でもそろっている」

 

 都会暮らしの人にいわせれば、「ショッピングモールにはなんでも揃っているけれども、ちょっと気の聞いたものを探そうと思った途端、なんにもない」のかもしれません。しかし、国道沿いに心の底まで慣れている人からすれば「イオンに行けば何でも揃っている」「国道沿いに行けば何でも揃っている」です。

 

 国道沿いに暮らす者にとって、ショッピングモールやロードサイドは、買い物ができる最大にしてほとんど唯一の場所です。スターバックス、ヴィレッジヴァンガードタワーレコードなどを擁していることもあるそれは、地方都市では最大級の文化発信装置やデートスポットとしても機能しています*3。そりゃ、埼玉や千葉に住んでいて東京都心に買い物に出るような人からみれば品揃えに不満もあるでしょう。しかし、ここは逆に考えてみるべきで、山奥や海沿いの、食料品店と雑貨店と酒屋ぐらいしか店のなかった地方の人からみれば、イオンのようなショッピングモールは桁違いの品揃えのアイテムを安価で購入できる、空恐ろしいショッピング空間と言えます。

 

 だから、田舎に生まれて田舎に育った人間の主観的感覚とすれば、「イオンに行けば何でもそろっている」「国道に出れば何でもそろっている」のほうがしっくり来ますし、田舎の個人商店がバタバタ潰れるのも無理はありません。なんたって、相手は「何でもそろっている」イオンなんですから。それにしても、イオンって凄いですね。人口数万人の街にもイオンがあって、昔じゃ考えられないほどのショッピング空間を提供しているのですから。撤退した後にはなんにも残らないんでしょうけど、それまではいい夢が見れそうです。

 

  

 ・子どもがすし詰めになっている公園

 

 「田舎の子どもは都会の子どもに比べて遊び場が多くていいですね」なんていうのは昔の話。今では空き地や道路で遊ぶ子どもの姿を見かけることはまずありません。そのかわり、平日の夕方や休日の昼下がりになると、たいして広くも無い公園にすし詰めになって遊んでいる子ども達の姿をよく見かけます。近頃の田舎の子どもは、「ここでしか遊んではいけない」という大人の言いつけを意外と守っているようです。

 

 田舎なんだから、山や川で遊べばいいという人もいるかもしれません。でも、山や川は立ち入り禁止ですし、道路で遊ぶなんてもってのほかです。親の立場からすれば、事故防止とか犯罪回避といったセキュリティ面で、危ない場所で遊ばせたくはないでしょうし、土地所有者の側としても、自分の土地で子どもを遊ばせておいた挙句、万が一、子どもに何かあったときに怒り狂った親に糾弾されるなんて御免蒙りたいでしょうから。結果として、子どもが遊んで構わない場所は田舎にもそんなにありません。

 

 都会よりもはるかに遊び場の候補があるように見えるのに、透明なガラスの檻にでも閉じ込められているかのように、小さな公園にすし詰めになって遊ぶ子ども達。公園にたくさんの子どもが集まっている風景は、一見、のどかで心温まる風景に見えるかもしれません。しかしちょっと見方を変えるなら、都会よりずっと空間的に恵まれているはずなのに、小さな公園にすし詰めになって、さほど喧嘩をするでもなく遊んでいる風景には、なんとなくディストピア臭が漂っているように(私には)感じられます。

 

 

 ・お年寄りだらけ

 

 道を歩いていても、コンビニに入っても、お年寄りにはよく出会います。週末のショッピングモールの平均年齢はそれなり下がるんですが、平日の県道や市道にはお年寄りの運転する車がいっぱいで、畑仕事をしているのも殆どが年配者。あちこちに大きな老人介護施設が建っていることまで加味して考えると、本当にたくさんのお年寄りがいるのでしょう。尤も、過疎地の最近の老人介護施設には、大都市圏から流れてきたお年寄りが結構な数住んでいるので、全部が全部地元のお年寄りというわけでもないでしょうけど。

 

 高齢化社会の先頭を走っているのは、大都市圏ではなく過疎の進んだ田舎です。耕す者のいなくなった田畑を潰して新しい老人介護施設が竹の子のように生えてくるさまは、そのような未来を予感させるものがあります。

 

 

 ・朽ちていく道路と、無駄に広いバイパス

 

 道路が古くなっていくのが体感できます。アスファルトがあちこち欠けたままになっていたり、谷を跨いだ集落に向かう市道の橋が通行止めになっていたり。結構大きめで交通量の多い橋が、延々と補修工事を受けていたりもします。こちらによれば、統計上も日本の道路や橋の耐用年数が迫ってきているのは事実のようですが、体感的にも、交通量の大きな道路から小さな道路まで、それなりボロくなっていると感じます。手入れしない橋や道路って、駄目になっていくんですね。

 

 その一方で、高速道路のインターチェンジに向かう道や県庁所在地に向かうバイパスの類は、どんどん用地が買収されて、どんどん新しくなっていきます。人体にたとえるなら、太い血管だけ最新にして、毛細血管はボロボロ、といった感じでしょうか。このあたり、地元の色々な事情や思惑も絡んでのことなんでしょうけど……空き家や廃屋の増加も相まって、地方環境が末端から壊死していくような景色にも見えてしまいます。

 

 

田舎という名の最前線

 

 ここに挙げたものの幾つか――例えば“動くファンシールーム”の話にしても、子どもがすし詰めになっている公園にしても――は、大都市圏では“時代遅れ”“刷新されつつある古いもの”とみなされるかもしれません。けれども田舎には田舎の事情がありますし、大都市圏の先進的な試みが地方の末端に届くまでには、早くても十年、もしかすれば数十年の歳月がかかります。ですから、大都市圏での新しい試みのうち、幾つかは田舎には届かず、変化が訪れる前に体力が尽きて朽ち果てていく村落や地域もあるでしょう。

 

 若者向けの流行や、新しいライフスタイルのテンプレートという意味では、今後も大都市圏が発信地であり続けるでしょう。その一方で、生活環境が末端から壊死していく風景や、お年寄りに偏りまくった人口動態という点では、田舎こそが最前線です。そのフロントラインはもはや山奥や離島の小さな村落ではなく、人口数万人程度の地方都市にまで押し寄せていると、肌で感じる今日この頃です。

 

*1:一昔前の国道沿いだったら、シャコタン改造されたマジェスタやセドリックや、気合いの入ったホイールをつけたランサーエボリューション、スカイラインGTRなどを乗り回す若い人の姿を見かけたものです。ところが最近は皆お金が無いのか、それとも「車」に対する興味をなくしてしまったのか、見かけるのは「動くファンシールーム」「動く子ども部屋」と化したワンボックスカーや軽乗用車ばかりです

*2:興味深いのは、そんな田舎のイオンやコンビニでも、年寄りは店員さんや通りすがりのお客さんと割と会話しているように見受けられる点です。買い物に際して会話をするのがデフォルトになっている年代の人達が死に絶えたとき、また少し景色が変わりそう。

*3:あと、地方の文化発信装置を語るならコンビニを外すわけにはいきませんが、田舎とコンビニの話をしはじめると非常に饒舌になってしまいそうなので割愛します

2012-05-05

最悪なのは、ネットじゃなくてあなたのダメージコントロール能力なんじゃないですか?

 

 最近、いい感じの発言が増えていたid:amamakoさんが、いつもの悪い癖が出て「ぼくはいじりに弱いんだから特別に保護されるべきだー」的なことを村道で叫んでいたので言及してみます。

 

 ブログを非公開にした理由 - Togetter

 斜め上から目線

 

 私は昔のid:amamakoさんの発言の幾つかは、「なに馬鹿な事言ってやがる」とか思っていました。が、最近は感心させられる発言が増えていただけに、今回の発作的憤怒は意外でした。第一印象を正直に書くと「なんだこれ?あんたまだこんなことやってたの?こりゃネット向いてないよ。やめない限り、ずっとジクジク傷ついて転げ回ることになるんじゃない?」でした。自分の発言を無言でリブログした人にいちいち詰め寄って詰問している姿は、異様としかいいようがありませんでした。

 

 勿論、ネット上での黒歴史的発言や失言が永久に残ってしまうこと自体は私は問題だと思っています*1し、将来的にどうにかすべきとも思います。私の意見としては、ネットのインフラに人が合わせるのでなく、人にネットのインフラが合わせるような未来を指向するべきだと思いますから(関連:黒歴史がアーカイブになってしまう時代 - シロクマの屑籠)。

 

 しかし、自分が失言だと思ったものが失言としてリブログやブクマされたと感じるたび、いちいち身をよじってしまうようなナイーブな人では、現今のネットが針の莚に感じられるのも当然です。そんな個人が現今のネットをやっても精神衛生にさぞ悪いでしょうから、やめるしかないんじゃないでしょうか。それか、mixiやればいいんですよ。気を許した相手しか読めない場所に退却すればいいと思います。これなら、人の反応を「いじり」と感じる感性を守ることができます。

 

 あなたは「kyo_juのような嘘つきで卑怯者の存在を許し続けるなら、ネットは最悪の場所となっていくだろう」と書いてます。でもちょっと訂正したほうがいいと思います。

 

 「amamakoさんのような、他人のリアクションのたびに罵倒や揶揄だと思ってしまいやすいナイーブな人にとって、ネットは最悪の場所」ほら、こっちのほうが事実に即しているんじゃないですか?

 

 一般論としては「ガチで炎上するような危険発言を連投する人と、僅かな反応を罵倒や揶揄として許容できない人」の両方の人にとってネットは地獄なんだと思います。つまり、【1.心のディフェンスが普通でも危険発言のせいで大ダメージが集中してしまう人】がネットで長生きできないのは当然として、【2.心のディフェンスが弱すぎて普通ならダメージにならないような他人のリアクションにもダメージを蒙ってしまう人】も、すぐに心がボコボコになって駄目なんじゃないでしょうか。

 

 ですから私は、「危険な炎上を呈するような発言を躊躇しない人」と同じぐらい「心のディフェンスが弱すぎて、他人のリアクションのいちいちに傷ついたり当てこすりを空想したりする人」はネットに向いてないと思います。あなたが今までに何度もアカウントを作り直すのも、これってやっぱりネットが向いてないんじゃないですか?少なくとも現在の、publicなほうのネットには向いていないと思います。

 

 しかも、amamakoさんの場合、エゴサーチなんぞをなさっていると見聞しました。感性の繊細な人が、エゴサーチ!!キャー!自分を直接的に揶揄したり罵倒したりしているのを眺めてニヤニヤしながらコーヒーブレイクを楽しめるような感性をお持ちでもないのに、エゴサーチして自分の心をジクジク傷つけるなんて、私には正気の沙汰には思えません。あなたの心のディフェンスの状態と、あなたのインターネットの利用法の間には、甚大なギャップがあると私には思えます。

 

 

リブログの潔白を自他に求めるより、鈍感・寛容を目指しましょうよ

 

 蛇足ですが、大体amamakoさん、あなた、無言でリブログした人にまで詰め寄っていますけど、そんなあなたは、無言でリブログしたことないんですか?揶揄を込めて無言でリブログをしたことも、無言で行ったリブログが誰かに揶揄だと思われたことも無い、そういう潔白な人間だと主張できるんですか?

 

 あるいは、あなたは自分の感性を踏まえて「こんないじりにも耐えられない(から、そんなamamakoに配慮してお前達は振る舞え)」と言っていますが、あなたは、あなたがいじりと体験しているような「他人にストレスに感じられる」レトリックやアクションを投じたことが全く無いというのですか?私には、そうとは見えないんですが。

 

 まさかとは思いますが、あなたは「いじりに耐えられない俺の発言の取り扱いは最大限に留意されるべき。」「しかし、俺以外のネットユーザーに関しては、その限りではないし、俺は今まで通りいじり続けるよ」とか思っているんじゃないでしょうね?

 

 人はそういうのをダブルスタンダードと呼びます。いや、「俺はダブルスタンダードをやらせて貰う」とか「俺にだけはダブルスタンダードをやる権利がある」、と主張なさりたいなら、その主張を止めるつもりは私にはありません。しかし、もしそうだとしたら、もはや誰もあなたに言及しようがありません。amamakoさんに、どの発言どのリブログどのリツイートを揶揄・いじりと思われるか、わかったモンじゃありませんから、無視するかイエスマンを決め込むしかありません。blogの入り口に「無断リブログ禁止・私はナイーブなので揶揄やいじりだと思ったら噛みつきますので猛犬注意」って立て看板でもしておけばいいんじゃないですか?無駄ですけど。その無理筋を通すなら、やっぱりmixiあたりで「王様の耳はロバの耳」って叫ぶしか無いと思います。

 

 しかしamamakoさんとしては、ご自身の発言に誰かが耳を傾けるようなフィールドのほうが定めし好みなのでしょう。であれば、自分に対するリアクションを、あれもこれも揶揄やいじりだと感じるのをやめるしかありますまい。自分に対するリアクションに過敏である限り、この問題は何度でも起こりますし、「傷ついたあなた」「傷つけたその他大勢」という主観的風景は帰ってくるでしょう。そしてあなたはまたアカウントを閉鎖することにもなるかもしれません。でももう、そんな事繰り返したって、仕方ないじゃないですか。やめましょうよ。

 

 現代のネット上では、「これはいじりかな?」「これは揶揄かな?」と疑おうと思えば疑えなくもないようなリブログやリツイートが、それなり飛び交っていますし、自分がいつそのような曖昧なリブログ・リツイートをやらかしてしまうとも限りません。否、ネットで長く暮らしていれば、ある程度はそういったリブログ・リツイートは必ず混じってしまうでしょう。そもそも人は誰しも聖人ではありません。ですから、他人のそういったリアクションを無闇に勘ぐっていてはソウルジェムが濁ってしようがないので、勘ぐる前にもう少しフィルタリングなさるべきというか、もう少しだけ他人の意図を信じるか許すかしたほうが良いと思います。もう嫌い抜いてしまった id:otsuneさんの事を今更好きになれとは申しません。けれども、本来あなたに対して中立的or好意的に見ていた人にまで疑いや勘ぐりの目を向けるのは、友達なくすわ自分も傷つくわでロクなものじゃないと思えるんです。

 

 今年のamamakoさんは、以前よりも面白い発言が増えていていい感じだと思いますし、今までよりもう少し多くの人に、その面白い発言を読まれてもいいと私は思っています。しかし、amamakoさんの心のディフェンスが弱いままでは、あなたは益々傷つき、被害的になる機会も増えてしまうでしょう。ネットのあるべき姿を模索なさるのも結構ですが、その前に、あなたのダメージコントロールのあるべき姿も模索なさったほうが良いと思いました。

 

*1:特に未成年の場合