2012-08-04 母性のアイコンの周りで盆踊り
スーパーチートマザー・花について(おおかみこどもの雪と雨)
アニメに限らず、ヒーローものには人間離れした能力を持った主人公が登場するのが常だ。『ドラゴンボール』はもとより、『暴れん坊将軍』や『風の谷のナウシカ』も、主人公が反則的なスペックだからこそ物語が成立していたと言える。
で、『おおかみこどもの雪と雨』。
この作品も、主人公の母・花が、人間離れした、チート*1を随所に発揮していて、そのチート性能頼みで物語が進行している。彼女はフリーザ様を倒せるわけでも王蟲と会話できるわけでもないが、「母」としての性能・スペックは反則並みで、心理的にも常人を逸脱している。そんな彼女のチートっぷりを点検してみたくなったので、以下、書き記してみる。
2012-07-30 CLANNADの正統後継者、現る!
大人向けファンタジーアニメ『おおかみこどもの雨と雪』
- 作者: 「おおかみこどもの雨と雪」製作委員会
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2012/07/23
- メディア: 単行本
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『おおかみこどもの雨と雪』を観てきた!館内はカップルや親子連れで溢れかえっていて、なかには祖父-親-子という三世代で観に来ている家族もいた。かなり幅広いお客さんが観に来ているという印象。それはさておき。
「ああ、俺はこんなアニメが観たかったんだ!」と心から思える、素晴らしい作品だった!頭が熱くなっているうちに、書き残しておく。
思春期を敢えて外し、壮年期を狙ってきた作品
この作品は、観る人を選ぶ作品だと思う。
実際、映画が終わった後の客席の反応は、『新劇場版ヱヴァンゲリオン破』などに比べると、はっきりとした笑顔が少なかった。満足顔の親子や目を潤ませている女性もいたけれども、「あまりピンと来なかった」と会話をしているカップルもいた。受け取る人によって、受け取り方や受け取りどころの異なる作品だと思う。
まず、リアリティという点で、この作品はちっともリアルではない。主人公である母・花はところどころ超人めいていて、どうしてあれほど豊かな母性・強靱な身体・タフで豊かな情緒・聡明な知性をそろい踏みで身につけられたのか、根拠となる情報は省かれている。また、田舎の人付き合いの面倒くささについても、脱臭が効きすぎているきらいがある*1。なにより、花が、彼女自身の思春期モラトリアムをあっさり放棄して母親としてのフェーズに移行し、さらにその母親としてのフェーズから親離れ/子離れのフェーズを十年余りでこなしていくさまは、いくら花がスーパーマザーだとしても――いや、花がスーパーマザー だ か ら こ そ !――あっけらかんとしすぎている。現実なら、あれほど苦労し手塩にかけて育てた子どもを、シングルでスーパーな母親が中学生のうちに手放せるわけがない。まず間違いなく、母子密着の罠にハマるだろう*2。
しかし、リアリティの問題点をあげつらってこの作品を減点するのはナンセンスだ。そもそも、タイトルに「おおかみこども」と書いてあるアニメが、どうしてリアリティが足りないという理由で貶されなければならないのか。この作品は、リアリティを追求した作品ではなく、第一にファンタジーなのだ。タイトルに妖怪の名前が出てくる『となりのトトロ』や『借り暮らしのアリエッティ』などと同じ種類、ということだ。とはいえ、あっちこっち現実離れしているのは事実なので、リアリティ重視なアニメファンから見れば、この作品は落第点をもらうと想像される。
第二に、この作品はメッセージ性を帯びすぎているので、相容れない主義や価値観を持っている人から見れば、「説法じみた作品」とうつるかもしれない。幾つか挙げてみると、
・医療に頼らない子育てって素晴らしい
・自然分娩って素晴らしい
・大自然のもとでの子育ては素晴らしい
・田舎の人間関係は素晴らしい
・親の子離れ、子の親離れは素晴らしい
・座学でインストールできる情報だけじゃ、育てるってムリだよね
こういったメッセージ性が、『おおかみこどもの雨と雪』からはプンプン伝わってくる。もちろん、登場人物がじかに説法しているわけではないが、これらがリスクやコストを(あるていど)脱臭され、(あるていど)美しく描かれるのを観て、カチンと来る人はカチンと来るかもしれない。男と女、親と子ども、都会/田舎の暮らしといったテーマは普遍的なもので、かつエモーションに直結した領域なので、一定割合で本作のメッセージにイラっと来たりカチンと来たりする人がいるのは想像に難くない。
第三に、この作品のエッセンスのかなりの部分、特に「花から観た子ども達」「花の子どもを思う気持ち」にまつわる描写の殆どが、年少者や子どもの世話を親身にやったことの無い人にはピンと来ないつくりになっている。
・シリカゲルを飲み込んだ雪を発見した時の花の不安
・その後、雪が「おなか減った!」と言った時の安堵
・夜泣きにまつわる苦労いろいろ
・川に流された雨を追いかけるシーンの花
・弱かった筈の雨が、姉の雪を喧嘩で傷だらけにしてしまうシーンの当惑
・親の手を離れ、自分の世界をつくっていく子ども達に対する花の葛藤
どれも、知識としては十代の子どもでも理解できないわけではない。しかし、これらを観てシンパシーを感じたり、心拍数が上がったり、嬉しいような哀しいような妙な気持ちにさせられたりするためには、親身になって子育てや幼少者の世話をしたことがなければ難しいんじゃないかと思う。少なくとも私自身を省みるに、たとえば十年前の私が本作を観たとしても、これらのシーンで情緒を刺激されなかったと思う。せいぜい、「へぇー」ぐらいにしか思わなかったのではないか。
花の立ち位置、つまり親としての立ち位置から感情移入するためには、それに類する体験や、これから自分がそういう体験に突入するかもしれないという予感が多かれ少なかれ必要なんじゃないか――少なくとも感情移入の強度が断然違うのではないか。作中描写のかなりの部分は、親としての立ち位置から描かれていて、もちろん、この作品の主人公は母親としての花である。親としての立ち位置から眺めなければ感情移入しにくい情景描写にかなりのリソースを割いているということは、そのぶん、この作品は親としての立ち位置から遠い人達には響きにくい作品と推測される。それどころか、親に反抗したくてウズウズしているような思春期の人々にとって、作中描写の幾つかは煙たいものかもしれない。
このことをE.エリクソンのライフサイクル論で言い直すと、本作の多くのパートは、壮年期の発達課題である生殖性genitalityに突入していなければ情緒的には響かないだろう、ということだ。思春期メンタリティたけなわの、自分自身のことで頭が一杯になっていて、年少者を親身に世話する心の準備ができていない段階の人にとって、子育てにまつわる親のエモーションに感情移入するのはきわめて難しいと思われる。
ちなみに思春期の発達課題といえば“アイデンティティの確立”だが、本作では、そのような思春期的イシューは、物語の後半に、雪と草平のやりとりのなかでちょっぴり描写されるに過ぎない。花にしても、思春期モラトリアムをすっ飛ばして「彼」と親密になって、いきなり母としての役割を引き受けており、あたかも大学生時代から ready to mother であったかのようだ。そういう点でも、本作は思春期真っ盛りの人達のほうを向いていない造りになっている。“配偶について悩まず、さっさと子育てに突入する女子大生ヒロイン”はいかにも架空のキャラクター然としているが、壮年期の描写にウエイトを持ってくるために、敢えて思春期をバッサリと切り落としてあるのだろう。強調すべき描写を強調するためには適切な措置だと私は思った。
壮年期の発達課題を真正面から描いたアニメは珍しい
『おおかみこどもの雨と雪』は、ファミリー向けファンタジーという、ブロードバンドな客層を狙った外観になっているにも関わらず、その内実は壮年期の発達課題に狙いを絞った、かなり思い切った作品になっていると私は感じた。“問題作”だと思う。
こういう、壮年期にやたらアプローチしてくる作風は、よそのジャンルならともかく、昨今の“いはゆる大人向けアニメ作品”では珍しいものだと思う。最近はまともな大人を描くアニメが増えつつあるけれども、それでも思春期へのアプローチが主であって、壮年期へのアプローチは従、という印象は否めなかった。だから、“大人向けアニメ作品”ではあたかも必要不可欠のようだった思春期な人達へのリップサービスを最小限に絞り、そのぶん作中リソースの多くを親子関係の描写――それも、親サイドから見た親子関係の描写――に割り当て、世代再生産に重点を置いたのは、制作者サイドとして勇気の要ることだったんじゃないかと思う。
しかし、そのようなリソース配分にしたことによって、この作品は固有の魅力*3をもって輝いているし、たぶん、長く記憶され言及されるのだろう、と思う*4。個人的には、シングルマザーの母親が息子を手放す際の葛藤をもう少し掘り下げて描いて欲しかったけれども、そんなのは贅沢すぎる注文であって、別の作品が、時間をかけて描くべきテーマとも思う。二時間映画という尺の短さゆえ、減点法で採点すれば幾らでもダメ出し出来る作品だけど、命の循環*5を描いたファンタジーとして、本作にしか出来ない仕事をきっちりこなしたと思う。
俺はこのファンタジーがとても気に入った。“金曜ロードーショー”で放送されるたびについつい視聴してしまう類の作品だと思う。物語終盤、雪の思春期の始まりを予感させるシーンがあったのも、雨の門出を朝日で象徴しているのも、すごく良かった。思春期真っ盛りじゃない人には、かなりお勧め。
*1:『サマーウォーズ』ほど脱臭が華々しいわけではないにしても
*2:もしリアリティを追求するなら、雨を檻に閉じ込めて山にいかせない母親を描いたほうが、お似合いだが、そんなことをしたらこの作品はぶち壊しである。
*3:ここでいう魅力とは、言うまでも無く、嫌いな人から見れば蛇蝎のように嫌われるであろう特徴を指す。つまり、やはり魅力というほかない。
*4:また、『時をかける少女』『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』と順番に並べながら、細田守監督の心理的背景についてパトグラフィー的に想像してみると、色々と興味深いというか、なんとなく、『サマーウォーズ』の後でなければこの作品は出てこなかったんじゃないのかな、という気がしてならなかったりもする
*5:と書いてライフサイクルと読む
2012-07-29
人の心を悪に染めてゆくネット use
インターネットは、使う者の使い方次第では、知恵や出会いやリラクゼーションを与えてくれる。インターネットがある時代に生まれて良かった;心の底からそう思う。
でも、インターネットの使い方は個人に完全に委ねられているので、インターネットを通して何を得るのか・何を失うのかは個人次第。そのネットを使って違法薬物を売買しようとする人や、くだらないものに散財してしまう人だっている。個人の自由であるとともに自己責任なネットuseだからこそ、使う人の技量や知識、智慧といったものによって、ディスプレイ越しに得られるものは左右される。
そして世の中には、インターネットを使ってひたすら自分の心を汚してやまない人達もいる。
ネットにおける悪意や恨み言の特徴
インターネットが普及するよりも前に、悪意が存在しなかったわけではない。井戸端会議や、居酒屋のカウンターで、悪意が言葉や態度となって現れることも多々あっただろう。ただ、インターネットが普及する前後では、悪意を巡る状況はかなり変わっていると思う。
最も大きな違いは、ネットによって悪意を表明できる時間・空間が無限増殖したことだ。
悪意は昔、表明できる場所・文脈・時間に依存した形でしか口にされなかった。例えば姑の悪口を言いたい嫁は、そのような嫁同士だけが集まっている場所でしか姑の悪口を言えなかったし、そういう場所・時間・文脈は24時間のなかでもごく限られていた。牛の刻参りにしても、人目を忍んで、夜中にこっそりやらなければいけないものだった。
ところがインターネットが普及してからは、私室のリクライニングチェアに腰掛けたまま、24時間、好きなだけ悪意を表明できるようになった。それどころか、スマートフォンを持っていれば、旅行中や出張中でさえ悪意を表明できる。いつでもどこでもカジュアルに、だ。2chの一部のスレッドのように悪意がふきだまっている場所もあるし、そうでなくてもネット上にはつねに“炎上案件”が転がっているので、炎上から炎上へ・祭りから祭りへと渡り歩いていれば、誰かを口汚く安全に罵るチャンスはほとんど常にあると言っていい。ディスプレイの前に座っている限り、あなたは望むだけ何かを貶すことも、何かをメシウマすることも、何かを呪うこともできる。できてしまう。
問題は、このような制限のない悪意・呪詛・メシウマの表明が、個人の心に何をもたらすのか、だ。
ある程度の悪意表明は、私はストレス解消には良いと思う。いわゆるガス抜きというやつだ。特に2chの一部のスレのように、あまり他人の目に触れないような場所での悪意表明は、誰かの迷惑になるようなリスクも少ないので、害が少ないと言えるかもしれない。
しかし、そのような悪意や呪詛を日常的に表明していている人間は、その悪意や呪詛から影響を受けずに済ませられるものだろうか?
私は、悪意や呪詛を日頃から表出しすぎる者は、そうした呪いの言葉に次第に影響を受けてしまうんじゃないか、と警戒する。人は、はじめのうちは「ネット上でしか言わないから」「ネタだから」「炎上に便乗するだけだから」と思って悪意や呪詛を口にするのかもしれない。しかし、年余に渡って、何百回何千回と悪意を表出し続ける者は、次第に悪意に呑まれてしまうのではないか?
よくあるモノの見方からすれば、「行いは、人の心によって決定される」のであって、悪意や呪詛は、原因ではなく結果に過ぎない、という理解になるのだろう。しかし長期スパンで考えるなら「行いの蓄積によって、人の心ができあがる」という部分もあるのではないか。少なくとも、長期的な行いの蓄積によって人格や精神が影響を受けるということはあり得ると思う。もちろんこのあたり、どちらが鶏でどちらが卵なのか、わかりにくい領域ではある。けれども、行いが蓄積し、それに慣らされていく効果は、侮っちゃダメだろう、とは思う。
このモノの見方でいくと、インターネット上で日常的に悪意を表明している人、とりわけ炎上から炎上へと渡り歩きながら、ネットに繋いでいる間じゅう、あらゆるものをバッシングして回っているような人・見下して回っているような人・メシウマばかりしている人は、短期的なストレス解消と同時に、長期的には、自分の心を少しずつ黒く染め上げている、と言えるのではないか。そのような人物においては、悪意を表明することに対する違和感も抵抗感も次第に失われていくだろう。積もり積もれば、「ネットだから」「ネタだから」「炎上に便乗するだけだから」ではなく、筋金入りの、心の底からbadな人間ができあがるのではないか。
悪意や呪詛を思い通りに表明できなかった時代には、その時代固有の大変さがあったとは思う。けれど、悪意や呪詛を24時間好きなだけネットに垂れ流せる時代というのも、これはこれで大変だと思うし、ネット上の悪意の坩堝につかりきって、自分の精神をどす黒く染め上げていく人もいるのだろう。恐ろしいことだ。
追記:
「悪意を口にするのは汚れた心による結果なのか、汚れた心を生み出す原因なのか」という論法で考えると、鶏か卵かという際限の無い話になるけれど、「悪意を口にするのは、さらに汚れた心への過程だ」と考えるなら、やっぱり悪意を口にするのはまずいよね、いっそう汚れた心に向かう道だよね、ということになる。悪意を口にしすぎるという行為が、単なるガス抜きではなく、心を悪に染めていく過程としても機能してしまう以上、やっぱり悪意を口にしすぎるのはまずい。
2012-07-23
悪いのは夫か、妻か、SNSか、社会か
リンク先は『はてな匿名ダイアリー』なので、釣りのような気がしなくもないけれども、モデルケースとしてはよく出来ているだとは思うので言及してみる。
こういう「夫がスマホばかりいじっていて家族にかまけていない風景」は、決して珍しいものではないと思う*1。間近な家族より小さなディスプレイの向こう側に夫の心がいつも移っていて、ネット空間で専ら自己愛を充たしていれば、そりゃ、夫婦の間は冷え切るでしょう。妻から見れば「なんだこいつ家族じゃないのかよ」という思いが膨らんでくるに違いない。ましてや、二人の子育てで忙しい折、家族や妻に対する関心ひとつ示さず自分だけの小さな世界に入り込んでいるとなれば、イラっと来ないほうがおかしい。
ただ、「夫が家でスマホばかりいじっている風景」というのは、複数の要因によって起こり得る現象というか、ときには妻の側が悪い場合も含めて起こりえるものなので、リンク先を読んだだけでは「誰々が悪い」と単一原因に絞り込むのは難しい。いや、夫がある程度以上悪いのははっきりしているけれども。以下に、「夫がスマホばかりいじっていて家族にかまけていない風景」の原因となり得る要因について列挙してみる。
・夫が悪い
まず、夫が悪い可能性。子育てを妻に任せきりで、自分は子どもに関わりたくない・独身以来のスタンドアロンな自己愛充当をスマホ経由でガンガンやりたいという、ただそれだけの場合。子ども二人の子育てという、夫婦二人でかかりきりでも大変な課題に際して、その負担を妻に任せきりで自分は何もしなくて構わない&関心すら示さないようでは、妻の側は心理的にかなりキツい。もし、妻の人間関係が比較的少ないライフスタイルで、なおかつ夫が構ってくれなかったら、一体どこの誰を介して妻は自己愛を充たせばいいのか?ここで、「子どもを介して自己愛を充たせばいい」と答える人がいるかもしれないが、それも度が過ぎればNGだ。子どもが母親の自己愛充当の対象になりすぎると、母子分離がこじれてしまいかねない。だから、子育て中の寂しい妻を放っておいて、小さなディスプレイばかり覗き込んでいるというのは、まあ、夫の人は、悪いんだろうなと思う。リンク先などを読んでいると、「こいつ、妻を飯炊きマシーン&子育てマシーンぐらいに思ってるんじゃないか?」という疑念がどうしても浮かんできてしまう。
人はお金のみで生きるにあらず。自己愛充当のような、心理的充足がなければ生きていけないぐらいに人間はややこしくできている。リンク先のようなケースの場合、家庭に稼ぎを入れているとは言っても、控えめに言っても、「それであんた家族かね」と非難された時に弁護のしようがない、とは思う。
・妻が悪い
とはいえ、こういうケースで必ず夫が全部悪いとは限らない。第一の要因として、夫が家族との親密さを感じにくい・家でのコミュニケーションの居心地の悪い環境を与えられていて、その結果として二次的にスマホいじりに夢中になっている、という可能性もある。夫の人が、家族のなかで疎外感を感じ取っているような場合は、夫は家庭のなかで自己愛を充たせなくなるので、自己愛充当をアウトソースしようとするだろう……というかするしかない。そのアウトソース手段としてtwitterやFacebookが活用されているとしたら、夫を糾弾する前に、いかに夫が家庭のなかで一体感を感じやすい・家族と過ごすことを喜びやすい環境を整えるか、という妻の側の課題が問われることになる。
なお、余談になるが、もし奥さん自身がtwitterやFacebookをやりまくっていたら、本件のような相談は表面化しなかったかもしれない。その場合、奥さんの側もtwitterやFacebookに自己愛充当をアウトソースできるので、そもそも不満がたまりにくいからである。尤もその場合は、夫も妻もスマホしか見ていない家族という風になるので、これはこれで、家族とは言いがたい、子どもの情操教育上一体どんなエフェクトが起こるのか分からない境遇がマイホームの内側に展開されることになるけれども。
寂しい人が寂しさを紛らわし、自己愛充当をアウトソースする手段としてSNSが有効であるという事実を踏まえるなら、夫のほうも、案外寂しい人なのかもしれない。だから、本件のような状況において、夫だけが悪いと即断するのは難しい。
・SNSが悪い、スマホが悪い
「スマホのような道具があるからこんな悲劇が起こるのだ!」という考え方もできなくは無い。スマホが無ければスマホ依存も起こらないし、SNSが無ければSNS依存も起こらない。道理である。しかし、どうせそのような人は、SNSやスマホが無い時代でも無いなりに、カネで自己愛充当を買えるようなサービスに夢中になってしまうのではないか、という気もする。具体的には、スナックやキャバクラに通ってみたり、といった具合にである。あるいは孤独を紛らわす手段として、酒やギャンブルにのめり込む人もいるかもしれない。
だからこの場合、「twitterやFacebookが悪い」と言い切ってしまうのはちょっと微妙ではある。それに、SNSが無ければ生まれない出会い・SNSがとりもつ結婚があることを思うにつけても、これらを縁切りの悪魔と切って捨てるのもどうなのか、とは思う。使い方次第では、夫婦の仲をとりもつアイテムのひとつとしてSNSを活用する道もあるんだから、これは道具が悪いというより、道具の使い方が悪い。
仮に、こういうSNS依存になっている夫の人からSNSを取り上げることが可能だとも、たぶん奥さんにとって満足のいく解決にはならないと思う。夫の人が家族や奥さんとコミュニケートし、そこに心理的充足を見いだすような体制にもっていかない限り、夫の人はSNS以外の何かに自己愛充当のアウトソースを期待するようになる可能性が高い。
・社会が悪い
夫が家庭のなかで自己愛を充たすことなく、家庭の外に自己愛充当をアウトソースしがちな社会構造は、たぶん高度成長期以来のものだけど、これは多分、まだまだ変わりきっていないと思う*2。また、専業主婦が寂しくて大変な境遇のなかで子育てを強いられ、どこにも自己愛充当のリソースを求めることができないまま、我が子との一体感に溺れ切った挙げ句に母子分離に失敗してしまうようなシチュエーションも、まだまだ過去のものではないと思う。
そういう意味では、自己愛充当にまつわる夫婦の問題は、社会構造によってある程度誘導された、マクロな問題だと言えなくも無い。ニュータウンで何も考えずにノホホンと暮らしていれば、夫婦の自己愛充当がそれぞれ別系統になりやすく、それが家庭内の自己愛充当の様式や、「よりどころ」としての家庭機能を変容させているとしたら……これはもう、個々の夫婦が悪いという以前に、そんな家庭にデフォルトでなってしまう社会が悪い。そもそも、SNSやtwitterがこれほど流行しているのも、そういうスタンドアロンな自己愛充当の様式がそれだけみんなに必要とされていればこそなわけで、間近な人付き合いで心理的に充足していれば、SNSやらtwitterやらに依存する必要なんて無い筈なのである。
尤も、いくら「社会が悪い」と言ってみたところで、対案らしい対案は思いつかないし、さしあたって、今、困っている夫婦の仲を改善させることは出来ないのだけれども。
けれども、“現代のニュータウン暮らしにおいては、夫婦の自己愛充当がそれぞれ別系統になりがちで、その別系統になってしまうことが、夫婦間の人間関係や、ひいては子育てにも影を落とすかもしれない”とあらかじめ分かっていれば、夫婦のあり方や、夫や妻や子どもに対してどう接するべきかについて、あれこれ気をつけながら夫婦をやれると思うので、「社会が悪い」論も、そういう意味では効能があるんじゃないかと私は思う。
・人間の仕様が悪い
「どうしてカネやモノだけじゃ人は満足できないんだ」「心理的充足とか自己愛充当とかが無ければ生きていけない人間のデフォルト仕様が悪い」と言う人もいるかもしれない。うん、確かにめんどくさいかもしれませんね。でも、こればっかりは人が人である限り変更できないっぽいので、嘆いても無駄。
以上、つらつらと書いてきたけれど、夫婦をはじめ、間近な人間関係は、しっかり水をまいて施肥を行ってメンテしていかないと保てないものなので、夫の人も妻の人も、そこのところを思い出してがんばって欲しいと思う。